ノート:オスマン帝国の対プロテスタント政策/過去ログ1

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ワッハーブ派やサラフィー主義と、アメリカのプロテスタントとの類似性

数年ぶりに書き込みます。数年前のノートをみると、僕が議論を混乱させてしまったようで恥ずかしい限りです。

東京大学のイスラム研究者である池内恵先生のブログを紹介します。アメリカの保守派ウォルター・ラッセル・ミードがワッハーブ派やサラフィー主義と、アメリカのプロテスタントとの類似性を論じているとのことです。

http://ikeuchisatoshi.com/%EF%BC%88%EF%BC%94%EF%BC%89%E7%B1%B3%E4%BF%9D%E5%AE%88%E6%B4%BE%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%95%99%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E7%A8%AE%E3%81%AE%E8%A6%AA%E8%BF%91/

関連書籍:ウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金 上 イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか』

昨今のいわゆるイスラム過激派サラフィー主義者の行動が、アメリカの言論会に影響を与えた可能性はあります。面白いのが、上記書籍では、イスラムのワッハーブ派やサラフィー主義が長期的に見れば、イスラーム世界の発展に肯定的な意味を持つ可能性があると示唆しているということです。--G0mao会話2015年6月14日 (日) 00:07 (UTC)

観点・正確性の疑問

  • 観点タグ・正確性タグにつき説明します。
    • プロテスタントとイスラームが軍事同盟のようなものを結ぶ方向に動いた事例が歴史上多々あるのは事実ですが、その事を以て宗教の類似性についてまで断言しているような文体が目立つのは如何なものでしょうか?
    • 信仰面での類似性についても、各種片言節句を我田引水しているようにしかみえません。
      • そもそもルターがイスラームについて好意的に語っているとされている言動についても片言節句でしかないのですが、ジャン・カルヴァンに至っては本人の発言ひとつ、引用文がありません。…あのガチガチの改革主義者がイスラームを多少でも好意的に書いたり言ったりしていたとは考えにくいのですが、その辺の考察というか前提理解が甘すぎます。
    • 他言語版の無い英語版だけの記事であり、履歴を見ても「練れて居ない」記事です。英語版に在るからと言って信用出来るレベルではありません。
    • そもそもオスマン帝国イスラーム一色で塗りつぶした地図を使うなど、バルカン半島における宗教情勢について無知としか思えない翻訳元英語版執筆者の力量が疑われます。セルビア正教会ブルガリア正教会コンスタンディヌーポリ総主教庁はどこに行ったのでしょうか?あまりに正確さが疑われる記事であると言わざるを得ません。--Kinno Angel 2011年12月3日 (土) 14:19 (UTC)
  • 観点タグにつき補足しますが、仮に「プロテスタントとイスラムの類似性」という意見を言う人間が相当数居たとしても、それを認めない見解の方がむしろスタンダードであって(試みにプロテスタントが出版している本を何冊か当たって見て下さい、「イスラムと似ています」などと書いている本は皆無の筈です)、当事者のスタンダードに殆ど触れない構成は、少数意見POV(というより私からすれば珍説POV)とでも言うべき記事の惨状です(念の為申しますが、これは翻訳者の責任というより、第一に英語版の責任です…が、英語版まで乗り込んでいく気力も余力も時間もありません)。--Kinno Angel 2011年12月3日 (土) 14:29 (UTC)
  • さらに補足しますが、「オスマン帝国は宗教に寛容だった」というのもイスラームPOVもしくはオスマン帝国POVです。ギリシャ人、セルビア人、ブルガリア人、ルーマニア人の大多数は、決してこのような見解を支持致しません(当り前過ぎますが)。--Kinno Angel 2011年12月3日 (土) 14:31 (UTC)
  • オスマン帝国が宗教的に寛容だったというのは、よくいわれることですね。レコンキスタで追放されたユダヤ人を受け入れたり、他宗教に配慮して聖地エルサレムを統治していたりと。プロテスタントとイスラムの類似性というのはあまり聞いたことがありませんけど。--G0mao 2011年12月22日 (木) 09:36 (UTC)

他者の発言を改竄するような方が全節に書き込んだ事に対して書かなくても良いかとは思いますが、私は本議論の中で「相対的に寛容だった事までは書いてOK」と何度も書いています。碌に読みもしないで各所に論難を書き込む姿勢には、誠意の欠片もありません。--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 13:02 (UTC)

日英同盟と安保条約の時代になると、宗教の政治的価値が低下しているからですよ。近代以前の世界においては宗教的価値観は重視されていました。--G0mao 2011年12月23日 (金) 22:55 (UTC)
確かにカルバンの発言は無いですね。これは、記事中にその旨を記述し、両論併記のような形をとればよいかと思います。また、オスマン帝国の地図がイスラム一色ということですが、異教徒は庇護民扱いされており、彼らもイスラーム法に従っていた訳で、一色の地図で問題ないと思います。しかし、他、イスラーム以外の宗教も含めて色分けされた地図に変更しても問題ないと思います。--G0mao 2011年12月23日 (金) 23:01 (UTC)
申し訳ありませんが、現時点でG0maoさんに返答出来ません。理由は下の方にも詳述しますが、ここに書くのは以下です。
G0maoさんは議論参加者K,I,O,A,F(面倒なので略号にして人数も適当です)が「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5…」と発言が続いているノートに(この配列もかなり適当なんですが、要するに複数人の発言を表しているものとお考え下さい)、「K1,I1,G1,A1,F1,K2,G2,F2,I2,K2,F3,G3,K3,F4,K4,O5,K5G4…」と書き込んでいるんです。時系列を無視したやり方で、徒に議論を混乱させるものです。--Kinno Angel 2011年12月24日 (土) 18:05 (UTC)

Wikipedia:中立的な観点を実現するには、まずは論者名を明示し、「○○○は、と述べた」「○○○の主張では、…だとされた。」といった文体にすることで距離を置くとよい。

ウィキペディアでは、論者名も示さず、どこかの文献に書かれていることがそのまま絶対の真理・事実であるかのように断定してはいけない。Wikipedia:中立的な観点。出典に書かれている意味内容は、あくまで、支持もせず、かといって否定もせず、「○○○さんは~と述べた」といったように、距離を置いた文体で紹介する。距離を置きつつ様々な見解がある、という事実を紹介してゆくのが《Wikipedia:中立的な観点》。英語版のこの記事はそれができていないのが問題だ。

なお、ある論(観点)が紹介されていて、その論が偏っていると感じられても、出典も無いのに別の論(観点)を捏造してしまって、その論にぶつけてしまう行為は、ただのWikipedia:独自の研究にすぎず、禁止されている。

ウィキペディアの記事に(少数派の、学会の主流でないような)いささか特殊な見解しか記述されていない場合は、距離を置いた書き方に改善すれば、とりあえずWikipedia:中立的な観点は(最低限ではあるが)実現できる。 (この段階で、観点テンプレートを残しておいてもよいが、はずしてもよい。微妙な段階)

とりあえずそうした上で、さらに時間をかけて、同じテーマを主題とした出典で、異なった見解が書かれている出典が見つかれば、そこに書かれている言説を、(やはり距離を置いて、支持もせず、不支持もしない文体で)併記(各論併記)することで、より一層、中立的な観点が実現できる。

別テーマを主題とした文章を無理やり持ち込んで、組み合わせることで、対抗する言説を作成してはならない。それは情報の合成であり、Wikipedia:独自の研究として禁止されている。

ある論が紹介された時に、自分の個人的な見解と異なるからといって、「それは特定の視点だ」「×××POVだ」などと騒ぎ立てるのが、Wikipedia:中立的な観点の主旨ではないのでくれぐれも注意されたし。そもそも「○○○POV」などという言い回しは、日本のごく一部のウィキペディアンだけが使っているかなり変な語法だ。英語版、フランス語版、ドイツ語版などでは、そんな“Islam POV”なんて表現は全然していないので、これまでそういう表現を使ってきたウィキペディアンはよくよく注意すべし。Wikipedia:中立的な観点の主旨はそんなことではないことを理解するべきです。--221.188.34.62 2011年12月3日 (土) 16:07 (UTC)

  • IPさんへ。
    • Wikipedia:礼儀を忘れないを熟読下さい。またWikipedia:説明責任も御覧下さい(論争が始まってからは特にアカウント取得された方がよろしいかと思います)。
    • 出典も無いのに別の論(観点)を捏造してしまって、その論にぶつけてしまう行為は、ただのWikipedia:独自の研究にすぎず、禁止されている。についてですが、出典もある記述を「独自研究」といって除去された言動と矛盾しています。御自身の言動を省みて下さい。--Kinno Angel 2011年12月3日 (土) 16:12 (UTC)
  • あ、言い忘れましたが、Wikipedia:中立的な観点を実現するには、まずは論者名を明示し、「○○○は、と述べた」「○○○の主張では、…だとされた。」といった文体にすることで距離を置くとよい。については同意です。取り敢えず断言口調が多過ぎてビックリです現状。--Kinno Angel 2011年12月3日 (土) 16:14 (UTC)
でしょう。私も読んで、あまりの断定調が続くのでびっくりしました。Kinno Angelさんがイラ立ちながら観点テンプレートを貼ったお気持ちは分かります。とりあえず断定口調を止める作業を進めるのが、ルールに適っており、なおかつ簡単にできる作業です。ウィキペディアの3大ルールというのは、結局は全ての言説の毒を消して(カドを削り取って)、同一記事内で仲良く併存させるように設計されている、ということに気付いていただけるとありがたいです。--221.188.34.62 2011年12月3日 (土) 16:46 (UTC)
びっくりし、腹が立つ、そのお気持ちはよく分かり共感すらも覚えるのですが、ウィキペディアのルールはルールであり、他の論を掲載したくても、あくまで「プロテスタントとイスラム」に言及した文章を出典としなければなりません。そうでないとWikipedia:独自の研究と見なされる、と思ったほうがよいです。またTriviaにもなってしまいます。「ちなみに」論法で書くと、「Aといえば、ちなみにそれは誤解でB」「Bといえば、ちなみにそれは誤解でC」「Cといえば…」と誤解を解きたい者は際限なくおり、記述は止まりません(正教会のTrivia的見解を書けば、イスラーム教徒は腹を立てて「ちなみに、正教会の見解は根本的に間違っており、実は…」とイスラーム視点のTriviaを書きたくなるでしょう。それを読むとまた他の立場の者がTrivia的に書きたくなり…となります。)。百科事典はTrivia論法で書いてはいけないのです。あくまで記事名を主題とした(つまりキーワードとして含んだ)文献や文章を出典としなければなりません。--221.188.34.62 2011年12月3日 (土) 16:46 (UTC)

