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「立憲君主制」の版間の差分

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既に明示された内閣法制局による直接の政府見解を否定する必要がないため
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==== 過去に存在した立憲君主国 ====
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=== オセアニア ===
=== オセアニア ===
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歴史学者[[伊藤之雄]]の『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』は、大日本帝国に起きた「立憲君主制の崩壊」を研究している{{sfn|伊藤之雄|2005|p=1}}。同書によると「一面では[[大正天皇]]が心身ともに弱かったということで、大隈や原というカリスマ的[[政党]]指導者らの力もあって、日本への[[デモクラシー]]潮流の流入や、立憲君主制([[政党政治]])への道が開け易くなった。しかし他面では、[[明治天皇]]の慎重な[[政治]]手法の[[伝統]]が[[昭和天皇]]や天皇を支える牧野ら[[宮中]]側近に正しく伝わらなかったことで、立憲君主制を危うくすることになった」{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。しかし「[[軍部]]のコントロールに失敗し立憲君主制が崩壊した責任を、昭和天皇や牧野[[内大臣]]ら宮中側近にすべて帰するのは、正当な評価とはいえない」{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。まず大日本帝国憲法には、「天皇の[[統治権]]を[[輔弼]]する最高[[責任]]者が誰であるかがあいまいであるという大きな欠陥」があった{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。また[[日本経済]]が[[1920年代]]には[[停滞]]しており、[[1930年]]に[[世界恐慌]](始まりは[[1929年]]10月)が直撃したことも「立憲君主制崩壊の重要な背景」とされる{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。
歴史学者[[伊藤之雄]]の『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』は、大日本帝国に起きた「立憲君主制の崩壊」を研究している{{sfn|伊藤之雄|2005|p=1}}。同書によると「一面では[[大正天皇]]が心身ともに弱かったということで、大隈や原というカリスマ的[[政党]]指導者らの力もあって、日本への[[デモクラシー]]潮流の流入や、立憲君主制([[政党政治]])への道が開け易くなった。しかし他面では、[[明治天皇]]の慎重な[[政治]]手法の[[伝統]]が[[昭和天皇]]や天皇を支える牧野ら[[宮中]]側近に正しく伝わらなかったことで、立憲君主制を危うくすることになった」{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。しかし「[[軍部]]のコントロールに失敗し立憲君主制が崩壊した責任を、昭和天皇や牧野[[内大臣]]ら宮中側近にすべて帰するのは、正当な評価とはいえない」{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。まず大日本帝国憲法には、「天皇の[[統治権]]を[[輔弼]]する最高[[責任]]者が誰であるかがあいまいであるという大きな欠陥」があった{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。また[[日本経済]]が[[1920年代]]には[[停滞]]しており、[[1930年]]に[[世界恐慌]](始まりは[[1929年]]10月)が直撃したことも「立憲君主制崩壊の重要な背景」とされる{{sfn|伊藤之雄|2005|p=572}}。


