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'''ホウヨウボーイ'''([[1975年]][[4月15日]] - [[1982年]][[5月30日]])は、[[日本中央競馬会]]に所属していた[[競走馬]][[種牡馬]]。[[シンザン]]以来、2年連続で[[中央競馬]]の[[JRA賞|年度代表馬]]に輝いた
'''ホウヨウボーイ'''(欧字名:{{Lang|en|Hoyo Boy}}、[[1975年]][[4月15日]] - [[1982年]][[5月30日]])は、[[日本]][[競走馬]][[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=ホウヨウボーイ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000076778/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>


[[1980年]]から[[1981年]]にかけて、[[シンザン]]以来2頭目となる2年連続年度代表馬([[JRA賞年度代表馬|優駿賞年度代表馬]])を受賞。同様に2年連続で[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|優駿賞最優秀5歳以上牡馬]]を受賞した。
※[[馬齢]]は[[2000年]]まで使用されていた旧表記([[数え年]])に統一する。

主な勝ち鞍は、1980年の[[有馬記念]]、1981年の[[天皇賞(秋)]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 誕生 ===
=== デビューまで ===
ホウヨウクインは、[[北海道]][[新冠町]]の豊洋牧場で生まれた牝馬である<ref name=":0">『優駿』1988年11月号 24頁</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=ホウヨウクイン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000028550/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>。父のレアリーリーガルは、1965年に牧場長の古川博が輸入した[[種牡馬]]であった<ref name=":0" />。競走馬として7戦2勝の成績を残して[[繁殖牝馬]]となり<ref name=":1" />、初年度の1974年は父アバーナントニセイの牡馬(後のホウヨウブラザー)を出産した<ref>{{Cite web|title=繁殖牝馬情報:牝系情報|ホウヨウクイン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000028550/broodmare/info/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>。
[[1975年]][[4月15日]]、[[北海道]][[新冠郡]][[新冠町]]の豊洋牧場で誕生。創業家の古川家は[[1899年]]に[[兵庫県]][[淡路島]]からの入植で、場主の古川博は3代目であった。馬の生産は父の嘉平が始め、牧場の創業は[[1928年]]とかなり早かった<ref>江面弘也「名馬を読む2」三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146、p123</ref>。母・ホウヨウクインは祖父が名種牡馬・[[ネアルコ]]のレアリーリーガルを父に持つ牝馬で、中央で14勝したダツシングラスの孫であった。父・ファーストファミリーは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でガルフストリームパークハンデキャップなど7勝した活躍馬で、古川が[[1973年]]に輸入した[[種牡馬]]。3歳上の兄・[[サーゲイロード]]は[[サーアイヴァー]]などを輩出している世界的名種牡馬で、8歳下の弟には『ビッグレッド』の異名を持つアメリカ[[三冠_(競馬)|三冠馬]]・[[セクレタリアト]]がいた<ref>「名馬を読む2」、p123</ref>。値も張ったが、血統面の魅力がそれを上回り、入手直前にセクレタリアトが三冠達成したために危うく別の馬主に売られそうになった馬であった。ファーストファミリーが[[日本国|日本]]で種付けを始めた年、古川は牧場期待の[[繁殖牝馬]]であったホウヨウクインに配合<ref>「名馬を読む2」、p123</ref>。こうして「[[ロイヤルチャージャー]]4×3」という[[インブリード]](いわゆる『'''奇跡の血量18.75%'''』)を持つ良血として生まれたホウヨウボーイは、豊洋牧場の当歳馬20頭の中で最も期待が持てる馬であったが、育成が佳境に入った所で購入予定の[[馬主]]が購入額(1000万円)の半減を申し出す。牧場がそれを蹴ったために破談となり売れ残ったが、[[千葉県|千葉]]の分場で育成を担当していた弟の古川嘉治が自ら馬主となり、3歳になった[[1977年]]秋に[[中山競馬場|中山]]・[[二本柳俊夫]]厩舎に入厩。

続く2年目は、日本供用初年度であるファーストファミリーを配合した<ref name=":0" />。ファーストファミリーは、アメリカの競走馬としてガルフストリームパークハンデキャップなど7勝を挙げた<ref name=":2">『名馬を語る 2』123頁</ref>。[[セクレタリアト]]の半弟であり高値であったが、1973年に古川が1億4000万円で購入し、日本に輸入された<ref name=":0" /><ref name=":2" />。

1975年4月15日、豊洋牧場にて[[栗毛]]の牡馬(後のホウヨウボーイ)が誕生<ref name=":0" />。産まれた仔は歩様に関する評価が高く、さらに[[馬追い運動]]では常に他の馬を率いるほどであり、他に迷惑をかけないように放牧の際には独りにさせられた<ref name=":0" />。古川博の父で先代にあたる古川嘉平は、仔を「これはよく出来た。うちの一番馬だ。」と話し、記念に[[赤飯]]を炊いていた<ref name=":0" />。

仔は将来性があり、ある馬主に1000万円での購入の約束を取り付けた<ref name=":0" />。しかし、その馬主は日本供用初年度で走るかどうか不明であったファーストファミリー産駒を嫌い、半額の値切りを要求したが、牧場はそれを呑まずに約束は破談となった<ref name=":0" /><ref name=":3">『名馬を語る 2』124頁</ref>。それからしばらく買い手がつかずに売れ残り、結局[[千葉県]]の豊洋牧場分場で育成部門を担っていた古川嘉治(古川博の弟)の名義で競走馬となり「'''ホウヨウボーイ'''」という競走馬名が附された<ref name=":0" /><ref name=":3" />。3歳になった[[1977年]]、[[中山競馬場]]の[[二本柳俊夫]]厩舎に入厩した<ref name=":3" />。

