「藤崎八旛宮秋季例大祭」の版間の差分

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* [http://www.geocities.jp/ddndb064/][[纏人會]]
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* [http://www.jyanomekai.com][[随兵蛇の目]]
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* [http://www.makoto-iyasaka.com][[肥後まこと會]]
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2008年2月28日 (木) 10:22時点における版

藤崎八旛宮秋季例大祭(ふじさきはちまんぐう しゅうき れいたいさい)は、熊本県熊本市に鎮座する藤崎八旛宮例祭である。

大祭の諸行事は9月の第3月曜日敬老の日)をその最終日とする5日間にわたって行われており、その最終日に行われる神幸行列が祭りのクライマックスとなる。その中で観客の注目を集めるのは、神輿に付き従う「随兵(ずいびょう)」と「飾り馬(かざりうま)」の奉納行列である。飾り馬は、近年は60団体以上が奉納し、「ドーカイ、ドーカイ」という威勢のよい勢子たちの掛け声と、ラッパなどの鳴り物でにぎやかに行進しながら、熊本市内を練り歩く。

祭りの由来と変遷

  • この祭りは、もともとは放生会(ほうじょうえ)に由来するものといわれている。現在でも、この旧習自体は各地の寺社で催されているが、藤崎宮のこの祭りでは、その遺風を見出すことはできない。
  • 「随兵」は、加藤清正朝鮮出兵1592年1598年)から無事帰還できたことを神前に感謝し、みずから随兵頭となって兵を引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉(ぐぶ)したのが起こりと伝えられている。その後、細川藩政時代にも継続され、随兵行列の三役(随兵頭・長柄頭・御幸奉行)は家中で選抜された高位の者が務めた。
  • 「飾り馬」は本来、供奉神職の乗馬であり、神職と同数の12頭が奉納されていた。細川藩政期には家老格の家から馬を出していた。また、かつて藤崎宮が鎮座していた藤崎台(現在は県営野球場がある)からは御旅所までの距離が短く、神職は乗馬せずに馬を曳いて供奉した。そのため不用の上に飾りを施したものが次第に大きくなり、今日のような紅白あるいは青白の太輪の飾りになったという。
  • 馬上の飾りは「陽陰(ひのかげ)」と呼ばれ男女の性器を模った作りになっており、安藤流と小堀流の様式があったが、現在見受けられる型は安藤流のみとなっている。
  • 家臣団の奉仕によるものであった飾り馬は、明治維新後、町方の手に移り、その奉納馬の数は時流の影響を受けて増減をみせてきたが、ここ数年は60頭以上の飾り馬が奉納されている。
  • かつては毎年9月11日から15日までの五日間に祭りの日程は固定されていたが、2001年祝日法改正をうけて、現在では、9月の第3月曜日敬老の日)をその最終日とする5日間となっている。
  • 平成19年度の奉納団体は67団体。参加者数は約17000人の熊本一を誇る祭礼になっている。