===== 日本国憲法 =====
日本国憲法における天皇については、『日本大百科全書』で[[安田浩]](歴史学者)は「象徴天皇には、通常の[[立憲君主]]のもっている政治上の外形的[[権限]]およびそれに基づく[[危機]]に際しての介入権限も与えられておらず、その点では[[君主]]とも[[元首]]ともいいえない[[存在]]となった」と述べている{{sfn|安田浩|2016|p=「天皇制」}}。『国史大辞典』では、[[法律制度]]上、象徴天皇は君主でも元首でもなく、[[神]]の[[子孫]]としての神聖な[[権威]]は消滅したとされている{{sfn|家永三郎|2015|p=「天皇」}}。『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇は異なるとしている{{sfn|法令用語研究会|2015|p=「天皇」}}。
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[[日本国憲法]]では、国の最高法規、[[国民主権]]、天皇について規定した[[日本国憲法第1章|第1章]]([[日本国憲法第1条|第1条]]~[[日本国憲法第8条|第8条]])による[[象徴天皇制]]を採用した。[[内閣法制局]]による[[日本国政府|政府]]見解では日本国憲法下の日本を「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」としている{{信頼性要検証|date=2017-04}}<ref>[[1973年]](昭和48年)[[6月28日]] [[参議院]]内閣委員会、政府委員・[[吉國一郎]][[内閣法制局]]長官答弁{{信頼性要検証|date=2017-04}}</ref><ref>1988年(昭和63年)10月11日 参議院内閣委員会、[[大出峻郎]]内閣法制局第一部長答弁{{信頼性要検証|date=2017-04}}</ref>。<!--
{{要出典範囲|[[大日本帝国憲法]]で天皇の地位と権限が明記されているため、憲法作成の参考とした[[プロイセン王国]]と同様に、「立憲君主制」とする見解が多い。しかし[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]は憲法と同格とされ、天皇は「神聖不可侵の統治者」と定められ[[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]]の[[統帥権]]や[[日本の勅令の一覧|勅令]]などの強力な権限を持っていたため「[[絶対君主制]]」とする見解もある。これへの反論には、天皇の権限には「[[内閣 (日本)|内閣]]の[[輔弼]]」が必要で、これが事実上の承認であった上、実際[[天皇]]自ら国政へ介入することは稀であったため、「絶対君主制」とは言えないとする見解である。
{{要出典範囲|[[大日本帝国憲法]]で天皇の地位と権限が明記されているため、憲法作成の参考とした[[プロイセン王国]]と同様に、「立憲君主制」とする見解が多い。しかし[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]は憲法と同格とされ、天皇は「神聖不可侵の統治者」と定められ[[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]]の[[統帥権]]や[[日本の勅令の一覧|勅令]]などの強力な権限を持っていたため「[[絶対君主制]]」とする見解もある。これへの反論には、天皇の権限には「[[内閣 (日本)|内閣]]の[[輔弼]]」が必要で、これが事実上の承認であった上、実際[[天皇]]自ら国政へ介入することは稀であったため、「絶対君主制」とは言えないとする見解である。


また[[美濃部達吉]]による『[[天皇機関説]]』では「[[君主]]である[[天皇]]も[[日本の国家機関|国家機関]]の一つ」とみなされるが、これは[[主権]]や[[主権者]]の解釈にも関連する。|date=2016年9月}}
また[[美濃部達吉]]による『[[天皇機関説]]』では「[[君主]]である[[天皇]]も[[日本の国家機関|国家機関]]の一つ」とみなされるが、これは[[主権]]や[[主権者]]の解釈にも関連する。|date=2016年9月}}
{{要出典範囲|学説では「日本国憲法(第1章)下の天皇が[[君主]]であるか」については多数の見解がある。しかし、諸外国からは象徴・儀礼的存在の[[君主]]・[[元首|国家元首]]に相当すると扱われ、式典などの[[儀礼]]ではそのような待遇でもてなされる。|date=2016年8月}}-->
{{要出典範囲|学説では「日本国憲法(第1章)下の天皇が[[君主]]であるか」については多数の見解がある。しかし、諸外国からは象徴・儀礼的存在の[[君主]]・[[元首|国家元首]]に相当すると扱われ、式典などの[[儀礼]]ではそのような待遇でもてなされる。|date=2016年8月}}-->

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『日本大百科全書』で[[安田浩]](歴史学者)は「象徴天皇には、通常の[[立憲君主]]のもっている政治上の外形的[[権限]]およびそれに基づく[[危機]]に際しての介入権限も与えられておらず、その点では[[君主]]とも[[元首]]ともいいえない[[存在]]となった」と述べている{{sfn|安田浩|2016|p=「天皇制」}}。『国史大辞典』では、[[法律制度]]上、象徴天皇は君主でも元首でもなく、[[神]]の[[子孫]]としての神聖な[[権威]]は消滅したとされている{{sfn|家永三郎|2015|p=「天皇」}}。『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇は異なるとしている{{sfn|法令用語研究会|2015|p=「天皇」}}。


=== オセアニア ===
=== オセアニア ===

2017年4月21日 (金) 06:57時点における版

立憲君主制(りっけんくんしゅせい、: Constitutional monarchy)または制限君主制[1]とは、君主権力憲法により規制されている君主制[2]君主制とは、ある政治共同体において世襲君主主権を持つ政治形態[3]