=== 競走馬時代 ===

==== 3-6歳(1977-80年) ====
1977年12月4日、中山競馬場の[[新馬|新馬戦]](芝1200メートル)に[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]が騎乗して1番人気でデビュー、後方に6馬身差をつけて初勝利を挙げた<ref name=":0" />。レース後に、右前脚管骨を骨折して長期離脱となった。半年の休養を経て1978年夏に調教を再開したが、患部の反対側である左前脚管骨を骨折。2度の骨折に古川博は、引退して[[乗馬]]に転用することを二本柳に提案した<ref name=":0" />。しかし、二本柳はホウヨウボーイに高い素質があることと、骨折後に[[天皇賞(秋)]]と[[有馬記念]]を制した[[タニノチカラ]]を例に出して提案を取り下げさせ、現役を続行することとなった<ref name=":0" /><ref name=":3" />。5歳となった1979年8月24日、[[函館競馬場]]の条件戦で1年9か月ぶりに復帰。後方に3馬身差をつけて連勝とし、それから6戦4勝2着2回の成績で条件戦を突破した<ref name=":0" />。

オープン昇格後、6歳となった1980年3月30日の[[日経賞]]で[[重賞]]初出走となり、重賞3連勝中のヨシノスキーや有馬記念優勝馬の[[カネミノブ]]らを下して重賞初優勝となった<ref name=":0" /><ref name=":3" />。それから[[天皇賞(秋)]]を目標に据えて、笹針治療を施し休養。夏を函館競馬場で過ごし、大沼ステークス勝利、東京競馬場のオープン競走で2着<ref name=":3" />。11月23日、目標の天皇賞(秋)では[[カツラノハイセイコ]]に次ぐ2番人気に推された。しかし、参戦10日前に後ろ脚の[[球節]]に擦り傷(クモズレ)を負ったために、万全ではなく7着、初めて掲示板を外した<ref name=":0" />。

有馬記念のファン投票5位に推されて、12月21日の[[有馬記念]]に参戦、クモズレが癒えた状態で4番人気となった<ref name=":0" />。最終コーナーにて逃げたサクラシンゲキをカツラノハイセイコが外から捕えて先頭となり、ホウヨウボーイは残り200メートル地点、馬場の内側からカツラノハイセイコを目標に追い上げた。カツラノハイセイコが苦しくなり、外に斜行する隙に並びかけた。カツラノハイセイコが再び盛り返してきたが、ハナ差退けて優勝した<ref name="優駿-1988-11-25" />。騎乗した加藤は「これで先生(二本柳師)にやっと一つだけ恩返しができました。それにホウヨウボーイの強さを証明できたことが何よりもうれしいですね<ref name="優駿-1988-11-25" />」と話している。1980年の[[八大競走]]は、優勝馬がすべて異なっており、ホウヨウボーイは有馬記念を制したことで[[JRA賞年度代表馬|優駿賞年度代表馬]]、[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|優駿賞最優秀5歳以上牡馬]]を受賞した<ref name="優駿-1988-11-25" />。

==== 7-8歳(1981-82年) ====
1981年は、[[天皇賞(春)]]を目標に、[[1月]]の[[アメリカジョッキークラブカップ]]から始動し、逃げ切り勝利。続く[[中山記念]]2着とした後、天皇賞(春)に参戦しようとしたが、レース10日前に両前脚を[[骨膜炎]]を発症して回避<ref name="優駿-1988-11-25" />。目標を天皇賞(秋)に切り替え、休養となった<ref name=":4">『名馬を語る 2』128頁</ref>。

秋は9月の[[オールカマー]]で半年ぶりの復帰したが、[[陰茎]]を[[勃起]]させたり、汗を多量にかくなどの状態で出走<ref name="優駿-1988-11-25" />、直線で伸びることなく5着に敗れた<ref name="優駿-1988-11-25" />。続いて、天皇賞(秋)を目指したが、レース2週間前に担当[[厩務員]]の菅原重次郎が脳卒中に倒れ、2日前に死去した<ref name=":5">『優駿』1988年11月号 27頁</ref>。

そして10月25日、目標の天皇賞(秋)に出走。1番人気を[[宝塚記念]]優勝馬の[[カツアール]]に譲り、2番人気に推された<ref name=":6">『優駿』1988年11月号 26頁</ref>。スタートから[[モンテプリンス]]がハナを奪い、ホウヨウボーイは2番手に位置、やがて先頭をハセシノブに譲り、それぞれ2、3番手で進んだ<ref name=":7">『名馬を語る 2』131頁</ref>。直線ではその2頭がハセシノブをかわして先頭を争い、後方勢の追い上げが見られないことから、勝負は2頭だけに絞られた<ref name=":7" />。競り合いの中、先にモンテプリンスが半馬身抜きんでていたが、ホウヨウボーイが追い上げ、2頭は決勝線を全く並んで通過。2頭は3分18秒9で走破し、1968年優勝の[[ニットエイト]]が13年間保持したレコードタイムを更新した<ref name=":6" />。決着には[[写真判定]]が用いられ、ホウヨウボーイのハナ差先着が認められた<ref name=":6" />。7歳馬の天皇賞(秋)優勝は初めてであった<ref name=":6" />。加藤は「勝っているとは思わなかった。ゴールしたとき負けたとも思わなかった(後略)<ref name=":5" />」とし「直線で(亡くなった)菅原(厩務員)さんのソレ、ソレという応援が聞こえた(カッコ内補足加筆者)<ref name=":5" />」とも回顧している。(レースに関する詳細は、[[第84回天皇賞]]を参照。)


その後は、[[ジャパンカップ]]に3番人気で出走するも、スタート時に口をゲートの鉄パイプ部分にぶつけ、流血しながら走り6着敗退<ref name=":5" />。(レースに関する詳細は、[[第1回ジャパンカップ]]を参照。)続いてファン投票1位かつ1番人気に推されて、有馬記念に出走。好位につけて直線で抜け出したが、同じ二本柳厩舎の後輩である[[アンバーシャダイ]]にかわされ、2馬身半遅れて2着に敗れた<ref name=":5" />。
=== 3歳 ===
鞍上には二本柳厩舎の主戦である[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]が据えられ、1977年[[12月]]に中山でデビュー。1番人気に応えて6馬身差で圧勝したが、レース後に右前脚の管骨骨折が判明。全治に6ヶ月を要することから春の[[クラシック_(競馬)|クラシック]]出走は不可能になり、秋になってからの復帰を目指して千葉の牧場で再起を図っていたが、不運は更に続く。右脚の骨折が完治して[[菊花賞]]を目標に乗り込みを始めた矢先に今度は左前脚の管骨を骨折し、この2度の骨折で全てのクラシックを棒に振ったほか、競走馬としての再起もほとんど絶望的となった。ホウヨウボーイの休養期間中には入院していた弟の嘉治が亡くなり、落ち込んでいた古川は同馬の引退・乗馬入りを検討していたが、同馬の素質を高く買っていた二本柳は3歳時に重度の骨折で1年以上休養しながら、古馬になって[[有馬記念]]を制した[[タニノチカラ]]を例に挙げてそれを押し留めた。