除去はしていませんよ。あまりにひどい量の脱線(Trivia、「ちなみに」話)だったので、注に送り込んだのです。ルール通りに対処するならば、大量Triviaは削除しなければならないのですが、Kinno Angelさんのお気持ちに配慮して、ルールを曲げてまで注として残したのです。他の人があなたの気持ちに配慮している、ということも直観できるようになってください。

Wikipedia:善意にとるも読んで、しばらく考えてみていただけるとありがたいです。--221.188.34.62 2011年12月3日 (土) 16:23 (UTC)

  • Kinno Angelさんの意見や編集は「正教会側から見れば」ということになるのかもしれませんが、これは「プロテスタントとイスラム」という記事ですから、内容の旨い不味いはさておき(両者の宗教的な類似性については正直違和感というか、こじつけっぽい感じは私もします)、これはこれで今はよいのではないでしょうか。少なくとも、この場で翻訳元の記事を論難するのだけはあまり意味がないように思います(ここでとやかく言ったところで英語版の記事がどうにかなる訳でもないですし)。
    • 正教会の視点に触れたいというのであれば、むしろ「正教会とイスラーム」といった記事を作ればよいのではないでしょうか。(ちなみに、上でいくつか教会を挙げておられますが、そこに「正教会」以外の教会が挙がっていないあたり、私などは逆に偏りを感じますが…)。
    • オスマン支配については、信仰自体が奪われた訳ではないというのは大きいと思います。教会の新設が禁止され、信者が「二級市民」として扱われた状況は、現代的な感覚で言えば間違いなく不寛容でしょう。ただ、同時代の他地域における宗教の違いで追放されたり火あぶりになったりと比べたら、相対的に見れば十分「寛容」と言えるでしょうし、私は偏りがあるとは思いません。「支持しない」のは確かでしょうが、それはあくまで各国の「国民形成の過程」による結果であって、それを論拠にオスマン支配が「不寛容」だったと断定できるものでもないでしょう。--F.V.E 2011年12月3日 (土) 17:36 (UTC)
>この場で翻訳元の記事を論難するのだけはあまり意味がないように思います(ここでとやかく言ったところで英語版の記事がどうにかなる訳でもないですし)。
これについては下のほうでも同じ事を書いておきますが、翻訳者に悪意ありとして論難する意図が無いことを示すために述べているものです。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 05:40 (UTC)

私もKinno Angelさんは正教会に偏っているように思えました。失礼ながら、もう少し、建設的なアプローチをして頂いたほうがよろしいかと。--G0mao 2011年12月22日 (木) 09:44 (UTC)

連続投稿で判り難い状態にして根拠無く論難をするというのはちょっと頂けませんね。貴方はこのノートページの各所に「オスマン帝国は寛容だった」を繰り返していますが、私は何度も「相対的に寛容だった」まで書くのはOK、と書いています。--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 12:44 (UTC)
私もオスマン帝国が絶対的に寛容などとは考えていません。相対的に寛容という旨に賛成します。--G0mao 2011年12月23日 (金) 22:55 (UTC)
申し訳ありませんが、現時点でG0maoさんに返答出来ません。理由は下の方にも詳述しますが、ここに書くのは以下です。
G0maoさんは議論参加者K,I,O,A,F(面倒なので略号にして人数も適当です)が「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5…」と発言が続いているノートに(この配列もかなり適当なんですが、要するに複数人の発言を表しているものとお考え下さい)、「K1,I1,G1,A1,F1,K2,G2,F2,I2,K2,F3,G3,K3,F4,K4,O5,K5G4…」と書き込んでいるんです。時系列を無視したやり方で、徒に議論を混乱させるものです。--Kinno Angel 2011年12月24日 (土) 18:05 (UTC)

「寛容」と「Trivia」扱いについて

コメント なんだかIPさんは「私のきもち」論に持っていっていますので(その私に対する善意は承りました、悪意にはとっていませんので念のため…ウェブ上では表情は見えませんからね、敢えて顔文字で書けばこんな→感じm(_ _)m「どうもどうも」と言っている図)、それについても含めて異論を言っておきます。
そもそも私は「正教とイスラーム」という観点から書いたのではなく、「現地で大多数を占めている教派がどう捉えているか」を問題にしたのです。ですから高橋の文献に「イスラーム」が入っていないことを問題にされたのは「???」です。
そもそもこれ、「Kinno Angelは正教の見解を書きたいのだろう」という気持ちが反映された「Trivia」だと仰いますが、本当にそうでしょうかね?
F.V.Eさんに対する返答と重なりますが…
たとえば「ソ連中国」という記事の中で、トルキスタンに対する政策が仮に「寛容だった」と書かれていて、それに対して東トルキスタン独立支持派の否定見解を書くことは、「この記事はソ連と中国という記事であって、トルキスタン人の見解を書く場ではない」などと否定したらおかしいのでは?これは果たして「際限の無いTrivia」でしょうか?
現地人(の大多数を占める教派)の見解が無視、もしくは「注」程度の扱いがなされて違和感を感じない、というのが、ちょっと私には解しかねます。
そもそも私は「イスラームと正教」については一切書いていません。ただ本文中にある「オスマン帝国は宗教的に寛容だった」という見解は、現地人(の大多数を占める教派)の見解を無視したPOVであるということを言いたいだけです。
確かに、オスマン帝国における宗教政策が「相対的に寛容だったと言い得る」位までは、私も認めるところです。しかし「同時代のどのような状況とと比べれば相対的に寛容」という言及は最低限必要です。いや「寛容」という表現は相応しくない。精々「マシ」と言うべきです。
…「オスマン帝国は寛容だった論」が日本で流行って居ますが(相対的に、という言葉を本文では断りつつ、しかしタイトルなどでは「オスマン帝国は寛容だった」とまとめて銘打つようなものが多過ぎて姑息というか何と言うか)、これって「相対的」を抜いたらとんでもない話だと思うんですよね…日本人にとってやっぱり宗教なんてそんな扱いか、と。「相対的に寛容」だったら、弾圧があっても「寛容」と言ってしまっていいんですかね?「寛容」って言っている人間が日本人で多いのだからJAWPでそう書いていい、って問題じゃありませんよ。繰り返しますが現地人(の大多数を占める教派)の見解を無視したPOVです。
近現代を例にすると荒れるかもしれませんが、例えば「中華人民共和国のチベット仏教への扱いは、同時代のナチス・ドイツチベット侵攻 (1950-1951)はナチとそんなに時代変わりません)に比べれば「(少なくとも即時の)民族絶滅までは試みていないので相対的に寛容であった」などと書かれたら、物凄く違和感無いですか?
まとめますが
  • 現地人(の大多数を占める教派)の見解が無視、もしくは「注」程度の扱いがなされて、これを「際限が無くなるTriviaだが、気持ちを尊重してルールを曲げて一応残す」などと判断されるというのは、100%納得行きません。
  • 「寛容」って表現に対して、もっと慎重になるべきではないですか?「宣教拡大が許されないが、生存は許された」のが「寛容」っていうのであれば、ソ連だって正教会に対して寛容だった、中国だってチベット仏教に対して寛容である、って話になりかねません。100歩譲っても「○藤○夫によれば、同時代の□□国における政策に比べれば寛容であったとされる」という記述ならば、可能ですが。--Kinno Angel 2011年12月4日 (日) 13:29 (UTC)
  • ほかの方のご意見と一緒にされていらっしゃるようで、明確に答えにくい部分が若干ありますが、いくつか改めてコメントします。
    • まず、私のコメントは要約欄に書かれているようなKinno Angelさんの意見を「「正教執筆者のキモチ」で片付け」たものではありません(要約欄へのこういうコメントは残念ですが、今後はそれこそ「寛容」な運用をお願いします)。上記で述べたのは、「正教会の立場から見ればそういう意見もあるだろうが、それをあえて一節を設けて、Kinno Angelさんが最初に書かれたような形で書くことがよいことなのか」という意味だとお考えください(なので、「これはこれで今はよい」と書いた訳です)。IPさんの言う、トリビアかどうか、出典がどうか、という点には、私は特に意見はありません。
    • 『「この記事はソ連と中国という記事であって、トルキスタン人の見解を書く場ではない」などと否定したらおかしいのでは?』というご指摘については、部分的留保をつけた上で「おかしいとは思わない」という意見です。「反論も存在する。詳細は○○(別記事を作った上で)参照」で十分でしょう。例えの例えになりますが「トルキスタン」という記事ならKinno Angelさんがいうような内容があってもよいでしょうが、「ソ連と中国」というもっと広い範囲の記事なら、一地域での個々の悪行を列挙したり詳述する必要はあまり感じません(なので、別の記事を立てては、といった内容を書いた次第です)。これは反対側からの視点がいらないと言っているのではありません。そういう視点・意見は、存在自体は明示した上でもっと詳細な別ページで述べればよい、という考えです。
    • これは議論のテクニックなのでしょうが、Kinno Angelさんは例えが極端ですね…。ソ連や中共やナチがやった(やっている)ことは現時点で多くの人が「寛容」とは言わないでしょうし、私も寛容とは思いません。おっしゃる通り「(中共とナチと比べて)民族絶滅までは試みていないので相対的に寛容であったなどと書かれたら、物凄く違和感無いですか?」と聞かれれば、それは違和感を覚えるでしょう。しかし、Kinno Angelさんが私の意見と違う点は、現代的視点をそのまま過去の出来事に当てはめて評価されている点です。挙げられた例えは全て近現代の出来事ですから、現代的視点でそのまま「抑圧的」「不寛容」と片づけられうる事柄で、それを例えに使って「だからこの時代のオスマン支配も」とはいえないでしょう。16世紀と21世紀ではまったく状況が違う訳ですから。
      • 例とはいえ、時代も、期間(ソ連は70年、オスマン支配は400年)も違うものを同列には比べてもあまり説得力を持たないのではないでしょうか。
      • とはいえ、相対的に「マシ」と書くなら比べるもの(マシじゃなかった例)も示せという意見そのものには同意見です。同時代なら「モスクワのカザンでの振る舞い」や「スペインのモリスコへの扱い」などはいい例になるでしょう。しかし、その理屈で記事の中に本筋から外れ気味の反対の反対のそのまた反対をずらずら書き連ねるぐらいなら、上述のようにいっそ別個の記事にしてしまった方がよいと思っています。
    • 意図的に時制をぼかしているのかもしれませんが、Kinno Angelさんの言う「現地の多数派の意見」とは、「いつの時代」のものでしょうか。同時代的なものなのでしょうか、それとも現在のものなのでしょうか。正教会には詳しくありませんので、同時代的(19世紀以前)に、しかも広くそういう意見が共有されていた記録があるのかもしれません。しかし、Kinno Angelさんの文章を読む限りどうも現在の各国での見方と読めます(これは当然ながら「前の支配者」に対する評価は辛いものとなっています)。
  • 編集内容について
    • Kinno Angelさんがいかに現地視点の欠如を正すことが目的だと述べたところで、「正教会からの観点」という名前の節は、どう考えても中立性がないように私は思います。編集内容やノートを見ると、失礼ながらKinno Angelさんは基本的に「オスマン支配下のキリスト教徒を代表するのは正教会」という認識がお有りのように見えます(節の名前や、正教会以外の教会を挙げなかったり、「現地人(の大多数を占める教派」、「オスマン帝国に現実に支配されたのはプロテスタントではなく正教徒」といった表現に私が感じた内容です)。
    • 「最大のムスリム側プレイヤーは、オスマン帝国だったのであり、オスマン帝国についての記述が現に多いわけです」とおっしゃっているところを見ると、バルカンだけではなく、オスマン帝国全体の話をされているという認識ですが、ならアルメニア教会・シリア教会・マロン派・アッシリア教会・コプト教会(まだあるかもしれません)の視点はどこにいったのでしょうか?「現地の捉え方」が必要というのであれば、それは「正教会からの視点」だけにはならないでしょうし、正教会が多数派だからそれだけ書いておけばよい、という訳にもいかないでしょう。
    • Kinno Angelさんが記事に追記された内容自体は概ね事実で、ノートでの内容から「オスマン=寛容」という見方に強い疑義をお持ちなのはわかります(姑息やマシという強い言葉を使われているぐらいですから)。しかし、正教会は圧迫だけを受けていた訳ではないでしょう。正教会の組織は、そのミッレトに属する人間にとっては「オスマン帝国の統治機構」そのものでしたし、オスマン支配下の数百年間明らかに統治機構の一翼を担い、時には圧迫の主体にすらなった「権力」だった訳です。この内容のように受けた行いだけを連ねるだけでは、それこそ中立ではないように私は思います。

