ノート:クソゲー/「出典の明記」と「独自研究」について

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「出典の明記」と「独自研究」について[編集]

「出典の明記」「独自研究」タグが貼り付けられた後にすぐ剥がされたようですが、これらのタグは2つとも妥当なものであると考えて差し戻しました。現状でのこの記事には出典・参考文献がひとつも挙げられていないので検証可能性を確保するため情報源の提供を呼びかける必要があり、まるでエッセイのような文体の箇所もみられるため独自研究のおそれもあると考えられます。もしこれらのタグを除去しようとされる方がいらっしゃいましたら必ずその理由を説明するようにお願いします。--貿易風 2008年4月18日 (金) 12:50 (UTC)

その案件(この編集Wikipedia:井戸端#会話ページを半保護にしている利用者と対話する方法参照)は、付与ユーザーが問題行動の末に付きまといの結果として乱発した結果の一つとして処理されたものですね。この問題では、なにより付与した側が問題提起を行わず反射行動的に乱発させながらIPアドレスを切り替え(いずれもBIGLOBE光回線の所定地域よりのIPアドレス)て、更にブロック逃れを繰り返した結果です。
なお、付与に関しては部分的に出典を求めたほうがいいと感じる部分も見出されるとはいえ、その総体としての妥当性に対する判断に関しては、一般的価値観において可能だと考えます。
まあ資料があれば多いに越したことはないけど、サブカルチャー分野では「所詮水物」なだけに所定資料によると中立性を逸する(偏った資料により特定視点に誘導的になる問題)側面もあり、難しいところ。無理に出典と称した卑小な事物を資料として付与しても、今度はその資料の妥当性に枠を拡大して検証せざるを得ないというフレーム問題にもよって、結局は検証可能性の向上には役立たないようにも感じます。
ともあれ、それらテンプレート付与も記事編集に参加しているのであり、その観点からいえばテンプレートを付与して満足してしまうのではなく、付与後もその行為に責任を持ってもらいたいものです。付与箇所に関し根拠に基づいたノートでの問題提起や、資料が得られそうな可能性を示唆したり、提示された資料をどう記事にまとめるかの提案、どういう資料なら妥当なのか落とし所を探るなどの活動をすることが、百科事典の記事を作るという目的に沿った行動といえましょう。その点で、付与した側に問題が見いだせるなら、除去されても仕方がないと思います。--夜飛/ 2008年4月18日 (金) 14:37 (UTC)
「出典の明記」とか「独自研究」のタグについては、ただ貼り付けただけだったとしても、何も貼り付けていない状態と比べればはるかに記事にとって有益なわけですから除去すべきでないと思いますよ。
除去してしまうと、読者に対して「これは情報源に裏付けられている記事ではない」ということを知らせることができなくなってしまう上に、だれかに情報源を提供してもらえる可能性が減ってしまうことになるので、それは記事にとって非常に大きな損失です。もしかすると記事が改善に向かうかもしれないチャンスをどぶに捨てることになるかもしれません。逆にこれらのタグが貼られていることによって記事になんらかの悪い影響が出るということはまずないでしょう(もちろんWP:VWP:NORの観点から問題の無い記事にタグが付いてたらまずいですけど)。--貿易風 2008年4月19日 (土) 10:19 (UTC)
記事の妥当性の判断に関しては、比較的広く流布されている情報を取捨選択することで、完全ではないがそれでも一定の範疇で参考程度にはなるという側面があると考えています。テンプレート独自研究に関しては、どういうレベルで「独自」なのかが不明確で、逆に出典がある記事でもその出典の選択の段階で記述者の主観的価値観が介在するために独自研究となりうる問題を含むことから、非常に扱いが難しく単に「出典情報が見当たらない」という希薄な理由付けでの付与には疑問を呈したいところです。またサブカルチャーやユーザーないしファンの視点に基づく価値観などに関する記事では、それに著名性があるなど明確な論者が限られる点で、またある特定事象にのみ立脚すると中立性を逸する虞を含む点で慎重にならざるを得ません。それらを踏まえた上で本項に求められる性質のテンプレートは「出典の明記」だけではないかと考えます。
なお問題利用者による妥当性の疑われる行動の結果は、「Wikipediaの方針に無理解な者には参加資格がない」こと(これはWikipedia:基本方針とガイドラインなどにも表れています)を考えると、一旦差し戻した上で、それとは切り離して他の問題とはなっていない利用者が新たに設置することこそが望ましいと考えます。その点で、本案件は「新たに貿易風さんが両テンプレートを設置した」という形である必要があると思うのですが、如何でしょうか。
もちろん、テンプレートを設置する側も記事の内容を投稿する側も、同等の責任を記事の内容に対して負う訳ですから、貿易風さんにのみ過剰な責任を強いるものでもありません。貿易風さんが妥当な問題を提起したら、記事を記述した側(これには小生も含まれる訳ですが)はそれに対して応答したり、あるいは貿易風さんとの対話を通して、記事をよりよい方向に導くことが求められるわけで。
そういった記事に対して責任のある行動をとる必然の上で、テンプレート設置者が責任など取るどころか問題を起こしてしまった利用者では拙いと考えます。
なお余禄ではありますが、選択肢としては貿易風さんが「テンプレート設置者としての責任を全うする意思がない」場合には、テンプレート再設置を取り下げて責任を回避するという選択も存在します。その選択は貿易風さんの一存で可能であり、他者が関知ところではありません。--夜飛/ 2008年4月19日 (土) 11:06 (UTC)