内容

  • 祭りは5日間にわたって行われ、平成18年度の日程では1日目に総代清祓、獅子飾卸と随兵三役清祓、大神楽、奉納神興飾卸が、2日目に奉納献茶祭、俳句献詠、3日目に献幣祭、奉納武道、奉納舞踊が、4日目に神馬飾卸、奉納神馬・飾馬飾卸、奉納挿花、宮遷式が、そして最後の5日目に、この祭りの最大の呼び物である神幸行列が行われる。
  • 神幸行列は「先駆(せんく)」と呼ばれる騎馬神職を先頭にして、午前6時に出発(「御発輦祭(ごはつれんさい)」という)。その後につづく行列の大まかな順序は、三基の神輿に移された藤崎宮の三座の祭神、「随兵」行列、獅子舞、子供神輿、そして最後に「飾り馬」奉納団体となっている。
  • 飾り馬の奉納団体は、太鼓・ラッパなどの鳴り物でにぎやかに、それぞれ揃いの半纏に身を包み、扇子・花傘・ひしゃく提灯・纏などを手にした勢子(せこ)たちが「ドーカイ、ドーカイ」の威勢のよい掛け声で踊り、飾り馬をあやつりながら、熊本市内を練り歩いていく。
  • 各団体で飾り馬を取り回すのが「口取り(くちとり)」と呼ばれる勢子たちである。ただ馬を走らせるだけでなく、時には故意に馬を暴れさせたりして、沿道の観客を喜ばせる。ただし、馬が暴れるのを制御できない口取りもおり、飾り馬の前足で踏まれたり、後ろ足に蹴られたり、ぶつかったりして観客や口取り、勢子が負傷、あるいは死亡するというケースもある。
  • 飾り馬は大型の馬からポニーや子馬といった様々な馬を使っている。子馬やポニーの場合は、子供でも扱える大きさなので、子供の口取りも多くみられる。(しかし、ポニーは気性が激しいため、小型馬とはいえ注意が必要である。)
  • こうした飾り馬の奉納団体は、藤崎宮の氏子を中心とする地縁的なつながりを元にした団体、高校同窓会や職場団体、そして祭り好きが集まって作った愛好会的な団体など、その性格も多彩なものとなっている。
  • 氏子団体とは行列をなす、両近隣からの奉納団体を指し、氏子崇拝としての団体も熊本市内各所より奉納する。参加団体の奉納数の増加により、昨今の住宅事情もあり、幅広く参加者の募集を余儀なくされている。
  • 飾り馬の奉納順番は、毎年8月の末の日曜日に奉納団体のくじ引きによって決められているが、藤崎宮のお膝元である碩台地区の人々を中心とした奉納団体である「鳥居基(とりいもと)」は、毎年奉納順位が一番であることが決まっている。二番は「水道町親和会」三番は「建吉組」最終番(〆番)「西部青年連合会 」この4団体の人々は、祭りの準備・後片づけなどの奉仕作業を行なう慣わしとなっている。

呼称問題

  • この祭りの正式な名称は「藤崎八旛宮秋季例大祭」であるが、「藤崎八旛宮(藤崎宮)秋の例大祭」や「藤崎八旛宮(藤崎宮)例大祭」など、言い換えや一部省略した呼び方をされることもある。市民のあいだでは主に「ボシタ祭り」あるいは単に「ボシタ」(下記参照)、あるいは親しみをこめて「藤崎さんのお祭り」と呼ばれたり、また「随兵祭り」あるいは単に「随兵」と呼ばれたりすることもある。
  • かつては、祭りの掛け声として「ボシター、ボシター、XXX」(XXXは団体名)、あるいは主に小・中学校団体から構成された御輿による「ワッショイ、ワッショイ」という掛け声が使用されていた。こうした掛け声は奉納団体の好みによるものであり、現在使われている「ドーカイ」も「ボシタ」に混じって一部使われていた。
  • そうした掛け声から、かつては「ボシタ(祭り)」が祭りの通称として使用されていたが(「ドーカイ祭り」と呼ばれた例はない)、1970年代以降、さまざまな人権団体、教育者団体、在日朝鮮・韓国人団体などから、この「ボシタ」使用に対する批判がみられるようになった。その批判の論拠となったのは、「ボシタ」の語源が一般には「朝鮮滅ボシタ」と理解されており、民族差別を助長するから、という一説に由来するものであった。
  • 現在のように、掛け声としての「ボシタ」の使用が実質的に凍結されるようになったのは、1990年8月に開かれた関係者の会合で、奉納参加の許可・不許可の権限を持つ審査委員会が「ボシタ」の掛け声を使用した奉納団体にはマイナスの評価を下す(つまり、翌年以降の奉納が禁止される可能性がある)という方針が合意されてからである。これ以降かけ声は、それまで主としては殆ど使われることの無かった「ドーカイ、ドーカイ、XXX」(XXXは団体名)と一斉変更されることとなった。
  • そして、祭りの通称として「ボシタ」もまた、現在、少なくとも公式の場では(行政マスコミ報道などで)用いられることが無くなっている。しかし、「ボシタ」にも愛着を持つ人たちのあいだでは、日常の場面で、たとえば「藤崎八旛宮秋季例大祭が待ち遠しいね」などとは言わず、依然として「ボシタん待ち遠しかな」と、祭りの通称として使っている者も少なくはない。

