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ハワイ時代のあだ名
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'''曙 太郎'''(あけぼの たろう、[[1969年]][[5月8日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]][[オアフ島]]ワイマナロ出身で、[[東関部屋]]の元[[大相撲]][[力士]]、チーム・ヨコヅナ所属の現役[[プロレスラー]]、[[タレント]]。大相撲時代の最高位は第64代[[横綱]]、日本人以外初の横綱。本名:同じ([[1996年]]に[[日本]]帰化)、旧名は'''チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン'''(Chad George Haaheo Rowan)。
'''曙 太郎'''(あけぼの たろう、[[1969年]][[5月8日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]][[オアフ島]]ワイマナロ出身で、[[東関部屋]]の元[[大相撲]][[力士]]、チーム・ヨコヅナ所属の現役[[プロレスラー]]、[[タレント]]。大相撲時代の最高位は第64代[[横綱]]、日本人以外初の横綱。本名:同じ([[1996年]]に[[日本]]帰化)、旧名は'''チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン'''(Chad George Haaheo Rowan)。


[[ハワイ・パシフィック大学]]中退で、やんちゃだったハワイ時代は「ケンカ屋チャド」と呼ばれていた。なお、曙太郎と関係が深いと見られる「ボノくん」についても当項目で記載する。[[横浜ベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]に所属した[[ジョーイ・マイヤー]]は従兄弟に当たる。
[[ハワイ・パシフィック大学]]中退で、やんちゃだったハワイ時代は「ケンカ屋チャド」と呼ばれていた<ref>[http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/flash/4628 本人は否定している] 週刊FLASH 2012年3月20日号</ref>。なお、曙太郎と関係が深いと見られる「ボノくん」についても当項目で記載する。[[横浜ベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]に所属した[[ジョーイ・マイヤー]]は従兄弟に当たる。


== 大相撲時代 ==
== 大相撲時代 ==

2012年3月9日 (金) 04:36時点における版

曙 太郎
基礎情報
四股名 曙 太郎
本名 同じ
(旧名:チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン)
生年月日 (1969-05-08) 1969年5月8日(55歳)
出身 アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島
身長 203cm(現役時)
体重 233kg(現役時)
所属部屋 東関部屋
得意技 突き、押し、右四つ、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位 第64代横綱
生涯戦歴 654勝232敗181休 (78場所)
幕内戦歴 566勝198敗181休(63場所)
優勝 幕内最高優勝11回
殊勲賞4回
敢闘賞2回
データ
初土俵 1988年3月場所
入幕 1990年9月場所
引退 2001年1月場所
引退後 総合格闘家
プロレスラー
備考
金星4個(旭富士2、大乃国北勝海
2008年7月9日現在

曙 太郎(あけぼの たろう、1969年5月8日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ワイマナロ出身で、東関部屋の元大相撲力士、チーム・ヨコヅナ所属の現役プロレスラータレント。大相撲時代の最高位は第64代横綱、日本人以外初の横綱。本名:同じ(1996年日本帰化)、旧名はチャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン(Chad George Haaheo Rowan)。

ハワイ・パシフィック大学中退で、やんちゃだったハワイ時代は「ケンカ屋チャド」と呼ばれていた[1]。なお、曙太郎と関係が深いと見られる「ボノくん」についても当項目で記載する。横浜大洋ホエールズに所属したジョーイ・マイヤーは従兄弟に当たる。

大相撲時代

現役時代

ハワイではバスケットボールをしていたが、その体格を東関親方(元高見山)に見込まれ、相撲界入り、1988年3月場所に初土俵

同期入門は「花の六三組」と言われる横綱・若乃花(現タレント・花田勝)、貴乃花大関魁皇小結和歌乃山前頭力櫻(現プロレスラー・力皇猛)、十両須佐の湖鶴ノ富士琴岩国琴乃峰など。序ノ口では貴乃花(当時・貴花田)に勝ったが、琴乃峰にプロ初黒星を喫している。

三段目時代の1989年3月場所前、まだ指折りの大部屋だった伊勢ヶ濱部屋に出稽古に出かけた曙は当時、1月場所で10勝をあげ自己最高位の前頭筆頭まで躍進した若瀬川に胸を借りた。相手が三段目と甘く見ていた若瀬川は2、3回軽く四股を踏んだだけで、仕切って待っている曙の前に立つと両手を広げて大きく胸を出した。曙は若瀬川の胸をめがけて頭から思い切りぶちかますと若瀬川は仰向けにひっくり返り、腰を痛めて病院に運ばれる羽目になった。初土俵からわずか一年で幕内力士を「病院送り」にした曙はこの場所6勝1敗、翌場所は早くも幕下に昇進した。ちなみに若瀬川は7日目まで休場、翌日から出場したがわずか1勝しかできず、遂に三役の座を手中にすることはなかった。

1990年3月場所新十両、同年9月場所若花田(のち若乃花)大翔山貴闘力とともに新入幕。ちなみに一文字四股名の新入幕力士は1916年5月場所新入幕の明 虎吉(あきらか とらきち)以来、実に74年ぶりであった。

