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'''ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・コマロフ'''({{lang-rus|Влади́мир Миха́йлович Комаро́в|p=vlɐˈdʲimʲɪr mʲɪˈxajləvʲɪtɕ kəmɐˈrof}}; [[1927年]][[3月16日]] – [[1967年]][[4月24日]]) は、[[ソヴィエト連邦]]の[[テストパイロット|試験飛行操縦士]]、航空宇宙飛行士、航空宇宙機関士。[[1964年]]10月、複数の搭乗員を乗船させた宇宙飛行、[[ヴォスホート1号|ヴォスホート一号]](Восход-1)の指揮を執った。のちの[[ソユーズ1号|ソユーズ一号]](Союз-1)の打ち上げにおいては、有人宇宙飛行で初の単独操縦士に選抜され、ソ連の宇宙飛行士として2度の宇宙飛行を経験した最初の人物となった。[[1967年]][[4月23日]]、コマロフはソユーズ一号に単独で搭乗し、宇宙へと打ち上げられるも、[[パラシュート|落下傘型安全装置]]が機能不全を起こし、ソユーズ宇宙船は地上に[[墜落]]。宇宙事故による非業の最期を遂げた最初の人物にもなった<ref name="Space Exploration Reference Library">{{cite book|title=Space Exploration Reference Library|year=2005|editor=Lawrence W. Baker|chapter=Almanac, Vol 1}}</ref>。
'''ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・コマロフ'''({{lang-rus|''Влади́мир Миха́йлович Комаро́в''|p=vlɐˈdʲimʲɪr mʲɪˈxajləvʲɪtɕ kəmɐˈrof}}; [[1927年]][[3月16日]] – [[1967年]][[4月24日]]) は、[[ソヴィエト連邦]]の[[テストパイロット|試験飛行操縦士]]、航空宇宙飛行士、航空宇宙機関士。[[1964年]]10月、複数の搭乗員を乗船させた宇宙飛行、[[ヴォスホート1号|ヴォスホート一号]]('''Восход-1''')の指揮を執った。のちの[[ソユーズ1号|ソユーズ一号]]('''Союз-1''')の打ち上げにおいては、有人宇宙飛行で初の単独操縦士に選抜され、ソ連の宇宙飛行士として2度の宇宙飛行を経験した最初の人物となった。[[1967年]][[4月23日]]、コマロフはソユーズ一号に単独で搭乗し、宇宙へと打ち上げられるも、[[パラシュート|落下傘型安全装置]]が機能不全を起こし、ソユーズ宇宙船は地上に[[墜落]]。宇宙事故による非業の最期を遂げた最初の人物にもなった<ref name="Space Exploration Reference Library">{{cite book|title=Space Exploration Reference Library|year=2005|editor=Lawrence W. Baker|chapter=Almanac, Vol 1}}</ref>。


[[1960年]]に選抜された宇宙飛行士の第一隊の中では、コマロフは最も経験豊富かつ優秀な候補者の1人とみなされた。宇宙飛行計画に参画中の彼は、医学的見地から、「訓練や宇宙飛行には不適格」との宣告を2回受けたが、剛毅さ、優れた技術、工学技術の知識により、自身の役割を果たし続けた。1960年1月に設立された[[ガガーリン宇宙飛行士訓練センター]]での訓練生のころには、宇宙船の設計、宇宙飛行士の訓練、評価、広報・宣伝活動に尽力した。
[[1960年]]に選抜された宇宙飛行士の第一隊の中では、コマロフは最も経験豊富かつ優秀な候補者の1人とみなされた。宇宙飛行計画に参画中の彼は、医学的見地から、「訓練や宇宙飛行には不適格」との宣告を2回受けたが、剛毅さ、優れた技術、工学技術の知識により、自身の役割を果たし続けた。1960年1月に設立された[[ガガーリン宇宙飛行士訓練センター]]での訓練生のころには、宇宙船の設計、宇宙飛行士の訓練、評価、広報・宣伝活動に尽力した。


== 生い立ちと教育 ==
== 生い立ちと教育 ==
[[1927年]][[3月16日]]、[[モスクワ]]に生まれた。ヴラジーミルには、[[1915年]]生まれの異母姉・マチルダがおり、ともに育った。父親のミハイル・ヤーコヴレヴィチ・コマロフ(Михаил Яковлевич Комаров)は貧しい労働者であり、家計を支えるためにさまざまな低賃金の仕事に従事していた。[[1935年]]、ヴラジーミルは地元の小学校で正式な学校教育を受け始めた。彼は[[数学]]に対して天賦の才を発揮した<ref>Burgess and Hall, p. 52</ref>。[[1941年]]、[[第二次世界大戦]]ならびに[[ナチス・ドイツ]]のソ連への侵攻を理由にヴラジーミルは学校を辞め、[[集団農場]]の労働者として働いた。幼いころから航空学・宇宙飛行に興味を惹かれていたヴラジーミルは、航空関係の雑誌や写真を収集し、模型飛行機や自作の[[プロペラ]]を作るようになった<ref name=BHp53>Burgess and Hall, p. 53</ref>。[[1942年]]、15歳のヴラジーミルは、航空士になることを夢見て第一モスクワ特別空挺学校に入学した。その後まもなく、父親が「未確認の戦争行為」で死亡したことを知った<ref name=BHp53/>。ドイツ軍の侵攻により、航空学校はやむを得ず[[シベリア]]の[[チュメニ|チュミン]]地方に建物を移転し、戦時中はここで過ごすことになった。ここでは航空学以外にも動物学、外国語、さまざまな科目が学べた。[[1945年]]、ヴラジーミルは優秀な成績を収め、航空学校を卒業した。[[第二次世界大戦]]は、ヴラジーミルが戦闘に召集される前に終わりを告げた。
[[1927年]][[3月16日]]、[[モスクワ]]に生まれた。ヴラジーミルには、[[1915年]]生まれの異母姉・マチルダがおり、ともに育った。父親のミハイル・ヤーコヴレヴィチ・コマロフ('''Михаил Яковлевич Комаров''')は貧しい労働者であり、家計を支えるためにさまざまな低賃金の仕事に従事していた。[[1935年]]、ヴラジーミルは地元の小学校で正式な学校教育を受け始めた。彼は[[数学]]に対して天賦の才を発揮した<ref>Burgess and Hall, p. 52</ref>。[[1941年]]、[[第二次世界大戦]]ならびに[[ナチス・ドイツ]]のソ連への侵攻を理由にヴラジーミルは学校を辞め、[[集団農場]]の労働者として働いた。幼いころから航空学・宇宙飛行に興味を惹かれていたヴラジーミルは、航空関係の雑誌や写真を収集し、模型飛行機や自作の[[プロペラ]]を作るようになった<ref name=BHp53>Burgess and Hall, p. 53</ref>。[[1942年]]、15歳のヴラジーミルは、航空士になることを夢見て第一モスクワ特別空挺学校に入学した。その後まもなく、父親が「未確認の戦争行為」で死亡したことを知った<ref name=BHp53/>。ドイツ軍の侵攻により、航空学校はやむを得ず[[シベリア]]の[[チュメニ|チュミン]]地方に建物を移転し、戦時中はここで過ごすことになった。ここでは航空学以外にも動物学、外国語、さまざまな科目が学べた。[[1945年]]、ヴラジーミルは優秀な成績を収め、航空学校を卒業した。[[第二次世界大戦]]は、ヴラジーミルが戦闘に召集される前に終わりを告げた。


[[1946年]]、コマロフはヴァローニェシュ州ヴァリサヴィレヴスク空軍基地のシュカロフ高等空挺学校にて、最初の年の訓練を完了、その後、バタイスクにあるA・K・セロフ軍事航空大学校で訓練を完了させ、[[1949年]]に卒業した。卒業時、コマロフは操縦士の記章を授与され、ソ連空軍中尉に任命された。卒業する7か月前の1949年[[5月30日]]、コマロフは母を亡くしている。
[[1946年]]、コマロフはヴァローニェシュ州ヴァリサヴィレヴスク空軍基地のシュカロフ高等空挺学校にて、最初の年の訓練を完了、その後、バタイスクにあるA・K・セロフ軍事航空大学校で訓練を完了させ、[[1949年]]に卒業した。卒業時、コマロフは操縦士の記章を授与され、ソ連空軍中尉に任命された。卒業する7か月前の1949年[[5月30日]]、コマロフは母を亡くしている。


== ソ連空軍 ==
== ソ連空軍 ==
1949年12月、コマロフは[[グローズヌイ]]を拠点とする北カフカース第42戦闘航空師団第383連隊にて、戦闘機の操縦士を務めた。彼はここで、ヴァレンチーナ・ヤーコヴレヴナ・キシリョーヴァ(Валентина Яковлевна Киселёва)と出会った。2人は[[1950年]]10月に[[結婚]]した。
1949年12月、コマロフは[[グローズヌイ]]を拠点とする北カフカース第42戦闘航空師団第383連隊にて、戦闘機の操縦士を務めた。彼はここで、ヴァレンチーナ・ヤーコヴレヴナ・キシリョーヴァ('''Валентина Яковлевна Киселёва''')と出会った。2人は[[1950年]]10月に[[結婚]]した。