年末表彰では、2年連続で優駿賞年度代表馬および優駿賞最優秀4歳以上牡馬を受賞<ref name=":5" />。[[シンザン]]以来2頭目とある2年連続年度代表馬受賞であった<ref>『名馬を語る 2』132頁</ref>。8歳となった1982年1月10日、中山競馬場にて[[引退式]]が挙行された<ref name=":5" />。
=== 5歳 ===
亡き古川のためにもと必死に復帰を目指して調教を続け、タニノチカラを超える1年9ヶ月の空白を経て、5歳となった[[1979年]][[8月]]の[[函館競馬場|函館]]の400万下で復帰。3馬身差の勝利で復帰を飾ると、次走の美駒特別(400万下)こそ2着であったものの、富里特別(400万下)、奥多摩特別(800万下)、清澄特別(800万下)と3連勝。順調に条件戦を勝ち上がり、オープンまでオール連対(6戦4勝、2着2回)で駆け上がった。


=== 6歳 ===
=== 種牡馬時代 ===
アメリカから2億円、[[日本中央競馬会]]から1億5000万円の[[種牡馬]]としてのオファーがあったが、[[日高地方]]で繋養するためにそれらを断った<ref name=":8">『優駿』1988年11月号 23頁</ref>。[[日高軽種馬農業協同組合|日高軽種馬農協]]門別種馬場にて種牡馬となり<ref name=":9">『優駿』1988年11月号 22頁
6歳になった[[1980年]]は[[2月]]の香取特別(1200万下)は2着であったものの、[[3月]]のオープン馬相手のブラッドストーンステークス(1200万下)を勝利。勢いに乗って中2週で[[日経賞]]に挑戦し、2番人気を得てヨシノスキー以下に完勝。重賞初挑戦で初制覇という快挙を成し遂げたが、その後も二本柳はホウヨウボーイに無理をさせず、春を休養に当て、[[天皇賞 #天皇賞 (秋)|天皇賞・秋]]を目指して復活の地・函館で調整することになった。一度準オープンに降級したが、8月の大沼ステークス(1200万下)を快勝して再びオープン馬に復帰、この時の3着は後の菊花賞馬となる[[ノースガスト]]であった。オープン馬になったホウヨウボーイは[[10月]]の[[東京競馬場|東京]]のオープン2着を叩いて、[[11月]]の天皇賞(秋)で遂に[[グレード制|GI]]級レース及び[[八大競走]]に挑戦。初のGI級レース出走ながらホウヨウボーイは[[東京優駿]]馬・[[カツラノハイセイコ]]に次ぐ2番人気に推されたが、カツラノハイセイコと互いに牽制しあっているうちに、伏兵の牝馬・[[プリテイキャスト]]の大逃げを許して7着と初めて掲示板を外した。ホウヨウボーイは秋の天皇賞でプリテイキャストに敗れるまで連対率100%であり、それまで3回負けていたが、何れも1着馬は牝馬であった。続く有馬記念では前走の凡走が嫌われて4番人気に支持され、カツラノハイセイコも3番人気と低評価であった。1番人気と2番人気は天皇賞で彼らに先着した[[メジロファントム]]と[[カネミノブ]]であった。天皇賞で大逃走劇を演じたプリテイキャストはファン投票21位でファン投票選出にはならず、推薦馬での出走で7番人気であった。レースはそのプリテイキャストが逃げ、[[サクラシンゲキ]]がそれに続く形でレースを先導した。ホウヨウボーイの加藤とカツラノハイセイコの[[河内洋]]は同じ失敗を繰り返さないとばかりに、ペースを計りながら好位から抜け出すタイミングを待った。先に抜け出したホウヨウボーイは外から迫るカツラノハイセイコの追い込みをハナ差で交わして優勝し、天皇賞惨敗の雪辱を果たした。この有馬記念の勝利が決め手となり、6歳にして初めて年度代表馬になった。


</ref>、古川博を理事に[[シンジケート]]が結成。一口254万円、総勢55口は、2時間かからず満口となった<ref name=":8" />。
=== 7歳 ===
7歳になった[[1981年]]は[[天皇賞 #天皇賞 (春)|天皇賞・春]]を目指し、[[1月]]の[[アメリカジョッキークラブカップ]]から始動。有馬記念と同じ2500mを1番人気で軽く逃げて快勝し、3月の[[中山記念]]2着の後に骨瘤を発症。春を棒に振ることになったが、結果的に関西へ遠征することなく生涯を終えた。秋は復帰戦の[[オールカマー]]こそ5着という不本意な結果に終わり、[[ジャパンカップ]]の創設で1ヶ月繰り上がりとなった[[第84回天皇賞]]ではオールカマーの結果から2番人気と評価を下げる。無冠の帝王といわれた[[モンテプリンス]]は5番人気、1番人気はその年の[[宝塚記念]]を勝っていた[[カツアール]]であった。パドックでは周回順で牝馬の次にならない様に調教師が主催者に申し入れ、5着に敗れた前走のオールカマーの勝ち馬でもある同枠の牝馬・ハセシノブを避けるべく、8枠16番のオーバーレインボーの後ろを歩かせている。レースはモンテプリンスが2、3番手に付け、ホウヨウボーイがモンテプリンスを見るようにレースを進めた。直線はこの2頭が抜け出し、モンテプリンスの[[吉永正人]]、ホウヨウボーイの加藤が馬体を合わせた壮絶な叩き合いが続いた。そして2頭が鼻づらを合わした所がゴールであり、どちらともいえない体勢であったが、写真判定の結果はホウヨウボーイがハナ差で先着してGI級レース2勝目を飾った。加藤は天皇賞を前に逝去した担当厩務員の菅原重次郎が最後のひと押しを助けてくれたと述懐した。1ヶ月後の第1回[[ジャパンカップ]]には日本の総大将として外国馬を迎え撃ったが、レースではスタート時にゲートに顔をぶつける。この時に歯が3本折れて口内出血を起こしていたのが災いして、アメリカの弱冠18歳[[キャッシュ・アスムッセン]]が操る[[メアジードーツ]]の6着に敗れた。日本馬はゴールドスペンサーの5着が最高で、ホウヨウボーイとほぼ同力量のモンテプリンスが8着という結果からすると、まだこの時期の日本馬は世界レベルから程遠かったといえる。ホウヨウボーイは次走の有馬記念で引退することが発表された。世界レベル届かなかったとはいえ、日本最強馬であることは疑いようのなかったホウヨウボーイは1番人気に推されたが、同厩の[[アンバーシャダイ]]の前に2馬身半差の2着に敗れた。それでも、ホウヨウボーイは天皇賞の優勝が評価されて、2年連続で年度代表馬となった。[[2018年]]現在、年度代表馬に2年連続で輝いたのは同馬の他には、シンザン、[[シンボリルドルフ]]、[[シンボリクリスエス]]、[[ディープインパクト_(競走馬)|ディープインパクト]]、[[ウオッカ]]、[[キタサンブラック]]の6頭のみである。


