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「鹽竈神社」の版間の差分

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== 全国の塩釜神社 ==
== 全国の塩釜神社 ==
全国には塩釜神社が約110社あると言われている。
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全国には塩釜神社が約110社あると言われている。以下に主なものを掲載する。
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== 鹽竈神社ゆかりの地 ==
== 鹽竈神社ゆかりの地 ==

2010年2月15日 (月) 11:40時点における版

志波彦神社・鹽竈神社
春の鹽竈神社景色
春の鹽竈神社(本殿)
所在地 宮城県塩竈市一森山1番1号
位置 志波彦神社
北緯38度19分08.20秒 東経141度00分49.05秒 / 北緯38.3189444度 東経141.0136250度 / 38.3189444; 141.0136250
鹽竈神社
北緯38度19分08.00秒 東経141度00分45.45秒 / 北緯38.3188889度 東経141.0126250度 / 38.3188889; 141.0126250
主祭神 志波彦神社
志波彦神
鹽竈神社
塩土老翁神・武甕槌命・経津主神
社格 志波彦神社
式内社(名神大)
鹽竈神社
式外社
両社共通
陸奥国一宮・国幣中社・別表神社
創建 不明
本殿の様式 流造
例祭 3月29日(志波彦神社)
7月10日(鹽竈神社)
主な神事 嘉津良比祭(12月1日)
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鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、宮城県塩竈市にある神社で、陸奥国一宮である。全国にある塩竈神社(鹽竈神社、塩釜神社とも表記する)の総本社。鹽竈神社別宮に塩土老翁神を主祭神として祀り、左宮に武甕槌神、右宮に経津主神を祭神として祀っている。明治時代に、式内社志波彦神社(しわひこじんじゃ)が境内に遷座し、現在は正式名称を志波彦神社鹽竈神社とし一つの法人となっている。

塩土老翁神はの神格化と考えられる。神武天皇山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願のでもある。

鹽竈神社境内には、シオガマザクラという貴重なの一種があり、毎年メディアに取り上げられるほど有名である。また、日本三大船祭、塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。

歴史

志波彦神社

志波彦神社は冠川[1]七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。元禄8年(1695年)に書かれた縁起によれば、天智天皇3年(665年)に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり[2]現在のところはっきりとしていない。農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている。 もともとは東山道から多賀城へ通じる交通の要所、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していた。

清和天皇貞観元年(859年)に正五位下勳四等から従四位下神階を進め[3]延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ名神大として記載されている。
このように朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。元禄8年の縁起によれば、社地は百姓の耕作によって侵され、天正年間には火災により神具や縁起などの資料を失い、延宝3年(1675年)の再建時には6尺四方[4]の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社合祀された。

明治時代以後については後述を参照のこと。

鹽竈神社

創建から中世

鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。

弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。

さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥国の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆国三島社2,000束、出羽国月山大物忌社2,000束、淡路国大和大国魂社800束であった。これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く[5]式外社となった事と併せて朝廷が一見矛盾するような扱いを何故したのか、その理由はわかっていない[6]

宇多天皇の御代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、鹽竈神社へは寛仁元年(1017年後一條天皇即位の際に遣わされている[7]

朝野群載 巻第6』に所収の「式外神社進合御卜證文」には、白河天皇御代に勅命を受け卜った式外社の記述があるが、その中に「近則去延久二年十二月御卜。坐越後国春日布河両社。坐陸奥国清竈鳥海二社。同六年六月御卜。坐陸奥国浮島鹽竈鳥海三箇社。」の一文がある。「清竈」が「鹽竈」の誤字であるとすれば、勅命により御卜を受けた数少ない式外社の中でも、鹽竈神社は延久2年(1070年)12月と延久6年(1074年)6月の2回御卜を受けたことになる。

中世

中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈[8]は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていた事を覗わせている。 また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる[9]。加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されている[10]ことからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。

文治6年(1190年伊沢家景源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。

14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の吉良貞経延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保[11]を寄進している。

応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰奥書の『諸国一宮神名帳』には、陸奥国の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本国一宮記』では陸奥国一宮は都都古和気神社とされた[12]。この後、近世においては主に大日本国一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった[13]。しかしながら、江戸時代初期の神道者・橘三喜が全国の一宮を参拝した際は、『大日本国一宮記』の類本である『吉田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている[14]