[[1952年]]には上級中尉に昇進し、その後、プリカルパーチェ地方の第279戦闘航空師団第486戦闘航空連隊の一等操縦士に任命された<ref name=BHp53/>。[[1954年]]まで一等操縦士として働いたのち、ジューコフスキー空軍技術専門学校工学課程に入学した。[[1959年]]、コマロフは上級工学中尉に昇進した。同年末、彼はチカロフスキーにある中央科学研究所の試験操縦士になるという目標を達成した。
[[1952年]]には上級中尉に昇進し、その後、プリカルパーチェ地方の第279戦闘航空師団第486戦闘航空連隊の一等操縦士に任命された<ref name=BHp53/>。[[1954年]]まで一等操縦士として働いたのち、ジューコフスキー空軍技術専門学校工学課程に入学した。[[1959年]]、コマロフは上級工学中尉に昇進した。同年末、彼はチカロフスキーにある中央科学研究所の試験操縦士になるという目標を達成した。
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[[File:RIAN archive 577300 Cosmonaut Vladimir Komarov and Chilean journalists.jpg|thumb|[[1966年]]、[[チリ]]のジャーナリストと会談するコマロフ(左から3番目)]]
[[File:RIAN archive 577300 Cosmonaut Vladimir Komarov and Chilean journalists.jpg|thumb|[[1966年]]、[[チリ]]のジャーナリストと会談するコマロフ(左から3番目)]]
=== 第一航空団 ===
=== 第一航空団 ===
1959年9月、コマロフは主任技師に昇進し、約3000人の操縦士たちとともに宇宙飛行士候補者選考会への出席に招待された<ref>Burgess and Hall, p. 54</ref>。彼は第一航空団で20人の候補者の1人に選ばれ、[[1960年]][[3月13日]]にモスクワ郊外にある「''TsPK''」([[モスクワ州]]ズヨーズヌイ・ガラードック, Звёздный Городок, 「星の街」)に赴き、他の操縦士たちとともに任務を開始した。優秀であったにもかかわらず、コマロフは上位6名の候補者には選ばれなかった。ロシアの宇宙計画の主任設計者であった[[セルゲイ・コロリョフ|セルギイ・カラーリェフ]](Сергей Королев)が指定した年齢、身長、体重の制限を満たしていなかったのが理由であった。宇宙飛行訓練教官のマルク・ガーライ(Марк Галлай)は、取材訪問で「もしも基準が違っていたら」「確かに、コマロフは高度な知能の持ち主であり、候補者の1人に選ばれたかもしれない。彼には空軍士官学校での飛行経験もあった。『ヴォストーク』と『ヴォスホート』の設計は、コマロフの尽力によるところが大きい」と語った<ref>{{cite book | last1 = Harford | first1 = James | title = Korolev | publisher = John Wiley & Sons | year = 1997 | page = 165| isbn = 0-471-32721-2}}</ref>。当時、コマロフは32歳であり、選抜された操縦士の中では2番目に年上であった。セルギイ・カラーリェフは、操縦士の最高年齢について「27歳」と指定していた。第一隊の中でソ連空軍学校を卒業したのは、[[パーヴェル・ベリャーエフ|パーヴェル・ベリャーイェフ]](Павло Бєляєв)とコマロフの2人だけであった。加えて、新型の航空機の航空試験技師の経験もあったのはコマロフのみであった<ref>Hall and Shayler, p. 109</ref>。
1959年9月、コマロフは主任技師に昇進し、約3000人の操縦士たちとともに宇宙飛行士候補者選考会への出席に招待された<ref>Burgess and Hall, p. 54</ref>。彼は第一航空団で20人の候補者の1人に選ばれ、[[1960年]][[3月13日]]にモスクワ郊外にある「''TsPK''」([[モスクワ州]]ズヨーズヌイ・ガラードック, '''Звёздный Городок''', 「星の街」)に赴き、他の操縦士たちとともに任務を開始した。優秀であったにもかかわらず、コマロフは上位6名の候補者には選ばれなかった。ロシアの宇宙計画の主任設計者であった[[セルゲイ・コロリョフ|セルギイ・カラーリェフ]]('''Сергей Королев''')が指定した年齢、身長、体重の制限を満たしていなかったのが理由であった。宇宙飛行訓練教官のマルク・ガーライ('''Марк Галлай''')は、取材訪問で「もしも基準が違っていたら」「確かに、コマロフは高度な知能の持ち主であり、候補者の1人に選ばれたかもしれない。彼には空軍士官学校での飛行経験もあった。『ヴォストーク』と『ヴォスホート』の設計は、コマロフの尽力によるところが大きい」と語った<ref>{{cite book | last1 = Harford | first1 = James | title = Korolev | publisher = John Wiley & Sons | year = 1997 | page = 165| isbn = 0-471-32721-2}}</ref>。当時、コマロフは32歳であり、選抜された操縦士の中では2番目に年上であった。セルギイ・カラーリェフは、操縦士の最高年齢について「27歳」と指定していた。第一隊の中でソ連空軍学校を卒業したのは、[[パーヴェル・ベリャーエフ|パーヴェル・ベリャーイェフ]]('''Павло Бєляєв''')とコマロフの2人だけであった。加えて、新型の航空機の航空試験技師の経験もあったのはコマロフのみであった<ref>Hall and Shayler, p. 109</ref>。


=== 訓練 ===
=== 訓練 ===
宇宙飛行士の訓練開始直後の1960年5月、コマロフは軽い手術のために入院し、約半年間、医学的に身体訓練ができない状態にあった。当時、宇宙飛行士の選抜基準では体調が重視され、わずかでも不調が見つかれば即座に失格とされた。しかし、コマロフはすでに工学の資格を所持しており、「君なら遅れを取り戻せる」という行政側の説得に応じる形で訓練への残留を許可された。療養中の身でも、必修の学術研究は続けていた<ref>Hall and Shayler, p. 125</ref>。コマロフの身体は医局員たちが予想していた以上に早く回復し、10月には訓練に復帰できた。彼はこの間に後輩の学術研究を手伝い、2歳年上のベリャーエフからは「教授」というくだけた愛称で呼ばれるようになった。
宇宙飛行士の訓練開始直後の1960年5月、コマロフは軽い手術のために入院し、約半年間、医学的に身体訓練ができない状態にあった。当時、宇宙飛行士の選抜基準では体調が重視され、わずかでも不調が見つかれば即座に失格とされた。しかし、コマロフはすでに工学の資格を所持しており、「君なら遅れを取り戻せる」という行政側の説得に応じる形で訓練への残留を許可された。療養中の身でも、必修の学術研究は続けていた<ref>Hall and Shayler, p. 125</ref>。コマロフの身体は医局員たちが予想していた以上に早く回復し、10月には訓練に復帰できた。彼はこの間に後輩の学術研究を手伝い、2歳年上のベリャーエフからは「教授」というくだけた愛称で呼ばれるようになった。


[[1961年]]、最初の宇宙飛行が始まった。[[1962年]]、コマロフは、技能、階級、経験により、宇宙飛行士として3番目に高い報酬を得ていた。彼の月給は528[[ルーブル]]であり、これより高給取りだったのは第一飛行士の[[ユーリイ・ガガーリン]](Юрий Гагарин)と、第二飛行士の[[ゲルマン・チトフ]](Герман Титов)だけであった<ref>Kamanin Diary, 16 March 1962</ref>。
[[1961年]]、最初の宇宙飛行が始まった。[[1962年]]、コマロフは、技能、階級、経験により、宇宙飛行士として3番目に高い報酬を得ていた。彼の月給は528[[ルーブル]]であり、これより高給取りだったのは第一飛行士の[[ユーリイ・ガガーリン]]('''Юрий Гагарин''')と、第二飛行士の[[ゲルマン・チトフ]]('''Герман Титов''')だけであった<ref>Kamanin Diary, 16 March 1962</ref>。


宇宙飛行士の1人、[[ゲオルギー・ショーニン]](Гео́ргий Шо́нин)が、[[遠心分離機]]の内部で、許容限度を超えた水準の重力加速度(''G-Force'')の感受性を明示すると、1962年5月に計画されていたヴォストーク二重任務のため、コマロフがショーニンの後任となった<ref>Hall and Shayler, p. 181</ref>。[[パーヴェル・ポポーヴィチ]](Павел Попович)の控えとして「ヴォストーク四号」(Восток 4)にはコマロフが選ばれたが、その後に実施された定期心電図検査で、コマロフの心臓に異常が見付かったことにより、コマロフは宇宙飛行計画から外され、[[ボリス・ヴォリノフ|バリス・ヴォリーノフ]](Борис Волынов)がその後釜になった<ref>Hall and Shayler, pp. 182–83</ref>。コマロフは、医局員や軍隊に根気よく働きかけ、宇宙飛行訓練への復帰を許可された。
宇宙飛行士の1人、[[ゲオルギー・ショーニン]]('''Гео́ргий Шо́нин''')が、[[遠心分離機]]の内部で、許容限度を超えた水準の重力加速度(''G-Force'')の感受性を明示すると、1962年5月に計画されていたヴォストーク二重任務のため、コマロフがショーニンの後任となった<ref>Hall and Shayler, p. 181</ref>。[[パーヴェル・ポポーヴィチ]]('''Павел Попович''')の控えとして「ヴォストーク四号」('''Восток 4''')にはコマロフが選ばれたが、その後に実施された定期心電図検査で、コマロフの心臓に異常が見付かったことにより、コマロフは宇宙飛行計画から外され、[[ボリス・ヴォリノフ|バリス・ヴォリーノフ]]('''Борис Волынов''')がその後釜になった<ref>Hall and Shayler, pp. 182–83</ref>。コマロフは、医局員や軍隊に根気よく働きかけ、宇宙飛行訓練への復帰を許可された。


[[1963年]]、宇宙飛行士の訓練は6つの団に分かれて実施され、コマロフは[[ヴァレリー・ブィコフスキー]](Вале́рий Фёдорович Быко́вский)、バリス・ヴォリーノフとともに第二団に所属となった<ref>Kamanin Diary, 1 February 1963</ref>。これらの団は、1963年の後半に予定されていた、最長5日間の任務に向けた訓練を行うことになっていた。1963年5月、スィミョーン・アレクスィーイェフ(Семен Алексеев)は、宇宙飛行士でソ連空軍の司令官、ニカラーイ・カマーニン(Николай Каманин)に対し、ヴォストーク五号(Восток)の控えには、[[エフゲニー・フルノフ|エヴ・フルノフ]](Евгений Хруно́в)ではなくコマロフのほうが適任ではないかと申し出た<ref>Kamanin Diary, 9 May 1963</ref>。コマロフはその後、パーヴェル・ベリャーイェフ、ゲオルギー・ショーニン、イェフゲニー・フルノフ、[[ディミトリ・ザイキン|ドゥミートゥリー・ザイキン]](Дмитрий Заикин)、[[ヴィクトル・ゴルバトコ|ヴィクトル・ガルバートカ]](Виктор Горбатко)、バリス・ヴォリーノフ、[[アレクセイ・レオーノフ|アレクスィー・リェオーノフ]](Алексей Леонов)とともに、[[1964年]]に計画されたさらなる任務に向けて、別の団にも選ばれた。訓練団は、のちのヴォストーク任務(ヴォストーク七号から十三号)に向けて結成されたが、搭乗員は実際には任命されてはおらず、任務は本来のヴォストーク計画の後援下で遂行されることは無かった<ref>Hall and Shayler, p. 215</ref> 。1963年12月、2年間の訓練を終えたコマロフは、カマーニンにより、ヴォリーノフ、リェオーノフとともに宇宙飛行士の最終選考に残った。
[[1963年]]、宇宙飛行士の訓練は6つの団に分かれて実施され、コマロフは[[ヴァレリー・ブィコフスキー]]('''Вале́рий Фёдорович Быко́вский''')、バリス・ヴォリーノフとともに第二団に所属となった<ref>Kamanin Diary, 1 February 1963</ref>。これらの団は、1963年の後半に予定されていた、最長5日間の任務に向けた訓練を行うことになっていた。1963年5月、スィミョーン・アレクスィーイェフ('''Семен Алексеев''')は、宇宙飛行士でソ連空軍の司令官、ニカラーイ・カマーニン('''Николай Каманин''')に対し、ヴォストーク五号('''Восток''')の控えには、[[エフゲニー・フルノフ|イェフゲニ・フルノフ]]('''Евге́ни Хруно́в''')ではなくコマロフのほうが適任ではないかと申し出た<ref>Kamanin Diary, 9 May 1963</ref>。コマロフはその後、パーヴェル・ベリャーイェフ、ゲオルギー・ショーニン、イェフゲニー・フルノフ、[[ディミトリ・ザイキン|ドゥミートゥリー・ザイキン]]('''Дмитрий Заикин''')、[[ヴィクトル・ゴルバトコ|ヴィクトル・ガルバートカ]]('''Виктор Горбатко''')、バリス・ヴォリーノフ、[[アレクセイ・レオーノフ|アレクスィー・リェオーノフ]]('''Алексей Леонов''')とともに、[[1964年]]に計画されたさらなる任務に向けて、別の団にも選ばれた。訓練団は、のちのヴォストーク任務(ヴォストーク七号から十三号)に向けて結成されたが、搭乗員は実際には任命されてはおらず、任務は本来のヴォストーク計画の後援下で遂行されることは無かった<ref>Hall and Shayler, p. 215</ref> 。1963年12月、2年間の訓練を終えたコマロフは、カマーニンにより、ヴォリーノフ、リェオーノフとともに宇宙飛行士の最終選考に残った。