概要

三権分立を原則とした憲法に従って、君主の権力が一定の制約を受ける政治体制[1]絶対君主市民階級の台頭と妥協し生まれたもの[1]君主とは伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合のその主権者であり[4]帝王天子皇帝きみなどとも言う[5])。君主の有する権力の総体を君主主権といい、絶対王政はこれに支えられていたが、フランス革命は「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」(人権宣言3条)として君主主権の原理を否定し、国民主権原理を確立した[6]

立憲君主制は二種類、すなわち、実際の権力は議会にあって君主権は名目上にすぎないイギリス型と、憲法はあっても実際には君主権が制限されない(19世紀の)ドイツ型とが存在する[7]大日本帝国憲法下の天皇制は、ドイツ型の立憲君主制とされる[7]

歴史

立憲君主制は、絶対君主を打倒して近代国家を形成した17世紀イギリスにおいて最初に確立された[8]。もともとイギリスでは13世紀末以来、君権は議会の制定した法律や決定に制限されるという権力制限的思考が強かった[8]。しかし17世紀、君主がその権限の拡大強化を図り絶対君主の道を追求し始めたため、市民革命が起こった[8]名誉革命後のイギリスでは、立法権を持つ議会が行政権を持つ国王に優位するという政治思想が確立された[8]。さらに18世紀中期以降は行政権を事実上内閣が掌握し、19世紀に政党政治が確立される中、議院内閣制が政治運営上の基本原則となり、イギリスは世界における民主主義国家のモデルとなった[8]

イギリス国王は今日においても国の元首であり、形式的には行政権の長であるが、1931年のウェストミンスター憲章によって、イギリス国王は連合王国の象徴としての地位に就いた[8]。イギリスは立憲君主制国ではあるが、政治の実態はアメリカや今日のフランス、旧西ドイツ等の共和国と同じと言える[8]。他方、第一次世界大戦前のドイツや戦前の日本でも憲法は存在したが、そこでは君主天皇行政権を掌握し、数々の強大な大権を有し、議会の権限はきわめて弱く、外見的立憲主義だった[8]。対してイギリスのような立憲君主制は、議会主義的君主制と呼ばれる[8]

第二次世界大戦後も君主を擁する国々は十数か国存在するが、ほとんどはイギリス型立憲君主制を取っており、ベルギールクセンブルクのように憲法上で国民主権主義を明記している国もある[8]。戦後日本では、憲法上で国民主権主義を明確化し、天皇は政治的権限を持たない象徴的地位に就いた[8]。「この意味で戦後の日本は、事実上、国民主権主義をとる民主国家と規定できよう」とされる[8]

榎原猛による定義・分類

憲法学者榎原猛は、その著書『君主制の比較憲法学的研究』において、「立憲君主制度」を、「制限君主制度」(主権者たる君主が国権を発動するに際し、独立機関を設け、この独立機関を通じて国権を発動することを本則とする制度)の一類型である「立憲政体を採用する君主国の制度」と定義したうえで、立憲君主制度の国を以下のように分類している[注釈 1]

  1. 君主主義的立憲君主制度 - 国王と国会との相互関係のうえで、国王が優位の立憲君主制度
  2. 国会主義的立憲君主制度 - 国王と国会との相互関係のうえで、国会が優位の立憲君主制度

なお榎原は、「国会主義」の君主制という観点から、

  1. 国会主義的立憲君主制度(君主制国家でありながら、憲法的習律により、議院内閣制を採用し、国会主義を実現している制度)
  2. 国会制的間接君主制度(君主主権を定めながら、憲法の明文により議院内閣制を採用し、国会主義を実現している制度)
  3. 共和国における君主制(憲法上で国民主権を定めながら、君主制を採用している制度)

の分類も用いている[9]

現在の立憲君主国一覧

イギリス連邦構成諸国は本節最下部に別記する。

アジア

オセアニア

ヨーロッパ

アフリカ

英連邦王国

英連邦王国の諸国は同一の国王・女王を君主とする。イギリス以外の国では各国政府助言に基づいて国王により形式的に任命された総督大権を執行する。 また、性質上は単なる象徴元首の扱いであるため、各国の国政運営は政府の長たる首相率いる内閣(行政府)にて継続して行われている。