長くなりましたが。--F.V.E 2011年12月5日 (月) 18:51 (UTC)

私もF.V.Eさんに同意見です。--G0mao 2011年12月22日 (木) 09:46 (UTC)

他者の発言を改竄するような方が全節に書き込んだ事に対して書かなくても良いかとは思いますが、私は本議論の中で「相対的に寛容だった事までは書いてOK」と何度も書いています。碌に読みもしないで各所に論難を書き込む姿勢には、誠意の欠片もありません。--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 13:02 (UTC)

なるほど、いいたいことはわかります。つまり、オスマン帝国の寛容性は相対的なものであり、現在の信教の自由という概念や、また、当時の正教会の立場を鑑みると、絶対的に寛容とはいえないということですね。その通りです。近年のオスマン帝国の寛容性についての議論はそれが前提でなされています。しかし、古代ローマ帝国でさえユダヤ教を弾圧した事実を考えると、イスラム教の異教徒を庇護民として扱う方法は当時としてはそれなりの先進性があったのでしょう。現代の信教の自由というさらに先進的な考えの前には霞んでしまいますが。--G0mao 2011年12月23日 (金) 22:55 (UTC)
申し訳ありませんが、現時点でG0maoさんに返答出来ません。理由は下の方にも詳述しますが、ここに書くのは以下です。
G0maoさんは議論参加者K,I,O,A,F(面倒なので略号にして人数も適当です)が「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5…」と発言が続いているノートに(この配列もかなり適当なんですが、要するに複数人の発言を表しているものとお考え下さい)、「K1,I1,G1,A1,F1,K2,G2,F2,I2,K2,F3,G3,K3,F4,K4,O5,K5G4…」と書き込んでいるんです。時系列を無視したやり方で、徒に議論を混乱させるものです。--Kinno Angel 2011年12月24日 (土) 18:05 (UTC)

翻訳者から一言

  • いろいろなご意見を伺い、勉強させて頂いております。本項目を英語から翻訳した立場から一言よろしいでしょうか。もともとの関心がある所はオランダ東インド会社であり、そこから、プロテスタントの勉強を始めました。交易会社ということもあり、どうしてもイスラーム圏との関わりも少なくありません。こうした時に、英語版の記事を見つけ、プロテスタントとイスラームの関係を概観しているものとしてはよくまとまっていると思いましたので、翻訳いたしました。どうしても、軸足が、西ヨーロッパにかかっておりますので、ギリシャ正教などに目配りが言っていなかったのは事実です(もっとも、第1校は、忠実な翻訳を求められますので、自分の意見を入れようもないのですが)。
  • 私見を述べさせて頂ければ、16~17世紀の宗教戦争の時代から見ると、オスマントルコの状況は、本文の引用にもありますように「寛容」に見られたことは確かだと思います。さらにまた、「寛容」がどのような意味で使われているのかも確認する必要があると思います(寛容の語源については、Wikipediaの「寛容」に載っています)。

 この記事は、基本的にプロテスタントとイスラームの関係を、特に16~17世紀に焦点を当て、概括することを目的にしていることをご理解頂ければと思います。 --Jan Johane Pieter 2011年12月5日 (月) 00:36 (UTC)

コメント まず断っておきますが、私が「英語版の問題」を申していましたのは、翻訳者に悪意アリなどと論難する意図が無いことを示すものです。
さて
プロテスタントとイスラームの関係を概観しているものとしてはよくまとまっていると思いました
「軍事同盟」についてのみ言えば、確かにそれほど目立つ問題は見当たりません(それでも精査が必要だと思いますが)。しかしそれを教理まで拡張しようとするところまで行きますと、もうこじつけというか我田引水というか、トンデモとも言うべき酷いものです。後ほどキリスト教関係の執筆者にも声をかけておきますが、プロテスタントを専門に執筆している人に意見を聞いて見て下さい。珍説奇説扱いされること請け合いです。
16~17世紀の宗教戦争の時代から見ると、オスマントルコの状況は、本文の引用にもありますように「寛容」に見られたことは確か基本的にプロテスタントとイスラームの関係を、特に16~17世紀に焦点を当て、概括することを目的にしている
「イスラームについての記事であってオスマン帝国についての記事ではない」と仰りたいとも受け取れる御発言が見受けられるのですが(違っていたら御免なさい)、冒頭地図(この地図そのものも実際の宗教分布を無視した酷いものですが)にも現れていますように、16世紀から17世紀の西ヨーロッパにおける最大のムスリム側プレイヤーは、オスマン帝国だったのであり、オスマン帝国についての記述が現に多いわけです。そしてオスマン帝国に現実に支配されたのはプロテスタントではなく正教徒だったわけです(ウィーン包囲ではカトリック教会国たるハプスブルク君主国が攻撃されましたが、プロテスタントはかすり傷一つ負っていない)。そこで現地の実情、現地の感覚を無視して「寛容だった」の一言で済ませてよい、とは、感覚が正直わからない。
語源説を持ち出しても仕方ありません。現在の用法で語彙は選ばれるべきです。
「プロテスタントとイスラーム」という記事であれば、事実から離れたことを書いてもいいということにはなりません。私が言っているのは「プロテスタントという現地には居なかった非当事者からの観点という事実」に対置され得る「現地での捉えられ方」という「事実」であって、「正教執筆者のキモチ」じゃないんですよ。残念ながら(現時点で)JAWPで正教について書いているのが私一人なので、この分野の問題に気付く人間が結果的に独りになってしまい、「正教執筆者のキモチ」で片付けられてしまっている現状が歯がゆくて仕方ありませんが。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 05:40 (UTC)
  • 早速のコメントをありがとうございます。いろいろと勉強している途中だけに、言葉足らずになっているのかもしれませんが、お教え頂ければと思います。

森安達也・南塚信吾、『地域からの世界史12 東ヨーロッパ』(朝日新聞社、1993)という本を読んだのですが、その中に

「しかし、オスマン帝国の支配は、よくいわれるようには暗黒ではなかった。少なくともその初期においては。まず、スィパーヒーらは土地の所有権を持たなかったから、領主となることはなかった。したがって、農民はスルタンの土地の小作人という地位におかれた。かれらは、一定(収穫の十分の一から二分の一)の租税を支払えば、自立的な生産と生活をすることができた。また、帝国は、宗教的には寛容であり、ギリシア正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒などを「ミッレト」という独特の制度のなかに入れて、その内部自治を認めていた。」(111~120頁)

とあります。ここでも、「寛容」であったとされております。オスマン帝国の支配を受けた人々からは「寛容」と思われないかと思いますが、歴史的には「寛容」であったと言っても間違いではないように思えるのですが、ご意見を伺えればと思います。よろしくお願いいたします。--Jan Johane Pieter 2011年12月5日 (月) 06:48 (UTC)

既に書いたんですが…「相対的」で本ノートページを文字検索して頂けませんか。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 06:54 (UTC)
で、
オスマン帝国の支配を受けた人々からは「寛容」と思われないかと思いますが、
お認め下さってありがとうございます。それをこそ記述に反映させるべきです。出典も付けています。
歴史的には「寛容」であったと言っても間違いではないよう
「甲によれば、同時代のA地域といった事例に比べれば相対的に寛容であったと評価される」といった記述については、私は反対した記憶がありません。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 07:04 (UTC)

早速のご返事をありがとうございます。それでは、本文の編集についてどのようにいたしましょうか。「中立的」かつ「正確」な記述にするために、どのように書き直すべきか悩んでおります。--Jan Johane Pieter 2011年12月5日 (月) 07:15 (UTC)

  •  一例ですが、本文の

「両者には宗教的相似性があり、」 を 「両者には、カトリックと比べて宗教的に共通するところがあるように思われており、」 としてみたいと思いますが、如何でしょうか。--Jan Johane Pieter 2011年12月5日 (月) 09:42 (UTC)