長身を活かした突き押しが特徴で、同期の若乃花・貴乃花の最大のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じる。特に22回の幕内優勝を成し遂げ、「平成の大横綱」と呼ばれた貴乃花とは一時代を築き上げ「曙貴(あけたか)時代」とも言われた。ちなみに貴乃花との幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と全くの五分であった。

また、当時前頭筆頭の地位だった1991年7月場所初日では、体重が200Kg以上の巨漢横綱だった大乃国を、曙自ら立ち合いから一撃で大乃国を押し倒し、土俵の外へ一気に吹っ飛ばした事もあった。なお、同場所で復活を懸けた横綱大乃国は、この一番で調子を狂わせたのか8日目で4勝4敗の成績不振により、この1991年7月場所限りで現役引退となっている。

なお、立ち合いの際にはリーチの長さを生かすために、仕切り線から下がって始めることが多かった。その一方足が長い体型(平幕時代に発行された相撲に関する書籍の力士紹介で「上半身がアンコ型で下半身がソップ型とバランスが悪い体型をしている」と書かれたこともあった)から下半身が脆いという、致命的な弱点を持ち合わせていた。特に舞の海など、小兵の力士に懐に潜り込まれ足を取られると容易にバランスを崩され、何もできずにあっさり負けてしまうことも目立った。例として、1991年11月場所で舞の海に三所攻めで負けた一番はその好例である(但しこの時の決まり手は何故か三所攻めとはならず「内掛け」だった)。

しかし、1992年11月場所と1993年1月場所において大関で2場所連続優勝を果たして横綱に昇進。1992年5月場所直前の北勝海の引退で5場所(番付上は4場所)続いた横綱空位を、1993年3月場所で解消した。その後貴乃花の昇進まで11場所の間一人横綱を維持し、その間にも優勝を重ねた。

横綱土俵入りは四股の足がほとんど上がらず、この点では貴乃花と比べて見劣りがした(しかし、四股は本来足を高く上げるものではなく、玉錦以前の四股に戻ったとも言え、本質的な問題ではない。むしろ足を高く上げ土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとするのが本来的な概念)。また土俵中央最後の左の四股の前に横に出す手は右手なのに、1993年9月場所、横綱4場所目を迎えた曙はなぜか土俵入りの際、左手を上げて左の四股を踏んだ(これは初日から4日目まで続いた)。しかしたくましい上半身が引き立つせり上がりは非常に迫力があった。NHK大相撲中継でも度々アップで映し出されていており、魅力ある土俵入りを見せたといえる。いかつい顔も、せり上がりで正面を睨むこの時ばかりは映えた。1998年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、当時東横綱の貴乃花が直前の同年1月場所中体調不良で途中休場となったため、欠席した貴乃花の代役として西横綱の曙が開会式のときに横綱土俵入りを演じた。

2mを超える長身といかつい容貌のため、また若貴の人気が突出していたためあるいは師匠同士の因縁のため、外国人初の横綱を張ったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かったが、平幕力士として話題性が少なかった時期には、関取に昇進して以降ハワイの両親の元に送金を欠かさなかった(1991年5月場所に小錦に敗れ7勝8敗と1点の負け越しを喫し連続勝ち越しが途切れるまで、勝ち越しによって増額された分の給金を送金していた。このことは広く知られており、負けて負け越しとなる一番を元とした取組が漫画で描かれた折にも、曙をモデルとした力士がその旨を心の声として語っている)ことから「孝行息子」また、当時の東関部屋の部屋頭だったことや師匠譲りのオレンジ色の廻しを締めていたこと(後には紫や黒、緑に変えている)から「ジェシーの一番弟子」として微笑ましく見守るファンは多く、相撲部屋を扱ったテレビ番組で師匠の東関親方とともに当時の高砂親方(元小結・富士錦)のもとに新年の挨拶に訪れ、お年玉をもらう姿が放映された。しかし折からの「若貴ブーム」で相撲を大々的に取り上げ始めた民放スポーツ番組では、プロレス並みに若貴に対抗するヒール役としてレッテルを貼った。

幕内最高優勝の通算回数は11回で、10回以上優勝したことのある横綱の中で唯一全勝優勝が無かった。1993年9月場所千秋楽では貴乃花に全勝優勝を阻まれた。優勝決定戦には7回出場(4回優勝)。2人の決定戦(1993年11月場所、1997年5月場所、1999年7月場所)、3人の決定戦(1993年7月場所、1994年3月場所)、4人の決定戦(1997年3月場所)、5人の決定戦(1996年11月場所)全てに出場という珍記録の持ち主でもある(更に、これらの決定戦の出場力士は、結果的に、全員が幕内最高優勝の経験者となった=注釈参照。出島は曙との決定戦勝利が唯一の優勝、貴ノ浪魁皇貴闘力も、これ以降に優勝経験あり=)。

また幕内で10回以上対戦して負け越している力士が一人もおらず、どのような力士に対しても実力を発揮できたことが窺える。なお貴乃花とは先述の通り21勝21敗、出島には6勝6敗の五分であった(但し出島とは優勝決定戦を含めると6勝7敗と負け越しており、一時は決定戦を含め6連敗したこともある)。