[[1964年]]4月、コマロフは、ヴァレリー・ブィコフスキー、パーヴェル・ポポーヴィチ、ゲルマン・チトフ、バリス・ヴォリーノフ、アレクスィー・リェオーノフ、イェフゲニー・フルノフ、パーヴェル・ベリャーイェフ、[[レフ・デミン|リェフ・ジョーミン]]Лев Демин)とともに、宇宙飛行出発の準備が整った、と宣告された<ref>Kamanin Diary, 24 April 1964</ref>。これらの候補の中から、1964年末に予定されているヴォスホート任務の指揮官が選ばれることになる。5月、訓練団はヴォリーノフ、コマロフ、リェオーノフ、フルノフの4人に絞られた<ref>Kamanin Diary, 24 May 1964</ref>。
[[1964年]]4月、コマロフは、ヴァレリー・ブィコフスキー、パーヴェル・ポポーヴィチ、ゲルマン・チトフ、バリス・ヴォリーノフ、アレクスィー・リェオーノフ、イェフゲニー・フルノフ、パーヴェル・ベリャーイェフ、[[レフ・デミン|リェフ・ジョーミン]]('''Лев Демин''')とともに、宇宙飛行出発の準備が整った、と宣告された<ref>Kamanin Diary, 24 April 1964</ref>。これらの候補の中から、1964年末に予定されているヴォスホート任務の指揮官が選ばれることになる。5月、訓練団はヴォリーノフ、コマロフ、リェオーノフ、フルノフの4人に絞られた<ref>Kamanin Diary, 24 May 1964</ref>。


訓練中のコマロフは、家族とともにズヨーズヌイ・ガラードックに住んでいた。余暇には、仲間の訓練生たちと一緒に、狩猟、クロスカントリー・スキー(平原をスキーで滑る)、アイス・ホッケーを楽しみ、社会活動にも励んだ。コマロフは仲間から好かれており、仲間はコマロフのことを「ヴォローディア」(本人の名前「ヴラジーミル」の短縮形)と呼んでいた。パーヴェル・ポポーヴィチは、コマロフが同僚から瞻仰されていた理由について、謙虚な性格と(経験で得た)知識にある、と指摘している。コマロフについて、ポポーヴィチは「訓練生としてやってきた彼はすでに技師であったが、決して他人を見下すような真似はしなかった。思い遣りがあり、目的意識を持ち、仕事熱心であった。ヴォローディアは仲間から信頼されており、仕事に関する質問のみならず、個人的な疑問についてまで、仲間たちはあらゆる事柄について彼の元へ相談しに来ていた」と語った<ref>{{cite book | last1 = Burgess | first1 = Colin | last2 = Doolan | first2 = Kate | last3 = Vis | first3 = Bert | title = Fallen Astronauts | url = https://archive.org/details/fallenastronauts00burg_078 | url-access = limited | publisher = University of Nebraska Press | year = 2003 | pages = [https://archive.org/details/fallenastronauts00burg_078/page/n194 169] | isbn = 0-8032-6212-4}}</ref>。
訓練中のコマロフは、家族とともにズヨーズヌイ・ガラードックに住んでいた。余暇には、仲間の訓練生たちと一緒に、狩猟、クロスカントリー・スキー(平原をスキーで滑る)、アイス・ホッケーを楽しみ、社会活動にも励んだ。コマロフは仲間から好かれており、仲間はコマロフのことを「ヴォローディア」(本人の名前「ヴラジーミル」の短縮形)と呼んでいた。パーヴェル・ポポーヴィチは、コマロフが同僚から瞻仰されていた理由について、謙虚な性格と(経験で得た)知識にある、と指摘している。コマロフについて、ポポーヴィチは「訓練生としてやってきた彼はすでに技師であったが、決して他人を見下すような真似はしなかった。思い遣りがあり、目的意識を持ち、仕事熱心であった。ヴォローディアは仲間から信頼されており、仕事に関する質問のみならず、個人的な疑問についてまで、仲間たちはあらゆる事柄について彼の元へ相談しに来ていた」と語った<ref>{{cite book | last1 = Burgess | first1 = Colin | last2 = Doolan | first2 = Kate | last3 = Vis | first3 = Bert | title = Fallen Astronauts | url = https://archive.org/details/fallenastronauts00burg_078 | url-access = limited | publisher = University of Nebraska Press | year = 2003 | pages = [https://archive.org/details/fallenastronauts00burg_078/page/n194 169] | isbn = 0-8032-6212-4}}</ref>。
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== 宇宙飛行 ==
== 宇宙飛行 ==
1964年7月、健康上の理由で宇宙飛行士から外された者が出たことで、ヴォスホート一号に乗船できる飛行士は7名のみとなった。[[7月6日]]、コマロフはヴォスホート一号の予備飛行士の司令官に任命された。ニカラーイ・カマーニンとセルギイ・カラーリェフのあいだで、宇宙船の搭乗員の選定について数か月間に及ぶ論争がおこなわれた。宇宙船の打ち上げ予定日の8日前である1964年[[10月4日]]、コマロフは搭乗員の総指揮官に任命された<ref>Kamanin Diary, 4 October 1964</ref>。その日の夜、カマーニンはヴォスホートの搭乗員たちと[[テニス]]に興じた。その際、カマーニンは、コマロフのテニスの技能が他の搭乗員たちと比べて未熟である点を指摘した。[[ボリス・エゴロフ|バリース・イェゴロフ]](Борис Борисович Егоров)や[[コンスタンチン・フェオクチストフ|コンスタンチン・フェアクチストフ]](Константи́н Феокти́стов)に比べると、コマロフのテニスの手並みはぎこちなかったという。[[10月9日]]、コマロフは、セルギイ・カラーリェフを始めとする搭乗員たちとともにヴォスホート宇宙船の綿密な検査を行った。また、その日のうちに国営の記者団による取材を受けたり、カメラマンに向けて、自分たちがテニスに興じている姿も公開した。[[10月11日]]の朝、コマロフはこの日の翌日に宇宙へ持っていくことになる共産主義的な記念品を手渡された。この日の午後、搭乗員たちは再度宇宙船を点検し、カラーリェフから最後の指示を受けた。コマロフは、搭乗員たちの中でも膨大な訓練を受け、飛行経験を積んだ唯一の成員であった。他の2人の搭乗員は民間人であった。コマロフの呼び出し信号(''Call Sign'')は「''Рубин''」(「ルビー」)であった。任務中のコマロフは、他の搭乗員たちとともに様々な任務(医療、航行試験、[[オーロラ]]の観測)を遂行した。また、ヴォスホート一号に取り付けたイオン・スラスター(Ion Thruster, [[イオン]]([[電荷]]を帯びた[[原子]])を噴出することにより、推進力を得る小型ロケット・エンジン)の試験はコマロフ1人で実施した<ref name=SiddiqiCTA423>{{cite book |last=Siddiqi |first=Asif A |date=2000|title=Challenge To Apollo: The Soviet Union and The Space Race, 1945–1974 |url=https://history.nasa.gov/SP-4408pt1.pdf |publisher=NASA |page=423 }}</ref>。
1964年7月、健康上の理由で宇宙飛行士から外された者が出たことで、ヴォスホート一号に乗船できる飛行士は7名のみとなった。[[7月6日]]、コマロフはヴォスホート一号の予備飛行士の司令官に任命された。ニカラーイ・カマーニンとセルギイ・カラーリェフのあいだで、宇宙船の搭乗員の選定について数か月間に及ぶ論争がおこなわれた。宇宙船の打ち上げ予定日の8日前である1964年[[10月4日]]、コマロフは搭乗員の総指揮官に任命された<ref>Kamanin Diary, 4 October 1964</ref>。その日の夜、カマーニンはヴォスホートの搭乗員たちと[[テニス]]に興じた。その際、カマーニンは、コマロフのテニスの技能が他の搭乗員たちと比べて未熟である点を指摘した。[[ボリス・エゴロフ|バリース・イェゴロフ]]('''Борис Борисович Егоров''')や[[コンスタンチン・フェオクチストフ|コンスタンチン・フェアクチストフ]]('''Константи́н Феокти́стов''')に比べると、コマロフのテニスの手並みはぎこちなかったという。[[10月9日]]、コマロフは、セルギイ・カラーリェフを始めとする搭乗員たちとともにヴォスホート宇宙船の綿密な検査を行った。また、その日のうちに国営の記者団による取材を受けたり、カメラマンに向けて、自分たちがテニスに興じている姿も公開した。[[10月11日]]の朝、コマロフはこの日の翌日に宇宙へ持っていくことになる共産主義的な記念品を手渡された。この日の午後、搭乗員たちは再度宇宙船を点検し、カラーリェフから最後の指示を受けた。コマロフは、搭乗員たちの中でも膨大な訓練を受け、飛行経験を積んだ唯一の成員であった。他の2人の搭乗員は民間人であった。コマロフの呼び出し信号(''Call Sign'')は「''Рубин''」(「ルビー」)であった。任務中のコマロフは、他の搭乗員たちとともに様々な任務(医療、航行試験、[[オーロラ]]の観測)を遂行した。また、ヴォスホート一号に取り付けたイオン・スラスター('''Ion Thruster''', [[イオン]]([[電荷]]を帯びた[[原子]])を噴出することにより、推進力を得る小型ロケット・エンジン)の試験はコマロフ1人で実施した<ref name=SiddiqiCTA423>{{cite book |last=Siddiqi |first=Asif A |date=2000|title=Challenge To Apollo: The Soviet Union and The Space Race, 1945–1974 |url=https://history.nasa.gov/SP-4408pt1.pdf |publisher=NASA |page=423 }}</ref>。


1964年[[10月10日]]、[[日本]]で[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]が開幕すると、コマロフは無線通信を通して挨拶の言葉を送った。
1964年[[10月10日]]、[[日本]]で[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]が開幕すると、コマロフは無線通信を通して挨拶の言葉を送った。


