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{{騎手
{{出典の明記|date=2013年4月|ソートキー=人1981年没}}
|画 = [[File:Ogata toukichi 1959.jpg|200px]]
'''尾形 藤吉'''(おがた とうきち、[[1892年]][[3月2日]] - [[1981年]][[9月27日]])は[[日本]]の[[騎手]]、[[調教師]]([[東京競馬倶楽部]]、[[日本競馬会]]、[[国営競馬]]、[[日本中央競馬会]]〈JRA〉)。
|説 = 1959年ごろ
|名 = 尾形藤吉<br />(尾形景造)
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|死 = {{死亡年月日と没年齢|1892|3|2|1981|9|23}}
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|団 = 日本競馬会<br />[[東京競馬倶楽部]]
|厩 = [[菅野小次郎]]・[[目黒競馬場|目黒]] (1908年-1911年) <br />調騎兼業・目黒-東京 (1911年-1936年)
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|通 = 373戦148勝
|調初 = [[1911年]]
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}}


'''尾形 藤吉'''(おがた とうきち、[[1892年]][[3月2日]] - [[1981年]][[9月27日]])は[[日本]]の[[騎手]]、[[調教師]]。
== 人物 ==
[[北海道]][[有珠郡]]伊達町(現・[[伊達市 (北海道)|伊達市]])出身。旧姓は大河原で、[[1909年]]に尾形姓。[[1911年]]から[[1946年]]まで「'''尾形景造'''」を名乗る。


1908年より騎手となり、1911年からは騎手兼調教師として初代[[ハクショウ]]、[[アスコツト|アスコット]]、1936年より専業の調教師となってからは11戦無敗の[[クリフジ]]([[JRA顕彰馬]])、[[八大競走]]3勝を挙げ、日本馬としてはじめてアメリカの[[重賞]]競走を制した[[ハクチカラ]](同前)など数多くの名馬を手掛けた。[[日本中央競馬会]](JRA)が発足した1954年以降だけでも年間最多勝を12回記録し、通算1670勝および[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]8勝をはじめとする旧[[八大競走]]39勝、[[重賞]]189勝(1932年以降)は史上最多勝利記録。さらに門下からはそれぞれ[[調教師・騎手顕彰者|JRA騎手顕彰者]]の[[保田隆芳]]、[[野平祐二]]、同[[調教師・騎手顕彰者|調教師顕彰者]]の[[松山吉三郎]]ら数々の人材を輩出した。その幾多の功績により日本競馬界において「'''大尾形'''」と称される<ref>『優駿』2009年6月号、p.121</ref>。1964年[[黄綬褒章]]、1966年[[旭日章|勲五等双光旭日章]]受章。2004年、調教師顕彰者に選出。同じくJRA調教師の[[尾形盛次]]は長男、[[尾形充弘]]は孫。
近代日本[[競馬]]における調教師の草分け的な存在で、「'''大尾形'''」と称された。調教師成績通算1670勝、JRA重賞189勝は(現在ある一厩舎あたりの馬房制限設定前の自由競争時代に達成された数字ではあるものの)JRA発足以後の最多勝利数である。


出生から1908年までは「大河原」姓であり、また1911年から1946年までは「'''尾形景造'''」と名乗っていたが、本項では統一して「藤吉」と記述する。
そのほか最多勝利調教師12回獲得、[[東京優駿|日本ダービー]]8勝、[[八大競走]]にすべて勝利し通算39勝するなど、日本競馬史に輝く実績を残した。騎手としても[[1918年]]から[[1935年]]まで[[帝室御賞典]]に13回優勝するなど活躍した。


== 経歴 ==
人材育成にも力を注ぎ、3人の顕彰者([[保田隆芳]]、[[野平祐二]]、[[松山吉三郎]])をはじめ、門下生から多数の優秀な人材を輩出した。現在も尾形の弟子筋にあたる多数の[[ホースマン]]が[[中央競馬]]において活躍している。息子の[[尾形盛次]]、孫の[[尾形充弘]]はJRAの調教師。
=== 生い立ち - 御料牧場へ ===
1892年、北海道有珠郡伊達町の開拓農家に、大河原栄次郎・キク夫妻の次男として生まれる<ref name="ogata">尾形(1967)pp.25-27</ref>。父方の大河原家、母方の尾形家は、双方とも[[亘理伊達氏|亘理伊達家]]の旧臣であり、主君・[[伊達邦成]]に従って当地に入植していた<ref name="ogata" />。家では2頭の農耕馬を飼い、栄次郎はその手入れのすべてを自ら行う馬好きな人物だった(藤吉が3歳の時に死去)<ref name="ogata" />。藤吉も幼少より馬に親しみ、[[尋常小学校]]に入学してからは夏になると裸馬の背に立って乗り回し、友人らに「立ち乗りの藤ちゃん」とあだ名された<ref name="ogata" />。


高等小学校4年次であった1907年9月、異父弟が川遊びの最中に溺死する不幸に見舞われ、さらに10月には伊達町を大火が襲い、藤吉を消沈させた<ref name="ogata2">尾形(1967)pp.30-31</ref>。しかし翌11月、官営の[[新冠御料牧場]]に勤めていた大叔父・阿部哲三が火事見舞いに訪れると、藤吉はこれを新局打開の機会と捉え、自らを御料牧場へ連れていくよう哲三に頼んだ。すると好感を抱いた哲三も母キクの説得に努め、これを認められて藤吉は哲三と共に御料牧場へ移り、馬術見習生となった<ref name="ogata2" />。牧場に入ってしばらくは雑用をこなしていたが、2カ月後に前担当者の過失から「[[豪サラ]]」の[[種牡馬]]ウヰリアムの乗り運動を新たに担当することになり、曲のある同馬とともに乗馬技術を磨いていった<ref name="ogata2">尾形(1967)pp.32-37</ref>。1908年には近隣の牧場から人馬を集めて行われる祭典競馬にも参加し、2戦1勝・2着1回の成績であったという<ref name="ogata2" />。
[[1964年]]、[[黄綬褒章]]を受賞。[[1966年]]、[[勲五等]][[双光旭日章]]を受賞。1981年、[[正六位]]叙位。[[2004年]]、[[調教師・騎手顕彰者|調教師顕彰者]]としてJRA[[JRA競馬博物館|殿堂]]入り。


== 来歴 ==
=== 職業騎手となる ===
[[ファイル:Sonoda_sanenori.jpg|thumb|150px|菅野を抱えていた園田実徳。目黒競馬場を管轄する日本競馬会<ref group="注">東京競馬倶楽部の前身で、後に発足する全国統一組織の日本競馬会とは異なる。</ref>々長も務めた。馬術家であった武彦七の兄で、のちに甥の武富三は藤吉の弟子となる。]]
[[1907年]]、[[新冠御料牧場]]にて[[馬術]]見習生となる。[[1908年]]、同牧場を訪れた[[菅野小次郎]]に見出され、弟子入り。[[1911年]]、多賀[[厩舎]]にて騎手となる。同年、調教管理者資格取得(当時は、騎手と調教師の区分が明確でなかった)。
1908年8月、東京で[[園田実徳]]お抱えの騎手兼調教師を務めていた菅野小次郎が、馬市参加のため北海道を訪れ、牧場での藤吉の乗馬姿に目を留め、自らの弟子とすることを哲三に提案する<ref name="ogata3">尾形(1967)pp.55-57</ref>。藤吉が同座したのち菅野があらためて入門を誘うと、藤吉は二つ返事で了承し、翌日には御料牧場を離れ上京の途に就いた<ref name="ogata3" />。[[目黒町 (東京府)|目黒]]の厩舎に到着してから正式に菅野に弟子入り<ref name="ogata4">尾形(1967)p.60</ref>。兄弟子には後に藤吉の弟子となる内藤潔の父・内藤清一がいた<ref name="ogata4" />。


2年弱さかのぼる1906年秋、東京競馬会・[[池上競馬場]]で行われた馬券発売を伴う開催が多額の収益を挙げ、これに触発された全国各地に競馬倶楽部が続々と設立された<ref name="baken">『日本競馬史 第2巻』pp.128-131</ref>。競馬は[[軍馬]]の改良や、そのために必要な馬産振興といった公益的な名目の下に行われ、それを担う競馬主催者の収入源として、[[馬券]]発売は「黙許」という形になっていた<ref name="baken" />。しかし営利目的による競馬開催の横行や、観客の射幸心の挑発、競馬場内における騒擾事件の頻発などといった風紀紊乱の弊害を問題視され、藤吉の上京からわずか2カ月後の1908年10月6日をもって馬券発売は全国的に禁止された<ref name="keibasi">『日本競馬史 第2巻』pp.210-216</ref>。これにより財源を失った各地の競馬主催者は大打撃を受け<ref name="keibasi" />、藤吉の先行きもにわかに暗いものとなった<ref name="ogata5">尾形(1967)pp.63-67</ref>。「もし競馬ができなくなったら、陸軍の調馬師にでもなるがいい」と、菅野が藤吉に陸軍馬術教範を与えたほどであった<ref name="ogata5" />。しかし政府からの補助金を頼りに競馬開催そのものは続けられることになり、12月13日の目黒秋季開催3日目、内国産呼馬競走で藤吉は騎手として初騎乗した<ref name="ogata6">尾形(1967)pp.72-74</ref>。4頭立ての全てが園田実徳の所有馬で、藤吉はホクエン、菅野がここまで13戦全勝、[[帝室御賞典]]にも優勝していたシノリに騎乗していた。藤吉は最後にシノリを追い込み、1着同着という結果で初騎乗初勝利を挙げた。なお、藤吉は「確かに頭ひとつだけ勝った」が「馬券はないし、2頭とも園田氏の所有馬だし、シノリの14戦目も1着という記録にしておきたかったのだろう」と述懐している<ref name="ogata6" />。
同年6月、[[目黒競馬場|目黒競馬]]で落馬事故を経験した際に[[姓名判断]]を受け、「尾形景造」に改名。以後、実名での登録が義務づけられる1946年までこの名を通名とした。


以後も補助金頼みの競馬開催が続くなかで藤吉も騎手として活動したが、観客の少ない寂しいものであったという<ref name="ogata7">尾形(1967)p.77</ref>。1908年秋季開催における全国7競馬会の一般入場者数は、1競馬場あたり1日平均20人という少なさだった<ref name="ogata5" />。なお、1909年8月、母方の尾形家の相続人が早世したことから、藤吉が代わって家名を継ぎ、大河原藤吉から尾形藤吉へと改姓した<ref name="ogata7" />。
[[1916年]]に厩舎開業。ただし[[1936年]]まで騎手業も続けた。


=== 多賀一との出会い - 独立 ===
[[1927年]][[5月1日]]、目黒競馬場において帝室御賞典を管理馬[[アストラル (競走馬)|アストラル]]([[東京優駿]](日本ダービー)優勝馬[[カブトヤマ]]・[[ガヴァナー]]の母)で優勝。
[[ファイル:Ogata toukichi at age 22 to 23.jpeg|thumb|180px|Hクラブ専属のころ(22~23歳)。阿部哲三の長男・昌三と。]]
[[1934年]][[4月22日]]、東京優駿大競走において、管理馬[[フレーモア]]、テーモア、デンコウで1着から3着までを独占するという偉業を達成した。[[1943年]]、歴史的名牝馬[[クリフジ]]で変則三冠(東京優駿競走・[[優駿牝馬|阪神優駿牝馬]]・[[菊花賞|京都農商省典4歳呼馬]])を制覇。
1911年元旦、藤吉は菅野のもとを離れ、[[明治天皇]]の御召馬車の御者として[[宮内省]][[主馬寮]]に勤める多賀一に専属騎手として抱えられることになった<ref name="ogata8">尾形(1967)pp.79-82</ref>。多賀は御者のかたわらで[[新橋]]に料亭を経営し、やはり料亭経営の次弟・平岡広高<ref group="注">[[花月園遊園地]]の創業者。</ref>、末弟・多賀半蔵と共同で「Hクラブ」という名義を用いて競走馬を所有していた<ref name="ogata8" />。Hクラブはそれまで美馬孝之を専属としていたが、美馬は当時[[チリ]]からの招聘を受けて離日する予定で、その後任として藤吉が求められたものだった<ref name="ogata8" />。多賀との出会いにより、藤吉は宮内省の運営になる[[下総御料牧場]]、および御料に匹敵する二大牧場として数々の名馬を輩出する[[小岩井農場]]との間に、優先的な繋がりを築いていくことになる<ref>『日本の騎手』p.104</ref>。


藤吉はHクラブが所有する[[祐天寺]]の厩舎に移り、5月末には目黒競馬場で移籍後最初の開催を迎えたが、新呼馬戦(新馬戦)での騎乗中に進路妨害を受けて馬もろとも転倒し、16日間意識不明となる事態に陥った<ref name="ogata8" />。覚醒後は快方に向かったが、多賀の妻が厄払いとして藤吉に改名を勧め、[[姓名判断]]から藤吉は「景造」を名乗ることとなった<ref name="ogata8" />。以後この名前は[[太平洋戦争]]後に戸籍名での登録が義務づけられるようになるまで使用された<ref name="ogata8" />。
その後[[太平洋戦争]]の戦況が悪化し競馬開催が一時停止されたため、[[盛岡市]]近郊の[[巣子]]に疎開。[[1946年]]の競馬再開と同時に復帰した。
[[ファイル:Kitasato gorou.jpg|thumb|left|150px|北郷五郎。藤吉は独立に際して北郷から助言を受け、以後も様々に北郷を頼り、家族ぐるみの付き合いがあった<ref name="ogata11" />。]]
以後騎手として復帰し、Hクラブの所有馬アスベル<ref group="注">1926年秋の[[帝室御賞典]](横浜)、1927年春の[[優勝内国産馬連合競走]](鳴尾)に優勝するアスベルとは別の馬。</ref>、トクホといった馬で成績を挙げた。特にトクホは当時最大級の牧場であった[[小岩井農場]]の生産馬で、藤吉が手掛けた最初の小岩井馬であった<ref>井上(1965)p.10</ref>。Hクラブの次弟・広高の所有馬だったが、同馬がデビューした1915年当時は広高の料亭「花月楼」が経営難に陥っていたことから売却も視野に入れられていた<ref name="ogata9">尾形(1967)pp.93-96</ref>。しかしトクホは当時の大競走である[[優勝内国産馬連合競走]](連合二哩)を制して賞金3000円を獲得し、花月楼の経営を救うことになった<ref name="ogata9" />。また、藤吉は同競走で1番人気だったミツイワヰに騎乗していた重鎮・[[北郷五郎]]とこれを機に親しく交わるようになり、のちにトクホを「名馬以上の馬で福の神」と称えている<ref name="ogata9" />。