備考

  • 朝鮮出兵からの加藤清正(熊本藩主)の帰還を「凱旋」と勘違いした当時の領民が「朝鮮滅ぼした」と囃したことから「ボシター、ボシター」という祭りの掛け声が生まれた、とする説がある。「ボシタ」の語源については、この「滅ボシタ」説以外にも諸説あり、これまで関係者のあいだでも物議をかもしてきた。
    • 「滅ぼした」から「ボシタ」になったとする説そのものが、たんなる「言いがかり」である可能性も否定できない。その根拠は、1)例え領民が「滅ぼした」と勘違いしたとしても勘違いは長く続かない。いつか勘違いは分かるし少なくとも現代に生きる私達は豊臣秀吉朝鮮出兵は失敗に終わったと知っている。2)だから地元では「ボシタ=わっしょいの変形」と理解されていたが、1970年代以降の人権団体などによる物議によって「へ~、滅ぼしたから来てるんだ」と初めて知ったというのが事実である。決して「ボシタ=滅ぼした」との考え方が一般的であったわけではない(編者注:)「おっしゃー」という囃子を使う人もあるが、例えばこれを大勢で繰り返すと「ボシタ」に聞こえてくる。
    • だから一般市民の間で今でも使われているのは、単に親しみがあるから、愛着があるからではなく、「朝鮮出兵では滅ぼしていない」という事実があるのに「滅ぼしたとは不愉快だ、人権侵害だ」とする一連の主張に対する不快感があるからである。このような場合に出現する団体というのは往々にして「自分たちだけが100%正しい」という態度で意見を押し通そうとするが、この問題においてもその例に漏れないことを嫌と言うほど見せつけられたため、「言わせていっちょけ(言わせておけ)」と反論するのをやめて、そのような団体の標的になりやすい公的な場から消したというところである。
  • 熊本弁の「ボボした」を語源とする卑猥語説や韓国語の「ポッシダ」「ポシダ」を語源とする韓国語説などがある。
  • 例年、9月中旬にさしかかっても残暑のおとろえない熊本の街であるが、市民のあいだでは、神幸行列当日の朝の冷え込みのことを「随兵寒合(ずいびょうがんや)」といい、この祭りが熊本に秋の訪れを告げるものとされている。
  • 熊本市内では最大の祭りであり、沿道での見物客数は20万人(警察発表)にもなる。熊本の秋の風物詩としてなくてはならないものであり、半年も前から練習を開始する団体も出るほどである。しかしながら、練習に伴う周辺住民の騒音問題や、急所を蹴り上げるなどの行為によって馬を興奮させ、盛り上げる団体がかつてあり、動物虐待との声もあった。また、豪放磊落な祭りをアピールするあまり、馬に酒を飲ませるように見せかけたりもしていた。 そのため、熊本市民の間でも好き嫌いが分かれる傾向の祭りである。また、同じ九州の長崎くんち博多祇園山笠に比べると、知名度は低く全国的に取り上げられることは少ないが参加数では例年増加の傾向にある。
  • 2006年は、台風の影響で当初予定されていた9月18日の開催が延期された。(熊本日日新聞の記事によると延期は史上初)そのため、3週間後の10月8日に開催された。
  • 2007年は、さらに2団体が新規に奉納が認められた、各奉納団体の人数制限が設定されているが多いところは集まらず、少ないところはオーバーするという現象がおきている。参加者の認証ワッペンも意味をなさず、今年度は各団体の参加人数の検討がなされる。ワッペンが買取制なので、高値(買取価格より)での売買を誘発している問題がある。各奉納団体での上限を決めての、申告になればとの声も多い。
  • 例年9月23日に世田谷にある日本中央競馬会(JRA)の施設馬事公苑で行われる「愛馬の日」に熊本学園大学付属高等学校同窓会紫紺会が2000年、2006年に参加している。

参考文献

  • 熊本県神社庁『熊本縣祭禮調』 1955年
  • 熊本県観光課編『熊本の文化財 その歴史とみどころ』 1970年
  • 牛島盛光編著『熊本の祭り 熊本の風土とこころ5』 熊本日日新聞社 1973年

外部リンク