ヴォスホート一号打ち上げおよび宇宙任務は、24時間以上にわたって続いた。搭乗員たちは無事に地球に着陸したのち、[[バイコヌール宇宙基地]]([[カザフスタン]]のチュラタム<''Тюратам''>にあるロシアの宇宙基地)まで航空機に乗って帰還した。ニカラーイ・カマーニンは、自身の日記の中で「搭乗員たちは上機嫌であったが、コマロフは疲れているようだった」と記述している<ref>Kamanin Diary, 13 October 1964</ref>。[[10月19日]]、コマロフは他の搭乗員たちとともにモスクワの[[赤の広場]]で報告を行い、[[クレムリン]](Кремль)での公式会見に出席した<ref>Kamanin Diary, 19 October 1964</ref>。短いながらも科学的に重要な任務を成功させたコマロフは、[[大佐]]に昇進した<ref>{{cite book | last1 = Hall | first1 = Rex | last2 = Shayler | first2 = David | title = The Rocket Men: Vostok & Voskhod, The first Soviet Manned Spaceflights | year= 2001 | page = 355 | isbn = 1-85233-391-X}}</ref>。また、[[レーニン勲章]](Орден Ленина)と[[ソ連邦英雄]](Герой Советского Союза)の称号も授与された。
ヴォスホート一号打ち上げおよび宇宙任務は、24時間以上にわたって続いた。搭乗員たちは無事に地球に着陸したのち、[[バイコヌール宇宙基地]]([[カザフスタン]]のチュラタム<''Тюратам''>にあるロシアの宇宙基地)まで航空機に乗って帰還した。ニカラーイ・カマーニンは、自身の日記の中で「搭乗員たちは上機嫌であったが、コマロフは疲れているようだった」と記述している<ref>Kamanin Diary, 13 October 1964</ref>。[[10月19日]]、コマロフは他の搭乗員たちとともにモスクワの[[赤の広場]]で報告を行い、[[クレムリン]]('''Кремль''')での公式会見に出席した<ref>Kamanin Diary, 19 October 1964</ref>。短いながらも科学的に重要な任務を成功させたコマロフは、[[大佐]]に昇進した<ref>{{cite book | last1 = Hall | first1 = Rex | last2 = Shayler | first2 = David | title = The Rocket Men: Vostok & Voskhod, The first Soviet Manned Spaceflights | year= 2001 | page = 355 | isbn = 1-85233-391-X}}</ref>。また、[[レーニン勲章]]('''Орден Ленина''')と[[ソ連邦英雄]]('''Герой Советского Союза''')の称号も授与された。


1964年12月、戦略ロケット軍は、コマロフを[[ソ連空軍]]から自分たちの部隊に移籍させて欲しい、と要請した。ソ連の戦略ロケット部隊は、空軍に比べてロケットの製造実績が芳しくなかったのが理由と思われる。この要請にはカマーニンが反対した<ref>Kamanin Diary, 30 December 1964</ref>。
1964年12月、戦略ロケット軍は、コマロフを[[ソ連空軍]]から自分たちの部隊に移籍させて欲しい、と要請した。ソ連の戦略ロケット部隊は、空軍に比べてロケットの製造実績が芳しくなかったのが理由と思われる。この要請にはカマーニンが反対した<ref>Kamanin Diary, 30 December 1964</ref>。
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コマロフはガガーリン、リェオーノフとともにソユーズ打ち上げ計画に任命された。[[1966年]]7月、コマロフは日本に滞在していた。このとき、「ソ連邦は、予定時刻に自動宇宙船を月の周辺で飛行させてから地球に帰還させ、続いて宇宙空間での宇宙船の連結飛行、有人周回飛行を実施します」と無断で発表したことで、コマロフはカマーニンから叱責された<ref>Kamanin Diary, 20 July 1966</ref>。翌月、無重力試験を実施した際、ソユーズ宇宙船に付いている非常口が狭過ぎて、宇宙飛行士が宇宙服を着た状態では安全に脱出するのが不可能である事実が判明した。コマロフは、他の技師たちと現在進行中の設計上の不安材料を巡って口論となった<ref>Kamanin Diary, 5 August 1966</ref>。
コマロフはガガーリン、リェオーノフとともにソユーズ打ち上げ計画に任命された。[[1966年]]7月、コマロフは日本に滞在していた。このとき、「ソ連邦は、予定時刻に自動宇宙船を月の周辺で飛行させてから地球に帰還させ、続いて宇宙空間での宇宙船の連結飛行、有人周回飛行を実施します」と無断で発表したことで、コマロフはカマーニンから叱責された<ref>Kamanin Diary, 20 July 1966</ref>。翌月、無重力試験を実施した際、ソユーズ宇宙船に付いている非常口が狭過ぎて、宇宙飛行士が宇宙服を着た状態では安全に脱出するのが不可能である事実が判明した。コマロフは、他の技師たちと現在進行中の設計上の不安材料を巡って口論となった<ref>Kamanin Diary, 5 August 1966</ref>。


その間、コマロフと仲間の宇宙飛行士たちは団と任務が幾度となく変更された。ユーリイ・ガガーリンは、コマロフたちに代わって[[レオニード・ブレジネフ]](Леонид Брежнев)に手紙を送り、宇宙船の設計と製造に関する懸念事項について問題提起したが、政府からの反応が梨の礫であることについて、コマロフたちは徐々に不安を覚え始めていた。
その間、コマロフと仲間の宇宙飛行士たちは団と任務が幾度となく変更された。ユーリイ・ガガーリンは、コマロフたちに代わって[[レオニード・ブレジネフ]]('''Леонид Брежнев''')に手紙を送り、宇宙船の設計と製造に関する懸念事項について問題提起したが、政府からの反応が梨の礫であることについて、コマロフたちは徐々に不安を覚え始めていた。


=== ソユーズ一号の墜落、コマロフの死 ===
=== ソユーズ一号の墜落、コマロフの死 ===
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「まずい状況になった。船室の設定値は正常だが、左側の太陽電池計器盤の様子は変わらない。電気導体は13 - 14[[アンペア]]しか無い。HF(高周波)通信は機能せず、宇宙船を太陽がある側に向けることができない。『''DO-1''』の方位内燃機関を用いて、手動で宇宙船を太陽がある方向に向けようとしたが、『''DO-1''』の残圧は180まで低下してしまった」<ref name="Kamanin Diary, April 23, 1967">Kamanin Diary, 23 April 1967</ref>
「まずい状況になった。船室の設定値は正常だが、左側の太陽電池計器盤の様子は変わらない。電気導体は13 - 14[[アンペア]]しか無い。HF(高周波)通信は機能せず、宇宙船を太陽がある側に向けることができない。『''DO-1''』の方位内燃機関を用いて、手動で宇宙船を太陽がある方向に向けようとしたが、『''DO-1''』の残圧は180まで低下してしまった」<ref name="Kamanin Diary, April 23, 1967">Kamanin Diary, 23 April 1967</ref>


コマロフは5時間にわたってソユーズ一号の方向付けを試みたが、成功しなかった。機体は信頼性の低い信号情報を送信していた。そして、機体が超高周波地上受信機の範囲外にある間に無線連絡を維持するはずであった高周波送信機が故障したことで、軌道13から15で通信は失われた<ref name="Kamanin Diary, April 23, 1967"/>。その結果、ソ連政府は、宇宙飛行士にソユーズ一号の船外活動(Extravehicular Activity)を遂行させる予定であったソユーズ2号の打ち上げを断念し、宇宙任務を打ち切ったのであった。
コマロフは5時間にわたってソユーズ一号の方向付けを試みたが、成功しなかった。機体は信頼性の低い信号情報を送信していた。そして、機体が超高周波地上受信機の範囲外にある間に無線連絡を維持するはずであった高周波送信機が故障したことで、軌道13から15で通信は失われた<ref name="Kamanin Diary, April 23, 1967"/>。その結果、ソ連政府は、宇宙飛行士にソユーズ一号の船外活動('''Extravehicular Activity''')を遂行させる予定であったソユーズ2号の打ち上げを断念し、宇宙任務を打ち切ったのであった。


コマロフは、軌道15 - 17でイオン流動感知機を用いて機体の方位を再転換するよう指令を受けるも、イオン感知器は故障した。軌道19まで宇宙船の大気圏への再突入を手動で試みるための十分な時間は、もはやコマロフには無かった。手動での方向転換の際には、宇宙船に据え付けられていたVzor潜望鏡装置を頼りにすることになるが、そのためにはコマロフが太陽を視認できる必要があった。着陸地点に指定されていたのは[[オルスク]]([[オレンブルク州]]の東部)であり、ここに到達するためには、地球の夜側で逆方向に噴射せねばならない。コマロフは、機体を手動で地球の昼側に方向付けることにし、回転儀装置を基軸として活用し、地球の夜側で逆噴射を遂行するための宇宙船の方向付けに成功した<ref>Kamanin Diary, 24 April 1967</ref>。
コマロフは、軌道15 - 17でイオン流動感知機を用いて機体の方位を再転換するよう指令を受けるも、イオン感知器は故障した。軌道19まで宇宙船の大気圏への再突入を手動で試みるための十分な時間は、もはやコマロフには無かった。手動での方向転換の際には、宇宙船に据え付けられていたVzor潜望鏡装置を頼りにすることになるが、そのためにはコマロフが太陽を視認できる必要があった。着陸地点に指定されていたのは[[オルスク]]([[オレンブルク州]]の東部)であり、ここに到達するためには、地球の夜側で逆方向に噴射せねばならない。コマロフは、機体を手動で地球の昼側に方向付けることにし、回転儀装置を基軸として活用し、地球の夜側で逆噴射を遂行するための宇宙船の方向付けに成功した<ref>Kamanin Diary, 24 April 1967</ref>。
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ニカラーイ・カマーニンは自身の日記の中で、ソユーズ一号は「秒速30 - 40mの速度」で地上へ墜落し、コマロフの遺骸については「直径30㎝、長さ80㎝、原型をとどめていない物体の塊が残っていただけだった」と記述した。
ニカラーイ・カマーニンは自身の日記の中で、ソユーズ一号は「秒速30 - 40mの速度」で地上へ墜落し、コマロフの遺骸については「直径30㎝、長さ80㎝、原型をとどめていない物体の塊が残っていただけだった」と記述した。