そもそも「プロテスタントとイスラームの宗教的相似性」がトンデモ説・こじつけでしかありません。
「共通点」ならば「何らかの形を持つ像を原則として使わない」「聖職者制度を(カトリックに比べて相対的に)否定する」といったものがありますが、宗教を越えた共通点があることは、別にプロテスタントとイスラームの間に限らないのです(落合仁司は「数理神学」の観点からイスラームと正教に共通する性質を指摘しているほどで…そういう共通点を指摘する言説は宗教学の領域では珍しいものではないのです)。
「両者には共通点がある」=「両者には宗教的相似性がある」ではありません(そもそも相似というなら、根本から言って「プロテスタント:カトリック=イスラーム:X」のXを満たすものが無ければならない筈ですが、Xを満たすものがあるんでしょうか?)。
両者とも、カトリックの神聖ローマ帝国と対立しており、多くの交流が行われた。両者には宗教的相似性があり[要出典]、交易や軍事同盟の可能性があったからである。
という現状の冒頭文については、
両者とも、カトリックの神聖ローマ帝国と対立しており、交易や軍事同盟の可能性があったからである。
と改めるべきであり、教理上の「共通点」や若干の好意的な片言隻句を以て「宗教的相似性」などに飛躍させる内容は、全削除するべきだと私は考えております(もちろんこれは現時点での私の結論であって、大前提として、コミュニティが別の着地点を模索する中で一定の妥協点が見出されることは私も肯定しています)。
「両者には、カトリックと比べて宗教的に共通するところがあるように思われており、」
これでは、Template:誰の対象になってしまいます。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 10:41 (UTC)
  •  早速のご返事ありがとうございます。

確かに、プロテスタントとイスラームの「相似性」というのは、議論があるところだと思います。しかし、本文にもあるとおり、両者が共通点を持っていると理解していることは、間違いのないことかと思いますし、我々がではなく、当時の人々(ルターや、エリザベス1世、ムラト3世)が、そのように考えていたことを、そのように記すことは必要かと思いますが、如何でしょうか。--Jan Johane Pieter 2011年12月5日 (月) 10:54 (UTC)

両者が共通点を持っていると理解していることは、間違いのないことかと思いますし、
繰り返しますが、
「両者には共通点がある」≠「両者には宗教的相似性がある」
我々がではなく、当時の人々(ルターや、エリザベス1世、ムラト3世)が、そのように考えていたことを、そのように記すことは必要かと
現状の「教義的和解への努力」節の本文自体は、別に問題無いです(意外に思われるかもしれませんが、私は一貫して「甲によればAとBには共通点があると認識されていた」系の記述には一回も反対していませんし(反対する位ならもっと全除去に動いています…軍事同盟の模索の中で両者が互いに好感を持っていた事までは、世界史の常識の範疇です)、「共通点がある」ことも否定していません。
問題はこの節に付けられているタイトル教義的和解への努力」です。
そもそも本文をよく見れば、「教義的和解」を模索していた人など皆無で、精々「両宗教の共通点に好意的に言及した」程度です。
「教義的和解」≠「両宗教の共通点に好意的に言及」
つまりタイトルに偽りありです。
繰り返します、
「両者には共通点がある」≠「両者には宗教的相似性がある」。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 11:09 (UTC)
  •  ご返事ありがとうございます。問題点がやっと分かって参りました。

まず、「相似性」と訳したところは原文で、"exploring religious similarities"とありますので、この訳語を使いましたが、内容的には「両者が共通点のあることを強調し」くらいに意訳した方が良いかも知れません。

また、次のご指摘の箇所は、英文で"Efforts at doctrinal rapprochement"の所ですが、翻訳の時にかなり苦労したところです。確かに、プロテスタント側、イスラーム(オスマン帝国)側相互に、「共通点がある」と言っている例を提示しているところですので、題名は「相互への好意的発言」とした方が良いかも知れません。 ご意見をお願いします。--Jan Johane Pieter 2011年12月5日 (月) 11:23 (UTC)

すみません、これからちょっと出掛けてしまいますので返信が此れ以降遅れます。
題名は「相互への好意的発言」とした方が良いかも知れません。
改善への第一歩として、賛成します(これ以外の改善点については、また後刻もしくは後日…m(_ _)m)--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 11:41 (UTC)
題名修正改善につき感謝&歓迎させて頂きます。ではまた後刻もしくは後日m(_ _)m--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 11:49 (UTC)

「プロテスタントという現地には居なかった非当事者からの観点という事実」に対置され得る「現地での捉えられ方」という文言が気になったので。初期イスラム教団はリッダ戦争を起こして背教者を全て討伐しましたし、スペインは異教徒をイベリア半島から追い出しました。また、ペルシアのゾロアスター教徒もイスラム教徒から弾圧されてインドに逃亡するものが多数でした。また、江戸時代の日本ではキリスト教徒を弾圧して日本からキリスト教コミュニティはほぼなくなりました。オスマン帝国内に正教徒コミュニティが存在できたことこそが寛容さの証明ではないでしょうか。--G0mao 2011年12月22日 (木) 10:00 (UTC)

あの、すみません。ちゃんと読んで頂けませんか…orz「相対的に寛容」だったことまで否定した覚えは無いんですが…--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 12:34 (UTC)

訳文について

ここでの議論に加わるつもりはありませんが、冒頭部の翻訳で1点気になるところがあります。 英語版 (en:Protestantism and Islam 05:37, 29 November 2011 UTC) の以下の箇所、

As both were in conflict with the Catholic Holy Roman Empire, numerous exchanges occurred, exploring religious similarities and the possibility of trade and military alliances.

この分詞構文は「両者がカトリックの神聖ローマ帝国と対立状態にあった時、〔両者は〕宗教上の類似点を探り当てようとし、通商と軍事同盟の可能性を模索したため、多くの取り交わしがなされた」という感じに訳せると思います。現在の日本語版の該当箇所は、exploring を訳し損ねて英語版と文意を違え、「両者に宗教的相似性がある」と断言する形になってしまっているように見えます。--Doomreaper 2011年12月5日 (月) 18:16 (UTC)

  •  ありがとうございます。ご指摘の通りかと思います。この部分は、

「カトリックの神聖ローマ帝国と対立状態にあった両者は、宗教上の類似点を探り当てようようとし、通商と軍事同盟の可能性を模索して、多くの取り交わしがなされた。」 と修正しようと思います。ありがとうございます。--Jan Johane Pieter 2011年12月6日 (火) 00:05 (UTC)

こちらのぶしつけな指摘に対してのご丁寧な対応、痛み入ります。--Doomreaper 2011年12月7日 (水) 02:54 (UTC)

翻訳者からのお詫び

私の訳文の誤りから、多大なご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。 誤りのところが、修正したように「宗教上の類似点を探り当てようとし」ならば、今までの議論のほとんどが必要なくなると思います。 かなり気をつけていたつもりですが、本当に申し訳ありません。 訳文を修正いたしましたので、「相似性」に関わる議論は終わりにしていただければと思います。

次に、また、問題となっていた「寛容」ですが、この記事は、基本的に「プロテスタントとイスラム」ですので、ギリシア正教に関する点は、注にもしていただいたことで、終了ということでいかがでしょうか。

本当に、訳文の誤りで多大な迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。--Jan Johane Pieter 2011年12月6日 (火) 01:00 (UTC)

コメント 記事につきましては、かなり改善されております。特に「プロテスタントとイスラームの教理的相似性」とまで言い切るトンデモ説文体につきましては、大幅に改善されたと思います(まだ重ねて、断定口調については後刻もしくは後日精査するつもりですが)。
ただ「正教」については、何度も申しますが両者の間にあって現地(バルカン半島)の当事者です。全く関係の無い、たとえばオスマン帝国内でも弾圧されていたバハーイー教とは性格を異にします(時代的にも本題と密接に関係しています)。…と言って私も、以前の自分の編集が最良だったとも現在思っていません。色々再考します。取り敢えず、現状の改善傾向に感謝&歓迎します。Jan Johane Pieterさん、お疲れ様です。--Kinno Angel 2011年12月6日 (火) 03:48 (UTC)