翌1916年には多賀一の勧めで主馬寮に勤務する梶山甲造の娘・栄子と結婚<ref name="ogata9" />。約半年後、半蔵の死去や広高の多忙化でHクラブの運営が難しくなったことから、多賀一より独立を勧められる<ref name="ogata11">尾形(1967)pp.98-101</ref>。藤吉は北郷に相談した後この提案を受け容れ、祐天寺の厩舎を譲り受けて騎手兼調教師として独立した<ref name="ogata11" />。独立当初の管理頭数は5~6頭であった<ref name="ogata11" />。
*[[1951年]][[日本調教師会]]初代会長に就任。
*[[1958年]]管理馬である[[ハクチカラ]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に国産馬として初の海外遠征させる([[主戦騎手]]である[[保田隆芳]]も遠征)
*[[1959年]]には調教師の年間勝利数として中央競馬史上最多の121勝をマーク。
*[[1963年]]管理馬である[[メイズイ]]([[皐月賞]]・東京優駿)・[[グレートヨルカ]](菊花賞)によって、調教師として[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]を制す。
*[[1964年]][[6月3日]][[黄綬褒章]]を受章。
*[[1966年]]当時優勝馬が再出走できなかった時代の天皇賞において春(ハクズイコウ)秋(コレヒデ)とも管理馬が優勝する
*[[1966年]]勲五等双光旭日章を受章。
*[[1981年]][[9月27日]]死去。正六位に叙位される。死去した日に管理馬[[メジロティターン]](後の天皇賞馬、[[メジロマックイーン]]の父)が[[セントライト記念]]に優勝する。
*[[2004年]]中央競馬発足50周年にあたり功労者として顕彰(調教師顕彰者)され、殿堂入り。
*[[2005年]][[4月24日]]殿堂入りを記念し、東京競馬場にある競馬博物館にて胸像のレリーフが展示が開始される。


藤吉は独立後、目先の勝利よりもまず充実した厩舎の下地作りに力を注いだ<ref name="ogata12">尾形(1967)pp.102-104</ref>。1918年には最初の弟子となる美馬信次(Hクラブ専属だった孝之の弟)が入門<ref name="ogata12" />。同年藤吉はシンオーミフジに騎乗して最高級競走の[[帝室御賞典]](春季・[[阪神競馬倶楽部]])に初優勝<ref>井上(1964)p.31</ref>しているが、雨漏りする厩舎の屋根を葺き替えることができないほど財政面では苦しかった<ref name="ogata13">尾形(1967)pp.111-114</ref>。
== 代表管理馬 ==
八大競走優勝馬のみ(天皇賞は日本競馬会発足によって年2回施行となった[[1937年]]以降)


1923年7月1日、馬券発売に法的根拠を与える新制[[競馬法#旧競馬法|競馬法]]が施行され、15年ぶりに馬券発売が復活した<ref>尾形(1967)p.109</ref>。翌年春の目黒開催では前年秋の優勝内国産馬連合競走を制していたスターリングが競走中の事故により死亡する不幸に見舞われたが、それに代わってチヱリーダッチェス、アストラルの牝馬2頭が活躍し、前者は1924年春の帝室御賞典(横浜)に優勝、後者は1927年秋の内外国産古馬競走や帝室御賞典(横浜)に優勝した<ref name="ogata13" />。チヱリーダッチェスは[[抽せん馬]]、アストラルは購買額1350円という安馬だった<ref name="ogata13" /><ref group="注">当時の高額馬は3500円ほどの価格だった。(尾形1967、p.114)</ref>。大正末期から昭和初期にかけては、ほかにもフロラーカップ、クヰンフロラー、キングフロラー、アスベル、カイモン、クヰンホークといった馬で大競走を次々と制した<ref name="ogata14">尾形(1967)pp.121-123</ref>。また、この頃には[[大久保亀治]]、[[岩佐宗五郎]]、[[二本柳勇]]、[[古賀嘉蔵]]といった弟子達が騎手として成長し、活躍をはじめた<ref name="ogata14" />。
=== 皐月賞 ===
*[[1952年]][[クリノハナ]]
*[[1963年]][[メイズイ]]
*[[1969年]][[ワイルドモア]]


=== 初代ハクショウとアスコット ===
=== 東京優駿(日本ダービー) ===
[[ファイル:Japanese racehorse ascot.jpg|thumb|250px|アスコットと藤吉。轡は多賀一。]]
*[[1934年]][[フレーモア]]
同時期、藤吉は騎手として自ら「世紀の決戦<ref name="ogata15">尾形(1967)pp.125-128</ref>」と称する競走を経験した。[[ハクシヨウ (1924年生)|ハクショウ]]と臨んだ1930年新設の内国産馬競走([[中山四千米]])である。この競走は[[中山競馬倶楽部]]理事長・[[肥田金一郎]]が古馬(5歳以上馬)の総決算的な競走として考案したもので、ここまで17勝を挙げ引退レースとして臨んだ[[ナスノ]]とハクショウの一騎打ちとなった。当時の規定で2頭立ての競走は成立しないため、敗れた方が500円を払うという条件でゴーケツ(織田紋次郎騎手)に出走を要請し、3頭立てで行われた<ref name="inoue">井上(1964)p.20</ref>。この競走は新聞の社会面で取り上げられるほど注目を集め<ref name="inoue" />、当日の[[中山競馬場]]には当時としては競馬始まって以来(藤吉)という2万人が詰めかけた<ref name="ogata15" />。藤吉は追い込み得意の騎手であったが、この競走ではナスノを先に行かせると逃げきられるとの判断から一転して逃げを打ち、そのままゴールまで逃げきってナスノに3馬身差で優勝を果たした<ref name="ogata15" />。翌日の読売新聞には「ナスノが負けた」と観客たちが驚嘆する様子や、同馬に騎乗した岸三吉が涙したという模様が伝えられている<ref>井上(1964)p.146</ref>。
*[[1936年]][[トクマサ]]
*[[1943年]][[クリフジ]]
*[[1952年]][[クリノハナ]]
*[[1956年]][[ハクチカラ]]
*[[1961年]][[ハクシヨウ (1958年生)|ハクシヨウ]]
*[[1963年]][[メイズイ]]
*[[1977年]][[ラッキールーラ]]


また、1931年秋よりデビューした[[アスコツト|アスコット]]も藤吉の伝記に一項を割かれるなど特筆される1頭である。同馬は同年春に5連勝するなど当時の尾形厩舎の筆頭格であったワカクサの弟で、農林省賞典(阪神)、中山四千米、帝室御賞典(目黒)、[[目黒記念]]、[[横浜特別]]など17勝を挙げたが、性格の温順さ、操縦の容易さもあって競走馬引退後に[[東久邇宮稔彦王]]に乗馬として寄贈され、陸軍で訓練を受けたのちに騎兵大尉・[[西竹一]]と1936年の[[ベルリンオリンピック|ベルリン五輪]]に[[総合馬術]]競技の日本代表として出場した<ref name="ogata16">尾形(1967)pp.130-136</ref>。結果は50頭中の12位であったが、藤吉は「アスコットが数々の難関を切り抜けて野外騎乗でゴールに入ったという報告を聞いたときは、競馬に勝ったときよりうれしかった」と述べている<ref name="ogata16" />。
=== 菊花賞 ===
*[[1938年]][[テツモン]](初代優勝馬)
*[[1943年]][[クリフジ]]
*[[1953年]][[ハクリョウ]]
*[[1959年]][[ハククラマ]]
*[[1963年]][[グレートヨルカ]]


=== 桜花賞 ===
=== 騎手引退まで ===
[[ファイル:Tokumasa.jpg|thumb|250px|日本ダービーに優勝したトクマサの轡をとる藤吉。左は伊藤正四郎。]]
*[[1940年]][[タイレイ]]
1932年、目黒競馬場を管轄する[[東京競馬倶楽部]]が[[東京優駿|東京優駿大競走(日本ダービー)]]を創設。藤吉はその第1回競走に3頭の管理馬を送り込み、自身もオオツカヤマで騎手として出走した。当日は6番人気であった。レースはスタートから先頭を奪った[[ワカタカ]]がそのまま逃げきって初代ダービー馬となり、後方から追い込んだオオツカヤマは4馬身差の2着となった<ref>尾形(1967)p.140</ref>。翌年、目黒競馬場が[[府中市 (東京都)|府中市]]へ移転して新たに[[東京競馬場]]が竣工し、これに伴い厩舎も府中へ移った<ref>尾形(1967)pp.148-152</ref>。翌1934年、東京競馬場での初開催となった日本ダービーに藤吉は4頭を送る。本命視されていた[[中村一雄]]厩舎(阪神)の[[ミラクルユートピア]]が競走当日の怪我で出走を取り消し、尾形厩舎の[[フレーモア]](大久保亀治)、テーモア([[伊藤正四郎]])、デンコウ(二本柳勇)に人気が集まると<ref>『日本ダービー25年史』p.33</ref>、結果もこの3頭が1着から3着を占め、藤吉は第3回にしてダービー初優勝を果たした。翌年の第4回競走ではアカイシダケに騎乗して2着となり、これが騎手として最後のダービー出走となった。1936年には伊藤正四郎騎乗の[[トクマサ]]でダービー2勝目を挙げた。
*[[1944年]][[ヤマイワイ]]
*[[1949年]][[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドオター]]
*[[1953年]][[カンセイ]]
*[[1954年]][[ヤマイチ (競走馬)|ヤマイチ]]


同年、全国各地で独立運営されていた11の[[競馬倶楽部]]が[[日本競馬会]]として統合されるに当たり、調教師と騎手の職域を明確化する「調騎分離」が打ち出された。藤吉は新たに厩舎に入った内藤潔、[[松山吉三郎]]、[[保田隆芳]]、[[八木沢勝美]]といった多くの弟子が成長しつつあることに鑑み、11月23日の目黒記念でアカイシダケに騎乗して4着となったのを最後に騎手を引退し、以後調教師専業となった<ref>尾形(1967)pp.168-169</ref>。騎手成績は明確に集計されている範囲では373戦148勝。勝率は3割9分6厘、後年算出されるようになる[[連対率]](2着以内率)は6割超という高率であった<ref>『日本の騎手』p.63</ref>。騎手としての日本ダービー優勝はならなかったが、帝室御賞典11勝は最多勝利記録である。
=== 優駿牝馬(オークス) ===
*[[1938年]][[アステリモア]](初代優勝馬)
*[[1942年]][[ロツクステーツ]]
*[[1943年]][[クリフジ]]
*[[1954年]][[ヤマイチ (競走馬)|ヤマイチ]]
*[[1969年]][[シャダイターキン]]


=== 天皇賞 ===
=== 太平洋戦争終結まで ===
1938年、藤吉は[[テツモン]]で同年創設された第1回農林省賞典四歳呼馬(後の[[菊花賞]])を制覇。さらに[[アステリモア]]で第1回阪神優駿牝馬(後の[[優駿牝馬]]、オークス)も制した。翌1939年には中山四歳牝馬特別(後の[[桜花賞]])、横浜農林省賞典四歳呼馬(後の[[皐月賞]])が新設され、日本ダービーと合わせて日本における「[[中央競馬クラシック三冠|五大クラシック]]」が整備された。1940年には[[タイレイ]]で中山四歳牝馬特別に優勝。同年、Hクラブ時代以来の付き合いだった北郷五郎が死去し、藤吉はその後を継いで日本調教師騎手会の会長に就任した<ref name="ogata17">尾形(1967)pp.184-185</ref>。また、北郷の弟子であった[[田中康三]]と[[前田長吉]]のふたりを自身の厩舎に引き受けている<ref name="ogata17" />。
*[[1939年]]秋 [[テツモン]]
[[ファイル:1943_tokyo_yushun_winner_kurifuji.jpg||thumb|240px|日本ダービーに優勝したクリフジと前田長吉。轡は[[栗林友二]]。]]
*[[1941年]]秋 [[エステイツ]]
翌1941年には[[田中和一郎]]厩舎の[[セントライト]]が史上初のクラシック三冠を達成したが、同年末より[[太平洋戦争]]が勃発。日米開戦後もしばらく競馬は開催され、1943年、藤吉は牝馬[[クリフジ]]を擁してクラシック戦線に臨んだ。クリフジは前田長吉を背にデビューから連勝を重ね、3戦目の日本ダービーでは2着に6馬身差・レコードタイムで牝馬として2頭目の優勝を果たし、前田も20歳3カ月という史上最年少の[[ダービージョッキー]]となった。さらに秋には阪神優駿牝馬を10馬身差、京都農商省賞典四歳呼馬も大差で制し、翌1944年の引退まで11戦全勝という成績を残した。クリフジは後世まで史上最強牝馬とも評され、藤吉は「古今を通じて、これほど強い牝馬はいないという[[巴御前]]のような」と評した<ref name="ogata18">尾形(1967)p.189</ref>。また藤吉は前田についても「天才騎手といえるほどの少年<ref name="ogata18" />」と高く評価している。なお、前田は徴兵を受けて従軍後[[シベリア抑留]]の身となり、1946年に病気のため同地で没した。
*[[1950年]]秋 [[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドオター]]
*[[1951年]]秋 [[ハタカゼ]]
*[[1954年]]春 [[ハクリョウ]]
*[[1956年]]秋 [[ミツドファー]]
*[[1957年]]秋 [[ハクチカラ]]
*[[1960年]]春 [[クリペロ]]
*[[1963年]]春 [[コレヒサ]]
*[[1966年]]春 [[ハクズイコウ]]
*[[1966年]]秋 [[コレヒデ]]


