ノート:オールエイジドステークス

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翻訳を下書きページから転写します[編集]

転写の工事終了、合わせて新たに加筆。--Omotecho会話2019年10月18日 (金) 20:27 (UTC)[返信]

歴代の優勝馬(オールエイジドステークス)[編集]

コメント依頼中です。優勝馬は1970年までジャパン・スタッドブック・インターナショナル「血統書サービス」ウェブサイト(英語版)と照合しましたが漏れがあるかもしれません。--Omotecho会話)/コメント依頼を出しました。2019年10月18日 (金) 21:29 (UTC)/ 2019年10月18日 (金) 20:27 (UTC)[返信]

コメント コメント依頼を拝見してきました。

  • 現在修正中です。(資料を漁るのでちょっと時間をいただきます。)
  • 当座の課題・気になったことを何点か。
    • 創設年。これがまだよくわからない。
      • まず一般論ですが、日本ダービーを例にすると、「東京優駿大競走をやるぞ」と大発表したのが1930年。この年にクラシック登録を行い、実際に第1回が開催されたのは1932年。この場合に「創設」をいつにするのか。私はこの場合は「1930年」だと思うけど、1932年を創設年としたい人がいるのもわかる。そこで、「第1回施行年」という表現で「1932年」とすれば間違いがない。ただしこの場合、それが本当に「第1回」と称していたかが問われる。
      • さてAll Aged Stakesの場合、下記情報源が「1866年が第1回」としています。
      • 一方、英語版は「1865年」に創設とあります。しかし出典がないです。(続く文末に出典があるが、これは1885年のAstrœaのことを示すだけで、創設年の裏付けにはなっていない。)
        • ただし、Galopp-Siegerには1865年の勝馬Maid Of The Lakeの名があります。
        • 英語版では歴代勝馬の出典としてtroveによる当時の新聞記事があり、たしかに1865年の勝馬としてMaid of the Lakeの名があります。
      • というわけでこれは謎のまま保留です。
    • 馬名表記について
      • 「Astrœa」の「œ」は、現在は「oe」と表記するのが一般的です。(こういうのは19世紀ぐらいの馬にはたくさんあります。)
      • 一般論として、競走馬の馬名表記の場合、「Maid Of The Lake」は「Maid of the Lake」と書くはずです。「of」「the」「a」「d'」「le」など。歴代勝馬にはこれに該当するものがたくさんいたのですが、とりあえず(面倒なので)そのままにしてあります。
      • たまたま気づいたのですが、「My Gold Hope」のように、豪州では途中で名前が変わる子がいるので要注意ですね。
      • ハナズゴールは日本馬として参戦しているので、カタカナ表記としました。豪州に完全移籍する子もいますので、その場合には英字表記がいいのだと思います。
      • ラフハビットとシャフツベリーアヴェニューはジャパンカップ出走組で、公式に日本語表記されたことがあるのでカタカナにしてみました。
    • 訳語
      • waight for ageの訳語は悩ましいと思います。いわゆる「馬齢重量」は、日本では「WFA」とは違う形で使われています。だからJRAの英和辞典でもweight for ageを「馬齢重量」とせず「年齢アローワンスに基づく定量」っていう表現になってます。なので、ひとまず「ウェイトフォーエイジ」としちゃいました。でもたぶん、日本語の専門文献では「WFA」と書くことが多いと思います。
      • これは割とどうでもいいことなのですが、AJC、ATC、STC等などのオーストラリアの団体の表記は、日本語文献では「オーストラリアジョッキークラブ」と書くことが多い気がします。「オーストラリア・ジョッキー・クラブ」のように「・」を入れるわけでもないし、原語(Australian Jockey Club)に忠実に「オーストラリア」とせずに。まあこれは表記ゆれの範囲なので、リダイレクトを作れば済む話ですが、現状赤リンクなので慣習にあわせました。
    • 出典