種牡馬1年目の1982年、60頭目のアサヒバージに種付けを行った直後の5月30日午前中に横たわってしまい、鼻から血と胃の内容物を[[嘔吐]]<ref name=":9" /><ref>{{Cite web|title=繁殖牝馬情報:牝系情報|アサヒバージ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000107126/broodmare/info/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>。対処方法は[[鎮静剤]]のみで手の施しようがなく、その日の午後9時半過ぎに死亡した<ref name=":8" />。同時に父ファーストファミリーが[[疝痛]]に襲われていたが、救命に成功している。ホウヨウボーイは翌日に解剖され、胃破裂と診断された<ref name=":8" /><ref>『名馬を語る 2』133頁</ref>。古川博は死因を、「現役時代からよく[[腹痛]]を起こす繊細な神経を持った馬でした。人間でいえばストレスみたいなもので胃の壁が傷んでいたのでしょう。引き金は種付けだったんでしょうか。今思えば死ぬ20日ぐらい前から付けた馬に不受胎馬が多く、そこに死の伏線があったんですかね。(後略)<ref name=":8" />」としている。
=== 引退後 ===
引退後は[[1982年]][[1月10日]]に中山で引退式が執り行われ、[[日高軽種馬農業協同組合|日高軽種馬農協]]門別種馬場で種牡馬入りする。ホウヨウボーイは同じレースに牝馬が出走しているとパドックから「馬っ気」を出し、極度に興奮に達してしまう悪癖があった。当然レースに集中できず、引退までの8敗のうち、6戦は牝馬に先着を許していた。若い時はパドックで水を浴びて興奮を冷ます、あるいは主催者側も配慮してパドックの周回時や本馬場入場時に牝馬を目の前にしないようにする光景も見られていた。そのため種牡馬としてもかなりの期待をされ、初年度から60頭の[[繁殖牝馬]]に恵まれ、48頭の産駒を得た。ところが東京優駿と同じ日の[[5月30日]]にストレス性の胃破裂で急死。僅か1世代の産駒の中から[[道営記念]]を勝ったベストボーイ<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000159090/|title=ベストボーイ |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-08-17}}</ref>、4歳時に[[ゴールドジュニア]]を勝ち、[[東海ダービー]]3着があるドントップ<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000157518/|title=ドントップ |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-08-17}}</ref>、中央3勝のヘイアンユウボーイ<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000159821/|title=ヘイアンユウボーイ |publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-08-17}}</ref>らを輩出。高い繁殖能力を見せていただけにその死は惜しまれたが、種付け料は70万円と当時としても比較的安価な設定であった。配合された牝馬がそれほど質が高くないものが多かったため、父の跡を継ぐような産駒は出なかった。また繁殖牝馬になった産駒は僅か7頭で、うち1頭は[[アングロアラブ|アラブ種]]であるため、現在はホウヨウボーイの血は完全に絶えた。