そもそも…バランスの問題と、プロテスタント関連記事としての品質問題。看板に偽りあり

…大変大変申し訳ないんですが…m(_ _)mそもそもこの記事、ハナから本当におかしな内容で…違和感だらけで…
まずですね、「プロテスタントとイスラム」と言いながら、その実、8割以上(正確に文字数を数えたワケではありませんが多分8割以上)の内容が「プロテスタントとオスマン帝国」です。だからこそ正教を無視して「寛容」とは何事ぞと思うわけでして…だから皆さんから「プロテスタントとイスラムという記事名だから別に正教の視点なんて無視していいじゃないかと言われても違和感ありまくりなんですよ。繰り返しますが上記に私が挙げました東トルキスタンの例とかお読み下さい。他の領域でこんな言い分は通りません。オスマン帝国について「寛容だった」と断言することは出来ません。「プロテスタントの何某がオスマン帝国を寛容であると評価した・している」と書く事は可能ですが(そしてそうした記述は否定していません、否定する位なら除去しています)。
だからこそ「片言隻句の我田引水でプロテスタントとイスラムの和解を強調しようとしたトンデモ記事」としか思えないのです。皆さん私の意図を「正教執筆者の気持ち」で片付けようとしていますが、コトはどちらかと言えば、プロテスタントそのものに言及されている内容の品質問題です
皆さん、プロテスタントの福音派系執筆者の方々がどういう見解をお持ちか、JAWPで関連する領域を編集している方なら少しは御存知では?現在休眠している彼ら(彼女ら?)が「プロテスタントとイスラムは教義的に近いし和解している」といった記事を見つけたら、私以上に本気で記事修正に動くとは思えませんか?ヘンな話、プロテスタントに思い入れの無い私だから此の程度で済んでいるのですよ…
そしてそもそも…
本当に「プロテスタントとイスラム」しかも「軍事同盟」まで言うのなら、本来本来、3B政策や、トルコが同盟軍に加わった第一次世界大戦は外せないのでは?第一次大戦にプロテスタント自由主義神学者達が関与したことについてはアドルフ・フォン・ハルナック辺りを御覧頂ければ分りますが、プロテスタントとイスラムの直接的接触については私は申し訳ありませんが存じませんが、少なくとも「軍事同盟」というところには完全に該当します。ところが現状、「世界大戦」の四文字すらありません。
他にも、イギリスとトルコが連合してロシアと戦ったクリミア戦争や、何よりも近現代、イスラム復興主義を掲げるサウジアラビアが、プロテスタントが多数派であるアメリカと関係が深い親米国であるという現象など…無視されているものがあまりにも多すぎる(「クリミア戦争」「サウジアラビア」いずれも文字すらありません)。
ですから「記事内容が文体面で改善」されても、「看板に偽りあり」だとは思うんです。現状の記事はやはり、文体を改善したとしても、8割がた、「近世プロテスタントとオスマン帝国」という記事名あたりが妥当な内容です。
もちろん僅かながら現状でもペルシャや現代政治や宗教論も含んではいますから、改名提案をしようとかは考えていません。しかし申し訳ありませんが、どこからどう手をつけたらいいか分らないほど、(翻訳者の責任ではなく元の英語版からして)記事がおかしいという評価は簡単には覆りません。
繰り返しますがこうした私の意見を「正教執筆者の気持ち」で片付けられてはたまったものではありません。この記事は(翻訳者さんの労苦に対しては大変申し訳ありませんが)、良くて「看板に偽り」です。--Kinno Angel 2011年12月6日 (火) 14:12 (UTC)
こんにちは。議論を拝見させていただきましたが、この記事の実質は「プロテスタントとイスラム」というよりは「プロテスタントとオスマン帝国」であるというKinno Angelさんの指摘は妥当であると考えます。
現状の記事は決して短くないプロテスタントの歴史(とはいえ、正教よりはかなり短いですが)の中のほんの短い期間と地域の問題を扱っているに過ぎません。17世紀半ばでほとんどの話が終わって、そこからいきなり20世紀のアメリカの話に飛んで、サラリと歴史を終わらせるのは、やはり違和感があります。
そもそもイスラームでは、ウラマーの合意をもって正式な教義解釈とし、カリフといえどもそれは覆せないという伝統があった筈で、ムラト3世の外交辞令をもってイスラーム全体の公式見解のように書くのは、無理なのでは。エリザベス1世時代の宮廷人からみれば、イスラームの親玉=オスマン皇帝程度の認識程度でしたしょうが、21世紀の我々がイスラーム=オスマン帝国という前提で書くのはマズイでしょう。イスラーム社会はもっと多様な世界であり、トルコ系王朝はイスラームの歴史の中でもやや特殊なポジションにあります。
両宗派の比較の章もありますが、表面的な類似点と相違点を寄せ集めた印象を免れていません。イスラームがプロテスタントをどう見ているかって話は有力なウラマーの見解を引かない限り、正確なところは書けないと考えていますがそういう観点からの記述もありません。
御存じのように、現代のプロテスタント教会の中にはコーランを焼くというパフォーマンスに走るところも多々あります。(en:Dove_World_Quran-burning_controversyの中にOther Quran desecration incidentsという小項目があって、その一覧を観ることができます。)大方のプロテスタントの方々からみれば、そういうマイナーなグループの過激行動をもってプロテスタント全体を観て欲しくないと思っておられるでしょうが、ここまで多発している以上、これもまた現代の(アメリカの)プロテスタントが抱えている問題ですし、イスラーム圏の人々はマスコミで報じられるそういう事件を通してキリスト教のイメージを形成しています。「プロテスタントとイスラム」というタイトルを掲げながら、何故そういうことを書かないのが、私には不思議に思えます。
「オスマン帝国の対プロテスタント政策」ぐらいのタイトルに改名して、記述を絞る方が良いのではないでしょうか。ペルシャの話は、プロテスタントとは関係のない国家政争史にしか見えないので別記事に移せば良いでしょう。現代アメリカの話は、反イスラーム主義あたりで吸収できそうです。
なお、近代化が進行する中でヨーロッパ諸国は政治体制が世俗化されて行きました。ムラト3世がヨーロッパ相手の外交で宗教に配慮するような状況が18世紀や19世紀では見られなくなったのは、そのように観るのが妥当だろうと私は考えます。kinnoAngelさんが指摘する3B政策やクリミア戦争にしても、その頃には「プロテスタント国家としてのイスラーム国家との同盟」という意識が為政者の頭から消えていたんじゃないでしょうか。ですから、そのあたりの加筆は必要ないかと思います。--おーた 2011年12月7日 (水) 11:46 (UTC)
おーたさんに 賛成
「オスマン帝国の対プロテスタント政策」ぐらいのタイトルに改名して、記述を絞る方が良い
仰ること賛成です…あまりに酷い記事(繰り返しますが翻訳者さんに悪意が無いことは判っていますし、翻訳者さんの責任ではありません)を前にして頭を抱えて「どうすればいいんかいな」という感じだったところへ、可能な具体的解決策が出て来てホっとしております。--Kinno Angel 2011年12月7日 (水) 12:35 (UTC)

プロテスタントが誕生した当時、オスマン帝国が中近東で最も強大なイスラム勢力であり、ヨーロッパとも隣接していたわけですから、オスマン帝国との関係が記事の大半を占めるのはおかしなことではないと思います。--G0mao 2011年12月22日 (木) 09:50 (UTC)

それでは全然おーたさんの指摘に答えていません。それと御自分で認めてしまっていますね「オスマン帝国との関係が記事の大半を占める」現状について。だったらなぜ改名に反対なさったのかよく解りません。--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 13:04 (UTC)
おーたさんの指摘はごもっともだと思いますね。その旨記事に追記していくべきかと思います。--G0mao 2011年12月23日 (金) 23:06 (UTC)
サウジアラビアとアメリカの関係についても記事に追記していけばよいかと思います。--G0mao 2011年12月23日 (金) 23:15 (UTC)
申し訳ありませんが、現時点でG0maoさんに返答出来ません。理由は下の方にも詳述しますが、ここに書くのは以下です。
G0maoさんは議論参加者K,I,O,A,F(面倒なので略号にして人数も適当です)が「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5…」と発言が続いているノートに(この配列もかなり適当なんですが、要するに複数人の発言を表しているものとお考え下さい)、「K1,I1,G1,A1,F1,K2,G2,F2,I2,K2,F3,G3,K3,F4,K4,O5,K5G4…」と書き込んでいるんです。時系列を無視したやり方で、徒に議論を混乱させるものです。--Kinno Angel 2011年12月24日 (土) 18:05 (UTC)

改名提案・分割提案・大幅削減の、セット提案

これまでの議論を踏まえ、本記事の問題を解決する手段をセットで提案します。

  • 改名提案) 本記事を「プロテスタントとオスマン帝国」もしくは「オスマン帝国の対プロテスタント政策」に改名する。
    • 提案者:私の第一希望は前者であり、反対が無ければ前者に改名します。しかしおーたさんが提示された後者も良いと私も思っており、後者の方が良いという方が大勢になれば、私としてはそれに反対しません。
  • 分割提案
  • 削減提案)節「比較すべき点」は削除する。
    • 影響力のある著名なウラマーないしイマームの見解や、牧師あるいは何らかの教団の公式見解もしくは信条といった、ある種の標準的な指標となる見解の一致が無い現状では、一部宗教学者達による学説の寄せ集めといった印象を免れません。事典にそのようなものが必要とも思えません。削除が妥当と思います。

以上、セット提案まで。--Kinno Angel 2011年12月14日 (水) 15:35 (UTC)

賛成 記事名についてはどちらでも良いのですが、オスマン帝国を主体にした方が記事の構成がすっきりするんじゃないかという気がしています(現状ではプロテスタント側から見たオスマン帝国のイメージに関する記述のまとまりが悪いので)。ただし、これには拘りません。--おーた 2011年12月18日 (日) 04:21 (UTC)
おーたさん なるほど、仰る通りだと思えましたので、オスマン帝国の対プロテスタント政策を、提案者としての改名先第一希望に変更します。反対無ければこれでいきます。--Kinno Angel 2011年12月19日 (月) 12:59 (UTC)
反対 プロテスタントとオスマン帝国だけの関係性についての記事ではないので、分割も改名もする必要もないと思います。記事の細かい部分では議論があるのかもしれませんが、大筋としてはまとめられており、とても興味深い記事だと思います。細かい部分は議論していけばいいと思いますが、記事の大筋を変更する必要はないと思いました。--G0mao 2011年12月22日 (木) 09:30 (UTC)
  • すみませんが、G0maoさんの姿勢に疑問があります。
  • ノートで連続投稿をするのはやめて頂けませんか。返答がし難くなります。
  • 他者の発言を改竄するのはやめて頂けませんか。
  • 「正教会への偏向」をまた言われてウンザリなんですが、基本的に私が今回の提言で問題にしているのはむしろプロテスタントとイスラームそのものについてです(今回の提案に正教会についてのことなど一切入っていはい筈ですが?)。で、「建設的なアプローチをして」云々と仰っておいでですが、今回の提案は具体的なものですよ。--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 12:44 (UTC)
  • 連続投稿に対応して、一応反論を書き込んでおきました。相手の主張もよく見ずに「偏向」「建設的に」云々と論難する態度は、jawpにおいて容認されません。--Kinno Angel 2011年12月22日 (木) 13:02 (UTC)
別の方の発言を削除していました。投稿する際に、自分の投稿内容を編集する際に誤って削除していたようです。指摘されるまで気づきませんでした。申し訳ありませんでした。--G0mao 2011年12月22日 (木) 14:00 (UTC)
この論争に参加するのは控えますが、反対という立場は変わりませんので、宜しくお願いいたします。--G0mao 2011年12月22日 (木) 14:11 (UTC)
この論争に参加するのは控えますが、反対という立場は変わりません」それはjawpでは認められません。Wikipedia:合意形成を熟読して下さい。
それと、貴方の主張は、私の立論について一切読まないままに「オスマン帝国は○○の地域・時代に比べれば寛容でした」(実際には私はそれは何度も認めているのであり、ただ「○○」を明記した「相対的」という文言を入れるべきだ、と主張し続けているだけです)、「正教会に偏向している、もっと建設的なアプローチを」(実際には私は極めて具体的な解決策を用意しましたし、その内容は正教会の問題に対処するというよりも、プロテスタントとイスラームそのものについての問題に対処する部分が大きいのです)といった、根拠無き中傷ばかりが含まれて居ます。全く相手の主張も確認していないのに印象だけで「反対」したとしか思えません。これは到底容認されることではありません。--Kinno Angel 2011年12月23日 (金) 01:52 (UTC)
そういわれるのであれば続けますが。そもそもプロテスタントとイスラムという比較対象自体が興味深いと思いますので、プロテスタントとオスマン帝国のみに限定する記事名への変更は反対ですし、そのような大幅な改変も反対です。--G0mao 2011年12月23日 (金) 14:17 (UTC)
>プロテスタントとイスラムという比較対象自体が興味深いと思いますので、
(貴方にとって)「興味深い」と「記事として健全な発展が見込めるか」「記事内容が正しいか」は別問題です。--Kinno Angel 2011年12月23日 (金) 14:27 (UTC)
私は記事内容が正しい、健全な発展が見込めると考えます。--G0mao 2011年12月23日 (金) 14:38 (UTC)

