アイネスフウジン

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アイネスフウジン[1]
現役期間 1989年 - 1990年
欧字表記 Ines Fujin[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1987年4月10日[1]
死没 2004年4月5日(17歳没)[2]
シーホーク[1]
テスコパール[1]
母の父 テスコボーイ[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 中村幸蔵[1]
馬主 小林正明[1]
調教師 加藤修甫美浦[1]
厩務員 佐川邦夫[3]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀4歳牡馬(1990年)
JRA賞最優秀3歳牡馬(1989年)[2]
生涯成績 8戦4勝[1]
獲得賞金 2億4440万9200円[1]
勝ち鞍
GI 日本ダービー 1990年
GI 朝日杯3歳S 1989年
GIII 共同通信杯4歳S 1990年
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アイネスフウジンとは日本競走馬種牡馬である。競走馬時代には第57回東京優駿(日本ダービー)に勝利し、種牡馬時代にはファストフレンドらを輩出した。主戦騎手中野栄治(現・調教師)。

戦績

1989年9月10日中山競馬場での新馬戦でデビューし2着[4]。折り返しの新馬戦でも2着に終わり[4]、3戦目の東京競馬場での未勝利戦に臨む。この際、中野は加藤に対し、未勝利戦ではなく格上挑戦となる特別競走に登録するよう要請するほど調子に自信があったが、最終的には未勝利戦に出走して6馬身差で初勝利を挙げる[4][5]。勝ち上がった後の朝日杯3歳ステークスでは5番人気ながら、1000メートル通過が56秒9というハイペースの中を4番手で先行し、最後の直線で抜け出してサクラサエズリに2馬身半差をつけて優勝[4]。タイムは1分34秒4で、これは1976年の同レースでマルゼンスキーが記録したものに並ぶものであった[4]。この年のJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞する[2]

明けて1990年、共同通信杯4歳ステークスに勝利するが、単枠指定された弥生賞は不良馬場で外目の馬場を通る競馬に徹し、メジロライアンに敗れる[6]。迎えたクラシック第一弾の皐月賞では、スタート直後に3番枠のホワイトストーンが内によれたことにより馬にはさまれ逃げることが出来ず、また中野が意図せず折り合いをつかせてしまったこともあって2番手からの競馬を余儀なくされる[6][7]。レースはそのままスローペースで流れ、最後はハクタイセイに差し切られて2着に終わった[6]。レース後、中野を降板させる声も上がったが、加藤は中野に「ダービーは勝とうな」と声をかけ、コンビ続投となった[8]

大一番の東京優駿(日本ダービー)ではメジロライアン、ハクタイセイに次ぐ3番人気となる[9]。スタート直後右によれるも[7]自ら前半3ハロンを35.7の速いタイムで逃げをうった。ハクタイセイがこれを追いかけるが、絶妙のペースで逃げたアイネスフウジンは一度も先頭を譲ることなく、最後の直線でハクタイセイは脱落、さらに中団から追い込んできた1番人気メジロライアンにも1馬身4分の1の着差をつけて2分25秒3のレースレコードで逃げ切った[9]

アイネスフウジンは入線直後につまづき、また精魂尽き果てた感があってキャンターもできないほど体力を消耗させており、向こう正面から検量室へ戻ることが出来ずスタンド前から引き上げることとなった[7][8][10]。この日の東京競馬場には、当時の府中市の総人口に匹敵する19万6517人の観衆が詰め掛けていた[8]。主要駅で入場制限の放送がかかったほどのこの入場者数は世界レコードであり、現在に至るまでこの記録は更新されていない[8]。観衆はゆっくり戻ってくるアイネスフウジンと中野に対し賞賛の意味を込めていわゆる「ナカノ」コールの大合唱を行ったが、その響きは普段はスタンドにさえぎられてウィナーズサークル近辺の物音が聞こえてこない正門付近でも響くほどのものであったという[8]。これ以降、しばしばGI競走で優勝した馬や騎手、特に「オグリ」や「ユタカ」など中野と同じような3文字の名前を有する馬や騎手に対して同様のコールが発生するようになった[11]。ファンファーレに合わせた手拍子やGI競走開催日における徹夜組の発生も、この日本ダービーが事実上の起源とみられている[11]

夏以降は温泉療養などで復帰を目指したが、脚部不安が残ることから現役を引退した。引退式をJRAから薦められたが、「脚部不安で引退するのに、フウジンを馬場には出せない」との意向で行われなかった。自動車用品を扱う会社で財を成した馬主の小林正明は馬主登録わずか2年でダービー・オーナーとなる幸運を勝ち得てその幸運ぶりに恐怖を覚えつつも「幸運を大事にしたい」と語っていたが、本業の経営の悪化を苦に1998年、同じように経営難にあえいでいた他社の社長2人とともに集団自殺し、ニュースとなった[12]