宇宙船の墜落から3時間以内に、[[ムスチスラフ・ケルディシュ]](Мстисла́в Ке́лдыш)を始めとする宇宙計画委員会の委員たちが墜落現場に赴いた。21時45分、ニカラーイ・カマーニンは、コマロフの遺体を乗せてオルスク飛行場に向かい、ここで遺体は「''IL-18''」に積み込まれた。出発の10分前に、[[ニコライ・ドミトリエヴィチ・クズネツォフ|ニカラーイ・ドゥミートリエヴィチ・クィズニェツォフ]](Николай Дмитриевич Кузнецов)と、宇宙飛行士を数人乗せたAn-12が着陸した。カマーニンは航空機を操縦し、翌朝早く、モスクワに到着した。モスクワ周辺の全飛行場は、天候が原因で離着陸が禁止されていたため、[[シェレメーチエヴォ国際空港|シェレミーチェヴァ国際空港]]に迂回せざるを得なかった。コンスタンチン・ヴィエルシーニン(Константин Вершинин)の命令により、コマロフの遺体は写真撮影の直後に火葬され、[[クレムリンの壁墓所|クレムリンの壁に埋葬される]]こととなった<ref name=Siddiqippp45>{{cite book |last=Siddiqi |first=Asif |author-link=Asif Azam Siddiqi |date=2020 |title=Soyuz 1 The Death of Vladimir Komarov Pressure, Politics, and Parachutes |publisher=SpaceHistory101.com Press |pages=45–46 |isbn=9781887022958}}</ref>。
宇宙船の墜落から3時間以内に、[[ムスチスラフ・ケルディシュ]]('''Мстисла́в Ке́лдыш''')を始めとする宇宙計画委員会の委員たちが墜落現場に赴いた。21時45分、ニカラーイ・カマーニンは、コマロフの遺体を乗せてオルスク飛行場に向かい、ここで遺体は「''IL-18''」に積み込まれた。出発の10分前に、[[ニコライ・ドミトリエヴィチ・クズネツォフ|ニカラーイ・ドゥミートリエヴィチ・クィズニェツォフ]]('''Николай Дмитриевич Кузнецов''')と、宇宙飛行士を数人乗せたAn-12が着陸した。カマーニンは航空機を操縦し、翌朝早く、モスクワに到着した。モスクワ周辺の全飛行場は、天候が原因で離着陸が禁止されていたため、[[シェレメーチエヴォ国際空港|シェレミーチェヴァ国際空港]]に迂回せざるを得なかった。コンスタンチン・ヴィエルシーニン('''Константин Вершинин''')の命令により、コマロフの遺体は写真撮影の直後に火葬され、[[クレムリンの壁墓所|クレムリンの壁に埋葬される]]こととなった<ref name=Siddiqippp45>{{cite book |last=Siddiqi |first=Asif |author-link=Asif Azam Siddiqi |date=2020 |title=Soyuz 1 The Death of Vladimir Komarov Pressure, Politics, and Parachutes |publisher=SpaceHistory101.com Press |pages=45–46 |isbn=9781887022958}}</ref>。


コマロフの遺骸はその日の朝に簡単な[[検死]]作業が行われ、その後に[[火葬]]された<ref>{{Cite web |url = http://www.astronautix.com/k/kamanindiaries.html|title = Kamanin Diaries|last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = astronautix.com|publisher = |archiveurl = |archivedate = |accessdate = January 28 2022}}</ref>。
コマロフの遺骸はその日の朝に簡単な[[検死]]作業が行われ、その後に[[火葬]]された<ref>{{Cite web |url = http://www.astronautix.com/k/kamanindiaries.html|title = Kamanin Diaries|last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = astronautix.com|publisher = |archiveurl = |archivedate = |accessdate = January 28 2022}}</ref>。


[[4月25日]]、コマロフの死に対する宇宙飛行士仲間による以下のような回答が、『[[プラヴダ]]』(Правда)に掲載された。
[[4月25日]]、コマロフの死に対する宇宙飛行士仲間による以下のような回答が、『[[プラヴダ]]』('''Правда''')に掲載された。


「先駆者にとって、これは常に険しい道程である。その道は一直線ではなく、急激な旋回、仕掛け、危険も潜んでいる。しかし、軌道に乗った者は、決してそこから離れようとはしない。そして、たとえどんな困難や障壁が待っていようとも、そのような人が自分の選んだ道から逸れてしまうほどの存在では決してない。宇宙飛行士は、心臓が動いている限り、常に宇宙に挑み続けるのだ。ヴラジーミル・コマロフは、この、移ろいやすく過酷な道のりに挑んだ最初の一人であった」<ref name="First Man in Space">{{Citation| year = 1984|editor-link=Nikolai Tsymbal| editor-last = Tsymbal| editor-first = Nikolai| title = First Man in Space| place = Moscow| publisher = Progress Publishers Moscow| page = 105}}</ref>
「先駆者にとって、これは常に険しい道程である。その道は一直線ではなく、急激な旋回、仕掛け、危険も潜んでいる。しかし、軌道に乗った者は、決してそこから離れようとはしない。そして、たとえどんな困難や障壁が待っていようとも、そのような人が自分の選んだ道から逸れてしまうほどの存在では決してない。宇宙飛行士は、心臓が動いている限り、常に宇宙に挑み続けるのだ。ヴラジーミル・コマロフは、この、移ろいやすく過酷な道のりに挑んだ最初の一人であった」<ref name="First Man in Space">{{Citation| year = 1984|editor-link=Nikolai Tsymbal| editor-last = Tsymbal| editor-first = Nikolai| title = First Man in Space| place = Moscow| publisher = Progress Publishers Moscow| page = 105}}</ref>


[[5月17日]]、ロシアの日刊紙『[[コムソモリスカヤ・プラウダ|カムサモリスカヤ・プラヴダ]]』(Комсомольская Правда)による取材訪問に応じたユーリイ・ガガーリンは、宇宙飛行士団が特定していたソユーズ宇宙船の規格化部品の不安材料に耳を貸そうとしなかったソ連政府について仄めかし、コマロフが死んだことで、試験と評価をより厳格に実施するよう政治家に学ばせるべきだ、と主張した。ガガーリンは「宇宙船における全ての機構、検査と試験運転の全段階において、より注意深く、未知なるものとの遭遇に、より一層警戒することだ。彼は宇宙への道のりがどれほど危険を伴うものであるかを、身をもって示してくれた。彼の宇宙飛行とその死は、我々の勇気を奮い起こしてくれるだろう」と述べた<ref name="First Man in Space"/>。
[[5月17日]]、ロシアの日刊紙『[[コムソモリスカヤ・プラウダ|カムサモリスカヤ・プラヴダ]]』('''Комсомольская Правда''')による取材訪問に応じたユーリイ・ガガーリンは、宇宙飛行士団が特定していたソユーズ宇宙船の規格化部品の不安材料に耳を貸そうとしなかったソ連政府について仄めかし、コマロフが死んだことで、試験と評価をより厳格に実施するよう政治家に学ばせるべきだ、と主張した。ガガーリンは「宇宙船における全ての機構、検査と試験運転の全段階において、より注意深く、未知なるものとの遭遇に、より一層警戒することだ。彼は宇宙への道のりがどれほど危険を伴うものであるかを、身をもって示してくれた。彼の宇宙飛行とその死は、我々の勇気を奮い起こしてくれるだろう」と述べた<ref name="First Man in Space"/>。


1967年5月、ガガーリンとリェオーノフは、計画の最高責任者、[[ヴァシーリー・ミシン|ヴァシーリ・ミーシュン]](Васи́лий Ми́шин)の「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知見の無さ、宇宙飛行や訓練活動における宇宙飛行士との協調の欠如」を糾弾し、ニカラーイ・カマーニンに対して、墜落事故の公式報告書で彼の名前を参考人として示すよう要請した<ref>Kamanin Diary, 5 May 1967</ref>。
1967年5月、ガガーリンとリェオーノフは、計画の最高責任者、[[ヴァシーリー・ミシン|ヴァシーリ・ミーシュン]]('''Васи́лий Ми́шин''')の「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知見の無さ、宇宙飛行や訓練活動における宇宙飛行士との協調の欠如」を糾弾し、ニカラーイ・カマーニンに対して、墜落事故の公式報告書で彼の名前を参考人として示すよう要請した<ref>Kamanin Diary, 5 May 1967</ref>。


== 栄誉 ==
== 栄誉 ==
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宇宙開発への貢献により、数カ国で発行された記念切手や初日封筒には、コマロフの写真が採用されている。初期のころのロシアの宇宙開発における他の著名人とともに、モスクワにある「宇宙飛行士横丁」にて、コマロフを追悼する胸像が建てられた。
宇宙開発への貢献により、数カ国で発行された記念切手や初日封筒には、コマロフの写真が採用されている。初期のころのロシアの宇宙開発における他の著名人とともに、モスクワにある「宇宙飛行士横丁」にて、コマロフを追悼する胸像が建てられた。


[[アポロ11号]](Apollo 11)による月面着陸任務で、[[ニール・アームストロング]](Neil Armstrong)が月から離陸する前に着手した最後の任務は、コマロフ、ガガーリン、アポロ1号に搭乗した[[ガス・グリソム]](Gus Grissom)、[[エドワード・ホワイト]](Ed White)、[[ロジャー・チャフィー]](Roger Chaffee)に対する栄誉と追悼の品を置くことであった<ref>{{cite web |last1=Jones |first1=Eric M. |last2=Glover |first2=Ken |title=EASEP Deployment and Closeout |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |website=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |access-date=March 28, 2014 |at=111:36:38 |date=1995 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20140225025455/http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |archive-date=February 25, 2014}}</ref>。
[[アポロ11号]]('''Apollo 11''')による月面着陸任務で、[[ニール・アームストロング]]('''Neil Armstrong''')が月から離陸する前に着手した最後の任務は、コマロフ、ガガーリン、アポロ1号に搭乗した[[ガス・グリソム]]('''Gus Grissom''')、[[エドワード・ホワイト]]('''Ed White''')、[[ロジャー・チャフィー]]('''Roger Chaffee''')に対する栄誉と追悼の品を置くことであった<ref>{{cite web |last1=Jones |first1=Eric M. |last2=Glover |first2=Ken |title=EASEP Deployment and Closeout |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |website=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |access-date=March 28, 2014 |at=111:36:38 |date=1995 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20140225025455/http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |archive-date=February 25, 2014}}</ref>。