「プロテスタントとイスラム」と言いながら、その実、8割以上(正確に文字数を数えたワケではありませんが多分8割以上)の内容が「プロテスタントとオスマン帝国」です。だからこそ正教を無視して「寛容」とは何事ぞと思うわけでして…だから皆さんから「プロテスタントとイスラムという記事名だから別に正教の視点なんて無視していいじゃないかと言われても違和感ありまくりなんですよ。繰り返しますが上記に私が挙げました東トルキスタンの例とかお読み下さい。他の領域でこんな言い分は通りません。オスマン帝国について「寛容だった」と断言することは出来ません。「プロテスタントの何某がオスマン帝国を寛容であると評価した・している」と書く事は可能ですが(そ だからこそ「片言隻句の我田引水でプロテスタントとイスラムの和解を強調しようとしたトンデモ記事」としか思えないのです。皆さん私の意図を「正教執筆者の気持ち」で片付けようとしていますが、コトはどちらかと言えば、プロテスタントそのものに言及されている内容の品質問題です。//これがあなたの主張ですが、プロテスタントとイスラムの和解を強調しようとしたトンデモ記事という文言について詳しく解説して頂けないですか?全く理解に苦しむところです。また、あなたの主張みますと、オスマン帝国の寛容性について相対的な記述を追加すればすむ話だと思うんですが。--G0mao 2011年12月23日 (金) 14:40 (UTC)

これがあなたの主張ですが、プロテスタントとイスラムの和解を強調しようとしたトンデモ記事という文言について詳しく解説して頂けないですか?全く理解に苦しむところです。
おーたさんとのやり取りで明らかにしているんですが…ちゃんと読んでいます?それにちょっと上で「ウラマーの見解も牧師の見解も一切書いておらず」云々」って書いていますが…これもちゃんと読んでいます?
また、あなたの主張みますと、オスマン帝国の寛容性について相対的な記述を追加すればすむ話だと思うんですが。
「寛容」と断言されている問題点についてはその通りですよ(それ以上の要求をした覚えはありませんが?)。--Kinno Angel 2011年12月23日 (金) 15:54 (UTC)
結局、貴方様は何も読まないで、イメージだけで批判しているというのが露呈するばかりです。膨大な文章を全部読めとは申しません。しかし全部読めないなら読めないで、もうちょっと礼儀を弁えるというか、相手の主張を確認してから批判するとか、やりようがあるんじゃないですか?--Kinno Angel 2011年12月23日 (金) 16:06 (UTC)
オスマン帝国時代以外の箇所は分量が少ないという指摘ですが、私はこの記事のバランスについて、タイトル等に違和感は感じません。プロテスタントとオスマン帝国だけの記事にした場合、6の「比較すべき点」という章の記述が宙に浮いてしまうことになりますので、記事の移転やタイトル変更に反対します。しかし、オスマン帝国時代以外のイスラムとプロテスタントの記事を追記していくことで、もっと良い記事になります。--G0mao 2011年12月23日 (金) 23:26 (UTC)
ウラマーや牧師の公式見解について。オスマン帝国は政教一致の絶対主義的な国で、当時のウラマーは帝国に仕える官僚といったところなので、為政者の公式発言で問題ないかと思いますが、当時のウラマーのプロテスタントに関する発言を文献などで見つけたら追記していきます。牧師の見解について、問題にされているのはカルバンの発言が無いということだと思うんですが、これも文献等から探してきて追記する形をとればいいのでは。カルバンがイスラムについて特に何も記録を残していないのであればその旨を追記すればいいと思います。私が思う建設的とは記事を育てていくということです。--G0mao 2011年12月23日 (金) 23:35 (UTC)
申し訳ありませんが、「オスマン帝国は政教一致の絶対主義的な国で、当時のウラマーは帝国に仕える官僚といったところなので」の典拠を教えてください。というのは、最近読んだ本ではそれとは違う事が書かれてありましたので。タミム・アンサーリ『イスラームから見た「世界史」』(紀伊国屋書店、2011年)によれば、オスマン帝国下でのムスリム共同体の最高指導者は「イスラームの長老」を意味するシェイヒュル・イスラームという最高指導者であり、宗教法であるシャリーアの制定、解釈、法学者、教育者の統括を行い、それとは別にスルタンの統括する世俗法の体系が存在したとあります。そして更に、シェイヒュル・イスラームは世俗法がシャーリアと矛盾すると見なした場合は拒否権を行使する事ができたとあります(pp.337-338)。これは政教一致といえる状態なのでしょうか?オスマン帝国の統治は複雑怪奇だったことは確かだったようで、そうしたシャーリア(宗教法)優先の考え方と同時に、シェイヒュル・イスラームはスルタンに奉仕する存在でもあるという矛盾する考え方も同時にありました。だから簡単に「政教一致」なんてことは言えないと私は考えています。これに限らず、G0maoさんがどういった文献を典拠にして、一連の議論にクレームを入れておられるのかを私は知りたく思います。--おーた 2011年12月25日 (日) 04:51 (UTC)
オスマン帝国はイスラーム法(シャリーア)によって統治されていたわけです。現在におきかえると、イスラーム法は憲法にあたるものです。イスラーム法はコーラン(聖典)とハディース(預言者の言行録)から成るもので、コーランとハディースを法学者(ウラマー)が解釈して運用していたわけです。イスラーム世界では、コーラン解釈学(タフスィール学)という学問を修めた者が法学者(ウラマー)になります。法学者によってコーランとハディースの解釈が違うために様々な学派が存在しました。コーランは抽象的であり、ハディースは数百年前のアラビア半島における預言者の現行録であり、それをもとに法を運用しようとすれば、さまざまな解釈ができてしまうのは当然のことです。ちなみに、オスマン帝国はハナフィー学派になります。現在の裁判官が憲法と最高裁判例をもとに法律を運用しているのと似ていると思います。当然のことながら細かい法律はすべてコーランとシャリーアの解釈に収まる範囲でなければなりません。カリフやスルタンは法学者の法解釈に関与できません。これは、現在的にいうと、立法・司法は独立していたということになります(現在のように厳密な運用はなされておらず、実際は権力者による介入がありました)さて、政教一致の話題に移りますが、現在の欧米では宗教が政治に影響を与えることはありませんが、オスマン帝国はイスラームの影響下で政治が運営されていたわけですので、政教一致ということになります。イスラームは法体系そのものなのです。現在のサウジアラビアもイスラーム法によって国家運営が行われているので、政教一致ということになります。トルコ共和国は、イスラーム法を採用せず、西欧式のローマ法起源の憲法を導入していますので、政教分離ということになります。政教一致についてはご理解頂けたでしょうか?一般的な内容ですので、イスラーム法関連の書籍あたれば載っている内容だと思いますが--G0mao 2011年12月25日 (日) 08:26 (UTC)
折角のご回答ですが、入門書・解説書に書いてある事を並べながらG0maoさんが情報の合成をやっている感は否めません。私は文献を示してくれとお願いしたのであって、G0maoさんのイスラーム解釈を訊いている訳ではありません。オスマンが政教一致でスルタンのシャーリア解釈が絶対的だったという「文献」を示して頂かない限り、文献主義のwikipediaでは議論は進まないかと思います。--おーた 2011年12月25日 (日) 12:51 (UTC)
そうですか。調べて文献を提示します。すぐにはできないかもしれませんが。--G0mao 2011年12月25日 (日) 13:48 (UTC)
改名提案 賛成分割提案 賛成削減提案 保留
中世の基督教と回教など専門外なのですが(まぁ、その手の本は読んでますが)、興味深いので、いくつか意見を。
まず、第一に「プロテスタントとイスラム」というタイトルからして、いただけません。辞典的でありません。「プロテスタント=イスラム関係(史)」とか、もっと分かり易いモノでないと。
それにしても「プロテスタント」といっても、ルター派、カルバン派、英国教など多元的であり、それらを一括りで論ずるには無理があります。一方の「イスラム」も言わずと同じです。
とにかくテーマが絞られておらず、焦点が定まっていません。このままでは、将来どんなに加筆されても、只の情報の羅列になるだけでしょう。(各論は後ほど)--Ashtray 2011年12月24日 (土) 05:16 (UTC)
各論に移ります。まず「宗教上の相似点」があり、当時の指導者たちがそれを認識し、それを互いに評価し、やがて同盟関係に繋がった、という流れはとても面白いと思います。そのような研究書があれば、読んでみたいと思います。しかし、現状の記事は、「比較宗教学」における相似を紹介し、何の脈絡もなく、プロテスタント=オスマンの「歴史学」上の記述に移っています。こうゆうのを、Wikipediaでは「情報の合成」とか「独自研究」と呼びます。
また内容の7-8割はオスマン帝国の対外政策であり、別にイスラム教だから如何とかという話ではないですね。カトリックとプロテスタントは、まだ「宗教戦争」をしていましたが、オスマンがしていたことは、パワーポリティクスに基づく「国際戦争」です。プロテスタントという宗教に対して「寛容」であったか否かは、まったく別次元の話と思われます。
という訳でして、内容が「政治」(外交・戦争)上のものである限り、主体は「イスラム」ではなく、国家としての「オスマン帝国」とすべきであり、改名に賛成します。また、テーマを絞り、より良い記事の発展のためには、分割するのが妥当です。最後に、「6.比較すべき点」の記述ですが、「似ている点もある」という研究(「似ている」ではない!)であり、削除しても構いませんが、分割してイスラムプロテスタントの記事に移しても構わないと思います。--Ashtray 2011年12月24日 (土) 08:29 (UTC)
オスマンの外交史の箇所ですが、パワーポリティクスであるんですが、西欧の為政者とオスマン帝国のスルタンの相互の宗教的な歩み寄りも併せて明記されていますね。これは特異な点であると思います。少なくとも、オスマン帝国全盛の時代は宗教が政治や外交に強く影響を及ぼしていた訳で、だからこそ、互いが宗教的な歩み寄りをしているわけです。例えば、日英同盟の時代になると宗教の価値が低下しているわけで、相互が宗教の歩み寄りを強調する必要がなくなっているわけですね。これは、現在の日本とアメリカの関係でも同じですね。このオスマン帝国の外交史の箇所に宗教的な部分が全く欠如しているのならば削除するのも賛成しますが、そうではありませんので、賛成はできません。
この記事はあくまでプロテスタントとイスラムに着目しているわけで、主体はイスラームです。オスマン帝国は世俗国家ではなく、イスラーム法によって統治されていたわけであり、また、聖地メッカメディナを保護するイスラームの盟主として振る舞っていたわけであり、主体をオスマン帝国とすることには疑問を感じます。また、「最後の比較すべき点」ですが、カトリックよりもプロテスタントのほうがイスラームと似ているということが事実(出典元)も含め列挙してあります。これは、比較宗教学で一般的に指摘されている内容であり、削除の必要はないでしょう。この記事の骨幹をなす重要な箇所であると思います。--G0mao 2011年12月24日 (土) 14:06 (UTC)
申し訳ありませんが、現時点でG0maoさんに返答出来ません。理由は以下の通りです。
  • G0maoさんは、議論参加者K,I,O,A,F(面倒なので略号にして人数も適当です)が「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5…」と発言が続いているノートに(この配列もかなり適当なんですが、要するに複数人の発言を表しているものとお考え下さい)、「K1,I1,G1,A1,F1,K2,G2,F2,I2,K2,F3,G3,K3,F4,K4,O5,K5G4…」と書き込んでいるんです。…時系列を無視したやり方で、徒に議論を混乱させるものです(どう返答しろとorz)。節に分かれては居ますが、これは分量が増えたから節を新しく加えているだけのことで、それぞれの議論ごとに進んでいる訳ではないのは、署名の時刻を見れば判る筈なんですが…。発言内容も貴方は読んでいないばかりか、時系列も確認していないとしか思えません。こういう書き方をされますと、「指摘G1については、K2で言った。指摘G2については、K3で言った」の繰り返しになります(現に一度、そうなっています)。
  • 加えてG0maoさんは、それぞれの発言を分割して連続投稿しています。投稿がどんな順番でなされたかも発言の内容読解には重要なのですが、12回も連続投稿しています。WP:CONSECを御覧下さい。
  • 「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5…」となっていたら、よほどの事がない限り、「K1,I1,A1,F1,K2,F2,I2,K2,F3,K3,F4,K4,O5,K5,G1…」と書くものです。K1、K2、K3についての指摘は、G1で書けばいいのです。そうしていれば、「あ、K1について××と指摘したかったけど、それについてはK2に書かれているのか」と、Gさんも気付く筈なのです。
  • なお、貴方は議論中の繊細な時だと言うのに、要出典タグを「後の節に書いてある」として除去しています。方針文書の熟読が必要ですね。WP:CITE#本文中に注釈を挿入するを参照して下さい。
  • で、どうも各所で私の言いたい事はお解り頂きつつあるようなので、それ自体は大変嬉しい事です。そしてG0maoさんはどうやら編集にも議論にも初心者でいらっしゃるようですね。ですので「時系列に混乱が生じますので、基本的に議論はノートの最後に書き込んで下さい。」「要出典タグの使い方を確認して下さい。」この二点、何卒どうか、真摯に聞いて下さいますよう。改めて改善された書き込みがされましたら、議論を継続します。
基本的に現時点、Ashtrayさんに賛成です。但し「オスマン帝国は相対的に寛容(但し私は「同時代の何と比べて」の文言が必須と考えます)」という評価・文言については合意が見出されそうな傾向は歓迎しますし、その点のみはどうやらG0maoさんとも合意出来そうですね。繰り返しますが、これ以外のG0maoさんへの返答につきましては、最後にまとめて私への書き込みがなされたら、応じることとします。--Kinno Angel 2011年12月24日 (土) 18:05 (UTC)
オスマン帝国の寛容性については”お互いへの寛容”の節で、「同時代のスペインと比較して」文意から読み取れますが。そもそも、初版の記事からその文言は変わっていない。いったい、この記事中のどの部分に相対的な記述を追加するべきだとお考えなのか。相対的な記述を追加することには賛成なのですが、そもそも、いったいどの部分を問題視しているのかいまいちわからないのですよ。--G0mao 2011年12月25日 (日) 00:28 (UTC)

