トクメ

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トクメモンゴル語: Tükme、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では禿苦滅(tūkǔmiè)/禿曲滅(tūqūmiè)、『集史』などのペルシア語史料ではتوکمه(tūkme)と記される。

カイドゥの子のオロスらとともに、「カイドゥ・ウルス(カイドゥの国)」残党の中でも最後まで大元ウルスチャガタイ・ウルスと敵対したことで知られる。

概要[編集]

『集史』「オゴデイ・カアン紀」はトクメが第3代皇帝グユクの子孫であると記すが、その系譜については写本間で差異があって一致しない。多くの写本で「グユクの長男のホージャ・オグルの長男」としてトクメの名前が挙げられる一方、一部の写本などでは「グユクの末子のホクの孫」として「チャパルと争っているトクメ」の名前が挙げられており、トクメがグユク家のどの血統に属するかは定かではない[1]。なお、漢文史料たる『元史』では本紀や列伝で「禿苦滅」もしくは「禿曲滅」として言及されるが、オゴデイ家の王統を記す巻107表2「宗室世系表」には名前が挙がっていない[2]

13世紀後半より14世紀初頭にかけて、中央アジア一帯はオゴデイ家のカイドゥによって統一され、トルイ家の治める大元ウルスやフレグ・ウルスと対立していた。トクメはカイドゥの支配する「カイドゥの国(カイドゥ・ウルスとも)」に属するオゴデイ系王族の一人であり、13世紀末から14世紀初頭にかけてカイドゥ・ウルス内のグユク家を代表する人物であったと見られる[3]。トクメが始めて史料上に現れるのは至元17年(1280年)7月のことで、この年にトクメは天山ウイグル王国を劫掠したため、クビライは3年にわたって税の徴収を免除したことが記録されている[4]。また、大徳元年(1297年)には3万の兵を率いて他の諸王とともにイビル・シビル地方(オビ川流域一帯、現在の西シベリア平原)に侵攻して大元ウルス軍と交戦したものの、アスト軍団長のユワスに敗れて撤退に追い込まれている(イビル・シビルの戦い[5]

大徳5年(1301年)、カイドゥは大軍勢を率いて大元ウルス領のモンゴル高原に侵攻したが、カイシャン率いる大元ウルス軍に阻まれ、この戦いで負った戦傷が元で亡くなってしまった(テケリクの戦い)。亡くなる直前にカイドゥは息子の一人のオロスを後継者に指名していたが、長年カイドゥの支配下にあったチャガタイ家のドゥアはカイドゥの庶長子のチャパルを支援し、大徳7年(1303年)にはドゥアの後ろ盾の下チャパルがエミル川にて即位した[6]。チャパルの即位に強硬に反対したのが本来の後継者であったオロス、その妹で戦士としても有名だったクトルン、そしてグユク家のトクメであった。そもそもドゥアがチャパルを擁立した目的はオゴデイ家内部に不和をもたらすことで勢力を弱体化させ、代わってチャガタイ家が「カイドゥ・ウルス」のイニシアチブを得ることにあったと考えられ、オロスやトクメとチャパルがオゴデイ家どうしで相争うのはドゥアの目論み通りであった[7]

更に、大徳8年(1304年)にはドゥアは長年敵対関係にあった大元ウルスと単独講和を果たし、チャパル/トクメらオゴデイ系諸王は本領のジュンガル盆地で孤立することになった[8]。大徳10年(1306年)7月、遂にカイシャン率いる大元ウルス軍はアルタイ山脈を越えてオゴデイ系諸王の領地に攻め込み、オゴデイ系クチュ家のアルグイ、カダアン家のイェスン・トゥア、メリク家のトゥマンらほとんどのオゴデイ系諸王は捕虜となり、チャパルとトクメのみが追撃を逃れて中央アジアに留まることができた(イルティシュ河の戦い[9]。同年8月、トクメはアルタイ山脈に駐屯するカイシャン軍に対して反攻を仕掛けるも敗れ、遂にジュンガル盆地における「オゴデイ・ウルス」は占領・解体されてしまった[10]

大元ウルスに敗れたチャパルらはやむなくチャガタイ家のドゥアに投降し、同年クナス草原にてクリルタイを開催したドゥアはチャパルを廃位することで名実ともにカイドゥの後継=中央アジアの支配者としての地位を確立した。しかし、ドゥアが大徳11年(1307年)に亡くなると、その後を継いだ息子のゴンチェクも在位1年で急逝してしまい、遠縁で長老格のナリクが即位することになったが、今度はナリクとドゥアの遺児達との間で内戦が起こることになった。これを好機と見たチャパル、トクメ、オロスらオゴデイ家残党は蜂起し、ナリクを破って即位したケベクを一度は破った[11]。この頃、チャパルとトクメが不穏な動きを見せていることは大元ウルス側でも察知されており、即位したカイシャンに代わってモンゴル高原に駐屯するオチチェル至大元年(1308年)にトクメらが「二心を抱き」「国患となろうとしている」ことを報告し、彼等と対立するドゥアの遺児を支援することを要請して認められている[12]