1944年から競馬は「能力検定競走」として東京と京都のみの無観客開催となる<ref name="derby3" />。各馬主の所有馬はすべて日本競馬会が買い上げ、良質馬を「検定馬」として残し、調教師ひとりにつき10頭ずつ割り振られた<ref name="ogata19">尾形(1967)pp.192-196</ref>。春秋2回の開催で、尾形厩舎は日本ダービーでシゲハヤが2着という成績を残したが、やがて空襲が激しさを増して都会での競馬開催はできなくなり、競馬会の支所として北海道支所([[北海道]][[静内町]])、東北支所([[岩手県]][[滝沢村]])、関東支所([[栃木県]][[宇都宮市]])の3カ所が設置され、藤吉は弟子の八木沢勝美や田中康三らと東北支所に赴き、総勢70頭の検定馬をもって非公式の競馬開催が続けられた<ref name="derby3">『日本ダービー25年史』p.53</ref>。1945年8月14日には東北支所が検定競走中に空襲を受けたが<ref name="derby3" />、翌15日に終戦を迎えた。
=== 有馬記念 ===

*[[1957年]][[ハクチカラ]]
=== 戦後の競馬 ===
*[[1966年]][[コレヒデ]]
終戦後、先行きが不透明な中で藤吉は盛岡に留まっていたが、秋になり競馬再開の報があったことから東京に戻り、厩舎の再建を始めた<ref name="ogata19" />。戦後の競馬は1946年10月からの開催と決まり、競走馬については検定馬を抽籤で各馬主に再配布し、それらをさらに抽籤して各調教師に割り振ることになったが、藤吉に目立った馬は当たらず、再開第1回の競馬は牝馬オホヒカリが3勝を挙げたことと、新弟子で当時18歳の[[野平祐二]]がそのうち2勝を挙げたことが目立つ程度であった<ref name="ogata19" />。しかし1949年には[[ヤシマドオター]]が桜花賞を制して戦後のクラシック初勝利を挙げる。同馬は次走の日本ダービーで落馬事故に巻き込まれて重傷を負ったが、のちに快復し、翌1950年秋の天皇賞に優勝するなど活躍した。同年はほかに[[ハタカゼ]]が重賞3勝を挙げるなどし、年間では99勝を挙げて戦前の最高成績を上回った<ref>尾形(1967)p.204</ref>。1951年にはハタカゼが天皇賞(秋)を制覇、1952年にはオホヒカリの子・[[クリノハナ]]が皐月賞と日本ダービーの二冠を制し、藤吉は五大クラシック競走の完全制覇を達成した。

1953年には[[ハクリョウ]]が菊花賞に優勝。同馬は翌1954年に古馬(5歳以上馬)として確固とした存在に成長し、天皇賞(春)などを制し、同年より[[啓衆社]]がはじめた年度表彰において史上初の[[JRA賞|年度代表馬]]に選出された。また同年にはアメリカの[[ローレルパーク競馬場]]から国際競走[[ワシントンD.C.インターナショナル]]に日本馬として初めて招待を受けたが、巨体のため用意された飛行機では輸送が難しいことが分かり断念された<ref name="haku">『優駿』1998年12月号、p.110</ref>。しかし1956年から1957年にかけて日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念を制した[[ハクチカラ]]が1958年から改めてアメリカ遠征を行うことになり、保田隆芳を伴って渡米。保田とのコンビで臨んだ現地4戦では好成績を残せなかったが、現地騎手のレイ・ヨークが駆った渡米後11戦目のワシントンバースデーハンデキャップ([[:en:San Luis Obispo Handicap|英語版]])を逃げきって、日本馬として初めてアメリカの重賞競走を制した<ref name="haku" /><ref group="注">調教管理は現地の調教師ボブ・ウィラーに委任されており、日本人スタッフによる米重賞勝利は2005年の[[シーザリオ]]による[[アメリカンオークスステークス|アメリカンオークス]]制覇まで待つことになる。</ref>。また保田は現地で[[モンキー乗り]]を習得し帰国後に3年連続して最多勝利騎手となるなど好成績を挙げ、あぶみの長い「天神乗り」が定着していた日本でのモンキー乗り普及に大きく貢献した。
[[ファイル:Yasuda and ogata.jpg|250px|thumb|保田による1000勝達成の表彰式に付き添う(左端)。]]
1961年には2代目となる[[ハクシヨウ (1958年生)|ハクショウ]]がメジロオーとの「髪の毛一本」といわれた僅差を制して日本ダービーに優勝。1963年には尾形厩舎から出た[[メイズイ]]と[[グレートヨルカ]]の2頭が二強としてクラシックを戦った。春の二冠はメイズイが制し、セントライト以来2頭目のクラシック三冠確実といわれたが、三冠最終戦の菊花賞では騎乗した[[森安重勝]]の騎乗ミスもあって6着に沈み、代わってグレートヨルカが最後の一冠を制することになった。このとき藤吉は茫然自失で、グレートヨルカ騎乗の保田から声を掛けられるまで同馬の勝利に気付かなかったともいわれ<ref>藤野(1992)p.69</ref>、のちに森安の騎乗を「だらしないの一語に尽きる」と指弾している<ref>尾形(1967)p.249</ref>。また、同年は[[コレヒサ]]で天皇賞(春)も制しているほか、保田隆芳が史上初の通算1000勝という記録を達成した。

1966年には[[コレヒデ]]が天皇賞(秋)と有馬記念を制し、尾形厩舎から4頭目の年度代表馬となる。1969年には[[ワイルドモア]]、[[ミノル]]、[[ハクエイホウ]]、[[メジロアサマ]]の「尾形四天王」がクラシック路線を賑わせ、うちワイルドモアが皐月賞を制した<ref name="yushun200907">『優駿』2009年7月号、pp.121-123</ref>。同年にはシャダイターキンでオークスも制し、年間78勝の成績で自身12度目の年間最多勝を記録した<ref name="yushun200907" />。日本中央競馬会が発足した1954年から当年までの15年間、関東では一度も最多勝を譲らず、年間の史上最多勝記録である1959年の121勝を筆頭に、100勝越えは3度(1948~1953年の国営時代を含めると5度)に及んだ<ref name="yushun200907" />。

=== 斜陽期 - 死去 ===
[[ファイル:Mejiro_titan.jpg|thumb|240px|藤吉最後の重賞勝利を挙げたメジロティターン。]]
シャダイターキン以降、藤吉は八大競走制覇から遠ざかり、勝利数の面でも徐々に成績を落としていった。1973年秋の天皇賞では1番人気に推された[[ハクホオショウ]]が骨折で競走を中止し、斜陽をいっそう印象づけた<ref name="kishu3">『日本の騎手』pp.105-107</ref>。また、翌月にはハクホオショウの馬主で、戦後の尾形厩舎を支えた馬主のひとりである[[西博]]が死去<ref name="kishu3" />。同じころ藤吉自身も腰に怪我を負い、その経過が芳しくなく、息子の盛次や孫の充弘が厩舎管理を補佐した<ref name="kishu3" />。また、藤吉は弟子の保田や盛次の厩舎開業に際して自身の管理馬房を10ずつ割譲し、1975年からは競馬会が調教師1人当たりの管理馬房数削減策を打ち出したことから、さらに管理数を減らしていった<ref>『日本の騎手』p.96</ref>。そうした最中の1977年、藤吉は[[ラッキールーラ]]で自身8度目にして最後のダービー優勝を果たした。

1981年9月27日、89歳で死去<ref name="yushn200907">『優駿』2009年7月号、p.123</ref>。息を引き取ってから約15分後に行われた[[セントライト記念]]に[[メジロティターン]]が優勝したのが最後の重賞勝利となった。なお、一般に藤吉の通算成績は、日本中央競馬会が発足した1954年以降の成績をもって'''9390戦1670勝'''とされる<ref>{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/datafile/dendo/traner01.html |title=競馬の殿堂 尾形藤吉 |author= |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014年8月17日 |date=}}</ref>。これは2位の松山吉三郎より300勝以上多い史上最多記録であるが、全国統一された最初の競馬組織である日本競馬会が発足した1937年以降では、'''14103戦2776勝'''となる<ref>『優駿』2009年6-7月号掲載の成績表より集計。</ref>。死後、[[正六位]]に[[贈位|叙された]]<ref name="yushn200907" />。

2004年、日本中央競馬会50周年を記念してホースマンの殿堂にあたる調教師・騎手顕彰者制度が創設され、藤吉は弟子の松山吉三郎とともに調教師部門で選出された。騎手部門では保田隆芳と野平祐二の2名も同時選出された<ref>{{Cite web |url=http://web.archive.org/web/20040813191523/http://www.keibado.ne.jp/keibabook/040202/plaza_t.html |title=JRAが調教師、騎手を顕彰 |author= |publisher=競馬ブックコーナー |accessdate=2014年8月17日 |date=2004-2-2}}</ref>。

== 評価・特徴 ==
=== 騎乗の特徴 ===
[[ファイル:Itou seishirou.jpg|thumb|240px|「尾形直伝<ref>『優駿』1963年8月号、p.13</ref>」と評された伊藤正四郎の騎乗フォーム(ゼッケン4番)。]]
騎手としての藤吉は馬術仕込みの手綱捌きで馬を抑え、[[脚質#追い込み|追い込み戦法]]を得意としていた<ref>井上(1964)p.22</ref>。毎日新聞記者の高橋謙はその騎乗姿を評して「長いアブミで帆かけ舟のようなスタイルよろしく、ゆうゆうと馬群の後からいき、3コーナーにかかる頃からやや前傾姿勢になると強力な脚でもみ出しながら、両手綱を一本の棒のようにピンと張ってハミに合わせて追い出す絶妙の追い込み」と述べている<ref>『日本の名馬・名勝負物語』p.27</ref>。下半身を使って追うことが特徴であったようで、北郷門下の[[梶与三男]]も「普通は叩いたり、[[拍車]]を入れて追ってくるのだが、あの人は腰でもみ出してくる。達者な人だった」と評している<ref>『調教師の本II』p.40</ref>。

長あぶみの姿勢で追い込む姿は尾形一門に共通し、「尾形流」ともいわれた<ref name="kishu">『日本の騎手』pp.79-81</ref>。保田隆芳は「あぶみが長く、ハミあたりがやわらかく、しかも剛毅に乗る」ことが一門の特徴だったと述べている<ref name="yushun198711">『優駿』1987年11月号、p.55</ref>。その一方で、[[野平祐二]]は若手時代から独自に鐙の短いモンキー乗りを試みていたが、厩舎の伝統と異なるフォームにも藤吉からの叱言はなかったという<ref name="kishu" />。

=== 調教法 ===
[[ファイル:Estates 1941.jpg|thumb|left|240px|1940年代の厩舎地区の様子。]]
記者の[[井上康文]]が藤吉に「調教の秘訣」を尋ねた際、藤吉は「各人各様のやり方がある」「馬と相談しなければならない、馬の能力を知らなければならない」などと語ったのみで、井上が調教を観察したところでもメニューは適宜に変えられていた<ref>井上(1964)p.23</ref>。保田隆芳によると、彼が入門した1934年ごろには長距離を乗るイギリス式の調教が競馬界全体の主流で、尾形厩舎の場合、馬は外厩を出て東京競馬場まで10~15分ほど歩き、東京競馬場に入ってから30分ほど動かし、コース(1周2000メートル)に入ってからは速歩で1周、駈歩で2周半の計7000メートルが通常メニューであり、追い切りでもコース1周を追うことが普通だった<ref name="choukyoushi">『日本調教師会50年史』pp.135-138</ref>。これは1970年代半ばから普及していく短距離で済ませるアメリカ式の調教とは大きく異なるが、当時としては主流の調教法であった<ref name="choukyoushi" />。また、府中の尾形宅は高低差の大きな坂道の底にあり、藤吉は坂の上り下りが鍛錬になると見越してここで引き運動も行わせていた<ref name="choukyoushi" />。藤吉は太平洋戦争前後の時期、友人でもあった[[伊藤勝吉]]と「東の尾形、西の伊藤」と並び称されたが、この言葉は大勢力であることのほかに、調教の運動量の多さも表していたとされる<ref name="choukyoushi" />。

藤吉は1953年に公務として[[津軽義孝]]とアメリカまで馬の買い付けに赴き、現地の競馬を見聞したが、「馬の調教や騎乗については、日本もアメリカもそう変わりなく、参考になることはあまりなかった」との感想を残している<ref name="toukichi">尾形(1967)p.218</ref>。一方でスピード感に富んだアメリカ特有の競走内容については「見習う点がある」とし、軍馬改良の思想から始まり、耐久力を重視してきた日本の競馬も変化していくべきではないかとの提言も行っていた<ref name="toukichi" />。

なお、藤吉の調教の妙を物語る逸話として、次のようなものがある。1967年、当時開業2年目であった孫弟子の[[伊藤雄二]]が管理馬ハイドルを擁して日本ダービーへ臨むに当たり、関東での管理を藤吉に依頼した。しかし東上前に行った削蹄に狂いがあり、ハイドルの前脚は腫れ上がってしまっていた。これを見た藤吉は、装蹄師に適宜削蹄の指示を与えつつ1日も調教を休むことなく、ダービー当日までに腫れをすっかり引かせてしまった。日本ダービーでハイドルは23着と大敗したが、伊藤は大きく目を開かされたという<ref name="tsuruki">鶴木(2000)pp.189-190</ref>。また、このとき藤吉が自宅で伊藤に語って聴かせた「精神論と具体的方法を併せ持つ話」は、伊藤の競馬論の「根底のテキスト」ともなったという<ref name="tsuruki" />。なお、伊藤は2014年に松山吉三郎の子・[[松山康久]]とともに調教師顕彰者に選出された。

=== 馬選び ===
藤吉は馬を購買する際の要点として、まず血統を最重視したといい、馬体では「胸の張り、あばらの張りがよいのと、皮膚が薄いのをえらぶ。背中から腰うつりが良く、『名馬の尾だくさん』といわれるとおり、尾毛が多く、付け根の丈夫な馬がよい。膝下は骨太で、腱、球節(くるぶし)、繋(くるぶしと足の間)が丈夫なもの。蹄はあまり浅いのはよくない」と述べている<ref name="ogata2134">尾形(1967)pp.213-214</ref>。[[藤本冨良]]は藤吉の馬選びについて「見たところモサッとしたような、<small>''(中略)''</small>太めと細めの二つに分ければ、太めの馬を好んでいたようだ」としている<ref>藤本(1992)p.74</ref>。数々の大馬主に恵まれた藤吉であったが、安馬で好成績を挙げることを「馬を買うことで一番の妙味」とも述べており、初代ハクショウ、ヤマヤス、アスコット、トクマサ、クリフジ、タカハタ、[[スウヰイスー]]については「大穴中の大穴を当てたような気分だった」としている<ref name="ogata2134" />。

