ウバルド・ランフランキ

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ウバルド・ランフランキ
ピサ大司教
着座 1176年4月11日
離任 1207年6月19日
前任 ヴィラーノ・ヴィラーニ
後任 ロターリオ・ロザリオ
個人情報
死去 1207年6月19日
教派・教会名 カトリック教会
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ウバルド・ランフランキイタリア語:Ubaldo Lanfranchi, ? - 1207年6月19日)は、イタリア人のカトリック大司教

生涯[編集]

イタリア貴族のランフランキ家出身であり、1176年4月11日にピサ大司教に任ぜられた。ピサ大司教の影響力はトッレスカリャリおよびアルボレーアの管区にまで及んでいた。1198年3月21日、ローマ教皇インノケンティウス3世ウルバヌス2世の時代以降伝統的に教皇の管轄下にあったサルデーニャ教区をピサ大司教の管轄下に置くことを承認した。

1189年、ウバルドは教皇特使としてグリエルモ1世・ディ・カリャリを伴い第3回十字軍に参加し[1]、52隻の船とともに聖地に到着し、ギー・ド・リュジニャンと対立するモンフェッラート侯コンラート1世の味方となるためにギーの側に付いた。アッコ包囲戦の間に、ウバルドはオンフロワ4世・ド・トロンエルサレム女王イザベル1世の離婚を承認し、イザベルがモンフェッラート侯コンラート1世と結婚できるようにした[2]

晩年の3年間、ウバルドはサルデーニャ、特にジュディカート・ディ・ログドーロにおける教会法に関するいくつかの論争により、教皇と対立した。ウバルドは1207年のおそらく6月19日に死去した。

伝説[編集]

民間の伝承によると、ゴルゴダの土を積んだガレー船でトレマイデ包囲戦から戻ったのはウバルドであったという。1203年、この「聖地」はピサのカンポサントの地面にまかれたという[3]

脚注[編集]

  1. ^ Queller & Madden 1997, p. 233.
  2. ^ McDougall 2017, p. 241.
  3. ^ Bodner 2015, pp. 78, 79.

参考文献[編集]

  • Bodner, Neta B. (2015). “Earth from Jerusalem in the Pisan Camposanto”. Between Jerusalem and Europe: Essays in Honour of Bianca Kühnel. Brill 
  • McDougall, Sara (2017). Royal Bastards: The Birth of Illegitimacy, 800-1230. Oxford University Press 
  • Queller, Donald E.; Madden, Thomas F. (1997). The Fourth Crusade: The Conquest of Constantinople. University of Pennsylvania Press