== 績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]の情報<ref>{{Cite web|title=ホウヨウボーイの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1975101231/|website=netkeiba.com|accessdate=2020-01-17|language=ja}}</ref>に基づく。
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=ホウヨウボーイの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1975101231/|website=netkeiba.com|accessdate=2020-01-17|language=ja}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web|title=競走成績:年度別累計成績/主な成績|ホウヨウボーイ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000076778/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>の情報に基づく。
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|[[中山競馬場|中山]]
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|[[新馬|3歳新馬]]
|
|芝1200m(良)
|芝1200m(良)
|18
|18
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|{{0}}3.2(1人)
|{{0}}3.2(1人)
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|1:12.3
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|[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]
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|52
|52
|(ロイヤルマウンテン)
|(ロイヤルマウンテン)
|-
|-
|1979.08.24
|[[1979年|1979]].{{0}}[[8月24日|8.24]]
|[[函館競馬場|函館]]
|[[函館競馬場|函館]]
|4歳上400万下
|4歳上400万下
|
|芝1700m(良)
|芝1700m(良)
|10
|10
95行目: 113行目:
|{{0}}3.2(1人)
|{{0}}3.2(1人)
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
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|1:43.8
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|56
|56
|(ハジメクール)
|(ハジメクール)
|-
|-
|{{0|0000.}}[[10月6日|10.{{0}}6]]
|1979.10.06
|中山
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|美駒特別
|美駒特別
|
|芝1600m(重)
|芝1600m(重)
|13
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|{{0}}2.0(1人)
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|56
|56
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|シンセイギク
|-
|-
|1979.10.20
|{{0|0000.}}[[10月20日|10.20]]
|中山
|中山
|富里特別
|富里特別
|
|芝1600m(重)
|芝1600m(重)
|11
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|{{0}}1.7(1人)
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|(コクサイスマイル)
|-
|-
|1979.11.18
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|[[東京競馬場|東京]]
|[[東京競馬場|東京]]
|奥多摩特別
|奥多摩特別
|
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|芝2000m(不)
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|{{0}}2.7(1人)
|{{0}}2.7(1人)
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|(ヤシャオー)
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|-
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|1979.12.09
|中山
|中山
|清澄特別
|清澄特別
|
|芝2000m(良)
|芝2000m(良)
|15
|15
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|{{0}}2.3(1人)
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|加藤和宏
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|56
|56
|(マークリフブキ)
|(マークリフブキ)
|-
|-
|1980.02.23
|[[1980年|1980]].{{0}}[[2月23日|2.23]]
|中山
|中山
|香取特別
|香取特別
|
|芝2200m(良)
|芝2200m(良)
|14
|14
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|57
|ボストンメリー
|ボストンメリー
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月15日|3.15]]
|1980.03.15
|中山
|中山
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|ブラッドストーンS
|
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|芝2000m(稍)
|15
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|{{0}}1.9(1人)
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|加藤和宏
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|56
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|(イシノタイカン)
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月30日|3.30]]
|1980.03.30
|中山
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|[[日経賞]]
|[[日経賞]]
|
|芝2500m(不)
|芝2500m(不)
|10
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|{{0}}4.3(2人)
|{{0}}4.3(2人)
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
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|54
|54
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|([[ヨシノスキー]])
|-
|-
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|1980.08.24
|函館
|函館
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|大沼S
|
|芝2000m(不)
|芝2000m(不)
|14
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|{{0}}1.9(1人)
|{{0}}1.9(1人)
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|55
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|(モンテリボー)
|-
|-
|1980.10.25
|{{0|0000.}}[[10月25日|10.25]]
|東京
|東京
|4歳
|4歳上オープン
|
|芝1800m(不)
|芝1800m(不)
|5
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|{{0}}2.7(1人)
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|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
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|{{0}}加藤和宏
|56
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|スイートネイティブ
|スイートネイティブ
|-
|-
|1980.11.23
|{{0|0000.}}[[11月23日|11.23]]
|東京
|東京
|[[天皇賞]]
|[[天皇賞|'''天皇賞(秋)''']]
|
|芝3200m(重)
|芝3200m(重)
|11
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|{{0}}6.1(2人)
|{{0}}6.1(2人)
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|[[プリテイキャスト]]
|-
|-
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|{{0|0000.}}[[12月21日|12.21]]
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|
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|芝2500m(良)
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|10.2(4人)
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|2:33.7
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|([[カツラノハイセイコ]])
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|-
|1981.01.18
|[[1981年|1981]].{{0}}[[1月18日|1.18]]
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|中山
|[[アメリカジョッキークラブカップ|アメリカJCC]]
|[[AJCC]]
|
|芝2500m(良)
|芝2500m(良)
|10
|10
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|{{0}}2.8(1人)
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
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|(サーペンプリンス)
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月8日|3.{{0}}8]]
|1981.03.08
|中山
|中山
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|
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|芝1800m(良)
|10
|10
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|{{0}}2.1(1人)
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
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|{{0}}1:50.8
|加藤和宏
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|58
|58
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|キタノリキオー
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月20日|9.20]]
|1981.09.20
|中山
|中山
|[[オールカマー]]
|[[オールカマー]]
|
|芝2000m(重)
|芝2000m(重)
|9
|9
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|{{0}}2.0(1人)
|{{0}}2.0(1人)
|{{0}}5着
|{{0}}5着
|2:04.8
|{{0}}2:04.8
|加藤和宏
|{{0}}加藤和宏
|59
|59
|[[ハセシノブ]]
|ハセシノブ
|-
|-
|1981.10.25
|{{0|0000.}}[[10月25日|10.25]]
|東京
|東京
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|'''天皇賞(秋)'''
|
|芝3200m(良)
|芝3200m(良)
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|16
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|10.3(2人)
|10.3(2人)
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|加藤和宏
|{{0}}加藤和宏
|58
|58
|([[モンテプリンス]])
|([[モンテプリンス]])
|-
|-
|1981.11.22
|{{0|0000.}}[[11月22日|11.22]]
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|東京
|[[ジャパンC|ジャパンカップ]]
|[[ジャパンC|'''ジャパンカップ''']]
|
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|芝2400m(良)
|15
|15
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|{{0}}7.1(3人)
|{{0}}7.1(3人)
|{{0}}6着
|{{0}}6着
|2:26.1
|{{0}}2:26.1
|加藤和宏
|{{0}}加藤和宏
|57
|57
|[[メアジードーツ]]
|[[メアジードーツ]]
|-
|-
|1981.12.20
|{{0|0000.}}[[12月20日|12.20]]
|中山
|中山
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|'''有馬記念'''
|
|芝2500m(良)
|芝2500m(良)
|16
|16
350行目: 351行目:
|{{0}}3.8(1人)
|{{0}}3.8(1人)
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
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|2:35.9
|{{0}}2:35.9
|加藤和宏
|{{0}}加藤和宏
|56
|56
|[[アンバーシャダイ]]
|[[アンバーシャダイ]]
|}
|}

* 表中の'''太字強調'''は、[[八大競走]]および[[ジャパンカップ]]である。


== 主な産駒 ==
== 主な産駒 ==
*ベストボーイ([[道営記念]])
*ベストボーイ([[道営記念]])<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000159090/|title=ベストボーイ|publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-08-17}}</ref>
*ドントップ([[ゴールドジュニア]]、[[東海ダービー]]3着など)
*ドントップ([[ゴールドジュニア]]、[[東海ダービー]]3着など)<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000157518/|title=ドントップ|publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-08-17}}</ref>
*ヘイアンユウボーイ(中央競馬3勝)
*ヘイアンユウボーイ(中央競馬3勝)<ref>{{Cite web|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000159821/|title=ヘイアンユウボーイ|publisher=JBISサーチ|accessdate=2020-08-17}}</ref>


