コンテンツにスキップ

吉備団子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Koinobori (会話 | 投稿記録) による 2013年5月3日 (金) 15:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

吉備団子(きびだんご)

吉備団子(きびだんご。原料が「」(きび)だから黍団子とも)とは、岡山県土産として有名な菓子の一種である。

概要

黍の粉と餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形に仕上げている。最近の製品は黍の割合がかなり低く、使用していない商品もある。また整形もオートメーション化されていることが多い。

同じく岡山県の特産品であるマスカットのシロップを包み込んだ「マスカットきびだんご」や、白桃のシロップを包み込んだ「白桃きびだんご」、吉備団子にきな粉をまぶした「きなこきびだんご」など、数種類のバリエーション商品がある。

歴史

吉備団子の起源は諸説ある。岡山大学教授であった谷口澄夫は、吉備津神社[1]の祭礼においての供え物を酒宴の席で関係者に振舞った事から、参拝土産品として用いられるようになったとする説と、幕末において岡山城下の町人が、赤色のおかき風の和菓子を製造し、茶請け用にしたものが起源とする説[2]を紹介している。同じく岡山大学教授であった藤井駿は、『備中往来』や石井了節の『備中集成志大全』(1753年宝暦3年))において、吉備津神社門前町周辺で販売されたと紹介される「宮内飴」が吉備団子のヒントとなったのではないかと述べている[3]。また、吉備団子の製造元のひとつである廣榮堂本店は、自社のウェブサイトにおいて、安政(1854年-1859年)のはじめに考案したのがはじまりとしている[4]

その後、日清戦争勃発時前後において岡山駅で販売がなされ[5]、全国的に有名となった。1897年(明治30年)ごろまでにおいて、12軒の「本舗」を名乗る土産店が現出した[2]

室町時代に広まったとされる桃太郎の話と、和菓子としての吉備団子には直接的な関係はないが[6]、駅での販売で双方をリンクさせた宣伝をしたことから、現在は桃太郎の絵がパッケージに印刷された製品もある。

B&Bの漫才の中で広島のもみじまんじゅうと共にネタの一つになっていた。

脚注

  1. ^ 吉備津神社で祭られている大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)が桃太郎だったという伝説もある。
  2. ^ a b 児玉幸多監修 谷口澄夫著 『岡山県の歴史』 山川出版社<県史シリーズ>、1984年、付録46頁。
  3. ^ 藤井駿 『吉備地方史の研究』 山陽新聞社、1980年、91-92頁。しかし藤井駿は、今となっては宮内飴のレシピがわからないことなどから、自らこの考えを論拠が曖昧であるともしている。
  4. ^ きびだんご・和菓子 廣榮堂本店:廣榮堂のきびだんご150年のあゆみ 廣榮堂本店、2013年5月3日閲覧。なお、『日本の伝説と童話』(志田義秀著、大東出版社、1941年、312頁)は、廣榮堂によるととして、1853年嘉永6年)頃に作り始められ、1855年安政2年)頃に吉備団子の名が付いたことを紹介している。
  5. ^ 廣榮堂本店前掲ウェブサイトによれば、日清戦争の際は広島・宇品港においても販売したとする。
  6. ^ 藤井駿は前掲書において、吉備団子の成立以前に桃太郎を連想させる「日本一」の語と「吉備だんご」を掛けた俳句「吉備にて雪を/餅雪や日本一の吉備だんご」(信充 作、『昆山集』(1651年慶安4年))所収)がみられること、この句が吉備津神社境内で作られたと考えられることなどを挙げ、吉備津神社門前町周辺において売られた黍の団子と桃太郎が早くから結びついていたことを示唆している。

関連項目

外部リンク