      • JAIRS「血統書サービス」と照合なさったとあり、URLが貼られています。が、どうも私がこのURLアクセスするとエラーがでます。会員登録はしています。(正確にいうと、URLにアクセスするとログイン画面になり、踏むと謎の文字列が出てバグったようになります。)
      • たとえば2004年のPrivate SteerをJAIRSで検索すると、日本語版英語版が表示されます。ですがいずれも血統情報だけで、競走成績に関する情報はありません。OmotechoさんはJAIRSのページで何を「照合」なさったのでしょう?
      • かなり最近の馬に限定されますが、JBISではPrivate Steer(AUS)のように、「2004年ATCオールエイジドS」を勝ったことを照合可能です。
      • 今回は、Galopp-Siegerを出典とすることで、ほとんどの年をカバーしました。ただGalopp-Sieger側にはところどころ抜けがあります。(たとえば2017年と2011年がない。)また、(私もミスしましたが)Galopp-Siegerはドイツのサイトで、馬齢計算が北半球準拠になっちゃってます。
      • さらにGalopp-Siegerでは1915年が抜けています。(信頼できる情報源ではないのですが)Pedigree Onlineでも1915年が欠けているのが気になります。英語版では1915年の勝馬としてSpurnの名があるのですが出典がありません。ヨーロッパ競馬だと、1915年は第一次世界大戦の影響で競馬が中止・代替開催になったのがゴロゴロあるので、1915年が欠けていても不思議ではないのですが、オーストラリアでどうだったのか・・・ちょっと私には知識がなくわかりません。謎です。--柒月例祭会話2019年11月20日 (水) 07:17 (UTC)[返信]
      • 1915年は探したら当時の新聞が山ほどありました。大雨で当初の予定が2日順延になって開催されています。--柒月例祭会話2019年11月20日 (水) 07:38 (UTC)[返信]
      • 「AJC」のカタカナ表記については、前言を撤回します。少し文献調査をしたところ、下記の通り、まあバッラバラでした。いずれにせよ表記ゆれなんですが・・・。
        • 「競馬資料」(日本中央競馬会、1970-1)-p1「オーストラリア・ジョッキー・クラブ」
        • 『競馬百科』(日本中央競馬会、1976) - p419「オーストラリア・ジョッキー・クラブ」
        • 『競馬の世界史』(日本中央競馬会、1976)- p255「オーストラリアン・ジョッキー・クラブ」
        • 『世界の競馬場2』(JRAPRC、1994)-p19「オーストラリア・ジョッキークラブ」
        • 同書、p53「オーストラリアン・ジョッキークラブ」
        • 『グローバル・レーシング』(競馬国際交流協会、2010)- p326「オーストラリアンジョッキークラブ」
        • JAIRS ランドウィック競馬場の紹介-「オーストラリアジョッキークラブ」
        • JRA オーストラリア競馬の概要 - 「オーストラリアンジョッキークラブ」
      • こんな具合で、「・」の有無や位置、「ア」「アン」と、考えられる組み合わせは全て用例がある、という具合ですね。。。どれにするにしても、リダイレクトを作ることにはなるでしょうけど、個人的には(1)ジョッキークラブに合わせる、(2)原綴に近い、で「オーストラリアン・ジョッキークラブ」かなあ。。。--柒月例祭会話2019年11月20日 (水) 14:06 (UTC)[返信]
      • 翻訳元の英語版に原因があるのですが、原文には「AJC Autumn Meeting」とあり、翻訳後は「秋の祭典 (AJC Autumn Meeting)として長く開催」となっています。
        • 「Meeting」は「開催」ぐらいの意味で、「祭典」はムリがあります。。。が、競馬ファンなら知ってますが、これは有名なシドニーの「オータムカーニバル」(オータムレーシングカーニバル)のことです。AJCとSTCが共同してやってたやつ。「○○として長くやっていた」と書くには、いつからどのぐらいその名前でやっていたのかを明らかにする必要があり、ちょっと難易度が高いような気が。まあ、全般的にリライトする必要がありそうです。--柒月例祭会話2019年11月20日 (水) 14:26 (UTC)[返信]