== エピソード ==
== エピソード ==

漫画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』の主人公[[両津勘吉]]は現役最強馬としてホウヨウボーイの名前をあげていた(27巻)。なお、掲載時(1981年50号)に有馬記念と[[中山大障害]]の予想をしていたが、アンバーシャダイが勝利したため、有馬記念の予想が外れたことになる。
=== "ターフのフェミニスト" ===
引退後に、日本中央競馬会がホウヨウボーイのニックネームを公募し「'''ターフのフェミニスト'''」が当選した<ref name=":4" />。これは、現役のホウヨウボーイが牝馬に弱いとされていたことに由来する<ref name=":4" />。敗れた8戦中6戦は牝馬(シンセイギク<ref>{{Cite web|title=シンセイギク|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000069648/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>、ボストンメリー<ref>{{Cite web|title=ボストンメリー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000071277/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>、[[スイートネイティブ]]<ref>{{Cite web|title=スイートネイテイブ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000095230/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>、[[プリテイキャスト]]<ref>{{Cite web|title=プリテイキヤスト|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000077973/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>、ハセシノブ<ref>{{Cite web|title=ハセシノブ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000095412/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>、[[メアジードーツ]]<ref>{{Cite web|title=Mairzy Doates(USA)|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000091825/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-31}}</ref>)であった<ref name=":4" />。

== 評価 ==

* 「あなたが選ぶ永遠のアイドルホース200選」- 5位(1982年7月、日本中央競馬会主催、ファン投票<ref name=":9" />)


== 血統表 ==
== 血統表 ==
408行目: 417行目:
}}
}}


== 出典・脚注 ==
== 脚注 ==

=== 注釈 ===

=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==

* 江面弘也「ホウヨウボーイ 不屈の馬の名勝負vsカツラノハイセイコ、モンテプリンス」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1988年11月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 33】晩成の少年 ホウヨウボーイ」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2021年8月31日 (火) 16:17時点における版

ホウヨウボーイ
欧字表記 Hoyo Boy[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
生誕 1975年4月15日[1]
死没 1982年5月30日(8歳没)
ファーストファミリー[1]
ホウヨウクイン[1]
母の父 レアリーリーガル[1]
生国 日本の旗 日本北海道新冠町
生産者 豊洋牧場[1]
馬主 古川嘉治[1]
調教師 二本柳俊夫[1]中山 - 美浦南
厩務員 菅原重次郎[2]
→不明
競走成績
タイトル 優駿賞年度代表馬(1980-81年)[1]
優駿賞最優秀5歳以上牡馬(1980-81年)[1]
生涯成績 19戦11勝[1]
獲得賞金 2億7466万0000円[1]
勝ち鞍
八大競走 有馬記念 1980年
八大競走 天皇賞(秋) 1981年
重賞 日経賞 1980年
重賞 アメリカJCC 1981年
テンプレートを表示

ホウヨウボーイ(欧字名:Hoyo Boy1975年4月15日 - 1982年5月30日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1980年から1981年にかけて、シンザン以来2頭目となる2年連続年度代表馬(優駿賞年度代表馬)を受賞。同様に2年連続で優駿賞最優秀5歳以上牡馬を受賞した。

主な勝ち鞍は、1980年の有馬記念、1981年の天皇賞(秋)

生涯

デビューまで

ホウヨウクインは、北海道新冠町の豊洋牧場で生まれた牝馬である[3][4]。父のレアリーリーガルは、1965年に牧場長の古川博が輸入した種牡馬であった[3]。競走馬として7戦2勝の成績を残して繁殖牝馬となり[4]、初年度の1974年は父アバーナントニセイの牡馬(後のホウヨウブラザー)を出産した[5]

続く2年目は、日本供用初年度であるファーストファミリーを配合した[3]。ファーストファミリーは、アメリカの競走馬としてガルフストリームパークハンデキャップなど7勝を挙げた[6]セクレタリアトの半弟であり高値であったが、1973年に古川が1億4000万円で購入し、日本に輸入された[3][6]

1975年4月15日、豊洋牧場にて栗毛の牡馬(後のホウヨウボーイ)が誕生[3]。産まれた仔は歩様に関する評価が高く、さらに馬追い運動では常に他の馬を率いるほどであり、他に迷惑をかけないように放牧の際には独りにさせられた[3]。古川博の父で先代にあたる古川嘉平は、仔を「これはよく出来た。うちの一番馬だ。」と話し、記念に赤飯を炊いていた[3]

仔は将来性があり、ある馬主に1000万円での購入の約束を取り付けた[3]。しかし、その馬主は日本供用初年度で走るかどうか不明であったファーストファミリー産駒を嫌い、半額の値切りを要求したが、牧場はそれを呑まずに約束は破談となった[3][7]。それからしばらく買い手がつかずに売れ残り、結局千葉県の豊洋牧場分場で育成部門を担っていた古川嘉治(古川博の弟)の名義で競走馬となり「ホウヨウボーイ」という競走馬名が附された[3][7]。3歳になった1977年中山競馬場二本柳俊夫厩舎に入厩した[7]

競走馬時代

3-6歳(1977-80年)

1977年12月4日、中山競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に加藤和宏が騎乗して1番人気でデビュー、後方に6馬身差をつけて初勝利を挙げた[3]。レース後に、右前脚管骨を骨折して長期離脱となった。半年の休養を経て1978年夏に調教を再開したが、患部の反対側である左前脚管骨を骨折。2度の骨折に古川博は、引退して乗馬に転用することを二本柳に提案した[3]。しかし、二本柳はホウヨウボーイに高い素質があることと、骨折後に天皇賞(秋)有馬記念を制したタニノチカラを例に出して提案を取り下げさせ、現役を続行することとなった[3][7]。5歳となった1979年8月24日、函館競馬場の条件戦で1年9か月ぶりに復帰。後方に3馬身差をつけて連勝とし、それから6戦4勝2着2回の成績で条件戦を突破した[3]