手足の長さから重心が高く、半月板損傷などで足の故障が多かった。1994年5月に両膝を故障した後は、若貴らの活躍もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001年1月場所の引退までのおよそ6年間で幕内優勝は4回に留まった。それでも2000年7月場所と11月場所には復活の優勝を果たし、その2000年には1993年以来7年ぶり2度目の年間最多勝も獲得した。

翌2001年の1月場所は持病となった両膝のケガの悪化により全休。その1月場所終了直後、両ヒザの回復がこれ以上見込めないなどの理由により、突如現役引退を表明する。引退会見での曙は「8~10勝の平凡な勝ち越しなら出来るが、もう優勝争いは不可能」「横綱として足を引きずった惨めな姿で土俵に上がりたくない」と決意したという。

元横綱曙の引退相撲は、2001年9月場所後に行われた。横綱最後の土俵入りには、同期のライバルだった横綱貴乃花が右膝の手術後長期療養中により参加せず、太刀持ちは同じハワイ出身の後輩横綱である武蔵丸、露払いは武蔵丸と同じ武蔵川部屋の武双山がそれぞれ務めた。なお曙の断髪式には貴乃花も出席し、ほか武蔵丸や小錦らが鋏を入れていた。

引退後、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆・力士からの評価はとても高かった。

曙貴 全対戦一覧

曙貴両雄の対戦は、1990年11月場所~2000年11月場所の61場所間に42回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上1位の27回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が9回(うち、相星決戦が5回でこれも史上1位である)あった。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番をしめす。

場所 対戦日 曙勝敗
(通算成績)
貴乃花勝敗
(通算成績)
優勝力士 備考
1990年11月場所 4日目 ○(1) ●(0) 千代の富士 初対戦
1991年1月場所 8日目 ○(2) ●(0) 霧島
1991年3月場所 10日目 ●(2) ○(1) 北勝海
1991年5月場所 8日目 ●(2) ○(2) 旭富士
1991年7月場所 9日目 ●(2) ○(3) 琴富士
1991年9月場所 8日目 ○(3) ●(3) 琴錦
1991年11月場所 9日目 ○(4) ●(3) 小錦
1992年1月場所 3日目 ○(5) ●(3) 貴乃花(1)
1992年3月場所 千秋楽 ○(6) ●(3) 小錦
1992年5月場所 11日目 ○(7) ●(3) 曙(1)
1992年7月場所 - - - 水戸泉 曙新大関。曙休場により対戦なし。
1992年9月場所 8日目 ●(7) ○(4) 貴乃花(2)
1992年11月場所 14日目 ○(8) ●(4) 曙(2)
1993年1月場所 千秋楽 ○(9) ●(4) 曙(3) 千秋楽曙2敗、貴乃花3敗で対戦
1993年3月場所 千秋楽 ○(10) ●(4) 若乃花(当時若花田) 曙新横綱 貴乃花(当時貴ノ花)新大関
1993年5月場所 千秋楽 ●(10) ○(5) 貴乃花(3) 千秋楽1敗同士相星決戦
1993年7月場所 千秋楽 ●(10) ○(6) 曙(4) 千秋楽曙1敗、貴乃花2敗で対戦 貴乃花勝利。優勝決定戦は、曙勝利。
1993年9月場所 千秋楽 ●(10) ○(7) 曙(5)
1993年11月場所 千秋楽 ○(11) ●(7) 曙(6)
1994年1月場所 14日目 ○(12) ●(7) 貴乃花(4)
1994年3月場所 千秋楽 ○(13) ●(7) 曙(7)
1994年5月場所 - - - 貴乃花(5) 曙休場により対戦なし。