近世

近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀神馬などを寄進した。
初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは元和5年(1619年)に社領24貫336文を寄進[15]慶長12年(1607年)に社殿造営を行った。 二代藩主忠宗寛永13年(1636年)に鐘楼を再興し、寛永21年(1644年)には拝殿、さらに慶安3年(1650年)には長床を修造している。 三代藩主綱宗伊達騒動万治3年(1660年)に家督を子の綱村に譲っていたが、寛文3年(1663年)に大幅な社殿造り変えを行うと共に社領7貫584文を寄進している。 歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。宝永期以降は20年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。 また、五代藩主吉村も宝永元年(1704年)の社殿竣工成就を記念して社領55貫文を寄進している。

明治以降の両社

明治4年(1871年)に志波彦神社が国幣中社に列格、明治7年(1874年)に志波彦神社を別宮本殿に迎えると同時に鹽竈神社が国幣中社に列格した。その後、昭和9年(1934年)から同13年(1938年)に志波彦神社が国費をもって社殿新築、同13年(1938年)から同17年(1942年)には鹽竈神社が国費による修築を行った。第2次世界大戦後に旧社格が廃止されると、当社は神社本庁が包括する別表神社となった。また前述のように、20年に一度の式年遷宮が現在に至るまで行われている。

摂社末社

境内末社

以下の4社は、楼門を入って左手に朱塗木造銅板葺屋根の雨覆を掛けられ並んで鎮座している。明治維新前後に書かれたと言われる『鹽竈社神籍』[16]では社内摂社であるとしている。

  • 神明社
  • 八幡社
  • 住吉社
  • 稲荷社

御釜神社

東参道(裏参道)入口の鳥居から南に約100m行った塩竈市中心部の商店街にある境外末社で、「塩竈」と言う地名の由来となった鹽竈神社の神器「神竈」を安置している。 詳しくは御釜神社を参照。

十四末社

文献によれば鹽竈神社には14の境外末社があるとされる。14と言う社数は同じであるが、文献によって記載されている神社が異なるので、以下の一覧にまとめた。『鹽社由来追考』[16]の説①は、延宝6年(1678年)の春に太守君(この時の仙台藩主は四代綱村)の命により古老に尋ねて記録した、と同書に記載がある。また、説②では神社数は13しかない。
社名、鎮座地は『別当法蓮寺記』[16]または記載文献による。◎はその文献で十四末社とされている神社。

社名 鎮座地 記載文献
別当法蓮寺記 鹽社由来追考 鹽竈社神籍
説① 説② 説③
青木明神 宮城郡塩竈村内白坂    
奏社明神 宮城郡市川村
浮島明神 宮城郡浮島村
冠川明神 宮城郡岩切村
南宮明神 宮城郡南宮村
小刀明神 宮城郡澤音村
梅宮明神 宮城郡塩竈村内吉津
柏木明神 宮城郡笠神村
東宮明神 宮城郡東宮濱
曲木明神 宮城郡籬島  
桂島明神 宮城郡桂島 ◎(松崎明神と記載有)
鼻節明神 宮城郡花淵濱
赤沼明神 宮城郡塩竈村内白坂  
荒脛巾明神 宮城郡市川村  
吉田明神 宮城郡吉田濱  
北宮明神 宮城郡春日村  
松島明神 不明    
大根明神 花淵沖の海中    
大臣明神 宮城郡浮島村    
春日明神 宮城郡春日村    
志波彦明神 宮城郡春日村      

明治10年(1877年)3月21日、鹽竈神社と密接不離の関係にあった鼻節神社、冠川神社、伊豆佐比売神社の3社が国幣中社志波彦神社・鹽竈神社の摂社に定められた。

文化財

重要文化財
  • 左宮本殿
  • 左宮幣殿
  • 右宮本殿
  • 右宮幣殿
  • 左右宮廻廊
  • 左右宮瑞垣
  • 左右宮拝殿
  • 別宮本殿
  • 別宮幣殿
  • 別宮廻廊
  • 別宮瑞垣
  • 別宮
  • 門及び廻廊
  • 随身門
  • 鳥居

