ノート:これだけ読めば戦は勝てる

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2016年2月21日の編集について[編集]

この編集[1]についての注釈です。

  • リー(2007)などに言及のあった、谷川・国武のシンガポールの軍情調査に関する下記の記載は、篠崎 (1976, pp. 1–3)では1940年9月の出来事とされており(1941年9月は編者の誤記)、小谷 (2008, p. 54)では杉田 (1987, p. 146)からの引用として「1941年1月から2ヶ月かけて」行われたとされていましたが、杉田 (1987, p. 146)を確認したら「1940年夏頃から派遣され」「8月9日帰国予定」(編注:9月8日の誤記と思料)とありました(小谷の典拠は不明)。1940年9月にはまだ台湾軍研究部が設置されておらず、谷川・国武が台湾に寄ったかどうかは篠崎(1976)にしか記載がないため不確かで、この記事とは直接関係なさそうなので消しました。
    • 1940年9月には、シンガポールの総領事館で嘱託として勤務していた篠崎護が外務省の「伝書使」としてシンガポールを訪問した参謀本部作戦班長・谷川大佐と班員・国武少佐をシンガポール市内外の軍事拠点に案内し、2人はシンガポールからの帰途、台北に寄って辻に「海正面、東西南の防備は厳重だが、北方の防備には見るべきものはなく、航空戦力はそれほどでもない」としてマレー半島を南下する作戦を提示したとされる[1][2]
  • また、リー(2007)に言及のあった、浅間丸の在星邦人からの情報収集に関する下記の記載は、台湾研究所が閉鎖された1941年7月頃以降の出来事なので[3]、消しました。
    • またマラヤ・シンガポールの長期滞在者にインタビューして生活環境や労働条件について調べ[1]、1941年11月6日に、シンガポールを出港した日本の定期船浅間丸に乗船した日本人約450人が集めたマラヤやシンガポールに関する数々の資料も、台湾第82部隊に送られた[4]

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ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月16日 (金) 11:25 (UTC)[返信]

  1. ^ a b リー 2007, p. 40.
  2. ^ 篠崎 (1976, pp. 1–3)。篠崎はこの直後、シンガポールの警察当局にスパイ容疑で逮捕され、裁判で有罪となって投獄された(篠崎 1976, pp. 3–9)
  3. ^ 防衛研 1966, pp. 52–53.
  4. ^ リー 2007, pp. 39–40.