1994年7月場所 - - - 武蔵丸 曙休場により対戦なし。
1994年9月場所 - - - 貴乃花(6) 曙休場により対戦なし。
1994年11月場所 千秋楽 ●(13) ○(8) 貴乃花(7)
1995年1月場所 千秋楽 ●(13) ○(9) 貴乃花(8) 貴乃花新横綱
1995年3月場所 千秋楽 ○(14) ●(9) 曙(8) 千秋楽1敗同士相星決戦
1995年5月場所 千秋楽 ●(14) ○(10) 貴乃花(9) 千秋楽1敗同士相星決戦
1995年7月場所 千秋楽 ○(15) ●(10) 貴乃花(10)
1995年9月場所 千秋楽 ●(15) ○(11) 貴乃花(11)
1995年11月場所 - - - 若乃花(3代) 曙休場により対戦なし。
1996年1月場所 - - - 貴ノ浪 曙休場により対戦なし。
1996年3月場所 - - - 貴乃花(12) 曙休場により対戦なし。
1996年5月場所 千秋楽 ●(15) ○(12) 貴乃花(13)
1996年7月場所 千秋楽 ●(15) ○(13) 貴乃花(14) 千秋楽2敗同士相星決戦
1996年9月場所 千秋楽 ●(15) ○(14) 貴乃花(15)
1996年11月場所 - - - 武蔵丸 貴乃花休場により対戦なし。
1997年1月場所 千秋楽 ●(15) ○(15) 若乃花(3代)
1997年3月場所 千秋楽 ●(15) ○(16) 貴乃花(16) 千秋楽曙2敗、貴乃花3敗で対戦 貴乃花勝利。優勝決定戦も貴乃花が勝利。
1997年5月場所 千秋楽 ○(16) ●(16) 曙(9) 千秋楽曙2敗、貴乃花1敗で対戦 優勝決定戦も曙勝利。
1997年7月場所 千秋楽 ●(16) ○(17) 貴乃花(17) 千秋楽2敗同士相星決戦
1997年9月場所 千秋楽 ●(16) ○(18) 貴乃花(18)
1997年11月場所 - - - 貴ノ浪 曙休場により対戦なし。
1998年1月場所 - - - 武蔵丸 貴乃花休場により対戦なし。
1998年3月場所 - - - 若乃花(3代) 貴乃花休場により対戦なし。
1998年5月場所 千秋楽 ○(17) ●(18) 若乃花(3代)
1998年7月場所 千秋楽 ○(18) ●(18) 貴乃花(19)
1998年9月場所 千秋楽 ●(18) ○(19) 貴乃花(20)
1998年11月場所 - - - 琴錦 曙休場により対戦なし。
1999年1月場所 - - - 千代大海 曙休場により対戦なし。
1999年3月場所 - - - 武蔵丸 両者休場により対戦なし。
1999年5月場所 - - - 武蔵丸 貴乃花休場により対戦なし。
1999年7月場所 14日目 ○(19) ●(19) 出島
1999年9月場所 - - - 武蔵丸 両者休場により対戦なし。
1999年11月場所 - - - 武蔵丸 曙休場により対戦なし。
2000年1月場所 千秋楽 ●(19) ○(20) 武双山
2000年3月場所 千秋楽 ○(20) ●(20) 貴闘力
2000年5月場所 千秋楽 ●(20) ○(21) 魁皇
2000年7月場所 - - - 曙(10) 貴乃花休場により対戦なし。
2000年9月場所 - - - 武蔵丸 貴乃花休場により対戦なし。
2000年11月場所 14日目 ○(21) ●(21) 曙(11) 曙貴最後の対戦。
  • 1994年11月場所以前までの対戦成績は、曙の13勝8敗で、曙優勢であった(優勝は、曙7回、貴乃花7回)。
  • 1995年1月場所以降の両者横綱同士での対戦成績は、貴乃花の13勝8敗で、貴乃花優勢であった(優勝回数は、曙4回、貴乃花13回)。
    • 1995年1月場所~1997年11月場所に限れば、貴乃花の10勝3敗で、貴乃花優勢であった(優勝回数は、曙2回、貴乃花11回)。
    • 1998年1月場所~2000年11月場所に限れば、曙の5勝3敗で、曙優勢であった(優勝回数は、曙2回、貴乃花2回)。

