アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前38年の執政官)

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アッピウス・クラウディウス・プルケル
Ap. Claudius C. f. Ap. n. Pulcher
出生 不明
生地 ローマ
死没 不明
死没地 不明
出身階級 パトリキ
氏族 クラウディウス氏族
官職 執政官紀元前38年
前執政官(- 紀元前32年
担当属州 ヒスパニア(- 紀元前32年
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アッピウス・クラウディウス・プルケルラテン語: Appius Claudius Pulcher 、生没年不明)は、紀元前1世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前38年執政官(コンスル)を務めた。

出自[編集]

プルケルはパトリキ(貴族)であるクラウディウス氏族の出身である。クラウディウス氏族はサビニ族を祖とし、ローマと平和的な関係を求めたアッティウス・クラウススが成人男性だけでも約500人のクリエンテスと共にローマへと移り住み、土地と元老院の議席を与えられた。そしてローマ社会のパトリキの名門として成長を遂げる。プルケル(美しい)のコグノーメン(第三名、家族名)を最初に名乗ったのは、紀元前249年の執政官プブリウス・クラウディウス・プルケルである。

プルケルは、この執政官プブリウスの6代目の子孫にあたり、紀元前56年プラエトルを務めたガイウス・クラウディウス・プルケルの長男である[1]。プルケルには弟がいたが、子のいなかった叔父で紀元前54年の執政官アッピウス・クラウディウス・プルケルの養子となり、やはりアッピウス・クラウディウス・プルケルとなのった。このアッピウスは元老院議員にはなったものの、高位政務官職にはついていない[2]。但し、両者を区別する必要がある際には、本記事のプルケルは大プルケル、またはガイウスの子プルケルと呼ばれる[3][4]。なお、イギリスの歴史学者R. サイムは、弟だけでなく本記事のプルケルも養子に入ったとしている[5]

プブリウス・クロディウス・プルケルも叔父にあたる。

経歴[編集]

プルケルに関する最初の記録は紀元前58年のことである[3]キケロティトゥス・ポンポニウス・アッティクスに宛てた9月4日付けの手紙の中で、キケロの弟のクィントゥスアシア属州総督時代の行為に関して、プルケルが告訴するのではないかと心配している[6]紀元前52年、プブリウス・クロディウス・プルケルがティトゥス・アンニウス・ミロの支持者と衝突して殺害されるという事件が起きるが、裁判では叔父を殺されたプルケルが検察側の一人となった。キケロはミロの弁護を行ったが敗訴し、ミロは殺人で有罪となった[7]。プルケルは叔父の仇を討つことだけが目的だったので、法定の報酬を受け取らなかった[8]

紀元前50年、アッピウスという人物が、それまでカエサル隷下にあった2個軍団を、ポンペイウスの軍に配置換えするためにガリアからイタリアに移動させた[9][10]。これはポンペイウスがカエサルに与えていた第1軍団と第15五軍団で、パルティアとの国境を強化するために西方に派遣される予定であったが、結局はイタリアに留まり、後のポンペイウスとカエサルの内戦に参加している[11]プルタルコスによれば、このアッピウスは「ガリアでのカエサルの功績を大いに過小評価し、彼についての誹謗中傷を広めた」結果、ポンペイウスはカエサルと戦争となった場合には自分が容易に勝利すると判断したという[10]。歴史学者はこのアッピウスとはプルケルのことであると考えている[12]

プルケルが内戦でどちらについたかは正確にはわかっていない。ただ、スエトニウスはクラウディウスの2人の兄弟がギリシアに滞在していたと書いており[13]、歴史学者はプルケル兄弟はポンペイウスの後を追ってバルカン半島に渡ったと考えている[12]。カエサル暗殺英語版後の紀元前43年、プルケルは紀元前52年に追放処分となっていた父ガイウスのローマ帰還を認めてくれたことに感謝し、マルクス・アントニウスを支持した。キケロが暗殺者の一人であるデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスに宛てた手紙では、勝利の際にはプルケルを助けるようにと書いている。キケロはプルケルとは「最も親密な友好関係」にあったとしている[14]

紀元前38年、プルケルは、プレブス(平民)のガイウス・ノルバヌス・フラックスと共に執政官に就任した[15]。しかし、そこに至るまでのクルスス・ホノルム(名誉のコース)については何も知られていない。プルケルは任期途中で離職し、ルキウス・コルネリウス・レントゥルスが補充執政官となった[15]

その後、彼はヒスパニアの総督となり、紀元前32年6月1日に帰国した際には、凱旋式を行った。プルケルの名前が刻まれた2つの碑文がヘルクラネウムで発見されている。1つはプルケルによる神殿の建設について、もう1つは彼の死後に彼の名誉のために彫像が建てられたことを伝えている [12]

子孫[編集]

紀元前2年に初代皇帝アウグストゥスの娘ユリアの愛人の一人とされたアッピウス・クラウディウス・プルケルは、息子の可能性がある[16]

脚注[編集]

  1. ^ Claudius, 1899 , s. 2665-2666.
  2. ^ Claudius 299, 1899.
  3. ^ a b Claudius 298, 1899, s. 2853.
  4. ^ Claudius 299, 1899, s. 2854.
  5. ^ R. Syme. Claudius Pulchra
  6. ^ 『アッティクス宛書簡集』、III, 17, 1.
  7. ^ アスコニウス・ペディアヌス『キケロ演説に対する注釈書:ミロ』、29; 32-33.
  8. ^ Claudius 298, 1899 , s. 2853-2854.
  9. ^ 『アッティクス宛書簡集』、VII, 15, 3; 20, 1.
  10. ^ a b プルタルコス『対比列伝:ポンペイウス』、57.
  11. ^ Egorov A., 2014 , p. 215.
  12. ^ a b c Claudius 298, 1899, s. 2854.
  13. ^ スエトニウス『共和政ローマ偉人伝:文法学者』、10.
  14. ^ キケロ『友人宛書簡集』、XI, 22, 1.
  15. ^ a b Broughton R., 1952 , p. 390.
  16. ^ Claudius 15, 1899 , s. 2668.

参考資料[編集]

古代の資料[編集]

研究書[編集]

  • Egorov A. Julius Caesar. Political biography. - SPb. : Nestor-History, 2014 .-- 548 p. - ISBN 978-5-4469-0389-4 .
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1952. - Vol. II. - P. 558.
  • Münzer F. Claudius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1899 .-- T. III, 2 . - P. 2662-2667.
  • Münzer F. Claudius 15 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1899 .-- T. III, 2 . - P. 2668.
  • Münzer F. Claudius 298 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1899 .-- T. III, 2 . - P. 2853-2854.
  • Münzer F. Claudius 299 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1899 .-- T. III, 2 . - P. 2854-2855.

関連項目[編集]

公職
先代
ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス
ガイウス・カルウィシウス・サビヌス
補充:
ガイウス・コッケイウス・バルブス
プブリウス・アルフェヌス・ウァルス
執政官(途中離職)
紀元前38年
同僚:ガイウス・ノルバヌス・フラックス(途中離職)

補充執政官:
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス
ルキウス・マルキウス・ピリップス
次代

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ I
ルキウス・カニニウス・ガッルス補充:
ティトゥス・スタティルス・タウルス I
公職