コマロフの名前は、[[1971年]][[8月1日]]、[[アポロ15号]](Apollo 15)の司令官、[[デイヴィッド・スコット]](David Scott)が月の表面のハドリー・リル(Hadley Rille)に残した、亡くなった[[NASA]]の宇宙飛行士とソ連の宇宙飛行士への敬意を込めて、「''Fallen Astronaut''」と題した小さな彫刻の記念碑(銘板)にも記されている。この記念碑は、宇宙空間および月への到達を目指す過程で命を落とした宇宙飛行士への追悼を象徴する<ref>{{Cite web|url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.clsout3.html |title=Hammer and Feather|website=www.hq.nasa.gov|publisher=NASA|at=167:41:30|type=Apollo 15 Lunar Surface Journal|access-date=2016-06-28|quote=Scott – "We made a plaque for all the astronauts and cosmonauts that had been killed. And a little figurine, a Fallen Astronaut, and we put it right by the Rover. You can see it in the picture (AS15-88-11893). That was just a little memorial, in alphabetical order. In relative terms, we had both lost a lot and, interestingly enough, we didn't lose any more after that until Challenger. That's what I was doing when I said I was cleaning up behind the Rover (at 167:43:36). Jim knew what I was doing. We just thought we'd recognize the guys that made the ultimate contribution."(「死んでいった宇宙飛行士たちに向けて、この記念碑を作りました。そして、「''Fallen Astronaut''」と題した小さな置物を作り、[[月面車]]のすぐ傍に置きました。写真(AS15-88-11893)に写っているのがそれです。名前がアルファベット順に並ぶ、ささやかな追悼の品です。相対的に見てみれば、我々は双方とも多くのものを失いましたが、興味深いことに、その後の[[チャレンジャー号]]の空中分解事故が起こるまでは、失うものはありませんでした。私が『月面車の後ろを掃除しているんだ』と言ったときに私がしていたことです(167:43:36)。ジムは私が何をしているのかを分かっていました。我々としては、ただ、この上ない貢献を果たした人たちを称えたかっただけなのです」)}}</ref>。
コマロフの名前は、[[1971年]][[8月1日]]、[[アポロ15号]]('''Apollo 15''')の司令官、[[デイヴィッド・スコット]]('''David Scott''')が月の表面のハドリー・リル('''Hadley Rille''')に残した、亡くなった[[NASA]]の宇宙飛行士とソ連の宇宙飛行士への敬意を込めて、「''Fallen Astronaut''」と題した小さな彫刻の記念碑(銘板)にも記されている。この記念碑は、宇宙空間および月への到達を目指す過程で命を落とした宇宙飛行士への追悼を象徴する<ref>{{Cite web|url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.clsout3.html |title=Hammer and Feather|website=www.hq.nasa.gov|publisher=NASA|at=167:41:30|type=Apollo 15 Lunar Surface Journal|access-date=2016-06-28|quote=Scott – "We made a plaque for all the astronauts and cosmonauts that had been killed. And a little figurine, a Fallen Astronaut, and we put it right by the Rover. You can see it in the picture (AS15-88-11893). That was just a little memorial, in alphabetical order. In relative terms, we had both lost a lot and, interestingly enough, we didn't lose any more after that until Challenger. That's what I was doing when I said I was cleaning up behind the Rover (at 167:43:36). Jim knew what I was doing. We just thought we'd recognize the guys that made the ultimate contribution."(「死んでいった宇宙飛行士たちに向けて、この記念碑を作りました。そして、「''Fallen Astronaut''」と題した小さな置物を作り、[[月面車]]のすぐ傍に置きました。写真(AS15-88-11893)に写っているのがそれです。名前がアルファベット順に並ぶ、ささやかな追悼の品です。相対的に見てみれば、我々は双方とも多くのものを失いましたが、興味深いことに、その後の[[チャレンジャー号]]の空中分解事故が起こるまでは、失うものはありませんでした。私が『月面車の後ろを掃除しているんだ』と言ったときに私がしていたことです(167:43:36)。ジムは私が何をしているのかを分かっていました。我々としては、ただ、この上ない貢献を果たした人たちを称えたかっただけなのです」)}}</ref>。


[[1971年]]に発見された小惑星は、月の表面にある[[クレーター]]と同じく、コマロフにちなんで命名された<ref>{{Cite book |last=Schmadel |first=Lutz D. |author-link=Lutz D. Schmadel |title=Dictionary of Minor Planet Names, Volume 1 |publisher=Springer |year=2003 |location =New York |pages=147 |url=https://books.google.com/books?id=KWrB1jPCa8AC&q=Komarov&pg=PA147 |isbn= 3-540-00238-3 }}</ref>。コマロフとこの小惑星から着想を得た作曲家のブレット・ディーン(Brett Dean)は、[[2006年]]に[[サイモン・ラトル]](Simon Rattle)による指揮で[[交響曲]]を作曲した。この曲は「コマロフの墜落」(''Komarov's Fall'')と命名され、''EMI Classics''から発売されたサイモン・ラトルのアルバム『''The Planets''』(『惑星』)に収録されている。
[[1971年]]に発見された小惑星は、月の表面にある[[クレーター]]と同じく、コマロフにちなんで命名された<ref>{{Cite book |last=Schmadel |first=Lutz D. |author-link=Lutz D. Schmadel |title=Dictionary of Minor Planet Names, Volume 1 |publisher=Springer |year=2003 |location =New York |pages=147 |url=https://books.google.com/books?id=KWrB1jPCa8AC&q=Komarov&pg=PA147 |isbn= 3-540-00238-3 }}</ref>。コマロフとこの小惑星から着想を得た作曲家のブレット・ディーン('''Brett Dean''')は、[[2006年]]に[[サイモン・ラトル]]('''Simon Rattle''')による指揮で[[交響曲]]を作曲した。この曲は「''Komarov's Fall''と命名され、''EMI Classics''から発売されたサイモン・ラトルのアルバム『''The Planets''』(『惑星』)に収録されている。


国際宇宙航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale)の「V・M・コマロフ・ディプロマ」(''V.M. Komarov Diploma'')は、コマロフにちなんで命名された。
国際宇宙航空連盟('''Fédération Aéronautique Internationale''')の「V・M・コマロフ・ディプロマ」(''V.M. Komarov Diploma'')は、コマロフにちなんで命名された。


かつてソ連には、コマロフの名を冠した衛星追跡船があったが、1989年に廃止された。
かつてソ連には、コマロフの名を冠した衛星追跡船があったが、1989年に廃止された。

2022年2月23日 (水) 16:41時点における版

  • ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・コマロフ
  • Влади́мир Миха́йлович Комаро́в
ヴラジミール・コマロフ(1965年7月1日)
ソ連宇宙飛行士
国籍 ソヴィエト連邦
生誕 (1927-03-16) 1927年3月16日
ソヴィエト連邦モスクワ
死没 1967年4月24日(1967-04-24)(40歳)
オレンブルク州アダモフスキー地区
他の職業 試験操縦士、航空宇宙機関士
階級 ソ連空軍大佐
宇宙滞在期間 51時間4分
選抜試験 第一航空団
ミッション ヴォスホート一号
ソユーズ一号
受賞  
署名

ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・コマロフ(ロシア語: Влади́мир Миха́йлович Комаро́в; IPA: [vlɐˈdʲimʲɪr mʲɪˈxajləvʲɪtɕ kəmɐˈrof]; 1927年3月16日1967年4月24日) は、ソヴィエト連邦試験飛行操縦士、航空宇宙飛行士、航空宇宙機関士。1964年10月、複数の搭乗員を乗船させた宇宙飛行、ヴォスホート一号(Восход-1)の指揮を執った。のちのソユーズ一号(Союз-1)の打ち上げにおいては、有人宇宙飛行で初の単独操縦士に選抜され、ソ連の宇宙飛行士として2度の宇宙飛行を経験した最初の人物となった。1967年4月23日、コマロフはソユーズ一号に単独で搭乗し、宇宙へと打ち上げられるも、落下傘型安全装置が機能不全を起こし、ソユーズ宇宙船は地上に墜落。宇宙事故による非業の最期を遂げた最初の人物にもなった[1]

1960年に選抜された宇宙飛行士の第一隊の中では、コマロフは最も経験豊富かつ優秀な候補者の1人とみなされた。宇宙飛行計画に参画中の彼は、医学的見地から、「訓練や宇宙飛行には不適格」との宣告を2回受けたが、剛毅さ、優れた技術、工学技術の知識により、自身の役割を果たし続けた。1960年1月に設立されたガガーリン宇宙飛行士訓練センターでの訓練生のころには、宇宙船の設計、宇宙飛行士の訓練、評価、広報・宣伝活動に尽力した。

生い立ちと教育

1927年3月16日モスクワに生まれた。ヴラジーミルには、1915年生まれの異母姉・マチルダがおり、ともに育った。父親のミハイル・ヤーコヴレヴィチ・コマロフ(Михаил Яковлевич Комаров)は貧しい労働者であり、家計を支えるためにさまざまな低賃金の仕事に従事していた。1935年、ヴラジーミルは地元の小学校で正式な学校教育を受け始めた。彼は数学に対して天賦の才を発揮した[2]1941年第二次世界大戦ならびにナチス・ドイツのソ連への侵攻を理由にヴラジーミルは学校を辞め、集団農場の労働者として働いた。幼いころから航空学・宇宙飛行に興味を惹かれていたヴラジーミルは、航空関係の雑誌や写真を収集し、模型飛行機や自作のプロペラを作るようになった[3]1942年、15歳のヴラジーミルは、航空士になることを夢見て第一モスクワ特別空挺学校に入学した。その後まもなく、父親が「未確認の戦争行為」で死亡したことを知った[3]。ドイツ軍の侵攻により、航空学校はやむを得ずシベリアチュミン地方に建物を移転し、戦時中はここで過ごすことになった。ここでは航空学以外にも動物学、外国語、さまざまな科目が学べた。1945年、ヴラジーミルは優秀な成績を収め、航空学校を卒業した。第二次世界大戦は、ヴラジーミルが戦闘に召集される前に終わりを告げた。

1946年、コマロフはヴァローニェシュ州ヴァリサヴィレヴスク空軍基地のシュカロフ高等空挺学校にて、最初の年の訓練を完了、その後、バタイスクにあるA・K・セロフ軍事航空大学校で訓練を完了させ、1949年に卒業した。卒業時、コマロフは操縦士の記章を授与され、ソ連空軍中尉に任命された。卒業する7か月前の1949年5月30日、コマロフは母を亡くしている。

ソ連空軍

1949年12月、コマロフはグローズヌイを拠点とする北カフカース第42戦闘航空師団第383連隊にて、戦闘機の操縦士を務めた。彼はここで、ヴァレンチーナ・ヤーコヴレヴナ・キシリョーヴァ(Валентина Яковлевна Киселёва)と出会った。2人は1950年10月に結婚した。

1952年には上級中尉に昇進し、その後、プリカルパーチェ地方の第279戦闘航空師団第486戦闘航空連隊の一等操縦士に任命された[3]1954年まで一等操縦士として働いたのち、ジューコフスキー空軍技術専門学校工学課程に入学した。1959年、コマロフは上級工学中尉に昇進した。同年末、彼はチカロフスキーにある中央科学研究所の試験操縦士になるという目標を達成した。

宇宙飛行士選抜

コマロフと妻のヴァレンチーナ、娘のイリーナ
1966年チリのジャーナリストと会談するコマロフ(左から3番目)

第一航空団

1959年9月、コマロフは主任技師に昇進し、約3000人の操縦士たちとともに宇宙飛行士候補者選考会への出席に招待された[4]。彼は第一航空団で20人の候補者の1人に選ばれ、1960年3月13日にモスクワ郊外にある「TsPK」(モスクワ州ズヨーズヌイ・ガラードック, Звёздный Городок, 「星の街」)に赴き、他の操縦士たちとともに任務を開始した。優秀であったにもかかわらず、コマロフは上位6名の候補者には選ばれなかった。ロシアの宇宙計画の主任設計者であったセルギイ・カラーリェフ(Сергей Королев)が指定した年齢、身長、体重の制限を満たしていなかったのが理由であった。宇宙飛行訓練教官のマルク・ガーライ(Марк Галлай)は、取材訪問で「もしも基準が違っていたら」「確かに、コマロフは高度な知能の持ち主であり、候補者の1人に選ばれたかもしれない。彼には空軍士官学校での飛行経験もあった。『ヴォストーク』と『ヴォスホート』の設計は、コマロフの尽力によるところが大きい」と語った[5]。当時、コマロフは32歳であり、選抜された操縦士の中では2番目に年上であった。セルギイ・カラーリェフは、操縦士の最高年齢について「27歳」と指定していた。第一隊の中でソ連空軍学校を卒業したのは、パーヴェル・ベリャーイェフ(Павло Бєляєв)とコマロフの2人だけであった。加えて、新型の航空機の航空試験技師の経験もあったのはコマロフのみであった[6]