改稿しました[編集]

上記の点に鑑み、記事で示した日本語文献・外国語情報源をもとに改稿しました。

  • 翻訳関係なくなったので、翻訳関連の情報(コメントアウトされていた)を除去しました。
  • 創設年に関する問題は解決できず、両論併記としました。
  • 『オーストラリア競馬史』は650ページほどある大著です。その巻末には主要競走の歴代勝馬が掲載されているのですが、そこにもオールエイジドSは掲載されていませんでした。
  • 同書の「第6章」は1861-1864年、「第7章」は1865-1869年について詳述されています。が、そこにもオールエイジドSの情報はありません。
  • 同書や『競馬の世界史』などを総合すると、次のようなことが言えます。
    • オーストラリア競馬は、シドニー地区とメルボルン地区が互いに争って発展してきた。
    • ただし「シドニー地区」と言っても一枚岩ではなく、ARJC(AJC)とSTCが反目しあっていた。オーストラリア最古の競馬は1810年のパラマタ競馬で、まもなくハイドパークに競馬場が作られた。その後たくさんの競馬場ができ、そのうち中心的な競馬場は時代とともに移り変わる。1826年から1840年はグローズファーム競馬場、1840年からはホームブッシュ競馬場という具合である。このホームブッシュ競馬場時代に、セントレジャーが始まり、AJCが組織された。しかし1859年にホームブッシュ競馬場は全焼してしまう。AJCは競馬発展のため、シドニー郊外にあったホームブッシュ競馬場を廃し、シドニー中心部に近いランドウィック競馬場を新たに建設、1860年5月29日のオープンにこぎつけた。
    • メルボルン地区でもVJCとVTCが敵対していた。VJCは、シドニー地区とVTCを倒すために、シドニー地区のチャンピオンとメルボルン地区のチャンピオンが対戦するビッグイベント(オーストラリアチャンピオンカップ)を創設し、大人気を博した。これは古典的な(クラシック風の)3マイルの古馬戦だった。これに対抗するためVTCでは1861年に「馬齢の制約がない」「ハンデ戦の」「2マイルの」メルボルンカップを創設した。やがてメルボルンカップはオーストラリアで最も人気のあるレースに成長、VTCとVJCは合併してVRCとなった。
    • おそらく、シドニー地区では、メルボルンCに対抗するために、「馬齢の制約がない」「WFAの」「1マイルの」オールエイジドSを創設したのだろう。(1860年頃、オーストラリアでは馬齢の数え方の規則ができたり、馬齢重量の規則が整備された。)
  • 問題はこの最後の「おそらく」の部分に情報源がないことです。その前段階は完全に情報源があります。VTCとVJCが合併してメルボルンCに本格的なテコ入れがあったのが1864年の「秋」、すなわち1864/65シーズンの前半です。オールエイジドSの創設に関する疑いのない情報源が見つかっていないのではっきりは言えないのですが、1865年にオールエイジドSが創設されたのだとすると、これはつまり1864/65シーズン序盤(春)のメルボルンC強化に対抗して同シーズンの後半(秋。1865年の5月?)に企画されたのでしょう。
  • はじめは「歴史的背景」とでもして上のようなことを書こうと思っていたのですが、いかんせん肝心の「オールエイジドS」に関する情報源が不足しています。上の情報源はあくまでもメルボルンカップの由緒を詳述する文脈におかれているものです。直接的に「オールエイジドS」への言及が全くないのです。
  • というわけで、「歴史的背景」を書くのはやめることにしました。--柒月例祭会話2019年11月29日 (金) 18:14 (UTC)[返信]
コメント  丁寧な解説をしてくださり誠にありがとうございます。コメントを募りながら通知を見落としたようで、ずいぶん時間がたった今頃になり読みました。本文ページ冒頭からコメント依頼のテンプレートを外しました。
立派な記事に書き直された経緯をひとつずつ追っていました。Trove というオーストラリアの公立図書館のサイトを知りました。恥ずかしながら初見でして、なるほど新聞記事の保管と市民パワーでOCRの校正、情報公開をするとは、望外の勉強をしました。
歴史のうち創設時期はそうでしたか、謎だらけでしたか……。どういう経緯でこの競走が始まったか資料を精読され両論併記されたとのこと。その底流にシドニー地区VSメルボルン地区の敵愾心に加え、シドニーが一枚岩ではなく、地元どうしの勢力争いがありそうとは想像の外で、うーん、そうだったのですね。非常に興味深いです。1851年にゴールドラッシュがシドニーを見舞ったのに、すぐに豊かさでメルボルンに抜かれたとも初めて読み視野が広がります。
言い訳はさておき、しかしなぜ「過去にローズヒルと呼ばれていた」と自分で加筆したのか気になり下書きを読み直したのですが判らずじまいで、代わりに、旧聞かと思いつつ A ターフクラブ公式サイトに「Randwick’s Foundation Document」という欄が見つかりました(archive.orgより)。ただこれも行き止まりで、「年齢無制限」を冠した競走の初回はわからず、恥の上塗りでした。
  • 上記でご指摘の通り、こちらもあくまでもシドニーカップ設立つまり ATC の立場から書かれたものです。A ジョッキークラブ AJC 設立前の1833-1838年に Randwick で開催(レース名不記載)、その後ホームブッシュ Homebush に移り(町の記事に競馬場の詳細なし)、1842年設立の AJC が引き継ぐ。
  • その18年後、賃料の高さもあり1860年開催から再びランドウィック競馬場 Randwick に戻すにつき、劣化していたコースの修復を目指して1859年に募金し、AJC 会員15名の肝煎りで工事が完成(ここまで動画「ATC TV: The Beginnings of Royal Randwick」後半と同じ)。
  • リンク先の額縁の画像は、拡大して読もうとしたものの判読できませんでした。
それにしてもウォッチリストに入れていたはずなのに、どうして見落としたものか。すぐに対応していただきながら反応が遅く申し訳なく思います。--Omotecho会話2020年1月6日 (月) 17:16 (UTC)[返信]
コメント#加筆部分の出どころですが、ひょっとしてと思い画像を開いて判明しました。コモンズ画像のキャプションを読んで真に受け、裏付けをさぼったため早とちりしました。
--Omotecho会話2020年1月6日 (月) 17:31 (UTC)[返信]