Ashtrayさんの「オスマンがしていたことはパワーポリティスクに基づく「国際戦争」です」という指摘に同感します。そもそもの本文記事にも「オスマン帝国とヨーロッパ勢力の軍事的連合は1535年のフランスとの同盟関係から始まる」と書いてあります。その前年の1534年にフランスの為政者であるフランソワ一世がユグノーへの弾圧を開始していることを考えれば、オスマン帝国の為政者が「プロテスタントだから」という理由でヨーロッパ諸国に軍事同盟を持ちかけていた訳ではないことは明らかじゃないでしょうか。

にも関わらず、現状の記事では「まず「宗教上の相似点」があり、当時の指導者たちがそれを認識し、それを互いに評価し、やがて同盟関係に繋がった、という流れ」に無理矢理に形を整えようとして、外交辞令やらルターの片言節句を寄せ集めてプロテスタントとイスラームの類似性を描きだそうとしているのだと思います。Ashtrayさんが指摘するように、これは典型的な「情報の合成」に当たるでしょう。私が(そしておそらくKinnoAngelさんも)違和感を感じたのは、そのあたりの強引な記事構成によるものと考えられます。記事の内容を吟味すればするほど、オスマン帝国が対ハプスブルグ帝国対策を進める中で、プロテスタント諸国へ宗教的な配慮をした外交文書を発行して、実際に軍事同盟を結んだり、交渉していたという以上のことは書けないと考えるようになりました。

と、まず今回の「改名・分割・部分削除」提案に関わる本筋を確認しておきます。(末節の議論で混乱するのは嫌ですから、、、)

それから、別の個所で私はG0maoさんがどのような書籍を参照してオスマン帝国の宗教体制を認識されておられるのかを問い合わせています。「何をもってイスラームの公式見解とするのか」という議論であり、回答如何で上記の本筋を覆すほどのものではない脇筋の議論ですが、KinnoAngelさんが議論の拡散を嫌ってらっしゃるので、ここに私の見解を書いておきます。本文記事によれば、ムラト3世はルター派の人々に「あなた方は、偶像を崇拝せず、(中略)信仰を告白するとき、「万能の神はお一人であり、聖なるイエスはその預言者であり、召使いである」から始め、、、」などと手紙を書いたそうですが、この微妙な誤理解が全てを語っているように思えます。外交辞令で一生懸命双方の共通点を並べようとして、墓穴を掘ったけど、受け手も外交辞令であること理解していたからやり過ごされたということでしょう(リゴリスティックな牧師さんとか神父さんだったら、怒り出す人もいるかも知れませんね)宗教的なことに気は遣っているけれども、かっちり書いているわけでもない。緩い感じですね。言葉に厳密なイスラームのウラマー達なら、ここまでいい加減なことは書かなかったんじゃないでしょうか。ま、これは私の見解なので、ご参考までにという程度の話です。

それから、G0maoさんはご自分で矛盾するようなことを書いて議論を混乱させていることは御自覚いただきたく思います。私は「そもそもイスラームでは、ウラマーの合意をもって正式な教義解釈とし、カリフといえどもそれは覆せないという伝統があった筈で、ムラト3世の外交辞令をもってイスラーム全体の公式見解のように書くのは、無理なのでは。」と2011年12月7日付の投稿で書きました。これに対してG0maoさんは、

  • オスマン帝国は政教一致の絶対主義的な国で、当時のウラマーは帝国に仕える官僚といったところなので、為政者の公式発言で問題ないかと思いますが(2011年12月23日 (金) 23:35 (UTC))

と書きながら、

  • カリフやスルタンは法学者の法解釈に関与できません(2011年12月25日 (日) 08:26 (UTC))

とも書きます。オスマン帝国のウラマーは為政者に口を挟めない存在なのでしょうか?それとも法解釈(当然、異教徒への対応の是非判断も含まれる)についてはカリフやスルタンに対してウラマーが優位にあったと言いたいのでしょうか? 他人に講釈するのが楽しくて仕方がないご様子ですが、相手が既に書いていること(法解釈に関しては法学者の判断が為政者に優先すること)を得々と繰り返していることも、御自覚ください。--おーた 2011年12月26日 (月) 12:58 (UTC)

ムラト3世の外交における公式発言は、官僚機構の助言(大宰相やウラマーによる)を受けているはずなので、イスラームの見解から外れたことをいう訳が無いと思いますけどね。スルタンは聖地メッカメディナの守護者であり、イスラームの盟主として振る舞っていた訳で、スルタンの発言がイスラームの公式発言だということで問題ないのでは。オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすまではアッバース朝カリフがイスラームの最高権威として君臨していたわけで、アッバース朝カリフの発言がイスラームの公式見解ということになるのでしょうが。アッバース朝カリフ断絶後はオスマン帝国のスルタン以上の権威を有する者が存在しませんからね。--G0mao 2011年12月26日 (月) 15:22 (UTC)
他についての議論については、追々申し上げて参りますが…
>スルタンは聖地メッカメディナの守護者であり、イスラームの盟主として振る舞っていた訳で、スルタンの発言がイスラームの公式発言だということで問題ない
初耳ですね…誰がそんなことを仰っていましたか?大変興味ありますので出典を求めます。--Kinno Angel 2011年12月26日 (月) 16:17 (UTC)
それと、「本記事中の6 比較すべき点を参照のこと。」といった要出典タグ剥がしは認められません。Wikipedia:チュートリアル 出典より「ウィキペディアの他の記事を出典として使わないでください。」を参照して下さい。またWP:SYNTHESISを御覧下さい。--Kinno Angel 2011年12月26日 (月) 16:31 (UTC)
私の文中の”スルタン”はオスマン帝国の君主であるスルタン(パーディシャー)を指していますよ。スルタンという役職が聖地メッカメディナの守護者ではありません。カリフとスルタンの関係性は、日本の天皇と征夷大将軍に似ていますね。アッバース朝末期以後のカリフはほぼ権威だけの存在となりました。オスマン帝国のスルタンはトルコ革命後にカリフとなったことや、オスマン帝国のスルタンはカリフも兼ねているという説もあるようで、実質的にはオスマン帝国スルタンがカリフのような宗教的権威をもってたのでしょうね。--G0mao 2011年12月26日 (月) 22:10 (UTC)
実質的にはオスマン帝国スルタンがカリフのような宗教的権威をもってたのでしょうね。
G0maoさんの個人的見解・個人的憶測は伺っていません。繰り返しますが出典を求めます。--Kinno Angel 2011年12月27日 (火) 09:04 (UTC)

プロジェクト‐ノート:イスラームにも議論への参加を呼びかけました。正直言いますがこの発言「スルタンは聖地メッカメディナの守護者であり、イスラームの盟主として振る舞っていた訳で、スルタンの発言がイスラームの公式発言だということで問題ない」だけで、もうこの記事に関わるだけの力量はお有りでは無いと言いたいところなのですが(素人ですか)、もうちょっと辛抱しましょう。検証可能な出典の提示を是非お願いします。--Kinno Angel 2011年12月27日 (火) 09:37 (UTC)

そうですね。私よりも詳しい方々がいらっしゃいますので、是非議論に参加して頂きたいですね!イスラーム関係の記事を編集されている方は研究者と思われるような方々もいらっしゃいますし。--G0mao 2011年12月27日 (火) 10:13 (UTC)
で、おーたさんと私が要求している出典の提示はまだですか?Ashtrayさんによる「この記事はオスマン帝国主体のものになっている」という指摘に対し、G0maoさんは「オスマン帝国=イスラムだ、なぜなら実質的にはオスマン帝国スルタンがカリフのような宗教的権威をもってたのだから」という珍しい説を提示しているワケですが、貴方の「反対意見」の根幹がこの珍しい説(というより聞いた事無い説)にある以上、それを裏付ける出典がどうしても必要なのですが。--Kinno Angel 2011年12月27日 (火) 10:56 (UTC)