大相撲成績

通算成績

  • 通算成績:654勝232敗181休 勝率.738
  • 幕内成績:566勝198敗181休 勝率.741
  • 横綱成績:432勝122敗166休 勝率.780
  • 幕内在位:63場所
  • 横綱在位:48場所
  • 大関在位:4場所
  • 三役在位:6場所(関脇3場所、小結3場所)
  • 連勝記録:16(1992年11月場所7日目~1993年1月場所7日目)
  • 年間最多勝:1993年、2000年(共に76勝14敗)
  • 連続6場所勝利:77勝(1992年11月場所~1993年9月場所)
  • 通算連続勝ち越し記録:18場所(1988年5月場所~1991年3月場所・初土俵から18場所連続勝越は史上最多記録)
  • 幕内連続勝ち越し記録:11場所(1992年9月場所~1994年5月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:10場所(1992年11月場所~1994年5月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:5場所(2000年3月場所~2000年11月場所)
各段優勝
  • 幕内最高優勝:11回
    • 同点3回
    • 次点11回
    • 連覇:3連覇(1993年7月場所~1993年11月場所)

三賞・金星

幕内での場所別成績

566勝 - 198敗 - 181休場
優勝11回、殊勲賞4回、敢闘賞2回、金星4個[注 1]
曙太郎
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1988年
(昭和63年)
x (前相撲) 東序ノ口19枚目
6–1 
東序二段97枚目
5–2 
東序二段52枚目
5–2 
西序二段15枚目
6–1 
1989年
(平成元年)
東三段目60枚目
5–2 
東三段目33枚目
6–1 
西幕下55枚目
6–1 
東幕下28枚目
5–2 
西幕下14枚目
5–2 
東幕下5枚目
5–2 
1990年
(平成2年)
東幕下2枚目
4–3 
西十両12枚目
8–7 
西十両10枚目
11–4 
東十両3枚目
11–4 
東前頭14枚目
9–6 
西前頭7枚目
9–6
1991年
(平成3年)
西前頭筆頭
8–7
東小結
8–7 
西関脇
7–8 
東前頭筆頭
8–7
西小結
7–8 
西前頭筆頭
8–7
1992年
(平成4年)
西小結
13–2
東関脇
8–7 
西関脇
13–2
東大関
休場
0–0–15[注 2]
東張出大関
9–6[注 3] 
西大関
14–1 
1993年
(平成5年)
東大関
13–2 
東横綱
10–5 
東横綱
13–2 
東横綱
13–2[注 4] 
東横綱
14–1 
東横綱
13–2[注 5] 
1994年
(平成6年)
東横綱
11–4 
東横綱
12–3[注 6] 
東横綱
10–2–3[注 7] 
東横綱
休場
0–0–15[注 8]
東横綱
休場
0–0–15[注 9]
東横綱
10–5 
1995年
(平成7年)
西横綱
12–3 
西横綱
14–1 
東横綱
13–2 
西横綱
11–4 
西横綱
12–3 
西横綱
7–3–5[注 10] 
1996年
(平成8年)
西横綱
0–3–12[注 11] 
西横綱
休場
0–0–15[注 12]
西横綱
10–5 
西横綱
12–3 
西横綱
10–5 
西横綱
11–4[注 13] 
1997年
(平成9年)
東横綱
12–3 
西横綱
12–3[注 14] 
西横綱
13–2[注 15] 
西横綱
12–3 
西横綱
9–6 
西横綱
休場
0–0–15[注 16]
1998年
(平成10年)
西横綱
10–5 
東横綱
13–2 
東横綱
10–5 
東横綱
11–4 
西横綱
10–5 
東横綱2
休場
0–0–15[注 17]
1999年
(平成11年)
東横綱2
休場
0–0–15[注 18]
東横綱2
休場
0–0–15[注 19]
東横綱2
11–4 
東横綱
13–2[注 20] 
東横綱
2–2–11[注 21] 
東横綱2
休場
0–0–15[注 22]
2000年
(平成12年)
西横綱2
11–4 
西横綱
12–3 
東横綱
13–2 
東横綱
13–2 
東横綱
13–2 
西横綱
14–1 
2001年
(平成13年)
東横綱
休場
0–0–15[注 23]

引退
––[注 24]
x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  1. ^ 旭富士2個、大乃国北勝海
  2. ^ 右足第5中足骨骨折により全休。
  3. ^ 大関角番
  4. ^ 貴ノ花(のち貴乃花)・若ノ花(のち3代・若乃花)と優勝決定戦
  5. ^ 武蔵丸と優勝決定戦
  6. ^ 貴ノ浪貴闘力と優勝決定戦
  7. ^ 左膝内側半月板損傷・右膝関節内障により、12日目より途中休場。
  8. ^ 両膝内側半月板断裂・左大腿骨軟骨損傷により全休。
  9. ^ 先場所についで、両膝内側半月板断裂・左大腿骨軟骨損傷により全休。
  10. ^ 左大腿外側四頭筋不全断裂により、10日目より途中休場。
  11. ^ 右膝関節内障及び水腫により、3日目より途中休場。
  12. ^ 先場所についで、右膝関節内障及び水腫により全休。
  13. ^ 3代若乃花・武蔵丸・貴ノ浪・魁皇と優勝決定戦
  14. ^ 貴乃花・武蔵丸・魁皇と優勝決定戦
  15. ^ 貴乃花と優勝決定戦
  16. ^ 左膝半月板及び左膝軟骨損傷により全休。
  17. ^ 腰椎分離症・変形性脊椎症により全休。
  18. ^ 先場所についで、腰椎椎間板ヘルニアにより全休。
  19. ^ 3場所連続で、腰椎椎間板ヘルニアにより全休。
  20. ^ 出島と優勝決定戦
  21. ^ 左大腿内転筋挫傷により、4日目より途中休場。
  22. ^ 先場所についで、左大腿内転筋挫傷により全休。
  23. ^ 両膝変形性膝関節症により全休。
  24. ^ 1月場所終了直後に引退を表明


主な力士との幕内対戦成績
力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
小錦 9 8 武双山 22 6 智ノ花 2 0
千代大海 7 4 霧島 10 3 安芸乃島 30 8
北勝海 2 2 逆鉾 4 0 大乃国 1 2
三杉里 16 6 隆三杉 3 0 湊富士 4 0
若翔洋 8 1 久島海 11 2 剣晃 8 1
水戸泉 11 0 寺尾 14 3 琴錦 30 11
出島 6 7 土佐ノ海 14 4 琴ノ若 23 2
栃東 9 4 旭富士 3 2 貴闘力 29 15
栃乃洋 7 3 旭豊 5 2 貴ノ浪 35 5
小城錦 8 1 北勝鬨 2 0 琴別府 6 0
蒼樹山 5 0 朝乃若 5 0 琴稲妻 4 1
琴龍 6 0 大善 4 1 大翔山 4 5
闘牙 4 0 追風海 2 0 和歌乃山 4 0
栃乃和歌 12 7 魁皇 25 6 貴乃花 21 21
豊ノ海 3 1 浪乃花 3 0 大翔鳳 7 1
栃乃花 2 0 琴富士 4 2 巴富士 4 0
舞の海 2 1 旭鷲山 7 1 玉春日 8 3
濱ノ嶋 3 0 肥後ノ海 4 1 千代天山 4 0
雅山 6 2 旭天鵬 1 0 若の里 1 1
武蔵丸 23 17 旭道山 8 4 若乃花 19 17