大元ウルスの支援を受け、またアリー・オグルらの援軍を得た[13]ケベク軍はチャパル/トクメらを破ることに成功した。敗走後、チャパルはイリ川を越えて大元ウルスに亡命したが、トクメはケベク軍によって追い詰められ、殺されてしまった[14]。チャパルの亡命とトクメの戦死によってオゴデイ家は遂に中央アジアにおける権益(投下領)を全て失ってしまい、中央アジアにおけるオゴデイ家の系譜は途絶えることになった[15]

グユク王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 松田1996,35頁
  2. ^ 『元史』107表2宗室世系表,「定宗皇帝、三子:長忽察大王、次二脳忽太子、次三禾忽大王。忽察大王位:忽察。亦児監蔵王。完者也不干王。脳忽太子位:脳忽。禾忽大王位:禾忽。南平王禿魯」
  3. ^ 村岡1992,31頁
  4. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年秋七月]己酉……以禿古滅軍劫食火拙畏吾城禾、民饑、命官給駅馬之費、仍免其賦税三年」
  5. ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「成宗時在潜邸、帝以海都連年犯辺、命出鎮金山、玉哇失率所部在行。従皇子闊闊出・丞相朶児朶懐撃海都軍、突陣而入、大破之。復従諸王薬木忽児・丞相朶児朶懐撃海都将八憐、八憐敗。海都復以禿苦馬領精兵三万人直趨撒剌思河、欲拠険以襲我師。玉哇失率善射者三百人守其隘、注矢以射、竟全軍而帰」
  6. ^ 加藤1999,30頁
  7. ^ 加藤1999,31頁
  8. ^ 加藤1999,32-34頁
  9. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳]十年七月、自脱忽思圏之地逾按台山、追叛王斡羅思、獲其妻孥輜重、執叛王也孫禿阿等及駙馬伯顔。八月、至也里的失之地、受諸降王禿満・明里鉄木児・阿魯灰等降。海都之子察八児逃於都瓦部、尽俘獲其家属営帳。駐冬按台山、降王禿曲滅復叛、与戦敗之、北辺悉平」
  10. ^ 劉2006,338頁
  11. ^ 『オルジェイトゥ史』には「[ケベクがナリクを打倒し、チャガタイ・ウルスの統治権を得た三日後]トクメとチャパル太子が30万の軍とともにケベクの生命を狙い至りつつあることが知らされた。ケベクは自身の兵士たちとともにクナスの宿頓から出発し、TWYRMAYに安下した。かの陣地において、トクメとチャパルは軍団の整治をなして、ケベクを攻撃した。双方より苛烈な戦闘・緊迫した交戦が進行した。ケベクは潰走・退却し、かれの軍は四方八方に散った」と記される(宮2019,451頁)
  12. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「至大元年、月赤察児遣使奏曰『諸王禿苦滅本懐携貳、而察八児游兵近境、叛党素無悛心、倘合謀致死、則垂成之功顧為国患。臣以為昔者篤娃先衆請和、雖死、宜遣使安撫其子款徹、使不我異。又諸部既已帰明、我之牧地不足、宜処諸降人於金山之陽、吾軍屯田金山之北、軍食既饒、又成重戍、就彼有謀、吾已擣其腹心矣』。奏入、帝曰『是謀甚善、卿宜移軍阿答罕三撒海地』。月赤察児既移軍、察八児・禿苦滅果欲奔款徹、不見納、去留無所、遂相率来降、於是北辺始寧」
  13. ^ 『オルジェイトゥ史』には「D ̄ūal-Qarnainの弟のアリー・オグルが大軍と共にウズケントにおり、千戸の軍官アラクと二人とも各々自身の軍団と共にケベクの援助を以て連合した。ムバーラク・シャーの息子(孫)のシャイフ・テムルも、自身の軍団とともに援助・掩護を示し、一緖にトクメの背後に前去した」と記される(宮2019,451頁)
  14. ^ 『オルジェイトゥ史』には「両勢(トクメ軍とケベク軍)はクナスにおいて遭遇した。期せざる邂逅の後、戦闘になった。トクメは潰走し、カラウンと共にトゥルキーの地の諸城鎭に入り、トクトの仲間(イル)となった。ケベクは一千騎を選び、トクメの追跡に遣わした。冬の季節にトクメに追いつき、かれを捕獲し、殺した。春に帰還した」と記される(宮2019,451頁)
  15. ^ 加藤1999,38頁

参考文献[編集]

  • 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』北海道大学図書刊行会、1999年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 宮紀子「『オルジェイトゥ史』が語るアジキ大王の系譜(1)」『東方学報』94号、2019年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 劉迎勝『察合台汗国史研究』上海古籍出版社、2006年
  • 新元史』巻111列伝8