特徴

中野によれば、「前輪がパンクした自転車」のように前肢がガタガタで後肢はしっかりしている馬だった[5]。ハミにぶら下がるように乗っていたものの後肢の踏み込みが尋常でなく、当時調教を担当していた高市圭二(元調教師、2020年逝去)が馬を止めた際に何度も転倒したほどであったという[5]。また、乗り味としても追って味のあるタイプではなく、ハミにぶら下がる走法だったために、結果的に逃げる競馬スタイルになった[5]。新馬戦は2戦とも2着に終わったものの、その時点では馬体が完成しきっておらず後肢の尋常ではない強さも相まってスタートを最も注意する乗り方に徹し、結果はともあれイメージ通りの競馬が出来たということもあってあまり悲観していなかったと中野は振り返っている[5]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com [13]およびJBISサーチ[14]の情報に基づく。

年月日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 騎手 斤量 距離馬場 タイム
上り3F
タイム
勝ち馬/(2着馬)
1989. 9. 10 中山 3歳新馬 11 7 8 4.5 (2人) 2着 中野栄治 53 芝1600m(良) 1:36.1(37.5) 0.8 フジミワイメア
9. 23 中山 3歳新馬 8 4 4 1.3 (1人) 2着 中野栄治 53 芝1600m(重) 1:35.5(36.9) 0.0 カネショウナイト
10. 22 東京 3歳未勝利 8 1 1 1.5 (1人) 1着 中野栄治 55 芝1600m(良) 1:36.0(48.6) -0.3 (タイフウオーザ)
12. 17 中山 朝日杯3歳S GI 15 5 8 11.5 (5人) 1着 中野栄治 54 芝1600m(良) 1:34.4(37.4) -0.4 (サクラサエズリ)
1990. 2. 11 東京 共同通信杯4歳S GIII 8 1 1 1.7 (1人) 1着 中野栄治 56 芝1800m(良) 1:49.5(48.4) -0.5 (ワイルドファイアー)
3. 4 中山 弥生賞 GII 14 5 8 1.9 (1人) 4着 中野栄治 55 芝2000m(不) 2:05.8(39.7) 0.4 メジロライアン
4. 15 中山 皐月賞 GI 18 1 2 4.1 (1人) 2着 中野栄治 57 芝2000m(良) 2:02.2(37.6) 0.0 ハクタイセイ
5. 27 東京 東京優駿 GI 22 5 12 5.3 (3人) 1着 中野栄治 57 芝2400m(良) 2:25.3(36.6) -0.2 (メジロライアン)
  • 枠番・馬番の太字は単枠指定を示す

種牡馬として

種牡馬入り後は産駒に恵まれず一度は種牡馬引退が検討されたが、2000年ファストフレンド帝王賞東京大賞典を勝ち、種牡馬生活を続行することになった。

2004年4月5日宮城県鳴子町(現:大崎市)の斉藤牧場にて腸捻転のため死亡した[2]。17歳であった。奇しくもこの年の日本ダービーで、1999年アドマイヤベガがタイレコードを記録しつつ並んでいたレースレコードが[15]キングカメハメハによって更新された[16]

主な産駒

エピソード

日本ダービー関連

  • 日本ダービーでのアイネスフウジンの枠順は5枠12番であったが、これは中野の結婚記念日(5月12日)と同じ数字で、代理で抽選に臨んだ高市が、このことを中野に報告している[23]
  • 日本ダービーの覇業は、ダービー前日の「予行演習」の賜物であった。ダービー前日の5月26日、中野はその日の東京のメインレースであるメイステークス(芝2400メートル)でローゼンリッターに騎乗した際、どこを通ればベストなレースができるか確認し内目を避けるコース取りを決心、ダービーでは避けた内目の馬場にハクタイセイなど有力なライバル馬がてこずっているのを見て内心しめたと思ったという[6]。またアイネスフウジンは前に行きたがる気性ゆえにどれだけレース前の消耗を抑えるかが一つの焦点であり、これに関しても3コーナーの待避所からスタート地点までキャンターではなく歩かせることで対処することにしたが、これもまたメイステークスでシミュレーションした結果であった[6]。ただし、メイステークスでは集合時間の8分前に出て歩かせたところスタート地点を通り過ぎる感覚になったので、ダービー当日は1分早い7分前に待避所を出てスタート地点まで歩かせた[6]
  • 日本ダービーに臨む際、中野は風の抵抗を少しでも減らそうと自費で勝負服に穴をあけ、エアロフォームもどきの仕様にしつらえた[6]

その他

  • アイネスフウジンと出会う直前の中野の境遇としては「減量苦で騎乗馬にも恵まれず、引退も視野にしていたところ、加藤に声をかけられた」という風に語られるが[8][24]、中野自身によれば実際はそれに加え、小倉滞在中に交通事故を起こし、前日に飲んだ酒がわずかに残っていて酒気帯び運転をとられ、さらに悪いことに「助手席に女性を座らせていた」という事実ではないことをマスコミに書き立てられたところに、その記事を真に受けた妻が激怒して美浦に「強制送還」されたという出来事があった[25]

血統表

アイネスフウジン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 エルバジェ系ダークロナルド系
[§ 2]