訓練

宇宙飛行士の訓練開始直後の1960年5月、コマロフは軽い手術のために入院し、約半年間、医学的に身体訓練ができない状態にあった。当時、宇宙飛行士の選抜基準では体調が重視され、わずかでも不調が見つかれば即座に失格とされた。しかし、コマロフはすでに工学の資格を所持しており、「君なら遅れを取り戻せる」という行政側の説得に応じる形で訓練への残留を許可された。療養中の身でも、必修の学術研究は続けていた[7]。コマロフの身体は医局員たちが予想していた以上に早く回復し、10月には訓練に復帰できた。彼はこの間に後輩の学術研究を手伝い、2歳年上のベリャーエフからは「教授」というくだけた愛称で呼ばれるようになった。

1961年、最初の宇宙飛行が始まった。1962年、コマロフは、技能、階級、経験により、宇宙飛行士として3番目に高い報酬を得ていた。彼の月給は528ルーブルであり、これより高給取りだったのは第一飛行士のユーリイ・ガガーリン(Юрий Гагарин)と、第二飛行士のゲルマン・チトフ(Герман Титов)だけであった[8]

宇宙飛行士の1人、ゲオルギー・ショーニン(Гео́ргий Шо́нин)が、遠心分離機の内部で、許容限度を超えた水準の重力加速度(G-Force)の感受性を明示すると、1962年5月に計画されていたヴォストーク二重任務のため、コマロフがショーニンの後任となった[9]パーヴェル・ポポーヴィチ(Павел Попович)の控えとして「ヴォストーク四号」(Восток 4)にはコマロフが選ばれたが、その後に実施された定期心電図検査で、コマロフの心臓に異常が見付かったことにより、コマロフは宇宙飛行計画から外され、バリス・ヴォリーノフ(Борис Волынов)がその後釜になった[10]。コマロフは、医局員や軍隊に根気よく働きかけ、宇宙飛行訓練への復帰を許可された。

1963年、宇宙飛行士の訓練は6つの団に分かれて実施され、コマロフはヴァレリー・ブィコフスキー(Вале́рий Фёдорович Быко́вский)、バリス・ヴォリーノフとともに第二団に所属となった[11]。これらの団は、1963年の後半に予定されていた、最長5日間の任務に向けた訓練を行うことになっていた。1963年5月、スィミョーン・アレクスィーイェフ(Семен Алексеев)は、宇宙飛行士でソ連空軍の司令官、ニカラーイ・カマーニン(Николай Каманин)に対し、ヴォストーク五号(Восток)の控えには、イェフゲニー・フルノフ(Евге́ни Хруно́в)ではなくコマロフのほうが適任ではないかと申し出た[12]。コマロフはその後、パーヴェル・ベリャーイェフ、ゲオルギー・ショーニン、イェフゲニー・フルノフ、ドゥミートゥリー・ザイキン(Дмитрий Заикин)、ヴィクトル・ガルバートカ(Виктор Горбатко)、バリス・ヴォリーノフ、アレクスィー・リェオーノフ(Алексей Леонов)とともに、1964年に計画されたさらなる任務に向けて、別の団にも選ばれた。訓練団は、のちのヴォストーク任務(ヴォストーク七号から十三号)に向けて結成されたが、搭乗員は実際には任命されてはおらず、任務は本来のヴォストーク計画の後援下で遂行されることは無かった[13] 。1963年12月、2年間の訓練を終えたコマロフは、カマーニンにより、ヴォリーノフ、リェオーノフとともに宇宙飛行士の最終選考に残った。

1964年4月、コマロフは、ヴァレリー・ブィコフスキー、パーヴェル・ポポーヴィチ、ゲルマン・チトフ、バリス・ヴォリーノフ、アレクスィー・リェオーノフ、イェフゲニー・フルノフ、パーヴェル・ベリャーイェフ、リェフ・ジョーミン(Лев Демин)とともに、宇宙飛行出発の準備が整った、と宣告された[14]。これらの候補の中から、1964年末に予定されているヴォスホート任務の指揮官が選ばれることになる。5月、訓練団はヴォリーノフ、コマロフ、リェオーノフ、フルノフの4人に絞られた[15]

訓練中のコマロフは、家族とともにズヨーズヌイ・ガラードックに住んでいた。余暇には、仲間の訓練生たちと一緒に、狩猟、クロスカントリー・スキー(平原をスキーで滑る)、アイス・ホッケーを楽しみ、社会活動にも励んだ。コマロフは仲間から好かれており、仲間はコマロフのことを「ヴォローディア」(本人の名前「ヴラジーミル」の短縮形)と呼んでいた。パーヴェル・ポポーヴィチは、コマロフが同僚から瞻仰されていた理由について、謙虚な性格と(経験で得た)知識にある、と指摘している。コマロフについて、ポポーヴィチは「訓練生としてやってきた彼はすでに技師であったが、決して他人を見下すような真似はしなかった。思い遣りがあり、目的意識を持ち、仕事熱心であった。ヴォローディアは仲間から信頼されており、仕事に関する質問のみならず、個人的な疑問についてまで、仲間たちはあらゆる事柄について彼の元へ相談しに来ていた」と語った[16]

宇宙飛行士仲間のアレクスィー・リェオーノフは、コマロフについて「とても真剣に物事に取り組む」「一流の試験操縦士であった」と述べた[17]

宇宙飛行

1964年7月、健康上の理由で宇宙飛行士から外された者が出たことで、ヴォスホート一号に乗船できる飛行士は7名のみとなった。7月6日、コマロフはヴォスホート一号の予備飛行士の司令官に任命された。ニカラーイ・カマーニンとセルギイ・カラーリェフのあいだで、宇宙船の搭乗員の選定について数か月間に及ぶ論争がおこなわれた。宇宙船の打ち上げ予定日の8日前である1964年10月4日、コマロフは搭乗員の総指揮官に任命された[18]。その日の夜、カマーニンはヴォスホートの搭乗員たちとテニスに興じた。その際、カマーニンは、コマロフのテニスの技能が他の搭乗員たちと比べて未熟である点を指摘した。バリース・イェゴロフ(Борис Борисович Егоров)やコンスタンチン・フェアクチストフ(Константи́н Феокти́стов)に比べると、コマロフのテニスの手並みはぎこちなかったという。10月9日、コマロフは、セルギイ・カラーリェフを始めとする搭乗員たちとともにヴォスホート宇宙船の綿密な検査を行った。また、その日のうちに国営の記者団による取材を受けたり、カメラマンに向けて、自分たちがテニスに興じている姿も公開した。10月11日の朝、コマロフはこの日の翌日に宇宙へ持っていくことになる共産主義的な記念品を手渡された。この日の午後、搭乗員たちは再度宇宙船を点検し、カラーリェフから最後の指示を受けた。コマロフは、搭乗員たちの中でも膨大な訓練を受け、飛行経験を積んだ唯一の成員であった。他の2人の搭乗員は民間人であった。コマロフの呼び出し信号(Call Sign)は「Рубин」(「ルビー」)であった。任務中のコマロフは、他の搭乗員たちとともに様々な任務(医療、航行試験、オーロラの観測)を遂行した。また、ヴォスホート一号に取り付けたイオン・スラスター(Ion Thruster, イオン電荷を帯びた原子)を噴出することにより、推進力を得る小型ロケット・エンジン)の試験はコマロフ1人で実施した[19]

1964年10月10日日本東京オリンピックが開幕すると、コマロフは無線通信を通して挨拶の言葉を送った。

ヴォスホート一号打ち上げおよび宇宙任務は、24時間以上にわたって続いた。搭乗員たちは無事に地球に着陸したのち、バイコヌール宇宙基地カザフスタンのチュラタム<Тюратам>にあるロシアの宇宙基地)まで航空機に乗って帰還した。ニカラーイ・カマーニンは、自身の日記の中で「搭乗員たちは上機嫌であったが、コマロフは疲れているようだった」と記述している[20]10月19日、コマロフは他の搭乗員たちとともにモスクワの赤の広場で報告を行い、クレムリン(Кремль)での公式会見に出席した[21]。短いながらも科学的に重要な任務を成功させたコマロフは、大佐に昇進した[22]。また、レーニン勲章(Орден Ленина)とソ連邦英雄(Герой Советского Союза)の称号も授与された。

1964年12月、戦略ロケット軍は、コマロフをソ連空軍から自分たちの部隊に移籍させて欲しい、と要請した。ソ連の戦略ロケット部隊は、空軍に比べてロケットの製造実績が芳しくなかったのが理由と思われる。この要請にはカマーニンが反対した[23]

1965年、コマロフはユーリイ・ガガーリンとともに、宇宙空間での船外活動の初の遂行を試みたヴォスホート二号の航空準備を指揮した。これには宇宙飛行士への宇宙服の装着、宇宙飛行の際の簡潔な指示が含まれた。4月、コマロフはカマーニン、ガガーリン、ゲルマン・チトフ、ベリャーイェフ、リェオーノフらとともにレニングラードを視察した。コマロフはヴァレンチン・グルシュコとともにピェトロパヴロフスク要塞を訪れた。ここは、グルシュコが1930年代初頭に初期のロケット実験を実施した場所でもあった[24]

同年9月、コマロフは西ドイツを視察した。

コマロフはガガーリン、リェオーノフとともにソユーズ打ち上げ計画に任命された。1966年7月、コマロフは日本に滞在していた。このとき、「ソ連邦は、予定時刻に自動宇宙船を月の周辺で飛行させてから地球に帰還させ、続いて宇宙空間での宇宙船の連結飛行、有人周回飛行を実施します」と無断で発表したことで、コマロフはカマーニンから叱責された[25]。翌月、無重力試験を実施した際、ソユーズ宇宙船に付いている非常口が狭過ぎて、宇宙飛行士が宇宙服を着た状態では安全に脱出するのが不可能である事実が判明した。コマロフは、他の技師たちと現在進行中の設計上の不安材料を巡って口論となった[26]

その間、コマロフと仲間の宇宙飛行士たちは団と任務が幾度となく変更された。ユーリイ・ガガーリンは、コマロフたちに代わってレオニード・ブレジネフ(Леонид Брежнев)に手紙を送り、宇宙船の設計と製造に関する懸念事項について問題提起したが、政府からの反応が梨の礫であることについて、コマロフたちは徐々に不安を覚え始めていた。

ソユーズ一号の墜落、コマロフの死

コマロフに敬意を表して発行された切手(1964年)

1967年、コマロフはソユーズ一号の指揮官に任命され、ユーリイ・ガガーリンがコマロフの控えの宇宙飛行士として任命された。宇宙飛行の準備期間中、2人は1日に12時間から14時間働いていた。4月23日、コマロフは単独でソユーズ一号に搭乗し、宇宙へ向けて打ち上げられた。

軌道投入の際、ソユーズ宇宙船の太陽電池計器盤が変化を見せず、機体への電力の供給が不十分で、操縦機器の一部が見えなくなった。コマロフは以下のように報告した。

「まずい状況になった。船室の設定値は正常だが、左側の太陽電池計器盤の様子は変わらない。電気導体は13 - 14アンペアしか無い。HF(高周波)通信は機能せず、宇宙船を太陽がある側に向けることができない。『DO-1』の方位内燃機関を用いて、手動で宇宙船を太陽がある方向に向けようとしたが、『DO-1』の残圧は180まで低下してしまった」[27]