(太字は2012年1月場所終了現在、現役力士。)

エピソード

関脇時代までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ、点のない「」だったが、大関になって以降は点のある「」で書かれている。入門当時は「大海」(たいかい)と名乗り前相撲も取ったが、三段目に大魁(たいがい)という力士がおり、混乱を避けるため改名せざるを得なくなり、「曙」となった。大魁が別の四股名(鬼竜山)に改名した後の1990年3月場所に曙の弟が東関部屋に入門し、大海次郎を名乗ったが、わずか3場所でハワイに帰国した。

春場所への意気込みを問われた際に、よく『枕草子』の「春は曙」(春は曙が良い)と言う有名な文を引用した。

土俵上ではライバルだった貴乃花とはプライベートでは親友だった。貴乃花が引退する時には「これから必要になる」と自ら生地を選んだネクタイを贈っている。

来日した時から「雲の上の人」だったハワイ出身の先輩だった元大関・小錦に対しては、1993年11月場所13日目に、小錦が大関から関脇の地位への陥落が決定となってしまう取組の相手を務めた事が有る。結果この対戦は曙が完勝、小錦は5勝8敗と前9月場所(0勝2敗13休)に続き2場所連続負け越しにより大関転落となった。この取り組みについて、のちに曙本人は「正直言って休場したい程嫌だった。でも先輩に対して手加減するのは失礼だと思い、心を鬼にして全力で当たったが、余りに辛過ぎる恩返しだった」と自身の引退時に語っている。

嫌いな食べ物はゴボウ。来日して間もない頃に初めてゴボウを口にした際、独特の風味に驚いて飲み込むことができず、それ以来トラウマになってしまったという。『とんねるずのみなさんのおかげでした』にゲスト出演した際、当時のことを「悪戯で木の根っ子を食べさせられたと思っていた」と語っている。

K-1への転向

現役引退後は曙親方として東関部屋で後輩の指導をしていたが、東関親方との関係や将来設計に不安を抱き、2003年11月5日、日本相撲協会に退職願を提出し受理され、翌11月6日に記者会見を開き格闘技K-1参戦が発表された[2]

2003年12月31日、デビュー戦となった「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」(ナゴヤドーム)でボブ・サップと対戦、1ラウンドKO負けを喫した。うつ伏せになって倒れているシーンの視聴率裏番組紅白歌合戦を上回りテレビ史上初の快挙であった。

2004年3月27日、「K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA」(さいたまスーパーアリーナ)で武蔵と対戦、プッシングでスリップダウンした武蔵に対しレフェリーの制止を振り切り攻撃し続けたため反則をカウントされるなどして、判定負けを喫した。

2004年7月17日、「アジアGPトーナメント」(韓国)で中国の張慶軍(チャン・チンジュン)と対戦するも手数が出ず延長の末判定負け。

2004年8月15日、「K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGAS」(ラスベガス)で行われた世界最終予選でリック・ルーファスと対戦。プッシングの反則で減点を受け、0-3の判定負けを喫した。

2004年9月25日、「K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦」(日本武道館)でレミー・ボンヤスキーと対戦。2Rまで善戦するも、3Rに右ハイキックで失神KO負けを喫した。

2005年3月19日、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」(韓国)の準々決勝で角田信朗と対戦し、判定で悲願の初勝利を挙げた。しかし準決勝でチェ・ホンマンと対戦し、KO負けを喫した。

2005年7月29日、「K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII」でチェ・ホンマンと再戦したが1R2分52秒TKO負けした。プロデューサーの谷川貞治は試合後の消極的なコメントに激怒し、K-1、総合(HERO'S)における曙のオファーを再起の意欲がない限り今後一切しないと公言。K-1からの一時撤退を余儀なくされる。

「50kg減量しなければK-1への出場は認めず、追放する」と通告され、佐山聡のもとで特訓し約30kgの減量に成功したと言う触れ込みで、2006年7月30日、チェ・ホンマンと3度目の試合を行った。試合当日には体重が約10kgリバウンドしており、これまで1RでKOされていたホンマン相手に初めて2Rへ持ち込んだが、2R57秒KO負け。試合後、再起へ前向きな姿勢を見せるも、谷川プロデューサーは「K-1への参戦はこれが最後になる」とコメントした。

2008年8月9日、K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAIIの大会プロモーターを務めた[3]

キックボクシング 戦績
9 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
1 0 1 0 0 0
8 5 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× チェ・ホンマン 2R 0:57 KO(パンチ連打) K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 in SAPPORO
〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜
2006年7月30日
× チェ・ホンマン 1R 2:52 TKO(パンチ連打) FieLDS K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII 2005年7月29日
× チェ・ホンマン 1R 0:42 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL
【ASIA GP 準決勝】
2005年3月19日
角田信朗 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL
【ASIA GP 1回戦】
2005年3月19日
× レミー・ボンヤスキー 3R 0:33 KO(右ハイキック) K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦 2004年9月25日
× リック・ルーファス 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2004 in Las Vegas 2004年8月7日
× 張慶軍(チャン・チンジュン) 延長R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2004 in SEOUL
【ASIA GP 1回戦】
2004年7月17日
× 武蔵 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA 2004年3月27日
× ボブ・サップ 1R 2:58 KO K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!! 2003年12月31日