*シーホーク
Sea Hawk
1963 芦毛 アイルランド
父の父
Herbager
1956 鹿毛
Vandale Plassy
Vanille
Flagette Escamillo
Fidgette
父の母
Sea Nymph
1957 芦毛
Free Man Norseman
Fantine
Sea Spray Ocean Swell
Pontoon

テスコパール
1976 栗毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
母の母
ムツミパール
1965 鹿毛
*モンタヴァル
Montaval
Norseman
Ballynash
マサリュウ トサミドリ
ユキツキ F-No.4-d
母系(F-No.) 4号族(FN:4-d) [§ 3]
5代内の近親交配 Norseman4×4、Nasrullah4×5、Firdaussi5×5、Blue Peter5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  • 半弟の中に双子がいる[26]。テスコパールは、アイネスフウジンが日本ダービーを制した1990年にゲイメセンを種付けされ、翌1991年に双子を出産[26]。リアルポルクス、リアルカストールと名付けられて競走馬としてデビューしたが、両馬とも2戦0勝に終わった[27][28]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o アイネスフウジン”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  2. ^ a b c d ダービー馬アイネスフウジン死亡”. netkeiba. Net Dreamers Co., Ltd.. 2019年7月24日閲覧。
  3. ^ 【ダービーの栄光】(2)1990年アイネスフウジン”. サンスポ ズバッと!競馬. サンケイスポーツ. 2019年7月23日閲覧。
  4. ^ a b c d e 中山を彩った名馬たち【35】アイネスフウジン 1989年12月17日 第41回朝日杯3歳ステークス”. きょうの蹄音. 一般社団法人 中山馬主協会. 2019年7月23日閲覧。
  5. ^ a b c d e “ナカノコール”のアイネスフウジンを今振り返る”. サラブレモバイル. KADOKAWA. 2019年7月24日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 緻密な計算がもたらしたダービー優勝の栄冠”. サラブレモバイル. KADOKAWA. 2019年7月24日閲覧。
  7. ^ a b c 『優駿』(日本中央競馬会)2009年6月号
  8. ^ a b c d e f アイネスフウジンに19万人の中野コール/ダービー”. 極ウマプレミアム. 日刊スポーツ. 2019年7月24日閲覧。
  9. ^ a b アイネスフウジン 覚悟を決めた鮮やかな逃走劇[1990年]”. JRA-VAN. 2019年7月31日閲覧。
  10. ^ 【平成の真実(10)】平成2年5月27日「史上最多19万人来場ダービー」(1/4)”. サンスポZBAT競馬. サンケイスポーツ. 2019年7月24日閲覧。
  11. ^ a b 【平成の真実(10)】平成2年5月27日「史上最多19万人来場ダービー」 (4/4)”. サンスポZBAT競馬. サンケイスポーツ. 2019年7月24日閲覧。
  12. ^ 馬主の自殺、バブルの残滓 今振り返る、平成ダービー「裏面史」 平成最後のダービー、30年の悲喜こもごも”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2019年7月24日閲覧。
  13. ^ netkeiba アイネスフウジンの競走成績”. Net Dreamers Co., Ltd.. 2019年8月20日閲覧。
  14. ^ アイネスフウジン 競走成績”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  15. ^ 史上に残る三強対決を制す アドマイヤベガ[1999年]”. JRA-VAN. 2019年7月31日閲覧。
  16. ^ キングカメハメハ レコードでGI連勝[2004年]”. JRA-VAN. 2019年7月31日閲覧。
  17. ^ シンキングダンサー”. JBISサーチ. 2019年7月31日閲覧。
  18. ^ ファストフレンド”. JBISサーチ. 2019年7月31日閲覧。
  19. ^ アミー”. JBISサーチ. 2019年7月31日閲覧。
  20. ^ ヤシロビックボーイ”. JBISサーチ. 2019年7月31日閲覧。
  21. ^ ヒラカツアスカ”. JBISサーチ. 2019年7月31日閲覧。
  22. ^ リスポンスフウジン”. JBISサーチ. 2019年7月31日閲覧。
  23. ^ 【平成の真実(10)】平成2年5月27日「史上最多19万人来場ダービー」 (3/4)”. サンスポZBAT競馬. サンケイスポーツ. 2019年7月24日閲覧。
  24. ^ ■1990年■日本ダービー~アイネスフウジン&中野栄治~”. 二宮清純 プロフェッショナル列伝. ニッポン放送. 2019年7月31日閲覧。
  25. ^ 中野師とアイネスフウジンとの出会い”. デイリー馬三郎. デイリースポーツ. 2019年7月31日閲覧。
  26. ^ a b 双子のサラブレッドが両馬ともにJRAデビューしたケースは”. トリビア牧場. 競走馬のふるさと案内所. 2019年7月24日閲覧。
  27. ^ リアルポルクス”. JBISサーチ. 2019年7月24日閲覧。
  28. ^ リアルカストール”. JBISサーチ. 2019年7月24日閲覧。

外部リンク