祭事

毎月の祭祀

1日   朔日祭
10日   鹽竈神社月次祭
29日   志波彦神社月次祭

主たる年間祭祀

1月 1日   歳旦祭   8月 1日     曲木神社例祭
3日     元始祭   9月   下旬   御神田抜穂祭
14日     松明祭   29日     志波彦神社遷座記念祭
2月 立春前日   節分祭   10月 5日 献茶祭 (裏千家
11日     紀元祭   中旬 鹽竈神社講社大祭
17日     祈年祭   17日   新嘗奉祝祭
3月 10日   紀元祭   11月 3日 明治祭
29日     志波彦神社例祭   中旬 七五三詣
4月 第4日曜日   花祭   23日 新嘗祭初穂曳
29日   昭和祭   12月 1日 嘉津良比祭
5月 上旬   御神田御田植祭   23日 天長祭
6月 30日   大祓式   31日 大祓式・除夜祭
7月 4日 ~6日   藻塩焼神事御釜神社例祭
10日   鹽竈神社例祭
第3月曜日   みなと祭

全国の塩釜神社

全国には塩釜神社が約110社あると言われている。

鹽竈神社ゆかりの地

脚注

  1. ^ 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月 では、冠川(かんむりがわ)と言う呼び名を 志波彦神が降臨した川 = 神降川(かみふりがわ) が訛ったものであるとする説を紹介している。
  2. ^ 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月 では、塩土老翁神の幸御魂とする説の他、“物のシワ”すなわち国土の端を意味するところから北限の神とする説を紹介している。
  3. ^ 日本三代実録の記述による。
  4. ^ 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月 によれば縦5尺横6尺。
  5. ^ 嵯峨天皇御代の弘仁3年(812年)7月10日に従二位神階が昇叙されたことが『類聚国史』に記されている、とする文書がある。しかしながら、『日本後紀』の弘仁3年の条にそのような記録は無い。『類聚国史』は六国史の抜粋であるから、当然、親本となる『日本後紀』に同じ記載が無ければならない。『鹽竈神社史』においてもこの点を指摘したうえで、国史に神階昇叙の記録が無い事を怪しんだ者が偽書を作成したのではないか、と推測している。
  6. ^ 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月 では、正税からの祭祀料支出と神階昇叙が無いことに対し、国家のやや相反する鹽竈神社への崇敬の意味はどう解すべきか、と疑問を投げかけている。
  7. ^ 左経記』および『日本紀略』における寛仁元年(1017年)10月2日の条の記述による。鹽竈神社の名が出ているのは『左経記』の方である。また『左経記』には納められた神宝が記載されており、その内容は紫綾蓋1蓋、平文野剣1腰、赤漆弓1張、箭(矢)4筋、平文鉾1本、五寸鏡1面、平文麻桶1口、平文線柱1本であったと記している。『鹽竈神社史』では、この大神宝使派遣と『吾妻鏡文治6年(1190年)の記述とを合わせ、当社が奥州第一の大社と言えるのではないかと評している。ちなみに 薗田 稔 高橋政宣 編 『神道史大辞典』 吉川弘文館 2004年7月 には、大神宝使とは由緒ある諸社に対し天皇即位の由を奉告するため大神宝大幣帛を奉る使いで、中世には派遣が途絶えてしまったとの説明がある。
  8. ^ 「文治燈篭」または「文治鉄燈」と呼ばれ、現在も左右宮拝殿前にある。はじめは九輪、風鐸、露盤が屋上に架せられていたが、長い年月を経たことによる損傷で現在はない。藤原秀衡の三男である和泉三郎忠衝より寄進されたことが扉の碑文に記されている。松尾芭蕉の『おくのほそ道』に、鹽竈神社を訪ねてこの鉄燈を見た芭蕉が、最後まで源義経に付き従った和泉三郎忠衝に対し「義勇の士」として思いを馳せたことが記述され、広く知られるようになった。文化13年(1816年)の名所案内 『陸奥名碑略』 において松尾芭蕉が訪ねた場所として紹介され、また天保11年(1840年)には小池曲江が『芭蕉翁見文治燈図』を描くなどしている。
  9. ^ 『鎌倉遺文』661号 『将軍家政所下文』に「将軍家政所下 陸奥国竹城保◆ 可早任先例引募一宮塩竈社臨時祭料田弐町伍段事」とある。◆は欠損により文字が読めない部分。
  10. ^ 吾妻鏡』の文治6年(1190年)の条の記述による。
  11. ^ 竹城保は平安末期より宮城郡から独立した陸奥国府の特別行政区で、いくつかの鹽竈神社社領があったと考えられている。現在の松島町高城を中心とした地域。
  12. ^ 大塚統子 『「一宮記」の諸系統 -諸本の書誌的考察を中心に-』 では、『大日本国一宮記』は卜部宿禰奥書の『諸国一宮神名帳』を基に『延喜式神名帳』の式内社を強く意識して編纂されたため、式外社の鹽竈神社は記載から外されたのではないかと考察している。大塚統子 『「一宮記」の諸系統 -諸本の書誌的考察を中心に-』 は 一宮研究会編 『中世一宮制の歴史的展開 下:総合研究編』 ㈲岩田書院 2004年12月 に所収。
  13. ^ 大林太良 『私の一宮巡詣記』 青土社 2001年9月 出版 では論社を整理するため、式内社では無く『大日本国一宮記』にも掲載されていない鹽竈神社を自分の巡詣対象から外すこと、鹽竈神社は近世以降の一宮と言われていることを述べている。
  14. ^ 橘三喜が著した『諸国一宮巡詣記』によると、橘三喜は現在の宮城県黒川郡大和町方面へ先に足を延ばした後、延宝6年(1678年)6月9日に松島に至り瑞岩寺や五大堂などを観光、その日の暮れに塩竈に入った。翌6月10日鹽竈神社へ詣で、縁日の御供をしていた宮司に由来を尋ねたが知る人は無かったと記録している。また、創建時期についても綏靖天皇の御代とも、仲哀天皇の御代とも伝えられていると言われた、と記録している。この記述から、四代藩主綱村元禄6年(1693年)に鹽竈社縁起を編纂させるまで、宮司も由来をはっきり知らなかったことがわかる。また、6月10日の記述には、鹽竈明神の添書きに「奥州一宮宮城郡鹽竈大明神高彦根命」と記載されている。『諸国一宮巡詣記』 は 佐伯有義 編 『神祇全書 第2輯』 皇典講究所 1907年2月 に所収。
  15. ^ 寛永21年(1644年)8月14日の二代藩主忠宗黒(墨)印状により安堵された社領。しかしながら、高橋正己 『鹽竈神社旧社家の歴史』 鹽竈神社旧社家献膳講 1981年12月 によれば、初代藩主正宗留守氏時代の社領を没収したうえで改めて寄進しており、寄進された社領は元の知行高を遥かに下回ったとしている。二代藩主忠宗の黒(墨)印状は鹽竈神社所蔵。
  16. ^ a b c 志波彦神社鹽竈神社社務所編 『鹽竈神社史』 志波彦神社鹽竈神社社務所 1930年12月 に所収。
  17. ^ 塩竃神社(宮城県東京事務所)