各国の立憲君主制

アジア

バーレーン国は2002年に立憲君主制に移行して、「バーレーン王国」に国名変更した。ブータン王国も2008年3月までに上下両院の普通選挙を完了し、同年7月18日に新たな成文憲法典を成立させ、立憲君主制への移行を完了した。

日本

大日本帝国憲法

法学者芦部信喜によれば「明治憲法は、立憲主義憲法とは言うものの、神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法であった。[中略]まず、主権が天皇に存することを基本原理とし、この天皇の地位は、天皇の祖先である意志に基づくものとされた。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(一条)とは、この天皇主権の原理を明示したものである。また、天皇は、神の子孫として神格を有するとされ、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(三条)と定められた。さらに、天皇は、「国ノ元首ニシテ統治権を総覧」(四条)する者、すなわち、立法司法行政などすべての国の作用を究極的に掌握し統括する権能を有する者とされた[11]。[中略]

このような神権主義的な色彩のきわめて濃い立憲君主制を基本とする明治憲法をできるだけ自由主義的に解釈しようとした立憲主義的な学説の影響や、政党の発達とともに、大正から昭和のはじめにかけていわゆる「大正デモクラシー」が高揚し、政党政治が実現した。[中略]しかし、その後、軍部の勢力が増大しファシズム化が進展して、天皇機関説事件などが起こり、明治憲法の立憲主義的な側面は大きく後退してしまった」[12]

歴史学者伊藤之雄の『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』は、大日本帝国に起きた「立憲君主制の崩壊」を研究している[13]。同書によると「一面では大正天皇が心身ともに弱かったということで、大隈や原というカリスマ的政党指導者らの力もあって、日本へのデモクラシー潮流の流入や、立憲君主制(政党政治)への道が開け易くなった。しかし他面では、明治天皇の慎重な政治手法の伝統昭和天皇や天皇を支える牧野ら宮中側近に正しく伝わらなかったことで、立憲君主制を危うくすることになった」[14]。しかし「軍部のコントロールに失敗し立憲君主制が崩壊した責任を、昭和天皇や牧野内大臣ら宮中側近にすべて帰するのは、正当な評価とはいえない」[14]。まず大日本帝国憲法には、「天皇の統治権輔弼する最高責任者が誰であるかがあいまいであるという大きな欠陥」があった[14]。また日本経済1920年代には停滞しており、1930年世界恐慌(始まりは1929年10月)が直撃したことも「立憲君主制崩壊の重要な背景」とされる[14]

日本国憲法

日本国憲法では、国の最高法規、国民主権、天皇について規定した第1章第1条第8条)による象徴天皇制を採用した。内閣法制局による政府見解では日本国憲法下の日本を「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」としている[信頼性要検証][15][16]

『日本大百科全書』で安田浩(歴史学者)は「象徴天皇には、通常の立憲君主のもっている政治上の外形的権限およびそれに基づく危機に際しての介入権限も与えられておらず、その点では君主とも元首ともいいえない存在となった」と述べている[17]。『国史大辞典』では、法律制度上、象徴天皇は君主でも元首でもなく、子孫としての神聖な権威は消滅したとされている[18]。『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇は異なるとしている[19]

オセアニア

トンガ王国は立憲君主制である。だが、実際は国王の強力な大権によって国政が行われている。議会は貴族の代表と平民の代表で構成される。

サモア独立国は立憲君主制である。首相は議会の多数派により選ばれる。そして、元首の大首長によって任命される。

ヨーロッパ

南欧では、1975年に王政復古したスペインを除いて、イタリア、バルカン諸国などでファシスト政権を歓迎したため、第二次世界大戦後、次々に追放され共和制となっている。

政治的な権限のない君主は、北欧やオランダ、スペインなどヨーロッパの他の立憲君主国でも普通に見られる。ただし、オランダ(閣僚の任命についての43条など)やスペイン(首相の推薦又は任命についての99条など)は、政治慣行等を抜きにして条文上では君主の意思が介在できるイギリスと似た「一般的な立憲君主制」タイプであり、それが介在できないほど君主権力が制限・剥奪された「君主権力がより消極的な立憲君主制」とは異なる。スウェーデン国王は首相任命権などの形式的な国事行為すら憲法上認められておらず、政治から完全に分離され国の対外的代表としての地位しかないため、象徴君主制という新たな区分で説明されることがある。