また、藤吉の馬選びに絡む逸話として次のようなものがある。1934年に小岩井農場で競り市が開かれた際、藤吉とは別に参加していた馬主の高橋錬逸が、「馬がよく分からないから」と、藤吉の目利きを見越して彼が最も高額を提示した馬にさらに競り掛けて落とすよう、調教師の[[布施季三]]に言い含めて競りに臨んだ。藤吉が「第15[[シアンモア]]」に熱を入れているのを見た高橋は、高額に渋る布施を励ましながら競り続け、ついに同馬を競り落とした<ref name="derby">『日本ダービー25年史』p.143</ref>。この「第15シアンモア」は[[ガヴアナー|ガヴァナー]]の競走名で<ref name="derby" />、翌1935年の日本ダービーに優勝した。

== 人物 ==
=== 人物評 ===
[[ファイル:Ogata toukichi 1929.jpg|thumb|200px|1929年、自邸にて。]]
徒弟制が色濃かった戦前・戦後の競馬界において、藤吉は極めて厳格だったことで知られる。同じく厳しさで聞こえた[[武田文吾]]でさえ、壮年期の藤吉を評して「本当におそろしい人でした。関東の鬼と思ったものです。ものすごい厳格な人で、ご自分にも厳しかった。足一本折れても、小指の一本ぐらいちぎれても、俺は痛いといわんぞという人でした。だから、挨拶するのもこわごわしたものです」と述べている<ref name="yushun197709">『優駿』1977年12月号、p.15</ref>。保田隆芳は「厳格で無口。馬に対しては誰も先に置かないほどの愛情と相馬眼の持ち主でした。先生の前ではあの[[大久保房松]]さんさえ、ステッキでなぐられた」と述懐している<ref name="yushun198711" />。人には厳しかった反面、馬に対しては折檻することを厳禁していた<ref>尾形(1967)p.124</ref>。娘の恵美子によれば「馬は神様に祀られたもので、世の中でいちばん正直な動物だ」と口癖のように言っていたといい、「馬をいじめるようなことは一度もなかった」という<ref>『優駿』1982年5月号、p.69</ref>。

往時の競馬界では、「この世界で本当に先生といえるのは、尾形藤吉ただひとり」ともいわれていた<ref name="yushun198711" />。松山吉三郎は、藤吉の頭には常に競馬人の地位向上があり、そのため礼節について特に厳しく注意したのだとしている<ref name="yushun19949">『優駿』1994年9月号、p.54</ref>。弟子に対しては周囲を観察し、馬ばかりではなく時事を知り、出来事について自分なりの意見を持つことを促し「人のことや世間のことが判らんのに馬のことが判るようにはならんぞ」としばしば説いていたという<ref name="yushun19949" />。松山は「先生がいなかったら、馬の社会はもっともっと遅れていた」と述べている<ref name="yushun19949" />。また、[[藤本冨良]]は「あの方は紳士でしたし、貫禄もあった。調教師としてあれだけの人望家というか、信頼のおける人物は、もう出てこないでしょう」と評している<ref>藤本(1992)p.195</ref>。

=== 私生活 ===
私生活では酒を非常に好んだ。45歳のときに健康を考え、酒と煙草を両天秤に掛けて煙草を断ち、以来「日本酒なら2升、洋酒なら1本」を適量として酒を飲み続けた<ref name="sake">『日本の騎手』pp.52-53</ref>。武田文吾によれば、厳格な藤吉も酒が入ると柔らかくなったといい、藤吉が飲んでいる間は弟子も一息つけたのではないか、と述べている<ref name="yushun197709" />。一方で弟子たちの思い出話では、酔いが回ると居並ぶ内弟子に堂々巡りの説諭を毎晩のようにしていたともいい、保田は藤吉の話が長いあまりに正座を続けた足が痺れ、這いずって部屋まで戻ったという思い出を語っている。しかしこのときの説諭は後々の糧として残ってもいるという<ref name="sake" />。


== 成績 ==
== 成績 ==
=== 騎手成績 ===
=== 騎手成績 ===
{| class="wikitable"
(資料で明らかになる限りにおいては)373戦148勝
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!騎乗数!!勝率!![[連対率]]
|-
!計
|style="text-align: right;"|148
|style="text-align: right;"|81
|style="text-align: right;"|52
|style="text-align: right;"|373
|style="text-align: right;"|.396
|style="text-align: right;"|.667
|}

==== 主な騎乗馬 ====
#全て尾形の管理馬。括弧内は優勝競走<ref group="注">日本中央競馬会発行『日本競馬史』第3巻の各競馬場記事に「主な競走」として扱われているもののみ記載する。</ref>。''斜体''は尾形以外の騎乗で優勝した競走。
#倶楽部時代は同一あるいは近似名の競走が全国に並立していたため、便宜上開催場名を競走名に冠して記述する。
*トクホ(1915年秋季:目黒[[優勝内国産馬連合競走|連合内国産優勝]])
*シンオーミフジ(1918年阪神帝室御賞典・春)
*クヰンマリー(1920年目黒帝室御賞典・秋)
*スターリング(1923年目黒連合内国産優勝・秋)
*アスベル(1927年阪神各内国産古馬連合・秋)
*チヱリーダッチェス(1924年横浜帝室御賞典・春)
*キングフロラー(1928年目黒帝室御賞典・春)
*[[ハクシヨウ (1924年生)|ハクショウ]](1928年阪神帝室御賞典・秋、阪神各内国産古馬連合・秋 1929年目黒各内国産古馬・秋 1930年東京各内国産古馬・秋、[[中山四千米|中山内国産馬競走]])
*アストラル(1927年[[各内国抽籤濠州産馬混合競走|内外国産古馬競走]]・秋)
*クヰンホーク(1928年東京連合二哩・秋 1929年目黒帝室御賞典・秋)
*ハクシュン(1929年京都各内国産牝馬連合・秋)
*サンシャイン(1929年''[[中山四歳馬特別|中山秋季特別]]'' 1930年京都各内国産牝馬連合・春)
*アスパイヤリング(1930年横浜帝室御賞典・秋)
*サンシャイン(1931年福島帝室御賞典)
*ワカクサ(1931年横浜帝室御賞典・秋)
*オオツカヤマ(1932年中山農林省賞典・春)
*ハクヨシ(1932年横浜帝室御賞典・秋、''横浜特別・秋'')
*[[アスコツト|アスコット]](1932年春季:阪神農林省賞典 1933年春季:東京帝室御賞典、中山四千米)
*ハクコウ(1932年秋季:[[中山四歳馬特別|中山秋季特別]] 1933年春季:東京農林省賞典、東京五歳馬特別、横浜帝室御賞典 秋季:中山秋季五歳馬特別)
*ワカミチ(1934年春季:東京五歳馬特別、東京農林省賞典、横浜呼馬五歳馬)
*デンコウ(1934年''東京農林省賞典・秋''、''阪神帝室御賞典・秋'' 1935年春季:中山四千米)
*アカイシダケ(1935年秋季 東京農林省賞典、横浜帝室御賞典 1936年春季:中山四千米)


=== 調教師成績 ===
=== 調教師成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align: right;"
通算成績9390戦1670勝(JRA発足以後)
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!騎乗数!!勝率!!連対率
|-
!平地
|1471||1168||1056||8406||.175||.314
|-
!障害
|198||178||149||932||.212||.403
|-
!計
|1669||1346||1205||9338||.179||.323
|}
''※1954年以降。''

==== 主な管理馬 ====
#騎手時代の主な騎乗馬として挙げた馬は割愛する。
#競走名'''太字'''は後の八大競走。
*ヤマヤス(1932年阪神農林省賞典・春、横浜帝室御賞典・春、目黒記念・秋)
*[[フレーモア]](1934年'''東京優駿大競走'''、東京帝室御賞典・秋、中山四歳馬特別)
*リョウゴク(1936年東京帝室御賞典・秋 1937年阪神記念・春)
*[[トクマサ]](1936年'''東京優駿大競走''' 1937年目黒記念・春、中山記念・秋)
*フェアモア(1937年中山四歳馬特別 1938年横浜四・五歳牝馬特別、目黒記念・秋)
*ガルモア(1937年阪神四歳牝馬・秋)
*リプルス(1937年東京五歳馬特別・秋)
*[[キンテキ]](1937年[[中山大障害|農林省賞典障害・秋]])
*トクタカ(1938年農林省賞典障害・春)
*[[テツモン]](1938年'''京都農林省賞典四歳呼馬''' 1939年'''帝室御賞典・秋''')
*アヅマダケ(1938年[[横浜特別|横浜特別・春]]、目黒記念・春)
*ガイカ(1938年[[阪神記念|阪神記念・秋]] 1939年阪神記念・春)
*シャインモア(1939年中山農林省賞典障害・秋)
*キョクジツ(1940年中山農林省賞典障害・春)
*[[タイレイ]](1940年'''中山四歳牝馬特別''')
*ゼンサ(1940年目黒記念・秋)
*[[エステイツ]](1941年中山記念・春、'''帝室御賞典・秋''')
*タカホマレ(1941年目黒記念・秋)
*ゼーアドラー(1941年中山農林省賞典障害・秋)
*ライオンカップ(1942年中山記念・春)
*[[ロックステーツ]](1942年'''阪神優駿牝馬''')
*ステーツ(1942年目黒記念・秋)
*クレタケ(1943年中山記念・春)
*[[クリフジ]](1943年'''東京優駿競走'''、'''阪神優駿牝馬'''、'''京都農商省賞典四歳呼馬''' 1944年横浜記念・春)
*ヤマイワイ(1944年'''中山四歳牝馬特別''')
*ブランドパプース(1948年中山記念)
*ヤシマドオター(1949年'''桜花賞'''、1950年'''天皇賞・秋'''、中山記念・秋)
*タビト(1949年目黒記念・秋)
*アヅマホマレ(1949年[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]])
*ブランドライト(中山大障害・秋)
*[[ハタカゼ]](1950年[[毎日王冠]]、[[カブトヤマ記念]] 1951年目黒記念・春、'''天皇賞・秋''' 1952年目黒記念・秋)
*クニハタ(1950年目黒記念・秋)
*[[イツセイ|イッセイ]](1951年[[安田記念|安田賞]]、[[カブトヤマ記念]])
*[[タカハタ]](1951年朝日杯3歳ステークス 1952年[[ダイヤモンドステークス]] 1953年目黒記念・春、[[日経賞|日本経済賞]])
*[[クリノハナ]](1952年'''[[皐月賞]]'''、'''東京優駿''')
*[[カンセイ (競走馬)|カンセイ]](1953年'''桜花賞''')
*[[スウヰイスー]](1953年安田賞)
*[[ハクリョウ]](1953年カブトヤマ記念、'''菊花賞''' 1954年[[東京新聞杯|東京杯]]、天皇賞・春、毎日王冠 1955年金杯、目黒記念・春)
*ガイセイ(1954年[[中山金杯|金杯]])
*クリチカラ(1954年目黒記念・春 1955年安田賞、日本経済賞 1956年金杯、[[京王杯スプリングカップ|スプリングハンデキャップ]])
*[[ヤマイチ (競走馬)|ヤマイチ]](1954年桜花賞、優駿牝馬)
*オーセイ(1954年カブトヤマ記念、[[クモハタ記念]])
*ブレッシング(1955年[[クイーンステークス]] 1958年[[中京記念|中京競馬開設5周年記念]]、スプリングハンデキャップ)
*タカハギ(1955年[[セントライト記念]])
*トウセイ(1955年[[府中牝馬ステークス|東京牝馬特別]])
*[[ハクチカラ]](1956年'''東京優駿'''、カブトヤマ記念 1957年目黒記念・春、東京杯、日本経済賞、毎日王冠、目黒記念・秋、'''天皇賞・秋'''、'''有馬記念''')
*ダイニミノル(1956年[[東京障害特別]]・春)
*ハクレイ(1956年中山大障害)
*[[ミッドファーム]](1956年'''天皇賞・秋''')
*ホマレモン(1957年金杯)
*ミツル(1957年東京牝馬特別 1958年中山記念、東京杯)
*[[クリペロ]](1959年スプリングハンデキャップ、目黒記念・春、東京杯、毎日王冠 1960年'''天皇賞・春''')
*メイタイ(1959年[[スプリングステークス]])
*[[ハククラマ]](1959年[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]]、セントライト記念、'''菊花賞''')
*ハタフォード(1959年東京牝馬特別)
*ビッグヨルカ(1960年[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞中山4歳ステークス]])
*ハローモア(1960年中山記念 1961年毎日王冠)
*ヤシマファースト(1960年オールカマー、目黒記念・秋 1961年[[アメリカジョッキークラブカップ]]、目黒記念・春)
*[[ハクシヨウ (1958年生)|ハクショウ]](1960年朝日杯3歳ステークス 1961年'''東京優駿''')
*クリバン(1961年東京牝馬特別)
*ゴウユウ(1962年[[東京記念 (中央競馬)|東京記念]])
*キタノホマレ(1962年中山アラブ障害特別)
*コレヒサ(1962年[[京都新聞杯|京都杯]] 1963年アメリカジョッキークラブカップ、'''天皇賞・春''')
*[[グレートヨルカ]](1962年朝日杯3歳ステークス 1963年東京記念、セントライト記念、'''菊花賞''' 1966年京王杯スプリングハンデキャップ)
*[[メイズイ]](1963年[[スプリングステークス]]、'''皐月賞'''、'''東京優駿'''、[[クモハタ記念]] 1964年[[スワンステークス]])
*[[トースト (競走馬)|トースト]](1964年金杯、中山記念、[[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンジョッキークラブカップ]]、毎日王冠)
*テツノオー(1964年[[中京記念]]、[[大阪杯]])
*フラワーウッド(1964年日本短波賞、クイーンステークス、オールカマー、東京牝馬特別 1965年牝馬特別)
*クリベイ(1964年クモハタ記念 1965年[[函館記念]])
*ソウリュウ(1965年京王杯オータムハンデキャップ)
*[[ハクズイコウ]](1966年アメリカジョッキークラブカップ、'''天皇賞・春''')
*[[コレヒデ]](1966年東京新聞杯、アルゼンチンジョッキークラブカップ、'''天皇賞・秋'''、'''有馬記念''' 1967年ダイヤモンドステークス)
*アドミラル(1966年中山大障害・春)
*アタックモア(1966年東京障害特別・春)
*リコウ(1967年[[ステイヤーズステークス]])
*メジロサンマン(1967年目黒記念・秋)
*[[フイニイ|フィニィ]](1967年[[京都記念|京都記念・秋]]、[[阪神大賞典]] 1969年[[京都大賞典|ハリウッドターフクラブ賞]])
*ニウオンワード(1968年アメリカジョッキークラブカップ、ステイヤーズステークス)
*ハクセンショウ(1968年[[福島記念]]、[[新潟記念]] 1969年[[中日新聞杯]]、[[金鯱賞]])
*フリートターフ(1968年東京障害特別・秋)
*[[ミノル]](1968年朝日杯3歳ステークス 1969年[[共同通信杯|東京4歳ステークス]] 1970年京王杯スプリングハンデキャップ)
*[[ワイルドモア]](1969年[[弥生賞]]、スプリングステークス、'''皐月賞''')
*シャンデリー(1969年[[フローラステークス|サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別]])
*[[シャダイターキン]](1969年'''優駿牝馬''')
*[[ハクエイホウ]](1969年日本短波賞、クモハタ記念)
*ヒガシライト(1970年日本短波賞、関屋記念)
*ヤシマライデン(1971年京成杯、東京4歳ステークス)
*[[ハクホオショウ]](1972年カブトヤマ記念 1973年安田記念、[[札幌記念]]、オールカマー)
*ハクコンゴウ(1972年東京障害特別・秋)
*ウエスタンダッシュ(1974年京成杯 1975年日刊スポーツ賞金杯)
*[[ラッキールーラ]](1977年弥生賞、'''東京優駿''')
*ヨシノリュウジン(1977年スプリングステークス)
*ラッキーウエスト(1978年新潟記念)
*ハザマファースト(1979年クイーンステークス)
*タケノハッピー(1980年クイーンステークス)
*[[メジロティターン]](1981年セントライト記念)


