コンテンツにスキップ

「蝦夷」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Johncapistrano (会話 | 投稿記録)
Kinori (会話 | 投稿記録)
2005年10月23日 (日) 21:52 の版に戻す
1行目: 1行目:
{{Anotheruse|蝦夷(集団)|蝦夷(地域名)|蝦夷地}}
{{Anotheruse|蝦夷(集団)|蝦夷(地域名)|蝦夷地}}
'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[日本列島]]の東方、北方に住み、[[律令制|朝廷]]によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化しており、特に古代の蝦夷(えみし)を一個の民族と見なすことは疑問視されている。近世の蝦夷(えぞ)は[[アイヌ]]人を指す。
'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[日本列島]]の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化しており、特に古代の蝦夷(えみし)を一個の民族と見なすことは疑問視されている。近世の蝦夷(えぞ)は[[アイヌ]]人を指す。


== 語源と用字 ==
== 語源と用字 ==
6行目: 6行目:
語源については諸説あり、中に[[樺太アイヌ]]の[[アイヌ語]]で「人」を意味する「''encu''」と同語源とするものもある。
語源については諸説あり、中に[[樺太アイヌ]]の[[アイヌ語]]で「人」を意味する「''encu''」と同語源とするものもある。


古代の蝦夷ははじめ「'''毛人'''」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字はかつて王権自らが大陸から東夷の一として扱われたのに倣った、東方の異民族に対する蔑称である。
古代の蝦夷ははじめ「'''毛人'''」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族に対する蔑称である。


[[平安時代]]後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が指し示す集団の変化に対応すると考える説もある。
[[平安時代]]後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が指し示す集団の変化に対応すると考える説もある。


== えみし ==
== えみし ==
古代の蝦夷(えみし)は、本の東に居住し、政治的・文化的に、朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部はその他の日本人につながったと考えられている。
古代の蝦夷(えみし)は、本の東に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。


「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一[[アイデンティティー]]は無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一[[アイデンティティー]]は無かったと解するか、日本との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。


毛人についての形式上最も古い言及は『[[日本書紀]]』にあり、[[神武天皇]]の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが'''愛瀰詩'''であったとされる。しかし神武天皇や東征の信憑性が低いため、これを蝦夷についての最古の記録と言うことはできない。日本書紀に従えばヤマト王権と敵対する東方の集団が蝦夷なのだが、書紀には7世紀から8世紀頃の歴史認識が反映された部分があるとみられており、古い時代の蝦夷の民族的性格と居住範囲については諸説ある。
蝦夷についての形式上最も古い言及は『[[日本書紀]]』にあり、[[神武天皇]]の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。しかし神武天皇や東征の信憑性が低いため、これを蝦夷についての最古の記録と言うことはできない。日本書紀に従えばヤマト王権と敵対する東方の集団が蝦夷なのだが、書紀には7世紀から8世紀頃の歴史認識が反映された部分があるとみられており、古い時代の蝦夷の民族的性格と居住範囲については諸説ある。


蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、[[659年]](斉明天皇5年)の[[遣唐使]]と[[唐 (王朝)|唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者はの説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。
蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、[[659年]](斉明天皇5年)の[[遣唐使]]と[[唐 (王朝)|唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者はの説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。


[[7世紀]]頃には、蝦夷は現在の[[関東地方]]、[[新潟県]]、[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]<!--と、[[北海道]] 相変わらずソースなしですが の大部分-->に広く住み、その一部は朝廷支配領域の中にあった。朝廷が支配領域を北に拡大するにつれて([[渟足柵]]、[[磐舟柵]])、しばしば防衛のために戦い([[阿倍比羅夫]])、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは[[胆沢町|胆沢]]とその周辺の蝦夷との戦いで、[[780年]]に[[多賀城]]を一時陥落させた[[伊治呰麻呂]]、[[789年]]に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為([[アテルイ]])らの名がその指導者として伝わる。朝廷は大軍で繰り返し遠征し([[軍事]])、[[坂上田村麻呂]]が[[胆沢城]]と[[志波城]]を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、[[俘囚]]と呼ばれた。
[[7世紀]]頃には、蝦夷は現在の[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]と、[[北海道]]の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは[[胆沢町|胆沢]]とその周辺の蝦夷との戦いで、[[780年]]に[[多賀城]]を一時陥落させた[[伊治呰麻呂]]、[[789年]]に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為([[アテルイ]])らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、[[坂上田村麻呂]]が[[胆沢城]]と[[志波城]]を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、[[俘囚]]と呼ばれた。