参考文献

  • 佐伯有義 編 『神祇全書 第2輯』 皇典講究所 1907年2月 (1971年に思文閣より複製版が出されている)
  • 志波彦神社鹽竈神社社務所編 『鹽竈神社史』 志波彦神社鹽竈神社社務所 1930年12月 (『別当法蓮寺記』 『鹽竈社寶物記』 『鹽竈社神籍』 『鹽社由来追考』を所収している)
  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第29巻上 朝野群載』 ㈱吉川弘文館 1964年11月
  • 史料大成刊行会 編 『史料大成 巻6 左経記』 臨川書店 1965年9月
  • 高橋正己 『鹽竈神社旧社家の歴史』 鹽竈神社旧社家献膳講 1981年12月
  • 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編27 陸奥国』 神道大系編纂会 1984年3月
  • 薗田 稔 高橋政宣 編 『神道史大辞典』 吉川弘文館 2004年7月
  • 一宮研究会編 『中世一宮制の歴史的展開 下:総合研究編』 ㈲岩田書院 2004年12月
  • 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月(1972年刊の再版)
  • 東北歴史博物館 特別展 『 奥州一宮鹽竈神社 - しおがまさまの歴史と文化財 - 』図録 東北歴史博物館 2007年8月

外部リンク

関連項目