==== 受賞 ====
==== 受賞 ====
*年間最多勝利調教師 12回 (1955年 - 1960年、1962年、1964年 - 1966年、1968年、1969年)
*年間最多勝利調教師 12回 (1955年-1960年、1962年、1964年-1966年、1968年、1969年)
*優秀調教師賞等受賞回数 18
*優秀調教師賞1(1966年)
*調教技術賞3回(1964年、1965年、1967年)
*優秀調教師賞18回(1955年-1965年、1967年-1971年、1977年)


== 一門 ==
== 一門 ==
尾形一門は日本競馬界最大の勢力であり<ref>『日本の騎手』p.50</ref>、『日本調教師会50年史』に記載されている直弟子だけでも45名にのぼる<ref>『日本調教師会50年史』pp.204-205</ref>。

=== 主な門下生 ===
=== 主な門下生 ===
*[[大久保亀]]
*[[大久保亀]]
*[[保田隆芳]]
*[[保田隆芳]]
*[[前田長吉]]
*[[野平祐二]]
*[[野平祐二]]
*[[松山吉三郎]]
*[[松山吉三郎]]
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=== 一門の主な系譜 ===
=== 一門の主な系譜 ===
※『日本調教師会50年史』に尾形から連なる系図に記載されている者のみ記す。なお、この元となった表の作成に当たり、調教助手出身者に対してはアンケートによってそれぞれの師を定めたとしており<ref>『日本調教師会50年史』p.215</ref>、最初に所属した厩舎や長く所属した厩舎とは必ずしも一致しない。
途中から所属した者も含む。
;尾形藤吉
;尾形藤吉
:|[[美馬信次]]
:|[[美馬信次]]
:||[[増本勇]]
:|||[[増本豊]]
:||||[[小原義之]]
:||||[[鮫島一歩]]
:||||[[荻野要]]
:|||[[安達昭夫]]
:||[[武田作十郎]]
:||[[武田作十郎]]
:|||[[武邦彦]]
:||||[[武幸四郎]]
:|||[[古川平]]
:||||[[四位洋文]]
:||||[[今村康成]]
:|||[[河内洋]]
:|||[[河内洋]]
:||||[[小池隆生]]
:||||[[岩崎翼]]
:|||[[武豊]]
:|||[[武豊]]
:||[[梶与四松]]
:||[[清水久雄]]
:|[[大久保亀治]]
:|[[大久保亀治]]
:||[[吉永猛]]
:||[[大久保正陽]]
:||[[大久保正陽]]
:|||[[池添兼雄]]
:|||[[松田幸春]]
:|||[[大久保龍志]]
:|||[[大久保龍志]]
:||[[松田幸春]]
:|||[[宮徹]]
:||[[池添兼雄]]
:||||[[藤岡康太]]
:|岩佐宗五郎
:||前田禎
:|||[[相沢郁]]
:|古賀嘉蔵
:||山崎彰義
:|||[[岩戸孝樹]]
:|||[[国枝栄]]
:||||[[勢司和浩]]
:||[[池上昌弘]]
:|[[伊藤正四郎]]
:|[[伊藤正四郎]]
:||[[伊藤雄二]]
:||[[伊藤雄二]]
:|||[[藤岡健一]]
:||||[[城戸義政]]
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:||||[[安達昭夫]]
:|||[[笹田和秀]]
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:|||[[千田輝彦]]
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:||[[吉永正人]]
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:||[[中神輝一郎]]
:||[[中神輝一郎]]
:||[[沢峰次]]
:||[[松山康久]]
:||[[松山康久]]
:||[[竹原啓二]]
:||[[山内研二]]
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:|[[八木沢勝美]]
:||[[高橋裕 (競馬)|高橋裕]]
:||[[浜田光正]]
:|||[[石山繁]]
:|[[伊藤修司]]
:||[[寺井千万基]]
:||[[上野清章]]
:|[[保田隆芳]]
:|[[保田隆芳]]
:||[[池上昌弘]]
:|||[[谷中公一]]
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:||[[保田一隆]]
:||[[保田一隆]]
:|||[[菅原隆一]]
:|[[野平祐二]]
:|[[野平祐二]]
:||[[和田正道]]
:|||[[上原博之]]
:|||[[穂苅寿彦]]
:||[[藤沢和雄]]
:||[[藤沢和雄]]
:|||[[青木芳之]]
:|||[[橋本広喜]]
:|||[[橋本広喜]]
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:|||[[北村宏司]]
:|||[[北村宏司]]
:|||[[杉原誠人]]
:|[[森安重勝]]
:|[[森安弘昭]]
:||[[森安輝正]]
:||[[天間昭一]]
:||[[伊藤大士]]
:|[[工藤嘉見]]
:|[[工藤嘉見]]
:||[[南井克巳]]
:||[[南井克巳]]
:|||[[南井大志]]
:||[[佐々木晶三]]
:||[[矢作芳人]]
:|||[[小林慎一郎]]
:||[[菊沢隆仁]]
:||[[菊沢隆仁]]
:|[[伊藤修司]]
:||[[寺井千万基]]
:||[[松田国英]]
:|||[[角居勝彦]]
:|||[[友道康夫]]
:|[[森安弘昭]]
:||[[天間昭一]]
:|[[田中和夫 (競馬)|田中和夫]]
:||[[笹倉武久]]
:|||[[宗像徹]]
:||[[畠山重則]]
:|||[[小檜山悟]]
:|[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]
:|[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]
:||[[藤原辰雄]]
:||[[後藤浩輝]]
:||[[後藤浩輝]]
:|[[尾形盛次]]
:||[[小野寺祐太]]
:||[[尾形充弘]]
:|||[[柄崎将寿]]

== 親族 ==
[[ファイル:Family_of_tokichi_ogata_and_prince_higashikuni_aruhiko.jpg|250px|thumb|1934年正月、尾形邸に[[東久邇宮稔彦王]]を迎えて。右から2番目が藤吉、ひとり置き多賀一、ひとり置き盛次、[[三井末太郎]]、恵美子、東久邇宮、ふたり置き栄子。]]
長男の尾形盛次は当初競馬界とは違う職に就いていたが、藤吉の負担軽減のため尾形厩舎の調教助手となり<ref name="kishu3" />、やがて独立し調教師となった。藤吉の死後管理を引き継いだメジロティターンで1982年の天皇賞(秋)を制している。また、盛次の子・充弘もやはり藤吉の体調がすぐれなかった頃に一般企業から調教助手に転じた<ref name="kishu3" />。充弘は調教師として1990年代末にGI競走で4勝を挙げた[[グラスワンダー]]などを管理しているほか、2010年から2012年まで調教師会長を務めた。

妻の栄子は藤吉に代わり大厩舎の雑事をよく切り回し、賢夫人との呼び声が高かった<ref>『優駿』1982年5月号、p.65</ref>。井上康文は「尾形さんにとってまさに至宝<ref>『日本の騎手』p.94</ref>」という存在であったと評し、尾形も栄子の臨終の際に「私が今日までなれたのはお前のおかげだ」と謝したという<ref name="family">尾形(1967)pp.219-221</ref>。1955年に栄子が[[大腸癌]]で死去すると、娘の恵美子が家事を取り仕切り、栄子の弟である梶山和義が厩舎の事務を担った<ref name="family" />。恵美子の子である尾形重和は獣医師として[[社台ファーム]]に勤務した<ref>『日本の騎手』p.112</ref><ref group="注">出典では「社台牧場」となっているが、日本中央競馬会の広報誌『優駿』では社台ファームの獣医師として度々コメントを出している。社台牧場は社台ファームとは別に運営されている牧場。</ref>。

また、母方の曾祖父の阿部安貞から連なる遠縁に、東京競馬場々長を務めた阿部安之や[[メルボルンオリンピック日本選手団]]の馬術コーチを務めた瀬理町秀雄がいる<ref>井上(1964)p.14</ref>。

== 出典 ==
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|2}}


== 著書 ==
== 参考文献 ==
*競馬ひとすじ-私と馬の60年史』([[徳間書店]]
*日本中央競馬会編纂室編『日本ダービー25年史』(日本中央競馬会、1959年
*井上康文『尾形藤吉』(大日本競馬図書出版会、1964年)
*尾形藤吉『競馬ひとすじ - 私と馬の60年史』([[徳間書店]]、1967年)
*日本中央競馬会(編)『日本競馬史 - 第2巻 明治・大正時代』(日本中央競馬会、1967年)
*[[中央競馬ピーアール・センター]]編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
**高橋謙「典型的な長距離馬として大成 - ハクショウ」
*中央競馬ピーアールセンター編『日本の騎手』(中央競馬ピーアール・センター、1981年)
**[[本田靖春]]「にっぽん競馬人脈 - 厩舎を支えた尾形の背骨」
*中央競馬ピーアール・センター編『名馬づくり60年 - 藤本冨良・わが競馬人生』(中央競馬ピーアール・センター、1991年)
*木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
*鶴木遵『調教師伊藤雄二 - ウソのないニッポン競馬 』(ベストセラーズ、2000年)ISBN 978-4584185452
*日本調教師会50年史編纂委員会(編)『日本調教師会50年史』(日本調教師会、2002年)
*『優駿』1977年9月号(日本中央競馬会)
**「座談会 育てる」
*『優駿』1982年5月号
**「ターキーのべらんめえ対談 故尾形藤吉調教師の長女 尾形恵美子さん」
*『優駿』1994年9月号(日本中央競馬会)
**吉川良「元調教師松山吉三郎さん『我が競馬人生に悔いなし』」
*『優駿』2009年6月号・7月号(日本中央競馬会)
**江面弘也「名調教師列伝 尾形藤吉(前編・後編)」


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2014年8月29日 (金) 14:34時点における版

尾形藤吉
(尾形景造)
1959年ごろ
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道有珠郡伊達町
生年月日 1892年3月2日
死没 (1981-09-23) 1981年9月23日(89歳没)
騎手情報
所属団体 日本競馬会
東京競馬倶楽部
所属厩舎 菅野小次郎目黒 (1908年-1911年)
調騎兼業・目黒-東京 (1911年-1936年)
初免許年 1908年
免許区分 平地速歩
騎手引退日 1936年
通算勝利 373戦148勝
調教師情報
初免許年 1911年
調教師引退日 1981年9月23日(死亡)
重賞勝利 189勝(1932年以降)
G1級勝利 39勝(八大競走)
通算勝利 9390戦1670勝(1954年以降)
経歴
所属 目黒競馬場(1908年-1933年)
東京競馬場(1933年-1978年)
美浦T.C. (1978年-1981年)
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尾形 藤吉(おがた とうきち、1892年3月2日 - 1981年9月27日)は日本騎手調教師

1908年より騎手となり、1911年からは騎手兼調教師として初代ハクショウアスコット、1936年より専業の調教師となってからは11戦無敗のクリフジJRA顕彰馬)、八大競走3勝を挙げ、日本馬としてはじめてアメリカの重賞競走を制したハクチカラ(同前)など数多くの名馬を手掛けた。日本中央競馬会(JRA)が発足した1954年以降だけでも年間最多勝を12回記録し、通算1670勝および東京優駿(日本ダービー)8勝をはじめとする旧八大競走39勝、重賞189勝(1932年以降)は史上最多勝利記録。さらに門下からはそれぞれJRA騎手顕彰者保田隆芳野平祐二、同調教師顕彰者松山吉三郎ら数々の人材を輩出した。その幾多の功績により日本競馬界において「大尾形」と称される[1]。1964年黄綬褒章、1966年勲五等双光旭日章受章。2004年、調教師顕彰者に選出。同じくJRA調教師の尾形盛次は長男、尾形充弘は孫。