蝦夷は平時には交易を行い、[[昆布]]・[[馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに[[米]]・[[布]]・[[鉄]]を得た。
蝦夷は平時には交易を行い、[[昆布]]・[[馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに[[米]]・[[布]]・[[鉄]]を得た。
25行目: 25行目:
[[9世紀]]に蝦夷に対する朝廷([[関西]])からの征服活動は、[[岩手県]]と[[秋田県]]のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では[[12世紀]]には蝦夷としての独立性は失われた。
[[9世紀]]に蝦夷に対する朝廷([[関西]])からの征服活動は、[[岩手県]]と[[秋田県]]のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では[[12世紀]]には蝦夷としての独立性は失われた。


蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、[[江戸時代]]から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を[[日本人]]の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、[[考古学]]からする文化圏の検討と、[[東北地方]]に分布するアイヌ語地名から、7世紀以降の蝦夷についてアイヌとの連続性を認める説が有力である。この場合、北海道から北東北にかけての広がりを持った[[擦文時代|擦文文化]]を担った人々が蝦夷(えみし)と同一であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北以南の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされる。
蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、[[江戸時代]]から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を[[日本人]]の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、[[考古学]]からする文化圏の検討と、[[東北]]に分布するアイヌ語地名から、7世紀以降の蝦夷についてアイヌとの連続性を認める説が有力である。この場合、北海道から北東北にかけての広がりを持った[[擦文時代|擦文文化]]を担った人々こそが蝦夷であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされる。


しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実態、[[続縄文時代|続縄文文化]]から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って『書紀』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って[[縄文人]]・[[弥生人]]等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。
しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実態、[[続縄文時代|続縄文文化]]から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って『書紀』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って[[縄文人]]・[[弥生人]]等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。


蝦夷を、現代の日本人につながる集団か、アイヌにつながる集団か、あるいはそれ以外の集団かに強引に帰属させる議論は無意味である。日本人アイヌか」という選択は日本書紀おいて敷かた史観をなぞるのみである
蝦夷を、現代の日本人につながる集団か、アイヌにつながる集団か、あるいはそれ以外の集団かに強引に帰属させる議論は無意味である。蝦夷の実態の解明とは、東日本の多様な間集団が日本人とアイヌという大集団再編されるプロセス解明に他ならない

[[Category:奈良時代]]
[[Category:奈良時代]]



2005年11月18日 (金) 10:39時点における版

このテンプレート(Template:Anotheruse)は廃止されました。「Template:Otheruses」を使用してください。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化しており、特に古代の蝦夷(えみし)を一個の民族と見なすことは疑問視されている。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。

語源と用字

語源については諸説あり、中に樺太アイヌアイヌ語で「人」を意味する「encu」と同語源とするものもある。

古代の蝦夷ははじめ「毛人」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族に対する蔑称である。

平安時代後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が指し示す集団の変化に対応すると考える説もある。

えみし

古代の蝦夷(えみし)は、日本の東に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。

「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一アイデンティティーは無かったと解するか、日本との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。

蝦夷についての形式上最も古い言及は『日本書紀』にあり、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。しかし神武天皇や東征の信憑性が低いため、これを蝦夷についての最古の記録と言うことはできない。日本書紀に従えばヤマト王権と敵対する東方の集団が蝦夷なのだが、書紀には7世紀から8世紀頃の歴史認識が反映された部分があるとみられており、古い時代の蝦夷の民族的性格と居住範囲については諸説ある。

蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、659年(斉明天皇5年)の遣唐使高宗の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者はの説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、坂上田村麻呂胆沢城志波城を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。

蝦夷は平時には交易を行い、昆布毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりにを得た。

9世紀に蝦夷に対する朝廷(関西)からの征服活動は、岩手県秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。

蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を日本人の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北に分布するアイヌ語地名から、7世紀以降の蝦夷についてアイヌとの連続性を認める説が有力である。この場合、北海道から北東北にかけての広がりを持った擦文文化を担った人々こそが蝦夷であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされる。

しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実態、続縄文文化から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って『書紀』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って縄文人弥生人等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。

蝦夷を、現代の日本人につながる集団か、アイヌにつながる集団か、あるいはそれ以外の集団かに強引に帰属させる議論は無意味である。蝦夷の実態の解明とは、東日本の多様な人間集団が日本人とアイヌという大集団に再編されるプロセスの解明に他ならない。

えぞ

中世以後の蝦夷は、アイヌを指す。13世紀から14世紀頃には、現在アイヌと呼ばれる民族と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。

関連項目

参考文献

  • 高橋崇『蝦夷――古代東北人の歴史』、中央公論新社[中公新書]、1986年。ISBN 4121008049
  • 高橋崇『蝦夷の末裔――前九年・後三年の役の実像』、中央公論新社[中公新書]、1991年。ISBN 4121010418
  • 新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6
  • 川内春人「唐から見たエミシ 中国史料の分析を通して」『史学雑誌』113編1号、pp.43-61、2004年。(ISSN 00182478)

外部リンク