総合格闘技

2004年12月31日、「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」でホイス・グレイシーと初の総合格闘技ルールで対戦。ホイスとの体重差は実に138kgであったが、オモプラッタからリストロックを極められ、1Rでタップアウト負けを喫した。

2005年12月31日、「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」でボビー・オロゴンと総合格闘技ルールで対戦し、積極的なファイトで終始攻め続けたが、判定負け。

2006年5月3日、HERO'Sに参戦しドン・フライと対戦。2R3分50秒フロントチョークで一本負け。2006年12月31日、4度目の大晦日格闘技参戦となった「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」でジャイアント・シルバと総合格闘技ルールで対戦。1R1分2秒アームロックで一本負け。

総合格闘技 戦績
4 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 0 0 0 0 0 0
4 0 3 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× ジャイアント・シルバ 1R 1:02 アームロック K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!! 2006年12月31日
× ドン・フライ 2R 3:50 フロントチョーク HERO'S 2006 2006年5月3日
× ボビー・オロゴン 3R終了 判定0-3 K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!! 2005年12月31日
× ホイス・グレイシー 1R 2:13 リストロック K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! 2004年12月31日

プロレス

曙 太郎
プロフィール
リングネーム
ボノくん
ボノちゃん
グレート・ボノ
モンスター・ボノ
本名 曙 太郎
ニックネーム 第64代横綱
身長 203cm
体重 215kg
誕生日 (1969-05-08) 1969年5月8日(55歳)
出身地 ハワイ州オアフ島
所属 チーム・ヨコヅナ(FEG
スポーツ歴 バスケットボール
大相撲
トレーナー 仲山実
武藤敬司
長州力
デビュー 2005年8月4日
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全日本プロレス

  • 2005年8月9日、武藤をプロレスの師匠と仰ぎ、全日本プロレスに参戦することを発表。以後全日を「武藤部屋」と呼び始める。
  • 2005年9月2日、全日本プロレス次期シリーズにも全試合帯同、参戦することを武藤に直訴。
  • 2005年9月23日、シリーズ最終戦にて内館牧子(横綱審議委員会委員)が武藤からの依頼で曙の見極め役として厳しい目で試合を審査した。
  • 2005年10月2日、「WRESTLE-1 GP」にて三沢光晴とタッグで対戦(パートナーは曙がスコーピオ、三沢が小川良成)。
  • 2005年11月19日の全日本プロレス代々木大会で、悪の化身「グレート・ボノ」として登場することを予告し、グレート・ムタ対グレートルタの試合の途中にグレート・ボノ姿で登場、VOODOO-MURDERSに襲撃されていたムタを救出した。武藤と組んで参戦した同年12月からの「世界最強タッグ決定リーグ戦」で準優勝。
  • 2007年2月17日、武藤の呼掛けに応じ約1年振りに全日本プロレスへ参戦。大鷲透と組み、元WWEのスモー・リキシおよびジョニー・ダン(当初、リキシのパートナーは荒谷望誉であったが、試合直前に変更)と対戦した。試合は曙が64でダンを沈めて横綱の貫禄を示した。
  • 2008年11月3日、全日本プロレスに入団した浜亮太(元幕下・北勝嵐)のデビュー戦で対戦して勝利。11月16日、日本のプロレス団体として22年振りとなった全日本プロレス主催の台湾興行に参戦した。
  • 2010年7月4日、大阪府立体育会館 第一競技場にて太陽ケアとタッグを組み、諏訪魔&浜亮太組を破り、第57代世界タッグ王座の栄冠を勝ち取る。

ハッスル

  • 2007年8月18日、曙ソックリの「モンスター・ボノ」なるレスラーがハッスルに登場。12月31日のハッスル大晦日大会に参戦し、グレート・ムタらとコンビを組んだ(なお、曙は大晦日の格闘技イベントには出場せず)。
  • 2008年からはモンスター軍を離れる。「もうモンスターは名乗らないよ。モンスター・ボノやめた。今日からボノちゃんに名前、変えた。」と「ボノちゃん」に改名。3月17日にボノちゃんが川田利明とシングルで対戦した。
  • 2009年1月、ボノちゃんがハッスル軍主将に就任するとともに「ボノくん」に改名。イメージカラーを紫から緑へと変更。
  • 2009年7月26日、ボノくんは覚醒し、ついにグレート・ボノとなる。ちなみに2005年に登場したグレート・ボノとは別個体である。その後グレート・ムタを探しに魔界へと旅に出た。