その一方で、リヒテンシュタイン家は、象徴・儀礼的存在にとどまらず強大な政治的権限を有している。そのため、ヨーロッパ最後の絶対君主制と言われる。

アフリカ

モロッコ国王は情報統制など強権的な政治を行っている。その一方で民主化政策が進められている。ハサン2世の統治時代、1996年に憲法改正がなされた。この改正で二院制を導入、総選挙を実施した。

レソト国王は国民統合の象徴的地位で、実権は首相にあり、政治的権力を有さない。逆に、当項には記されていないが、憲法典は持つものの条文内で国王による絶対的な支配権が保障されているスワジランド絶対王政に分類されており、世襲制の国王のもとで強権的な政権運営がなされている。

イギリス連邦

イギリス連邦加盟国には、イギリスとおなじ国王を戴く英連邦王国、独自の立憲君主国、共和国の類型がある。イギリス国王は英連邦の首長 (Head of the Commonwealth) の地位にある。

英連邦王国

英連邦王国では、国王が主権者 (Sovereign) であり、国王の名が国家を意味する語として用いられる(国王 (法人)も参照のこと)。すなわち「女王陛下の内閣」「王立カナダ海軍」といった修辞が行われ、行政訴訟では国王が名義上の被告となる。国王の大権は国政の主要決定のほぼ全てにわたるが、その行使は憲法的法規もしくは憲法的慣行によって強く制約され、多くは普通選挙で選ばれた下院に対して責任をもつ首相助言に基づいてなされる。

イギリス以外の英連邦王国では国王が通常不在であるため、総督が君主の代理となる。現在では当該国の首相の助言に基づいて国王が総督を任命する。また、連邦制のカナダオーストラリアでは、国王は各州の君主でもあり、副総督によって代行される。

内閣が下院の信任を必要とする議院内閣制であるが、議会での首相指名選挙は行われず、国王または総督等がウェストミンスター・システムの憲法的慣行に従って下院多数党派のリーダーを首相に任命する。そして内閣の方針を国王または総督等が議会で読み上げ(国王演説)、それに対し下院が信任投票を行う。

議会を通過した法案に対する拒否権や、下院の信任を失っていない首相の解任なども君主大権に含まれるが、基本的には行使してはならないとされる。総督等が首相の助言なしにこのような大権を行使し問題となること(憲法危機英語版)が幾度かあったが、その際も総督の解任権をもつ女王エリザベス2世は、当該国内で解決すべき問題であるとし不介入を貫いている。

賛否

立憲君主制(制限君主制)は政府の正統性を担保し、また政権首脳に権威が集中することを抑制する効果があるとして、一旦君主制を廃止したものの政情不安のある国では王政復古が模索されることがある。またかつてのヨーロッパやラテンアメリカでは、新国家を創設する際に他国の王族・貴族を新たに名目上の君主として擁立する例も少なくなかった。一方で、戦間期には国王自らがクーデターを起こして独裁体制を敷いた例が多発している。また、世襲を原則とする君主制は平等権とは異質な制度であり、また王族自身の人権に特別な制限が加えられることも多いため、立憲君主制国家において君主制廃止論もある。