横レスながら失礼します。プロジェクト‐ノート:イスラームでの告知から来ました。2、3コメントさせて頂ければ、ざっと見た限りですが、「プロテスタントとイスラム」という現行の記事名を見た時は、プロテスタントとイスラームの宗教思想的な相違を扱った記事だろうかと思われたのですが、現行の記事全体は「16-17世紀の欧州のプロテスタント諸国と(オスマン朝などの)イスラーム諸国」という感じに思われ、いささかタイトルと記事内容にギャップがあるように思われました。イスラーム政権側についてはオスマン朝がメインのようですが、エリザベス1世のもとに派遣されたサアド朝のアブドゥル=ワーヒドやサファヴィー朝にも節が設けられていますが、思想的な問題よりも政治的な問題がメインの記事作りがされているようですので、(どういうことをメインとする記事にするかで変わって来るかとは思われますが)記事全体を改組するのでなければ、16-17世紀の(宗教的影響を伴った)政治的な動静について扱ったものであるということが分かり易い記事名にすべきように思われます。

オスマン朝についてはあまり詳しく無いので大した発言は出来そうにありませんが、いくつか思い付いた限りの事を書いてみますと、イスラームにおける統治者の王権思想については、今年亡くなられた佐藤次高先生の『イスラームの国家と王権』(岩波書店、2004年)などが手頃ではないかと思います。イスラーム法学者と、カリフやスルターンなどのムスリム統治者は役割分担が異なるため「スルタンは聖地メッカメディナの守護者であり、イスラームの盟主」は基本的にムスリム統治者としての領分に属しますが、「スルタンの発言がイスラームの公式発言」の部分は非常にナイーブな表現であり、イスラーム政権における統治者の役割について十分な理解を要するもので大分問題があると思います。(「聖地メッカメディナの守護者」は実際にオスマン朝は領土的に保有していたので問題ありませんが、「イスラームの盟主」は多分に理念的なもので、オスマン朝はスンナ派政権ですが十二イマーム派のサファヴィー朝とは反目していますし、「イスラームの盟主」という文言もより(理念的にも)正確には「イスラーム共同体(umma al-Islamiyya)の第1人者」という程で「イスラーム共同体」などといっても全てのスンナ派政権がオスマン朝の支配力に従属していたという訳ではない事は一応念頭に置くべきでしょう。) 「スルタンの発言がイスラームの公式発言」の「イスラーム」の範囲がイスラームが関わる全てのことであれば、「イスラームの公式発言」を出来るのは神であるアッラー以外にいそうにないので、スルターンにとっては大分越権行為に近いものでしょう。スルターンの発令出来るものは「クルアーンやハディースに言及されているアッラーがムスリム(の統治者)に課せられた使命を宣撫・実行すること」であって、飽くまで「アッラーから課せられた使命」を現実の問題にどのように適応・対処するかというレベルに過ぎないと言えます。なのでムスリム統治者としての実際の立場からすると、「イスラームの公式発言」というのとは意味合いが異なるものだと思います。せいぜいが「(対外的に欧州の君主宛に出された)スルタンの発言は『オスマン朝というイスラーム政権の統治者』としての公式発言」くらいが現実的なところでしょう。オスマン朝のスルターンの発言の全てがイスラームに関わる全てのコンセンサスを得られている訳ではないからです。これは「ローマ教皇の発言がキリスト教世界の公式発言」と言い換えればどういったレベルの問題か分かり易いでしょうか。

オスマン朝のスルターンの政治的立場というのは、正統カリフやセルジューク朝以来のイスラーム政権の統治者としての立場もありますが、一方で「ハーカーン」や「ハーン」という称号も名乗ったことからも分かる通り(イスラーム的な学際的解釈の加わった)テュルク的君主という種族的立場もありましたし、オスマン・ガーズィーのような「異教徒への遠征(ガズワ)に従事する戦士(ガーズィー)」というオスマン家の発祥に関わる立場しての性格もやはりありました。オスマン朝のスルターンの(スンナ派の)イスラーム統治者としての普遍的立場については佐藤次高先生の著書などがありますし、オスマン朝そのものについては鈴木董先生等の著書が。オスマン朝以前の古典的な資料としてはマーワルディーの『統治の諸規則』などで実際の法的な見解が確かめられますし、テュルク的君主としての側面については最近では小笠原弘幸・井谷鋼造先生がたの論文が詳しいです。これは別にオスマン朝のスルターンの問題だけではありませんが、ひとくちにイスラーム世界の統治者と言っても時代や地域によってはさまざまな属性やアイデンティティが重層的にありそれらのもとで実際の統治や外交を行っている訳でして、そこら辺の事情を吟味した上でオスマン朝のスルターンについても同様に固有性と共通性を鑑みて資料上のその言動を注視すべきだと思います(勿論記事にするからには先行研究を十分踏まえた上で)。

もう1点、前近代の西欧キリスト教世界でのイスラーム理解については、ルートヴィッヒ・ハーゲマン『キリスト教とイスラーム―対話への歩み』(邦訳 知泉書館、2003年)がルターのイスラーム理解についても1章ほど設けられているので、本記事の作成にも役立つかと思います。あまりまとまりがなく長文失礼しましたが、ざっと思い付いた限りでは以上です。--Haydar 2011年12月28日 (水) 19:02 (UTC)

Haydarさん、ありがとうございます。私はイスラムについては鈴木董氏や佐藤次高氏らが一般向けに書かれた新書など4~5冊程度しか読んでおりませんため素人同然でありますが、基本的にお二方が関わって来られた本の内容と矛盾が感じられず、多分仰るご指摘は的を射ていると思います。小杉泰氏の受け売りでしかありませんが、職の人、筆の人、剣の人、と大きく三種に区分されるイスラーム社会において(小杉泰『イスラームとは何か』170頁・171頁、ISBN 9784061492103)、剣の人の一人であるに過ぎないスルタンが「イスラーム社会を代表」していたとすれば越権行為も甚だしいですし、じじつそんなことが出来る筈も無いのです。またシーア派を巡る御指摘も全く仰る通りと思います。
唯一ご指摘申し上げるとすれば、「ローマ教皇の発言がキリスト教世界の公式発言」という喩えについてですが、スルタンは聖職者ではなく世俗の統治者でありますから、「神聖ローマ帝国皇帝の発言がキリスト教世界の公式発言」の例の方が近い比定かもしれません(言うまでもありませんが神聖ローマ帝国はカトリックの一国家でしかなく、プロテスタントも聖公会も正教も東方諸教会もある以上、こんな事は言えないわけです)。
仰る通り、やはり改名が必要でしょう。
なお浅学無知なもので存じませんでしたが、佐藤次高先生は永眠されていらしたのですね。早過ぎる死だと思います。御冥福をお祈りします。--Kinno Angel 2011年12月29日 (木) 13:26 (UTC)
なるほど勉強になりました。そもそもイスラームの公式見解といえる時代は預言者と正統カリフの時代くらいのものですかね。「統治の諸規則」は手元にありますが、なかなか趣味で勉強するにはハードルが高い一冊です。--G0mao 2011年12月30日 (金) 04:05 (UTC)
で、G0maoさんは、本件についてご意見を撤回されるのですね?--おーた 2011年12月30日 (金) 10:03 (UTC)
そうですね。Haydarさんのご意見に賛同します。--G0mao 2011年12月30日 (金) 17:10 (UTC)
G0maoさんは意見変更をされたものと解釈し(で宜しいのでしょうか)、後1週間、反対意見が無ければ、改名提案・分割提案・大幅削減のうち、提案通り改名と分割を実施します。削減については「削減ではなく分割でも良いのでは」という意見が出ていますので、コメントアウトして本ノートページで議論を継続しようと考えております(後1週間、反対意見がなければそのようにさせて頂きます)。--Kinno Angel 2012年1月3日 (火) 15:01 (UTC)
そうですね。意見変更です。Haydarさんに賛同します。--G0mao 2012年1月4日 (水) 03:04 (UTC)
時間が空きましたが、私もHaydarさんのコメントに感謝したいと思います。ルートヴィッヒ・ハーゲマン『キリスト教とイスラーム―対話への歩み』を手に入れて、先ほど目を通しましたが、トーマス・アクィナスのイスラーム解釈など、個人的には大変に興味深い話が扱われておりました、、、が、それはさておき。この本で描かれるルターのイスラームへの態度は、現在の記事本文にある
ルターは、イスラムの教義を広く批判していながら、他方で、イスラムの信仰に寛容を示しているのである
とは、まったく違いますね。ハーゲマンによれば、ルターはイスラームを終末時にやって来るアンチ・キリストの前触れと見ていたし、イスラームの教義を嫌悪していたとします。ただし、ルターは教皇をそれ以上に嫌悪していたので(教皇の何人かはアンチ・キリストそのものだとすら考えていたので)、オスマン帝国の脅威を教皇に支配されたキリスト教世界への「神の鞭」と捉え、十字軍的な理屈でオスマン帝国への抗戦を訴える教皇権を冷淡に斬り捨てていただけだとします。神聖ローマ皇帝が世俗的権力の元に国土と国民を守るための自国防衛戦であるかぎりにおいて、ルターはオスマン帝国との戦争に賛成していました。現記事でのルターの見解は、相当に歪んでいるというのが、『キリスト教とイスラーム―対話への歩み』を読んでの私の印象です。--おーた 2012年1月8日 (日) 05:23 (UTC)
報告 改名のみ実施しました。分割についてですが、私の単純ミスで、分割というよりも転記の手続きが必要であることを失念しておりました。今一度テンプレを貼り付け、1週間待ちます。--Kinno Angel 2012年1月16日 (月) 01:22 (UTC)
報告 転記を実施し、タグを除去しました。議論に参加して下さった皆様、ありがとうございました。--Kinno Angel 2012年1月29日 (日) 10:35 (UTC)
作業ご苦労様でした。転記先の記事を編集して、記事の体裁を整えておきました。この「オスマン帝国の対プロテスタント政策」に関しても、まともな体裁に整えるにはもう少し作業が必要ですよね。今しばらく議論には参加しますので、よろしくお願いします。--おーた 2012年1月29日 (日) 12:20 (UTC)
こちらこそありがとうございました、今後とも宜しくお願いします。--Kinno Angel 2012年1月29日 (日) 15:21 (UTC)