出生から1908年までは「大河原」姓であり、また1911年から1946年までは「尾形景造」と名乗っていたが、本項では統一して「藤吉」と記述する。

経歴

生い立ち - 御料牧場へ

1892年、北海道有珠郡伊達町の開拓農家に、大河原栄次郎・キク夫妻の次男として生まれる[2]。父方の大河原家、母方の尾形家は、双方とも亘理伊達家の旧臣であり、主君・伊達邦成に従って当地に入植していた[2]。家では2頭の農耕馬を飼い、栄次郎はその手入れのすべてを自ら行う馬好きな人物だった(藤吉が3歳の時に死去)[2]。藤吉も幼少より馬に親しみ、尋常小学校に入学してからは夏になると裸馬の背に立って乗り回し、友人らに「立ち乗りの藤ちゃん」とあだ名された[2]

高等小学校4年次であった1907年9月、異父弟が川遊びの最中に溺死する不幸に見舞われ、さらに10月には伊達町を大火が襲い、藤吉を消沈させた[3]。しかし翌11月、官営の新冠御料牧場に勤めていた大叔父・阿部哲三が火事見舞いに訪れると、藤吉はこれを新局打開の機会と捉え、自らを御料牧場へ連れていくよう哲三に頼んだ。すると好感を抱いた哲三も母キクの説得に努め、これを認められて藤吉は哲三と共に御料牧場へ移り、馬術見習生となった[3]。牧場に入ってしばらくは雑用をこなしていたが、2カ月後に前担当者の過失から「豪サラ」の種牡馬ウヰリアムの乗り運動を新たに担当することになり、曲のある同馬とともに乗馬技術を磨いていった[3]。1908年には近隣の牧場から人馬を集めて行われる祭典競馬にも参加し、2戦1勝・2着1回の成績であったという[3]

職業騎手となる

菅野を抱えていた園田実徳。目黒競馬場を管轄する日本競馬会[注 1]々長も務めた。馬術家であった武彦七の兄で、のちに甥の武富三は藤吉の弟子となる。

1908年8月、東京で園田実徳お抱えの騎手兼調教師を務めていた菅野小次郎が、馬市参加のため北海道を訪れ、牧場での藤吉の乗馬姿に目を留め、自らの弟子とすることを哲三に提案する[4]。藤吉が同座したのち菅野があらためて入門を誘うと、藤吉は二つ返事で了承し、翌日には御料牧場を離れ上京の途に就いた[4]目黒の厩舎に到着してから正式に菅野に弟子入り[5]。兄弟子には後に藤吉の弟子となる内藤潔の父・内藤清一がいた[5]

2年弱さかのぼる1906年秋、東京競馬会・池上競馬場で行われた馬券発売を伴う開催が多額の収益を挙げ、これに触発された全国各地に競馬倶楽部が続々と設立された[6]。競馬は軍馬の改良や、そのために必要な馬産振興といった公益的な名目の下に行われ、それを担う競馬主催者の収入源として、馬券発売は「黙許」という形になっていた[6]。しかし営利目的による競馬開催の横行や、観客の射幸心の挑発、競馬場内における騒擾事件の頻発などといった風紀紊乱の弊害を問題視され、藤吉の上京からわずか2カ月後の1908年10月6日をもって馬券発売は全国的に禁止された[7]。これにより財源を失った各地の競馬主催者は大打撃を受け[7]、藤吉の先行きもにわかに暗いものとなった[8]。「もし競馬ができなくなったら、陸軍の調馬師にでもなるがいい」と、菅野が藤吉に陸軍馬術教範を与えたほどであった[8]。しかし政府からの補助金を頼りに競馬開催そのものは続けられることになり、12月13日の目黒秋季開催3日目、内国産呼馬競走で藤吉は騎手として初騎乗した[9]。4頭立ての全てが園田実徳の所有馬で、藤吉はホクエン、菅野がここまで13戦全勝、帝室御賞典にも優勝していたシノリに騎乗していた。藤吉は最後にシノリを追い込み、1着同着という結果で初騎乗初勝利を挙げた。なお、藤吉は「確かに頭ひとつだけ勝った」が「馬券はないし、2頭とも園田氏の所有馬だし、シノリの14戦目も1着という記録にしておきたかったのだろう」と述懐している[9]

以後も補助金頼みの競馬開催が続くなかで藤吉も騎手として活動したが、観客の少ない寂しいものであったという[10]。1908年秋季開催における全国7競馬会の一般入場者数は、1競馬場あたり1日平均20人という少なさだった[8]。なお、1909年8月、母方の尾形家の相続人が早世したことから、藤吉が代わって家名を継ぎ、大河原藤吉から尾形藤吉へと改姓した[10]

多賀一との出会い - 独立

Hクラブ専属のころ(22~23歳)。阿部哲三の長男・昌三と。

1911年元旦、藤吉は菅野のもとを離れ、明治天皇の御召馬車の御者として宮内省主馬寮に勤める多賀一に専属騎手として抱えられることになった[11]。多賀は御者のかたわらで新橋に料亭を経営し、やはり料亭経営の次弟・平岡広高[注 2]、末弟・多賀半蔵と共同で「Hクラブ」という名義を用いて競走馬を所有していた[11]。Hクラブはそれまで美馬孝之を専属としていたが、美馬は当時チリからの招聘を受けて離日する予定で、その後任として藤吉が求められたものだった[11]。多賀との出会いにより、藤吉は宮内省の運営になる下総御料牧場、および御料に匹敵する二大牧場として数々の名馬を輩出する小岩井農場との間に、優先的な繋がりを築いていくことになる[12]

藤吉はHクラブが所有する祐天寺の厩舎に移り、5月末には目黒競馬場で移籍後最初の開催を迎えたが、新呼馬戦(新馬戦)での騎乗中に進路妨害を受けて馬もろとも転倒し、16日間意識不明となる事態に陥った[11]。覚醒後は快方に向かったが、多賀の妻が厄払いとして藤吉に改名を勧め、姓名判断から藤吉は「景造」を名乗ることとなった[11]。以後この名前は太平洋戦争後に戸籍名での登録が義務づけられるようになるまで使用された[11]

北郷五郎。藤吉は独立に際して北郷から助言を受け、以後も様々に北郷を頼り、家族ぐるみの付き合いがあった[13]

以後騎手として復帰し、Hクラブの所有馬アスベル[注 3]、トクホといった馬で成績を挙げた。特にトクホは当時最大級の牧場であった小岩井農場の生産馬で、藤吉が手掛けた最初の小岩井馬であった[14]。Hクラブの次弟・広高の所有馬だったが、同馬がデビューした1915年当時は広高の料亭「花月楼」が経営難に陥っていたことから売却も視野に入れられていた[15]。しかしトクホは当時の大競走である優勝内国産馬連合競走(連合二哩)を制して賞金3000円を獲得し、花月楼の経営を救うことになった[15]。また、藤吉は同競走で1番人気だったミツイワヰに騎乗していた重鎮・北郷五郎とこれを機に親しく交わるようになり、のちにトクホを「名馬以上の馬で福の神」と称えている[15]

翌1916年には多賀一の勧めで主馬寮に勤務する梶山甲造の娘・栄子と結婚[15]。約半年後、半蔵の死去や広高の多忙化でHクラブの運営が難しくなったことから、多賀一より独立を勧められる[13]。藤吉は北郷に相談した後この提案を受け容れ、祐天寺の厩舎を譲り受けて騎手兼調教師として独立した[13]。独立当初の管理頭数は5~6頭であった[13]

藤吉は独立後、目先の勝利よりもまず充実した厩舎の下地作りに力を注いだ[16]。1918年には最初の弟子となる美馬信次(Hクラブ専属だった孝之の弟)が入門[16]。同年藤吉はシンオーミフジに騎乗して最高級競走の帝室御賞典(春季・阪神競馬倶楽部)に初優勝[17]しているが、雨漏りする厩舎の屋根を葺き替えることができないほど財政面では苦しかった[18]

1923年7月1日、馬券発売に法的根拠を与える新制競馬法が施行され、15年ぶりに馬券発売が復活した[19]。翌年春の目黒開催では前年秋の優勝内国産馬連合競走を制していたスターリングが競走中の事故により死亡する不幸に見舞われたが、それに代わってチヱリーダッチェス、アストラルの牝馬2頭が活躍し、前者は1924年春の帝室御賞典(横浜)に優勝、後者は1927年秋の内外国産古馬競走や帝室御賞典(横浜)に優勝した[18]。チヱリーダッチェスは抽せん馬、アストラルは購買額1350円という安馬だった[18][注 4]。大正末期から昭和初期にかけては、ほかにもフロラーカップ、クヰンフロラー、キングフロラー、アスベル、カイモン、クヰンホークといった馬で大競走を次々と制した[20]。また、この頃には大久保亀治岩佐宗五郎二本柳勇古賀嘉蔵といった弟子達が騎手として成長し、活躍をはじめた[20]

初代ハクショウとアスコット

アスコットと藤吉。轡は多賀一。

同時期、藤吉は騎手として自ら「世紀の決戦[21]」と称する競走を経験した。ハクショウと臨んだ1930年新設の内国産馬競走(中山四千米)である。この競走は中山競馬倶楽部理事長・肥田金一郎が古馬(5歳以上馬)の総決算的な競走として考案したもので、ここまで17勝を挙げ引退レースとして臨んだナスノとハクショウの一騎打ちとなった。当時の規定で2頭立ての競走は成立しないため、敗れた方が500円を払うという条件でゴーケツ(織田紋次郎騎手)に出走を要請し、3頭立てで行われた[22]。この競走は新聞の社会面で取り上げられるほど注目を集め[22]、当日の中山競馬場には当時としては競馬始まって以来(藤吉)という2万人が詰めかけた[21]。藤吉は追い込み得意の騎手であったが、この競走ではナスノを先に行かせると逃げきられるとの判断から一転して逃げを打ち、そのままゴールまで逃げきってナスノに3馬身差で優勝を果たした[21]。翌日の読売新聞には「ナスノが負けた」と観客たちが驚嘆する様子や、同馬に騎乗した岸三吉が涙したという模様が伝えられている[23]

また、1931年秋よりデビューしたアスコットも藤吉の伝記に一項を割かれるなど特筆される1頭である。同馬は同年春に5連勝するなど当時の尾形厩舎の筆頭格であったワカクサの弟で、農林省賞典(阪神)、中山四千米、帝室御賞典(目黒)、目黒記念横浜特別など17勝を挙げたが、性格の温順さ、操縦の容易さもあって競走馬引退後に東久邇宮稔彦王に乗馬として寄贈され、陸軍で訓練を受けたのちに騎兵大尉・西竹一と1936年のベルリン五輪総合馬術競技の日本代表として出場した[24]。結果は50頭中の12位であったが、藤吉は「アスコットが数々の難関を切り抜けて野外騎乗でゴールに入ったという報告を聞いたときは、競馬に勝ったときよりうれしかった」と述べている[24]

騎手引退まで

日本ダービーに優勝したトクマサの轡をとる藤吉。左は伊藤正四郎。

1932年、目黒競馬場を管轄する東京競馬倶楽部東京優駿大競走(日本ダービー)を創設。藤吉はその第1回競走に3頭の管理馬を送り込み、自身もオオツカヤマで騎手として出走した。当日は6番人気であった。レースはスタートから先頭を奪ったワカタカがそのまま逃げきって初代ダービー馬となり、後方から追い込んだオオツカヤマは4馬身差の2着となった[25]。翌年、目黒競馬場が府中市へ移転して新たに東京競馬場が竣工し、これに伴い厩舎も府中へ移った[26]。翌1934年、東京競馬場での初開催となった日本ダービーに藤吉は4頭を送る。本命視されていた中村一雄厩舎(阪神)のミラクルユートピアが競走当日の怪我で出走を取り消し、尾形厩舎のフレーモア(大久保亀治)、テーモア(伊藤正四郎)、デンコウ(二本柳勇)に人気が集まると[27]、結果もこの3頭が1着から3着を占め、藤吉は第3回にしてダービー初優勝を果たした。翌年の第4回競走ではアカイシダケに騎乗して2着となり、これが騎手として最後のダービー出走となった。1936年には伊藤正四郎騎乗のトクマサでダービー2勝目を挙げた。

同年、全国各地で独立運営されていた11の競馬倶楽部日本競馬会として統合されるに当たり、調教師と騎手の職域を明確化する「調騎分離」が打ち出された。藤吉は新たに厩舎に入った内藤潔、松山吉三郎保田隆芳八木沢勝美といった多くの弟子が成長しつつあることに鑑み、11月23日の目黒記念でアカイシダケに騎乗して4着となったのを最後に騎手を引退し、以後調教師専業となった[28]。騎手成績は明確に集計されている範囲では373戦148勝。勝率は3割9分6厘、後年算出されるようになる連対率(2着以内率)は6割超という高率であった[29]。騎手としての日本ダービー優勝はならなかったが、帝室御賞典11勝は最多勝利記録である。

太平洋戦争終結まで

1938年、藤吉はテツモンで同年創設された第1回農林省賞典四歳呼馬(後の菊花賞)を制覇。さらにアステリモアで第1回阪神優駿牝馬(後の優駿牝馬、オークス)も制した。翌1939年には中山四歳牝馬特別(後の桜花賞)、横浜農林省賞典四歳呼馬(後の皐月賞)が新設され、日本ダービーと合わせて日本における「五大クラシック」が整備された。1940年にはタイレイで中山四歳牝馬特別に優勝。同年、Hクラブ時代以来の付き合いだった北郷五郎が死去し、藤吉はその後を継いで日本調教師騎手会の会長に就任した[30]。また、北郷の弟子であった田中康三前田長吉のふたりを自身の厩舎に引き受けている[30]