コマロフは5時間にわたってソユーズ一号の方向付けを試みたが、成功しなかった。機体は信頼性の低い信号情報を送信していた。そして、機体が超高周波地上受信機の範囲外にある間に無線連絡を維持するはずであった高周波送信機が故障したことで、軌道13から15で通信は失われた[27]。その結果、ソ連政府は、宇宙飛行士にソユーズ一号の船外活動(Extravehicular Activity)を遂行させる予定であったソユーズ2号の打ち上げを断念し、宇宙任務を打ち切ったのであった。

コマロフは、軌道15 - 17でイオン流動感知機を用いて機体の方位を再転換するよう指令を受けるも、イオン感知器は故障した。軌道19まで宇宙船の大気圏への再突入を手動で試みるための十分な時間は、もはやコマロフには無かった。手動での方向転換の際には、宇宙船に据え付けられていたVzor潜望鏡装置を頼りにすることになるが、そのためにはコマロフが太陽を視認できる必要があった。着陸地点に指定されていたのはオルスクオレンブルク州の東部)であり、ここに到達するためには、地球の夜側で逆方向に噴射せねばならない。コマロフは、機体を手動で地球の昼側に方向付けることにし、回転儀装置を基軸として活用し、地球の夜側で逆噴射を遂行するための宇宙船の方向付けに成功した[28]

機体は19回目の周回軌道で地球の大気圏への再突入には成功したが、機体に備わっていた減速用落下傘と常用の制動落下傘が正常に開かなかった。

4月24日、ソユーズ一号はオレンブルク州アダモフスキー地区に墜落した。まもなく機体から火の手が上がり、炎上した。

ユーリイ・ガガーリン

ニカラーイ・カマーニンは自身の日記の中で、ソユーズ一号は「秒速30 - 40mの速度」で地上へ墜落し、コマロフの遺骸については「直径30㎝、長さ80㎝、原型をとどめていない物体の塊が残っていただけだった」と記述した。

宇宙船の墜落から3時間以内に、ムスチスラフ・ケルディシュ(Мстисла́в Ке́лдыш)を始めとする宇宙計画委員会の委員たちが墜落現場に赴いた。21時45分、ニカラーイ・カマーニンは、コマロフの遺体を乗せてオルスク飛行場に向かい、ここで遺体は「IL-18」に積み込まれた。出発の10分前に、ニカラーイ・ドゥミートリエヴィチ・クィズニェツォフ(Николай Дмитриевич Кузнецов)と、宇宙飛行士を数人乗せたAn-12が着陸した。カマーニンは航空機を操縦し、翌朝早く、モスクワに到着した。モスクワ周辺の全飛行場は、天候が原因で離着陸が禁止されていたため、シェレミーチェヴァ国際空港に迂回せざるを得なかった。コンスタンチン・ヴィエルシーニン(Константин Вершинин)の命令により、コマロフの遺体は写真撮影の直後に火葬され、クレムリンの壁に埋葬されることとなった[29]

コマロフの遺骸はその日の朝に簡単な検死作業が行われ、その後に火葬された[30]

4月25日、コマロフの死に対する宇宙飛行士仲間による以下のような回答が、『プラヴダ』(Правда)に掲載された。

「先駆者にとって、これは常に険しい道程である。その道は一直線ではなく、急激な旋回、仕掛け、危険も潜んでいる。しかし、軌道に乗った者は、決してそこから離れようとはしない。そして、たとえどんな困難や障壁が待っていようとも、そのような人が自分の選んだ道から逸れてしまうほどの存在では決してない。宇宙飛行士は、心臓が動いている限り、常に宇宙に挑み続けるのだ。ヴラジーミル・コマロフは、この、移ろいやすく過酷な道のりに挑んだ最初の一人であった」[31]

5月17日、ロシアの日刊紙『カムサモリスカヤ・プラヴダ』(Комсомольская Правда)による取材訪問に応じたユーリイ・ガガーリンは、宇宙飛行士団が特定していたソユーズ宇宙船の規格化部品の不安材料に耳を貸そうとしなかったソ連政府について仄めかし、コマロフが死んだことで、試験と評価をより厳格に実施するよう政治家に学ばせるべきだ、と主張した。ガガーリンは「宇宙船における全ての機構、検査と試験運転の全段階において、より注意深く、未知なるものとの遭遇に、より一層警戒することだ。彼は宇宙への道のりがどれほど危険を伴うものであるかを、身をもって示してくれた。彼の宇宙飛行とその死は、我々の勇気を奮い起こしてくれるだろう」と述べた[31]

1967年5月、ガガーリンとリェオーノフは、計画の最高責任者、ヴァシーリー・ミーシュン(Васи́лий Ми́шин)の「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知見の無さ、宇宙飛行や訓練活動における宇宙飛行士との協調の欠如」を糾弾し、ニカラーイ・カマーニンに対して、墜落事故の公式報告書で彼の名前を参考人として示すよう要請した[32]

栄誉

コマロフが描かれた官製葉書
月面に残された、宇宙事故で死亡した宇宙飛行士を追悼する彫刻の銘板

死後の栄誉

1967年4月26日、コマロフはモスクワで国葬で葬られ、その遺灰は赤の広場にあるクレムリン壁墓所に埋葬された。アメリカの宇宙飛行士は、代表者を参列させたい、とソ連政府に要請したが、ソ連はこれを断った[33]

コマロフは死後、2度目のレーニン勲章とソ連邦英雄の称号を授与された。

1968年4月25日オルスクの付近 -北緯51度21分41.67秒 東経59度33分44.75秒 / 北緯51.3615750度 東経59.5624306度 / 51.3615750; 59.5624306- 、ソユーズ一号の墜落現場でコマロフの追悼式が行われた。カマーニンの日記によれば、この儀式には1万人を超える人々が参列し、「この行事のために何百kmもの距離を運転してきた人もいた」と記されている[34]。墜落現場には記念碑が建てられた[35]

宇宙開発への貢献により、数カ国で発行された記念切手や初日封筒には、コマロフの写真が採用されている。初期のころのロシアの宇宙開発における他の著名人とともに、モスクワにある「宇宙飛行士横丁」にて、コマロフを追悼する胸像が建てられた。

アポロ11号(Apollo 11)による月面着陸任務で、ニール・アームストロング(Neil Armstrong)が月から離陸する前に着手した最後の任務は、コマロフ、ガガーリン、アポロ1号に搭乗したガス・グリソム(Gus Grissom)、エドワード・ホワイト(Ed White)、ロジャー・チャフィー(Roger Chaffee)に対する栄誉と追悼の品を置くことであった[36]

コマロフの名前は、1971年8月1日アポロ15号(Apollo 15)の司令官、デイヴィッド・スコット(David Scott)が月の表面のハドリー・リル(Hadley Rille)に残した、亡くなったNASAの宇宙飛行士とソ連の宇宙飛行士への敬意を込めて、「Fallen Astronaut」と題した小さな彫刻の記念碑(銘板)にも記されている。この記念碑は、宇宙空間および月への到達を目指す過程で命を落とした宇宙飛行士への追悼を象徴する[37]

1971年に発見された小惑星は、月の表面にあるクレーターと同じく、コマロフにちなんで命名された[38]。コマロフとこの小惑星から着想を得た作曲家のブレット・ディーン(Brett Dean)は、2006年サイモン・ラトル(Simon Rattle)による指揮で交響曲を作曲した。この曲は「Komarov's Fall」と命名され、EMI Classicsから発売されたサイモン・ラトルのアルバム『The Planets』(『惑星』)に収録されている。

国際宇宙航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale)の「V・M・コマロフ・ディプロマ」(V.M. Komarov Diploma)は、コマロフにちなんで命名された。

かつてソ連には、コマロフの名を冠した衛星追跡船があったが、1989年に廃止された。

私生活と家族

1950年10月に結婚したヴァレンチーナとの間に、息子のイェフゲニー、娘のイリーナを儲けている。

参考

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  2. ^ Burgess and Hall, p. 52
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  4. ^ Burgess and Hall, p. 54
  5. ^ Harford, James (1997). Korolev. John Wiley & Sons. p. 165. ISBN 0-471-32721-2 
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  7. ^ Hall and Shayler, p. 125
  8. ^ Kamanin Diary, 16 March 1962
  9. ^ Hall and Shayler, p. 181
  10. ^ Hall and Shayler, pp. 182–83
  11. ^ Kamanin Diary, 1 February 1963
  12. ^ Kamanin Diary, 9 May 1963
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  14. ^ Kamanin Diary, 24 April 1964
  15. ^ Kamanin Diary, 24 May 1964
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  17. ^ Scott, David; Leonov, Alexei (2004). Two Sides of the Moon. p. 195. ISBN 0-312-30865-5. https://archive.org/details/twosidesofmoon00scot/page/195 
  18. ^ Kamanin Diary, 4 October 1964
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  22. ^ Hall, Rex; Shayler, David (2001). The Rocket Men: Vostok & Voskhod, The first Soviet Manned Spaceflights. p. 355. ISBN 1-85233-391-X 
  23. ^ Kamanin Diary, 30 December 1964
  24. ^ Kamanin Diary, 28 April 1965
  25. ^ Kamanin Diary, 20 July 1966
  26. ^ Kamanin Diary, 5 August 1966
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  28. ^ Kamanin Diary, 24 April 1967
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  37. ^ Hammer and Feather”. www.hq.nasa.gov. NASA. 2016年6月28日閲覧。 “Scott – "We made a plaque for all the astronauts and cosmonauts that had been killed. And a little figurine, a Fallen Astronaut, and we put it right by the Rover. You can see it in the picture (AS15-88-11893). That was just a little memorial, in alphabetical order. In relative terms, we had both lost a lot and, interestingly enough, we didn't lose any more after that until Challenger. That's what I was doing when I said I was cleaning up behind the Rover (at 167:43:36). Jim knew what I was doing. We just thought we'd recognize the guys that made the ultimate contribution."(「死んでいった宇宙飛行士たちに向けて、この記念碑を作りました。そして、「Fallen Astronaut」と題した小さな置物を作り、月面車のすぐ傍に置きました。写真(AS15-88-11893)に写っているのがそれです。名前がアルファベット順に並ぶ、ささやかな追悼の品です。相対的に見てみれば、我々は双方とも多くのものを失いましたが、興味深いことに、その後のチャレンジャー号の空中分解事故が起こるまでは、失うものはありませんでした。私が『月面車の後ろを掃除しているんだ』と言ったときに私がしていたことです(167:43:36)。ジムは私が何をしているのかを分かっていました。我々としては、ただ、この上ない貢献を果たした人たちを称えたかっただけなのです」)”
  38. ^ Schmadel, Lutz D. (2003). Dictionary of Minor Planet Names, Volume 1. New York: Springer. pp. 147. ISBN 3-540-00238-3. https://books.google.com/books?id=KWrB1jPCa8AC&q=Komarov&pg=PA147 

参考文献

外部リンク