オープン昇格後、6歳となった1980年3月30日の日経賞重賞初出走となり、重賞3連勝中のヨシノスキーや有馬記念優勝馬のカネミノブらを下して重賞初優勝となった[3][7]。それから天皇賞(秋)を目標に据えて、笹針治療を施し休養。夏を函館競馬場で過ごし、大沼ステークス勝利、東京競馬場のオープン競走で2着[7]。11月23日、目標の天皇賞(秋)ではカツラノハイセイコに次ぐ2番人気に推された。しかし、参戦10日前に後ろ脚の球節に擦り傷(クモズレ)を負ったために、万全ではなく7着、初めて掲示板を外した[3]

有馬記念のファン投票5位に推されて、12月21日の有馬記念に参戦、クモズレが癒えた状態で4番人気となった[3]。最終コーナーにて逃げたサクラシンゲキをカツラノハイセイコが外から捕えて先頭となり、ホウヨウボーイは残り200メートル地点、馬場の内側からカツラノハイセイコを目標に追い上げた。カツラノハイセイコが苦しくなり、外に斜行する隙に並びかけた。カツラノハイセイコが再び盛り返してきたが、ハナ差退けて優勝した[2]。騎乗した加藤は「これで先生(二本柳師)にやっと一つだけ恩返しができました。それにホウヨウボーイの強さを証明できたことが何よりもうれしいですね[2]」と話している。1980年の八大競走は、優勝馬がすべて異なっており、ホウヨウボーイは有馬記念を制したことで優駿賞年度代表馬優駿賞最優秀5歳以上牡馬を受賞した[2]

7-8歳(1981-82年)

1981年は、天皇賞(春)を目標に、1月アメリカジョッキークラブカップから始動し、逃げ切り勝利。続く中山記念2着とした後、天皇賞(春)に参戦しようとしたが、レース10日前に両前脚を骨膜炎を発症して回避[2]。目標を天皇賞(秋)に切り替え、休養となった[8]

秋は9月のオールカマーで半年ぶりの復帰したが、陰茎勃起させたり、汗を多量にかくなどの状態で出走[2]、直線で伸びることなく5着に敗れた[2]。続いて、天皇賞(秋)を目指したが、レース2週間前に担当厩務員の菅原重次郎が脳卒中に倒れ、2日前に死去した[9]

そして10月25日、目標の天皇賞(秋)に出走。1番人気を宝塚記念優勝馬のカツアールに譲り、2番人気に推された[10]。スタートからモンテプリンスがハナを奪い、ホウヨウボーイは2番手に位置、やがて先頭をハセシノブに譲り、それぞれ2、3番手で進んだ[11]。直線ではその2頭がハセシノブをかわして先頭を争い、後方勢の追い上げが見られないことから、勝負は2頭だけに絞られた[11]。競り合いの中、先にモンテプリンスが半馬身抜きんでていたが、ホウヨウボーイが追い上げ、2頭は決勝線を全く並んで通過。2頭は3分18秒9で走破し、1968年優勝のニットエイトが13年間保持したレコードタイムを更新した[10]。決着には写真判定が用いられ、ホウヨウボーイのハナ差先着が認められた[10]。7歳馬の天皇賞(秋)優勝は初めてであった[10]。加藤は「勝っているとは思わなかった。ゴールしたとき負けたとも思わなかった(後略)[9]」とし「直線で(亡くなった)菅原(厩務員)さんのソレ、ソレという応援が聞こえた(カッコ内補足加筆者)[9]」とも回顧している。(レースに関する詳細は、第84回天皇賞を参照。)

その後は、ジャパンカップに3番人気で出走するも、スタート時に口をゲートの鉄パイプ部分にぶつけ、流血しながら走り6着敗退[9]。(レースに関する詳細は、第1回ジャパンカップを参照。)続いてファン投票1位かつ1番人気に推されて、有馬記念に出走。好位につけて直線で抜け出したが、同じ二本柳厩舎の後輩であるアンバーシャダイにかわされ、2馬身半遅れて2着に敗れた[9]

年末表彰では、2年連続で優駿賞年度代表馬および優駿賞最優秀4歳以上牡馬を受賞[9]シンザン以来2頭目とある2年連続年度代表馬受賞であった[12]。8歳となった1982年1月10日、中山競馬場にて引退式が挙行された[9]

種牡馬時代

アメリカから2億円、日本中央競馬会から1億5000万円の種牡馬としてのオファーがあったが、日高地方で繋養するためにそれらを断った[13]日高軽種馬農協門別種馬場にて種牡馬となり[14]、古川博を理事にシンジケートが結成。一口254万円、総勢55口は、2時間かからず満口となった[13]