日本ダービーに優勝したクリフジと前田長吉。轡は栗林友二

翌1941年には田中和一郎厩舎のセントライトが史上初のクラシック三冠を達成したが、同年末より太平洋戦争が勃発。日米開戦後もしばらく競馬は開催され、1943年、藤吉は牝馬クリフジを擁してクラシック戦線に臨んだ。クリフジは前田長吉を背にデビューから連勝を重ね、3戦目の日本ダービーでは2着に6馬身差・レコードタイムで牝馬として2頭目の優勝を果たし、前田も20歳3カ月という史上最年少のダービージョッキーとなった。さらに秋には阪神優駿牝馬を10馬身差、京都農商省賞典四歳呼馬も大差で制し、翌1944年の引退まで11戦全勝という成績を残した。クリフジは後世まで史上最強牝馬とも評され、藤吉は「古今を通じて、これほど強い牝馬はいないという巴御前のような」と評した[31]。また藤吉は前田についても「天才騎手といえるほどの少年[31]」と高く評価している。なお、前田は徴兵を受けて従軍後シベリア抑留の身となり、1946年に病気のため同地で没した。

1944年から競馬は「能力検定競走」として東京と京都のみの無観客開催となる[32]。各馬主の所有馬はすべて日本競馬会が買い上げ、良質馬を「検定馬」として残し、調教師ひとりにつき10頭ずつ割り振られた[33]。春秋2回の開催で、尾形厩舎は日本ダービーでシゲハヤが2着という成績を残したが、やがて空襲が激しさを増して都会での競馬開催はできなくなり、競馬会の支所として北海道支所(北海道静内町)、東北支所(岩手県滝沢村)、関東支所(栃木県宇都宮市)の3カ所が設置され、藤吉は弟子の八木沢勝美や田中康三らと東北支所に赴き、総勢70頭の検定馬をもって非公式の競馬開催が続けられた[32]。1945年8月14日には東北支所が検定競走中に空襲を受けたが[32]、翌15日に終戦を迎えた。

戦後の競馬

終戦後、先行きが不透明な中で藤吉は盛岡に留まっていたが、秋になり競馬再開の報があったことから東京に戻り、厩舎の再建を始めた[33]。戦後の競馬は1946年10月からの開催と決まり、競走馬については検定馬を抽籤で各馬主に再配布し、それらをさらに抽籤して各調教師に割り振ることになったが、藤吉に目立った馬は当たらず、再開第1回の競馬は牝馬オホヒカリが3勝を挙げたことと、新弟子で当時18歳の野平祐二がそのうち2勝を挙げたことが目立つ程度であった[33]。しかし1949年にはヤシマドオターが桜花賞を制して戦後のクラシック初勝利を挙げる。同馬は次走の日本ダービーで落馬事故に巻き込まれて重傷を負ったが、のちに快復し、翌1950年秋の天皇賞に優勝するなど活躍した。同年はほかにハタカゼが重賞3勝を挙げるなどし、年間では99勝を挙げて戦前の最高成績を上回った[34]。1951年にはハタカゼが天皇賞(秋)を制覇、1952年にはオホヒカリの子・クリノハナが皐月賞と日本ダービーの二冠を制し、藤吉は五大クラシック競走の完全制覇を達成した。

1953年にはハクリョウが菊花賞に優勝。同馬は翌1954年に古馬(5歳以上馬)として確固とした存在に成長し、天皇賞(春)などを制し、同年より啓衆社がはじめた年度表彰において史上初の年度代表馬に選出された。また同年にはアメリカのローレルパーク競馬場から国際競走ワシントンD.C.インターナショナルに日本馬として初めて招待を受けたが、巨体のため用意された飛行機では輸送が難しいことが分かり断念された[35]。しかし1956年から1957年にかけて日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念を制したハクチカラが1958年から改めてアメリカ遠征を行うことになり、保田隆芳を伴って渡米。保田とのコンビで臨んだ現地4戦では好成績を残せなかったが、現地騎手のレイ・ヨークが駆った渡米後11戦目のワシントンバースデーハンデキャップ(英語版)を逃げきって、日本馬として初めてアメリカの重賞競走を制した[35][注 5]。また保田は現地でモンキー乗りを習得し帰国後に3年連続して最多勝利騎手となるなど好成績を挙げ、あぶみの長い「天神乗り」が定着していた日本でのモンキー乗り普及に大きく貢献した。

保田による1000勝達成の表彰式に付き添う(左端)。

1961年には2代目となるハクショウがメジロオーとの「髪の毛一本」といわれた僅差を制して日本ダービーに優勝。1963年には尾形厩舎から出たメイズイグレートヨルカの2頭が二強としてクラシックを戦った。春の二冠はメイズイが制し、セントライト以来2頭目のクラシック三冠確実といわれたが、三冠最終戦の菊花賞では騎乗した森安重勝の騎乗ミスもあって6着に沈み、代わってグレートヨルカが最後の一冠を制することになった。このとき藤吉は茫然自失で、グレートヨルカ騎乗の保田から声を掛けられるまで同馬の勝利に気付かなかったともいわれ[36]、のちに森安の騎乗を「だらしないの一語に尽きる」と指弾している[37]。また、同年はコレヒサで天皇賞(春)も制しているほか、保田隆芳が史上初の通算1000勝という記録を達成した。

1966年にはコレヒデが天皇賞(秋)と有馬記念を制し、尾形厩舎から4頭目の年度代表馬となる。1969年にはワイルドモアミノルハクエイホウメジロアサマの「尾形四天王」がクラシック路線を賑わせ、うちワイルドモアが皐月賞を制した[38]。同年にはシャダイターキンでオークスも制し、年間78勝の成績で自身12度目の年間最多勝を記録した[38]。日本中央競馬会が発足した1954年から当年までの15年間、関東では一度も最多勝を譲らず、年間の史上最多勝記録である1959年の121勝を筆頭に、100勝越えは3度(1948~1953年の国営時代を含めると5度)に及んだ[38]

斜陽期 - 死去

藤吉最後の重賞勝利を挙げたメジロティターン。

シャダイターキン以降、藤吉は八大競走制覇から遠ざかり、勝利数の面でも徐々に成績を落としていった。1973年秋の天皇賞では1番人気に推されたハクホオショウが骨折で競走を中止し、斜陽をいっそう印象づけた[39]。また、翌月にはハクホオショウの馬主で、戦後の尾形厩舎を支えた馬主のひとりである西博が死去[39]。同じころ藤吉自身も腰に怪我を負い、その経過が芳しくなく、息子の盛次や孫の充弘が厩舎管理を補佐した[39]。また、藤吉は弟子の保田や盛次の厩舎開業に際して自身の管理馬房を10ずつ割譲し、1975年からは競馬会が調教師1人当たりの管理馬房数削減策を打ち出したことから、さらに管理数を減らしていった[40]。そうした最中の1977年、藤吉はラッキールーラで自身8度目にして最後のダービー優勝を果たした。

1981年9月27日、89歳で死去[41]。息を引き取ってから約15分後に行われたセントライト記念メジロティターンが優勝したのが最後の重賞勝利となった。なお、一般に藤吉の通算成績は、日本中央競馬会が発足した1954年以降の成績をもって9390戦1670勝とされる[42]。これは2位の松山吉三郎より300勝以上多い史上最多記録であるが、全国統一された最初の競馬組織である日本競馬会が発足した1937年以降では、14103戦2776勝となる[43]。死後、正六位叙された[41]

2004年、日本中央競馬会50周年を記念してホースマンの殿堂にあたる調教師・騎手顕彰者制度が創設され、藤吉は弟子の松山吉三郎とともに調教師部門で選出された。騎手部門では保田隆芳と野平祐二の2名も同時選出された[44]

評価・特徴

騎乗の特徴

「尾形直伝[45]」と評された伊藤正四郎の騎乗フォーム(ゼッケン4番)。

騎手としての藤吉は馬術仕込みの手綱捌きで馬を抑え、追い込み戦法を得意としていた[46]。毎日新聞記者の高橋謙はその騎乗姿を評して「長いアブミで帆かけ舟のようなスタイルよろしく、ゆうゆうと馬群の後からいき、3コーナーにかかる頃からやや前傾姿勢になると強力な脚でもみ出しながら、両手綱を一本の棒のようにピンと張ってハミに合わせて追い出す絶妙の追い込み」と述べている[47]。下半身を使って追うことが特徴であったようで、北郷門下の梶与三男も「普通は叩いたり、拍車を入れて追ってくるのだが、あの人は腰でもみ出してくる。達者な人だった」と評している[48]

長あぶみの姿勢で追い込む姿は尾形一門に共通し、「尾形流」ともいわれた[49]。保田隆芳は「あぶみが長く、ハミあたりがやわらかく、しかも剛毅に乗る」ことが一門の特徴だったと述べている[50]。その一方で、野平祐二は若手時代から独自に鐙の短いモンキー乗りを試みていたが、厩舎の伝統と異なるフォームにも藤吉からの叱言はなかったという[49]

調教法

1940年代の厩舎地区の様子。

記者の井上康文が藤吉に「調教の秘訣」を尋ねた際、藤吉は「各人各様のやり方がある」「馬と相談しなければならない、馬の能力を知らなければならない」などと語ったのみで、井上が調教を観察したところでもメニューは適宜に変えられていた[51]。保田隆芳によると、彼が入門した1934年ごろには長距離を乗るイギリス式の調教が競馬界全体の主流で、尾形厩舎の場合、馬は外厩を出て東京競馬場まで10~15分ほど歩き、東京競馬場に入ってから30分ほど動かし、コース(1周2000メートル)に入ってからは速歩で1周、駈歩で2周半の計7000メートルが通常メニューであり、追い切りでもコース1周を追うことが普通だった[52]。これは1970年代半ばから普及していく短距離で済ませるアメリカ式の調教とは大きく異なるが、当時としては主流の調教法であった[52]。また、府中の尾形宅は高低差の大きな坂道の底にあり、藤吉は坂の上り下りが鍛錬になると見越してここで引き運動も行わせていた[52]。藤吉は太平洋戦争前後の時期、友人でもあった伊藤勝吉と「東の尾形、西の伊藤」と並び称されたが、この言葉は大勢力であることのほかに、調教の運動量の多さも表していたとされる[52]

藤吉は1953年に公務として津軽義孝とアメリカまで馬の買い付けに赴き、現地の競馬を見聞したが、「馬の調教や騎乗については、日本もアメリカもそう変わりなく、参考になることはあまりなかった」との感想を残している[53]。一方でスピード感に富んだアメリカ特有の競走内容については「見習う点がある」とし、軍馬改良の思想から始まり、耐久力を重視してきた日本の競馬も変化していくべきではないかとの提言も行っていた[53]

なお、藤吉の調教の妙を物語る逸話として、次のようなものがある。1967年、当時開業2年目であった孫弟子の伊藤雄二が管理馬ハイドルを擁して日本ダービーへ臨むに当たり、関東での管理を藤吉に依頼した。しかし東上前に行った削蹄に狂いがあり、ハイドルの前脚は腫れ上がってしまっていた。これを見た藤吉は、装蹄師に適宜削蹄の指示を与えつつ1日も調教を休むことなく、ダービー当日までに腫れをすっかり引かせてしまった。日本ダービーでハイドルは23着と大敗したが、伊藤は大きく目を開かされたという[54]。また、このとき藤吉が自宅で伊藤に語って聴かせた「精神論と具体的方法を併せ持つ話」は、伊藤の競馬論の「根底のテキスト」ともなったという[54]。なお、伊藤は2014年に松山吉三郎の子・松山康久とともに調教師顕彰者に選出された。

馬選び

藤吉は馬を購買する際の要点として、まず血統を最重視したといい、馬体では「胸の張り、あばらの張りがよいのと、皮膚が薄いのをえらぶ。背中から腰うつりが良く、『名馬の尾だくさん』といわれるとおり、尾毛が多く、付け根の丈夫な馬がよい。膝下は骨太で、腱、球節(くるぶし)、繋(くるぶしと足の間)が丈夫なもの。蹄はあまり浅いのはよくない」と述べている[55]藤本冨良は藤吉の馬選びについて「見たところモサッとしたような、(中略)太めと細めの二つに分ければ、太めの馬を好んでいたようだ」としている[56]。数々の大馬主に恵まれた藤吉であったが、安馬で好成績を挙げることを「馬を買うことで一番の妙味」とも述べており、初代ハクショウ、ヤマヤス、アスコット、トクマサ、クリフジ、タカハタ、スウヰイスーについては「大穴中の大穴を当てたような気分だった」としている[55]

また、藤吉の馬選びに絡む逸話として次のようなものがある。1934年に小岩井農場で競り市が開かれた際、藤吉とは別に参加していた馬主の高橋錬逸が、「馬がよく分からないから」と、藤吉の目利きを見越して彼が最も高額を提示した馬にさらに競り掛けて落とすよう、調教師の布施季三に言い含めて競りに臨んだ。藤吉が「第15シアンモア」に熱を入れているのを見た高橋は、高額に渋る布施を励ましながら競り続け、ついに同馬を競り落とした[57]。この「第15シアンモア」はガヴァナーの競走名で[57]、翌1935年の日本ダービーに優勝した。

人物

人物評

1929年、自邸にて。

徒弟制が色濃かった戦前・戦後の競馬界において、藤吉は極めて厳格だったことで知られる。同じく厳しさで聞こえた武田文吾でさえ、壮年期の藤吉を評して「本当におそろしい人でした。関東の鬼と思ったものです。ものすごい厳格な人で、ご自分にも厳しかった。足一本折れても、小指の一本ぐらいちぎれても、俺は痛いといわんぞという人でした。だから、挨拶するのもこわごわしたものです」と述べている[58]。保田隆芳は「厳格で無口。馬に対しては誰も先に置かないほどの愛情と相馬眼の持ち主でした。先生の前ではあの大久保房松さんさえ、ステッキでなぐられた」と述懐している[50]。人には厳しかった反面、馬に対しては折檻することを厳禁していた[59]。娘の恵美子によれば「馬は神様に祀られたもので、世の中でいちばん正直な動物だ」と口癖のように言っていたといい、「馬をいじめるようなことは一度もなかった」という[60]

往時の競馬界では、「この世界で本当に先生といえるのは、尾形藤吉ただひとり」ともいわれていた[50]。松山吉三郎は、藤吉の頭には常に競馬人の地位向上があり、そのため礼節について特に厳しく注意したのだとしている[61]。弟子に対しては周囲を観察し、馬ばかりではなく時事を知り、出来事について自分なりの意見を持つことを促し「人のことや世間のことが判らんのに馬のことが判るようにはならんぞ」としばしば説いていたという[61]。松山は「先生がいなかったら、馬の社会はもっともっと遅れていた」と述べている[61]。また、藤本冨良は「あの方は紳士でしたし、貫禄もあった。調教師としてあれだけの人望家というか、信頼のおける人物は、もう出てこないでしょう」と評している[62]