注釈

  1. ^ 榎原猛『君主制の比較憲法学的研究』有信堂、1969年、46頁以下。ただし榎原の分類においては、君主主義的立憲君主制度と専制君主制度(主権者たる君主が国権を発動するに際し、独立機関を通じず直接行使すること)との区分が、やや明白ではないように思われる[要出典]。榎原は、1960年代のサウジアラビア、ネパールを「専制君主制度」とし、同年代のモナコ、エチオピアを君主主義的立憲君主制度としている。しかしネパールについては、一応は憲法典が存在したのであり、「外見的立憲君主制度」の君主主義的立憲君主制度の国と分類できなくはないはずである[要出典]。また榎原自身、モナコは「専制君主国に数えることも法理的に無理ではないであろう」(同書125頁)とし、エチオピアは「われわれをして、『立憲君主制度』といいきることに、若干のためらい与える」(同書147頁)として、分類に迷いが見られる。
  2. ^ 国王が首相を兼任し、閣僚、裁判官、立法評議会議員の任免も国王が掌握しているなど、事実上の絶対君主制にある[要出典]
  3. ^ マレーシアの国王は正式にはアゴンと呼ばれ、各州スルターンによる輪番制である[要出典]。象徴的存在であり実権を有さない[要出典]象徴元首も参照。
  4. ^ サモア独立国の国家元首(大首長またはオ・レ・アオ・オ・レ・マーロー)は世襲の4つの大首長家から選出されることが慣例となっており敬称も殿下であるなど君主制の性格を有している一方で、その選出は議会が行い、任期(5年)が定められているなど共和制の性格も有しており、国によっては同国を共和国とみなしている場合がある[要出典]。なお日本の外務省は同国を立憲君主国として取り扱っている[要出典]
  5. ^ アンドラ公国は、「公国」と冠しているものの世襲の君主は存在せず、実態はフランス元首(大統領)とウルヘル司教の2名の共同大公を戴く議会制である[要出典]。憲法で国民主権が明記され、また元首の職務も大公使の接受、法律・条約の認証など儀礼的であり、実際の外交権は内閣が、条約の締結は国会が行使する[要出典]
  6. ^ 同国ではリヒテンシュタイン家による国政運営のため、絶対君主制としての性格も持つ[要出典]
  7. ^ 君主号は、1957年に「スルターン」(Sultan) から「国王」(King) に変更された[要出典]

出典

  1. ^ a b c 北原保雄ほか 著「立憲君主制」、久保田淳ほか 編『日本国語大辞典』JapanKnowledge、2016年。 
  2. ^ 吉岡知哉 著「立憲君主制」、下中直人 編『世界大百科事典』(改定新版)平凡社、2009年、548頁。 
  3. ^ 家永三郎 著「君主制」、小学生 館 編『日本大百科全書(ニッポニカ)』JapanKnowledge、2016年。 
  4. ^ フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。
  5. ^ 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。
  6. ^ 畑安次 著「君主主権」、小学館 編『日本大百科全書(ニッポニカ)』JapanKnowledge、2016年。 
  7. ^ a b 有斐閣 著「立憲君主制」、法令用語研究会 編『法律用語辞典(第4版)』JapanKnowledge、2016年。 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 田中浩 著「立憲君主制」、小学館 編『日本大百科全書(ニッポニカ)』JapanKnowledge、2016年。 
  9. ^ 『君主制の比較憲法学的研究』、56頁以下
  10. ^ 政府見解、なお明治以降、大正昭和平成期現在に至る天皇の地位の解釈は#日本を参照。また、象徴天皇制及び日本国憲法第1条も参照。
  11. ^ 芦部信喜 2016, p. 19.
  12. ^ 芦部信喜 2016, p. 21.
  13. ^ 伊藤之雄 2005, p. 1.
  14. ^ a b c d 伊藤之雄 2005, p. 572.
  15. ^ 1973年(昭和48年)6月28日 参議院内閣委員会、政府委員・吉國一郎内閣法制局長官答弁[信頼性要検証]
  16. ^ 1988年(昭和63年)10月11日 参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁[信頼性要検証]
  17. ^ 安田浩 2016, p. 「天皇制」.
  18. ^ 家永三郎 2015, p. 「天皇」.
  19. ^ 法令用語研究会 2015, p. 「天皇」.

参考文献

  • 山内敏弘編『新現代憲法入門』法律文化社、2004年
  • 家永三郎「天皇」『国史大辞典』JapanKnowledge、2015年。 
  • 法令用語研究会「天皇」『法律用語辞典』(第4版)JapanKnowledge、2015年。 
  • 安田浩「天皇制」『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2016年https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 
  • 芦部信喜『憲法』(第六版第三刷)岩波書店、2016年。ISBN 978-4-00-022799-5 
  • 伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊:睦仁・嘉仁から裕仁へ』名古屋大学出版会、2005年。ISBN 978-4815805142 

関連項目

外部リンク