タイダル (サルジウト部)

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タイダルモンゴル語: Tayidar、? - 1255年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、サルジウト部の出身。モンゴル帝国の第4代皇帝モンケによって四川方面のタンマチ(辺境鎮戍軍)司令官に抜擢され、南宋軍との戦いで活躍した。『元史』などの漢文史料における漢字表記は太答児(tàidāér)・帯答児(dàidāér)など。

概要[編集]

タイダルの父のボロルタイはモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンに仕えてケシクテイ(親衛隊)に入った人物で、第2代皇帝オゴデイの時代には金朝平定に加わり、平定後は河南一帯に駐屯していた[1][2]

タイダルは若い頃からトルイ家のモンケに仕えてヨーロッパ遠征にも従軍し、アスト部キプチャク部平定戦で活躍し都元帥の地位を授けられている。

その後、モンケが第4代皇帝として即位すると、タイダルは1252年壬子)に陝西方面の軍団(タンマチ)の指揮を委ねられ[3]、四川方面の南宋軍と対時した[4]。なお、それまで陝西方面の軍団はオングト部のアンチュルの統率下にあったが、アンチュルはカアン位を巡ってモンケと対立していたチャガタイ家所属の武将であったために左遷され、代わってタイダルが抜擢されたものと考えられている[5]

1253年癸丑)、タイダルは総帥の汪田哥とともに利州を立て、1254年甲寅)には碉門・黎州・雅州などの城を攻略した。1255年乙卯)には重慶に侵攻して南宋の将軍の張実を捕虜とする功績を挙げたが、同年中に亡くなった[6]。タイダルの死後は息子のネウリンが跡を継ぎ、モンケ死後の混乱(帝位継承戦争)を乗り切ってクビライ大元ウルスに仕え、タイダルの一族は大元ウルスにおいても四川方面の軍務を司る一族として存続する。『元史』にはタイダルの息子のネウリンと孫のイェスデル(巻129列伝16)・玄孫のタシュ・バートル(巻142列伝29)・五世の孫のボロト・テムル(巻207列伝94)らの列伝が載せられている[7]

オングト部アンチュル家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「紐璘、珊竹帯人。祖孛羅帯、為太祖宿衛、従太宗平金、戍河南」
  2. ^ 牛根 2010,612頁
  3. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「元年辛亥夏六月……遂改更庶政、命皇弟忽必烈領治蒙古・漢地民戸……以茶寒・葉干統両淮等処蒙古・漢軍、以帯答児統四川等処蒙古・漢軍、以和里䚟統土蕃等処蒙古・漢軍、皆仍前征進」
  4. ^ 松田1996,175/177頁
  5. ^ 松田1993,39頁
  6. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「紐璘……父太答児、佐憲宗征阿速・欽察等国有功、拜都元帥。歳壬子、率陝西西海・鞏昌諸軍攻宋、入蜀。癸丑、与総帥汪田哥立利州。甲寅、攻碉門・黎・雅等城。乙卯、入重慶、獲都統制張実。是歳卒」
  7. ^ 牛根2010,81-83頁

参考文献[編集]

  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (下)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1993年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 元史』巻129列伝16