私生活

私生活では酒を非常に好んだ。45歳のときに健康を考え、酒と煙草を両天秤に掛けて煙草を断ち、以来「日本酒なら2升、洋酒なら1本」を適量として酒を飲み続けた[63]。武田文吾によれば、厳格な藤吉も酒が入ると柔らかくなったといい、藤吉が飲んでいる間は弟子も一息つけたのではないか、と述べている[58]。一方で弟子たちの思い出話では、酔いが回ると居並ぶ内弟子に堂々巡りの説諭を毎晩のようにしていたともいい、保田は藤吉の話が長いあまりに正座を続けた足が痺れ、這いずって部屋まで戻ったという思い出を語っている。しかしこのときの説諭は後々の糧として残ってもいるという[63]

成績

騎手成績

通算成績 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率
148 81 52 373 .396 .667

主な騎乗馬

  1. 全て尾形の管理馬。括弧内は優勝競走[注 6]斜体は尾形以外の騎乗で優勝した競走。
  2. 倶楽部時代は同一あるいは近似名の競走が全国に並立していたため、便宜上開催場名を競走名に冠して記述する。
  • トクホ(1915年秋季:目黒連合内国産優勝
  • シンオーミフジ(1918年阪神帝室御賞典・春)
  • クヰンマリー(1920年目黒帝室御賞典・秋)
  • スターリング(1923年目黒連合内国産優勝・秋)
  • アスベル(1927年阪神各内国産古馬連合・秋)
  • チヱリーダッチェス(1924年横浜帝室御賞典・春)
  • キングフロラー(1928年目黒帝室御賞典・春)
  • ハクショウ(1928年阪神帝室御賞典・秋、阪神各内国産古馬連合・秋 1929年目黒各内国産古馬・秋 1930年東京各内国産古馬・秋、中山内国産馬競走
  • アストラル(1927年内外国産古馬競走・秋)
  • クヰンホーク(1928年東京連合二哩・秋 1929年目黒帝室御賞典・秋)
  • ハクシュン(1929年京都各内国産牝馬連合・秋)
  • サンシャイン(1929年中山秋季特別 1930年京都各内国産牝馬連合・春)
  • アスパイヤリング(1930年横浜帝室御賞典・秋)
  • サンシャイン(1931年福島帝室御賞典)
  • ワカクサ(1931年横浜帝室御賞典・秋)
  • オオツカヤマ(1932年中山農林省賞典・春)
  • ハクヨシ(1932年横浜帝室御賞典・秋、横浜特別・秋
  • アスコット(1932年春季:阪神農林省賞典 1933年春季:東京帝室御賞典、中山四千米)
  • ハクコウ(1932年秋季:中山秋季特別 1933年春季:東京農林省賞典、東京五歳馬特別、横浜帝室御賞典 秋季:中山秋季五歳馬特別)
  • ワカミチ(1934年春季:東京五歳馬特別、東京農林省賞典、横浜呼馬五歳馬)
  • デンコウ(1934年東京農林省賞典・秋阪神帝室御賞典・秋 1935年春季:中山四千米)
  • アカイシダケ(1935年秋季 東京農林省賞典、横浜帝室御賞典 1936年春季:中山四千米)

調教師成績

通算成績 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率
平地 1471 1168 1056 8406 .175 .314
障害 198 178 149 932 .212 .403
1669 1346 1205 9338 .179 .323

※1954年以降。

主な管理馬

  1. 騎手時代の主な騎乗馬として挙げた馬は割愛する。
  2. 競走名太字は後の八大競走。

受賞

  • 年間最多勝利調教師 12回 (1955年-1960年、1962年、1964年-1966年、1968年、1969年)
  • 最優秀調教師賞1回(1966年)
  • 調教技術賞3回(1964年、1965年、1967年)
  • 優秀調教師賞18回(1955年-1965年、1967年-1971年、1977年)

一門

尾形一門は日本競馬界最大の勢力であり[64]、『日本調教師会50年史』に記載されている直弟子だけでも45名にのぼる[65]

主な門下生

一門の主な系譜

※『日本調教師会50年史』に尾形から連なる系図に記載されている者のみ記す。なお、この元となった表の作成に当たり、調教助手出身者に対してはアンケートによってそれぞれの師を定めたとしており[66]、最初に所属した厩舎や長く所属した厩舎とは必ずしも一致しない。

尾形藤吉
美馬信次
||増本勇
|||増本豊
||||小原義之
||||鮫島一歩
||||荻野要
|||安達昭夫
||武田作十郎
|||河内洋
|||武豊
||梶与四松
||清水久雄
大久保亀治
||吉永猛
||大久保正陽
|||大久保龍志
||松田幸春
||池添兼雄
|岩佐宗五郎
||前田禎
|||相沢郁
|古賀嘉蔵
||山崎彰義
|||岩戸孝樹
|||国枝栄
||||勢司和浩
||池上昌弘
伊藤正四郎
||伊藤雄二
|||千田輝彦
松山吉三郎
||吉永正人
||中神輝一郎
||沢峰次
||松山康久
||山内研二
|内藤潔
||浜田光正
|||石山繁
保田隆芳
||保田一隆
野平祐二
||和田正道
|||上原博之
|||穂苅寿彦
||藤沢和雄
|||橋本広喜
|||青木芳之
|||北村宏司
工藤嘉見
||南井克巳
||菊沢隆仁
伊藤修司
||寺井千万基
||松田国英
|||角居勝彦
|||友道康夫
森安弘昭
||天間昭一
田中和夫
||笹倉武久
|||宗像徹
||畠山重則
|||小檜山悟
伊藤正徳
||藤原辰雄
||後藤浩輝
尾形盛次
||尾形充弘
|||柄崎将寿

親族

1934年正月、尾形邸に東久邇宮稔彦王を迎えて。右から2番目が藤吉、ひとり置き多賀一、ひとり置き盛次、三井末太郎、恵美子、東久邇宮、ふたり置き栄子。

長男の尾形盛次は当初競馬界とは違う職に就いていたが、藤吉の負担軽減のため尾形厩舎の調教助手となり[39]、やがて独立し調教師となった。藤吉の死後管理を引き継いだメジロティターンで1982年の天皇賞(秋)を制している。また、盛次の子・充弘もやはり藤吉の体調がすぐれなかった頃に一般企業から調教助手に転じた[39]。充弘は調教師として1990年代末にGI競走で4勝を挙げたグラスワンダーなどを管理しているほか、2010年から2012年まで調教師会長を務めた。

妻の栄子は藤吉に代わり大厩舎の雑事をよく切り回し、賢夫人との呼び声が高かった[67]。井上康文は「尾形さんにとってまさに至宝[68]」という存在であったと評し、尾形も栄子の臨終の際に「私が今日までなれたのはお前のおかげだ」と謝したという[69]。1955年に栄子が大腸癌で死去すると、娘の恵美子が家事を取り仕切り、栄子の弟である梶山和義が厩舎の事務を担った[69]。恵美子の子である尾形重和は獣医師として社台ファームに勤務した[70][注 7]

また、母方の曾祖父の阿部安貞から連なる遠縁に、東京競馬場々長を務めた阿部安之やメルボルンオリンピック日本選手団の馬術コーチを務めた瀬理町秀雄がいる[71]

出典

  1. ^ 東京競馬倶楽部の前身で、後に発足する全国統一組織の日本競馬会とは異なる。
  2. ^ 花月園遊園地の創業者。
  3. ^ 1926年秋の帝室御賞典(横浜)、1927年春の優勝内国産馬連合競走(鳴尾)に優勝するアスベルとは別の馬。
  4. ^ 当時の高額馬は3500円ほどの価格だった。(尾形1967、p.114)
  5. ^ 調教管理は現地の調教師ボブ・ウィラーに委任されており、日本人スタッフによる米重賞勝利は2005年のシーザリオによるアメリカンオークス制覇まで待つことになる。
  6. ^ 日本中央競馬会発行『日本競馬史』第3巻の各競馬場記事に「主な競走」として扱われているもののみ記載する。
  7. ^ 出典では「社台牧場」となっているが、日本中央競馬会の広報誌『優駿』では社台ファームの獣医師として度々コメントを出している。社台牧場は社台ファームとは別に運営されている牧場。
  1. ^ 『優駿』2009年6月号、p.121
  2. ^ a b c d 尾形(1967)pp.25-27
  3. ^ a b c d 尾形(1967)pp.30-31 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "ogata2"が異なる内容で複数回定義されています
  4. ^ a b 尾形(1967)pp.55-57
  5. ^ a b 尾形(1967)p.60
  6. ^ a b 『日本競馬史 第2巻』pp.128-131
  7. ^ a b 『日本競馬史 第2巻』pp.210-216
  8. ^ a b c 尾形(1967)pp.63-67
  9. ^ a b 尾形(1967)pp.72-74
  10. ^ a b 尾形(1967)p.77
  11. ^ a b c d e f 尾形(1967)pp.79-82
  12. ^ 『日本の騎手』p.104
  13. ^ a b c d 尾形(1967)pp.98-101
  14. ^ 井上(1965)p.10
  15. ^ a b c d 尾形(1967)pp.93-96
  16. ^ a b 尾形(1967)pp.102-104
  17. ^ 井上(1964)p.31
  18. ^ a b c 尾形(1967)pp.111-114
  19. ^ 尾形(1967)p.109
  20. ^ a b 尾形(1967)pp.121-123
  21. ^ a b c 尾形(1967)pp.125-128
  22. ^ a b 井上(1964)p.20
  23. ^ 井上(1964)p.146
  24. ^ a b 尾形(1967)pp.130-136
  25. ^ 尾形(1967)p.140
  26. ^ 尾形(1967)pp.148-152
  27. ^ 『日本ダービー25年史』p.33
  28. ^ 尾形(1967)pp.168-169
  29. ^ 『日本の騎手』p.63
  30. ^ a b 尾形(1967)pp.184-185
  31. ^ a b 尾形(1967)p.189
  32. ^ a b c 『日本ダービー25年史』p.53
  33. ^ a b c 尾形(1967)pp.192-196
  34. ^ 尾形(1967)p.204
  35. ^ a b 『優駿』1998年12月号、p.110
  36. ^ 藤野(1992)p.69
  37. ^ 尾形(1967)p.249
  38. ^ a b c 『優駿』2009年7月号、pp.121-123
  39. ^ a b c d e 『日本の騎手』pp.105-107
  40. ^ 『日本の騎手』p.96
  41. ^ a b 『優駿』2009年7月号、p.123
  42. ^ 競馬の殿堂 尾形藤吉”. 日本中央競馬会. 2014年8月17日閲覧。
  43. ^ 『優駿』2009年6-7月号掲載の成績表より集計。
  44. ^ JRAが調教師、騎手を顕彰”. 競馬ブックコーナー (2004年2月2日). 2014年8月17日閲覧。
  45. ^ 『優駿』1963年8月号、p.13
  46. ^ 井上(1964)p.22
  47. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』p.27
  48. ^ 『調教師の本II』p.40
  49. ^ a b 『日本の騎手』pp.79-81
  50. ^ a b c 『優駿』1987年11月号、p.55
  51. ^ 井上(1964)p.23
  52. ^ a b c d 『日本調教師会50年史』pp.135-138
  53. ^ a b 尾形(1967)p.218
  54. ^ a b 鶴木(2000)pp.189-190
  55. ^ a b 尾形(1967)pp.213-214
  56. ^ 藤本(1992)p.74
  57. ^ a b 『日本ダービー25年史』p.143
  58. ^ a b 『優駿』1977年12月号、p.15
  59. ^ 尾形(1967)p.124
  60. ^ 『優駿』1982年5月号、p.69
  61. ^ a b c 『優駿』1994年9月号、p.54
  62. ^ 藤本(1992)p.195
  63. ^ a b 『日本の騎手』pp.52-53
  64. ^ 『日本の騎手』p.50
  65. ^ 『日本調教師会50年史』pp.204-205
  66. ^ 『日本調教師会50年史』p.215
  67. ^ 『優駿』1982年5月号、p.65
  68. ^ 『日本の騎手』p.94
  69. ^ a b 尾形(1967)pp.219-221
  70. ^ 『日本の騎手』p.112
  71. ^ 井上(1964)p.14

参考文献

  • 日本中央競馬会編纂室編『日本ダービー25年史』(日本中央競馬会、1959年)
  • 井上康文『尾形藤吉』(大日本競馬図書出版会、1964年)
  • 尾形藤吉『競馬ひとすじ - 私と馬の60年史』(徳間書店、1967年)
  • 日本中央競馬会(編)『日本競馬史 - 第2巻 明治・大正時代』(日本中央競馬会、1967年)
  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
    • 高橋謙「典型的な長距離馬として大成 - ハクショウ」
  • 中央競馬ピーアールセンター編『日本の騎手』(中央競馬ピーアール・センター、1981年)
    • 本田靖春「にっぽん競馬人脈 - 厩舎を支えた尾形の背骨」
  • 中央競馬ピーアール・センター編『名馬づくり60年 - 藤本冨良・わが競馬人生』(中央競馬ピーアール・センター、1991年)
  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
  • 鶴木遵『調教師伊藤雄二 - ウソのないニッポン競馬 』(ベストセラーズ、2000年)ISBN 978-4584185452
  • 日本調教師会50年史編纂委員会(編)『日本調教師会50年史』(日本調教師会、2002年)
  • 『優駿』1977年9月号(日本中央競馬会)
    • 「座談会 育てる」
  • 『優駿』1982年5月号
    • 「ターキーのべらんめえ対談 故尾形藤吉調教師の長女 尾形恵美子さん」
  • 『優駿』1994年9月号(日本中央競馬会)
    • 吉川良「元調教師松山吉三郎さん『我が競馬人生に悔いなし』」
  • 『優駿』2009年6月号・7月号(日本中央競馬会)
    • 江面弘也「名調教師列伝 尾形藤吉(前編・後編)」

関連項目

外部リンク