ジョン・ヘイ (第12代エロル伯爵)

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第12代エロル伯爵ジョン・ヘイ英語: John Hay, 12th Earl of Erroll、1672年以前 – 1704年12月30日)は、スコットランド貴族

生涯[編集]

サー・アンドルー・ヘイ(Sir Andrew Hay、1672年までに没、ジョージ・ヘイ閣下の息子、第8代エロル伯爵アンドルー・ヘイ英語版の孫)と妻マーガレット(Margaret初代キナード卿ジョージ・キナードの姉妹)の長男として生まれた[1]

祖父の兄の孫にあたる第11代エロル伯爵ギルバート・ヘイエロル伯爵位を返上して1666年11月13日に再叙爵を受け、ジョン・ヘイを次代伯爵に指名した[1]。1674年に第11代エロル伯爵が死去すると、1666年の継承規定に基づき爵位を継承、同年3月4日にはその爵位や領地の特許状を受け取った[1]

1672年10月2日にパースアバディーンの市民として承認され、1685年5月1日にアバディーンシャー州裁判所判事英語版に任命された[1]

1688年の名誉革命では妻の兄にあたる第4代パース伯爵ジェームズ・ドラモンドスコットランド大法官英語版を務めていたこともあり、事態に注目した[2]。伯爵自身はジェームズ7世(イングランド王としてはジェームズ2世)を支持したが、「並外れた節制と判断力をもって行動した」(acted with singular moderation and judgment)とされる[2]

1700年2月5日にアバディーン大学キングス・カレッジ英語版学長に任命され[1]、1704年に死去するまで務めた[2]

1704年12月30日に死去、息子チャールズが爵位を継承した[1]

家族[編集]

1674年10月1日、アン・ドラモンド(Anne Drummond、1656年1月 – 1704年12月30日以降、第3代パース伯爵ジェームズ・ドラモンドの娘)と結婚、3男2女をもうけた[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Paul, Sir James Balfour (1906). The Scots Peerage (英語). Vol. III. Edinburgh: David Douglas. pp. 571–573, 579–580.
  2. ^ a b c Mackintosh, John (1898). Historic Earls and Earldoms of Scotland (英語). Aberdeen: W. Jolly & Sons. pp. 258–259.
スコットランドの爵位
先代
ギルバート・ヘイ
エロル伯爵
1674年 – 1704年
次代
チャールズ・ヘイ