種牡馬1年目の1982年、60頭目のアサヒバージに種付けを行った直後の5月30日午前中に横たわってしまい、鼻から血と胃の内容物を嘔吐[14][15]。対処方法は鎮静剤のみで手の施しようがなく、その日の午後9時半過ぎに死亡した[13]。同時に父ファーストファミリーが疝痛に襲われていたが、救命に成功している。ホウヨウボーイは翌日に解剖され、胃破裂と診断された[13][16]。古川博は死因を、「現役時代からよく腹痛を起こす繊細な神経を持った馬でした。人間でいえばストレスみたいなもので胃の壁が傷んでいたのでしょう。引き金は種付けだったんでしょうか。今思えば死ぬ20日ぐらい前から付けた馬に不受胎馬が多く、そこに死の伏線があったんですかね。(後略)[13]」としている。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[17]およびJBISサーチ[18]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ(人気) 着順 タイム 0騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬)
1977.12.04 中山 3歳新馬 芝1200m(良) 18 6 11 03.2(1人) 01着 01:12.3 0加藤和宏 52 (ロイヤルマウンテン)
1979.08.24 函館 4歳上400万下 芝1700m(良) 10 5 5 03.2(1人) 01着 01:43.8 0加藤和宏 56 (ハジメクール)
0000.10.06 中山 美駒特別 芝1600m(重) 13 4 5 02.0(1人) 02着 01:36.9 0加藤和宏 56 シンセイギク
0000.10.20 中山 富里特別 芝1600m(重) 11 2 2 01.7(1人) 01着 01:37.1 0加藤和宏 56 (コクサイスマイル)
0000.11.18 東京 奥多摩特別 芝2000m(不) 9 3 3 02.7(1人) 01着 02:06.1 0加藤和宏 56 (ヤシャオー)
0000.12.09 中山 清澄特別 芝2000m(良) 15 7 13 02.3(1人) 01着 02:04.1 0加藤和宏 56 (マークリフブキ)
1980.02.23 中山 香取特別 芝2200m(良) 14 1 1 03.9(1人) 02着 02:15.9 0加藤和宏 57 ボストンメリー
0000.03.15 中山 ブラッドストーンS 芝2000m(稍) 15 8 15 01.9(1人) 01着 02:05.1 0加藤和宏 56 (イシノタイカン)
0000.03.30 中山 日経賞 芝2500m(不) 10 7 8 04.3(2人) 01着 02:41.9 0加藤和宏 54 ヨシノスキー
0000.08.24 函館 大沼S 芝2000m(不) 14 4 6 01.9(1人) 01着 02:04.7 0加藤和宏 55 (モンテリボー)
0000.10.25 東京 4歳上オープン 芝1800m(不) 5 3 3 02.7(1人) 02着 01:53.9 0加藤和宏 56 スイートネイティブ
0000.11.23 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(重) 11 7 8 06.1(2人) 07着 03:30.4 0加藤和宏 58 プリテイキャスト
0000.12.21 中山 有馬記念 芝2500m(良) 12 3 3 10.2(4人) 01着 02:33.7 0加藤和宏 56 カツラノハイセイコ
1981.01.18 中山 アメリカJCC 芝2500m(良) 10 7 7 02.8(1人) 01着 02:37.5 0加藤和宏 57 (サーペンプリンス)
0000.03.08 中山 中山記念 芝1800m(良) 10 5 5 02.1(1人) 02着 01:50.8 0加藤和宏 58 キタノリキオー
0000.09.20 中山 オールカマー 芝2000m(重) 9 7 7 02.0(1人) 05着 02:04.8 0加藤和宏 59 ハセシノブ
0000.10.25 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(良) 16 1 2 10.3(2人) 01着 03:18.9 0加藤和宏 58 モンテプリンス
0000.11.22 東京 ジャパンカップ 芝2400m(良) 15 2 2 07.1(3人) 06着 02:26.1 0加藤和宏 57 メアジードーツ
0000.12.20 中山 有馬記念 芝2500m(良) 16 7 13 03.8(1人) 02着 02:35.9 0加藤和宏 56 アンバーシャダイ

主な産駒

エピソード

"ターフのフェミニスト"

引退後に、日本中央競馬会がホウヨウボーイのニックネームを公募し「ターフのフェミニスト」が当選した[8]。これは、現役のホウヨウボーイが牝馬に弱いとされていたことに由来する[8]。敗れた8戦中6戦は牝馬(シンセイギク[22]、ボストンメリー[23]スイートネイティブ[24]プリテイキャスト[25]、ハセシノブ[26]メアジードーツ[27])であった[8]

評価

  • 「あなたが選ぶ永遠のアイドルホース200選」- 5位(1982年7月、日本中央競馬会主催、ファン投票[14]

血統表

ホウヨウボーイ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ロイヤルチャージャー系
[§ 2]

*ファーストファミリー
First Family
1962 栗毛
父の父
First Landing
1956 鹿毛
Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Hildene Bubbling Over
Fancy Racket
父の母
Somethingroyal
1952 鹿毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Imperatrice Caruso
Cinquepace

ホウヨウクイン
1969 鹿毛
*レアリーリーガル
Really Regal
1962 栃栗毛
Royal Charger Nearco
Sun Princess
Fresh Air Fair Trial
Refreshed
母の母
豊隼
1962 芦毛
*フェリオール
Ferriol
Fastnet
Aisse
ダツシングラス ダツシング
第弐フラツシングラス
母系(F-No.) フラストレート系(FN:1-b) [§ 3]
5代内の近親交配 Royal Charger 4×3、Pharos 5・5(母系内) [§ 4]
出典
  1. ^ [28]
  2. ^ [29]
  3. ^ [30][28]
  4. ^ [28]


脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p ホウヨウボーイ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『優駿』1988年11月号 25頁
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『優駿』1988年11月号 24頁
  4. ^ a b ホウヨウクイン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  5. ^ 繁殖牝馬情報:牝系情報|ホウヨウクイン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  6. ^ a b 『名馬を語る 2』123頁
  7. ^ a b c d e f 『名馬を語る 2』124頁
  8. ^ a b c d 『名馬を語る 2』128頁
  9. ^ a b c d e f g 『優駿』1988年11月号 27頁
  10. ^ a b c d 『優駿』1988年11月号 26頁
  11. ^ a b 『名馬を語る 2』131頁
  12. ^ 『名馬を語る 2』132頁
  13. ^ a b c d e 『優駿』1988年11月号 23頁
  14. ^ a b c 『優駿』1988年11月号 22頁
  15. ^ 繁殖牝馬情報:牝系情報|アサヒバージ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  16. ^ 『名馬を語る 2』133頁
  17. ^ ホウヨウボーイの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2020年1月17日閲覧。
  18. ^ 競走成績:年度別累計成績/主な成績|ホウヨウボーイ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  19. ^ ベストボーイ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
  20. ^ ドントップ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
  21. ^ ヘイアンユウボーイ”. JBISサーチ. 2020年8月17日閲覧。
  22. ^ シンセイギク|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  23. ^ ボストンメリー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  24. ^ スイートネイテイブ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  25. ^ プリテイキヤスト|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  26. ^ ハセシノブ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  27. ^ Mairzy Doates(USA)|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月31日閲覧。
  28. ^ a b c 血統情報:5代血統表|ホウヨウボーイ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年9月5日閲覧。
  29. ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、54-55頁。 
  30. ^ 『優駿』1981年12月号、日本中央競馬会、74頁

参考文献

  • 江面弘也「ホウヨウボーイ 不屈の馬の名勝負vsカツラノハイセイコ、モンテプリンス」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日、ISBN 4908655146
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1988年11月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 33】晩成の少年 ホウヨウボーイ」

外部リンク