ZERO1

DRAGON GATE

WWE

その他

  • 2006年1月8日、武藤部屋を「一時卒業」して他団体マットへの参戦を発表。4日の新日本プロレス東京ドーム大会で吉江豊、同月22日にはプロレスリング・ノア武道館大会で力皇猛と夫々タッグを組んだ。吉江とのタッグの際は、前回の試合(2005年12月31日のボビー戦)から間があまり空いてなく、しかも緊急参戦だったために、動きが鈍かったが、力皇とのタッグでは彼の好アシストに助けられ善戦した。
  • 2006年3月、両国でIWGPヘビー級王者(当時)ブロック・レスナーに挑戦するもDDTで敗北。
  • 2006年8月、新日横浜大会に、4代目タイガーマスクのタッグパートナーとしてボノ・タイガーなる巨漢の覆面レスラーが登場し、邪道外道組と対戦した。試合中にマスクを剥がされると曙に瓜二つの素顔が現れたが、ボノ・タイガー、タイガーマスクの両名とも曙とは赤の他人であり、佐山聡門下の元ガス会社社員と主張している。
  • 2007年8月に開催された新日「G1 CLIMAX」に初参戦。2勝2敗1分の成績に終わり、決勝進出はならなかった(天山と真壁に勝利)。

獲得タイトル

全日本プロレス

DRAGON GATE

ZERO1

その他

  • プロレス大賞 新人賞(2005年)
  • 最優秀タッグチーム賞(2009年・パートナー浜亮太)

得意技

アケボノスプラッシュ
相撲
突き、押し、右四つ、寄り
プロレス
M(マグニチュード)64
腰投げをしつつ倒れこみ、そのまま相手をプレスする技。64は64代目横綱に由来する。
ランニング・ボディ・プレス
アケボノボンバー
スクラップバスターと同型の技。WWEではサイドウォークスラムと呼ばれる技で、突っ込んできた相手を脇に抱えてから落とす。本人の体重が加わり、この技が決まるとリングが大きく揺れる。
日本バックドロップ
フラッシングエルボー
武藤部屋に入り、武藤とのタッグを通じて覚えた技。
ボノロック
うつ伏せになった相手の手足を折りたたんで動けないようにし、相手の尻に座り込む。ミラノコレクションA.T.のパラダイスロックをそのままパクった。
アケボノスプラッシュ
ボディ・プレス
リキボノスプラッシュ63(力皇猛との合体技)
曙の上に力皇が乗っかり、ボディ・プレスを行う。仕掛ける際に曙が拍手を打ち、土俵入りのような仕種をするのが特徴。63は2人が初土俵を踏んだ昭和63年に由来する。「こんなの食らって返せる奴なんていない」とまで言われた程の威力を誇る。
マーボー・ポリネシアン・クラッシュ
ボノちゃんが、敵を挟むように立つと強烈なのど輪を見舞い、同時にマー君ことマーク・ハントのローキックをさく裂させる。マー君は「この技を受けたら頭も内臓もマーボー豆腐になっちゃうよ」と語っている。

生活

  • 2009年、東京マラソン2009への参加を表明し[4]、周囲の不安視の中体重を25kg減量するなど準備を整えたが、開催4日前にドクターストップがかかり出場を断念した[5]

CM出演

著作

映画

テレビドラマ

その他

  • 右腕に「AKEBONO」のタトゥーを、左腕に「YOKOZUNA」のタトゥーを、足に綱のタトゥーを、右腕はハワイの民族模様をモチーフにしたデザインをアメリカの有名デザイナーTOKYO HIROが手がけた。
  • トランクスには雲竜型の土俵入りがデザインされていて、腰のゴムバンドの部分に妻と子供の名前の頭文字である「C」を4つ入れている。チームユニフォームもTOKYO HIROによってデザインされている。
  • 愛車はフランス車ルノー・アヴァンタイム。彼が日本で最初のオーナーである。
  • 1990年代前半、女性タレント相原勇と交際しており、結婚寸前まで行ったことがある。しかし1997年に破局。2000年には現夫人と結婚したが、後援会など支持団体が強く反対し、個人後援会は解散。以降資金難に苦しめられ、年寄名跡を取得できなかった。現在は3人の子供がいる。
  • 相撲をやっていたので前回り受身はできるが、後ろ受身は出来ないと告白したことがある。
  • 格闘技に関しては賛否両論があるが、プロレスについては師匠である武藤も「オレも天才と言われるが、本当の天才は曙」とコメントしている。
  • 普段は寡黙なイメージの曙であるが、全日参戦時にTARUから「札幌で負けたらマケボノに改名しろ!」と挑発された際に、「オイ、お前ら、うるさいんじゃい!札幌で叩きつぶしてやるから負けたら(TARUが率いるVMを)解散しろ!」と応戦している。
  • 曙はグレート・ボノ(モンスター・ボノ→ボノちゃん→ボノくん→グレート・ボノへと成長)に関しては別人だと語っている。
  • 1993年12月に東京ドームで行われたU2の東京公演にて、ボーカルのボノからのテレビ電話を受け大型スクリーンに登場したことがある。
  • ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!バナナマン設楽を倒せ!芸能界手押し相撲最強決定戦!!」で、ラストボスとして出場。その際相手の設楽統に「こんなでっかい人ONE PIECEでしか見たことない!!」と言われた。結果は圧勝。
  • 1993年日本プロスポーツ大賞・殊勲賞受賞
  • 元々は、ホテルマンになることを志していた。東関部屋に入門したのも、日本語を習得することが目的であり、入門当初は力士として身を立てていくことは全く考えていなかった。

脚注

関連項目

外部リンク

参考文献(相撲に関して)