(インデント戻し)まず、{{独自研究}}タグの妥当性について。単純に出典が不足しているということと独自研究であるということはおっしゃるとおり同値ではありません。独自研究とは、WP:NORによると「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」です。僕はこの記事の記述のうち、例えば「具体例と理由」の節について、この記事のようにクソゲーを理由ごとに分類したようなものが掲載されている信頼できる媒体があるようには思えないのです。記事を書くときになんらかの情報源を参考にして書いたけど出典として明記するのを忘れてしまった、というケースではあとで適切な出典を付加できる可能性があります。 しかし、この記事では「~といわざるを得ない」「~かもしれない」「~といわれている」「~といえよう」「~可能性もみてとれる」「~な感も否めない」といった表現が所々にみられ、信頼できる情報源を元にして書かれた文章であるとはちょっと想像しがたく、独自研究のおそれがあると考えました。

また、中立的な観点との両立が難しいということについてですが、記事内容に関する基本3方針はその全てを満足する必要があるわけです。今後の編集で、独自研究のおそれは解消されたものの中立的な観点が危ぶまれるようになってしまった場合は、タグを{{独自研究}}から{{観点}}に貼り替えることになると思います。どうしても両立ができないという結論になればその箇所の掲載は諦めざるをえません。

次にいったん差し戻してタグを再付加するという話ですが、わざわざ2版消費してそのような「儀式」を行う必要性を感じません。そもそもタグの付加が妥当かどうかを議論するときに「誰がタグを付加したのか」という情報は大した意味を持っていないと考えています。考慮すべきなのは「そのタグの使用方法に沿っているか」「タグを付加することによって記事に利益があるか(or不利益が無いか)」ということです。これらの観点から現状ではタグが付加されていることが好ましいという意見はすでに述べました。そして少なくとも{{出典の明記}}については合意が得られていると理解しています。基本的な考え方として、利用者がどうこうじゃなくて「記事をどういう状態にするのが望ましいか」っていう視点に立つのが建設的な議論の前提だと思います。

最後にタグを貼った責任という話について。夜飛さんがどういう意味で責任という言葉を使ってらっしゃるのかわかりませんが、「記事のどの箇所がどういうふうに問題と考えてタグを付加したのか」ということについての説明責任はもちろん貼った人にあると思います。あまりに自明なケースでは付加したときに説明する必要はないと思いますが、貼った人にとって自明でも他者にとっては自明でないという可能性もありますので、説明を求められても貼った人がそれに応じないということならタグは除去されても文句は言えないでしょう。--貿易風 2008年4月20日 (日) 07:29 (UTC)(脱字修正)--貿易風 2008年4月21日 (月) 13:47 (UTC)

うーん、「ガイドラインに沿ってるから僕には関係ない」という視点は違うんじゃないかと思います。というのも、テンプレートを付与するという行為は自発的なものであり、誰かに命令されたわけではないのですから。それとも「頭の中に届く何か」に「テンプレートを付与しなさい」と命令され、それに抗いようもなく付与させられている利用者がいるというのでしょうか…ちとブッキーです(漏電中)。
で、記事の内容ですが表現の結びにおいて貿易風さんは「なにがしかの資料に基づいたとは考えられない」とお考えなのでしょうが、その部分は事物の説明をする上で論理的に考えた上で結論を出すという手法によっているのであり、その過程は独自研究の虞を含むとはいえ、実際には普遍的に観測可能な結果や結論から遡ることでその要因に言及して、その要因にまず視点を向けさせることで現状観測可能な状態を説明するという「ある意味では回りくどい」方法をとっている部分だと思います。まあこの辺りは現象をダイレクトに示せばもっと具体的になるだろうけど、それをやると所定のゲーム作品に言及しなければならずWP:NOTにおける批判になってしまう虞もあるかと。まあそこで観点タグを持ち出してもいいのですが、それをやると果たして何がしたいのか訳がわかんなくなるかと(両立しない命題?)。
「儀式」に関しては、それが道理として避けるべきではない(荒らし行為はその妥当性以前に原状復帰が妥当)場合には、版を重ねるに何等問題はないと思います。というか、それは「必要だ」とみなして差し戻した時点で、差し戻した者の意思が介在したのであり、既に問題編集者の行動は存在し得ないわけで。
ともあれ本案件は、「荒らしによって付与され差し戻されたこと」と「貿易風さんがこの記事にテンプレートを付与する必要があるとみなしている理由」は分けて整理する必要があると考えます。--夜飛/ 2008年4月20日 (日) 10:24 (UTC)
「ガイドラインに沿っている」ってだけじゃなくて、「タグを付加することによって記事に大きな利益がもたらされる(そして不利益は特に無い)」ってことがポイントです。{{出典の明記}}や{{独自研究}}といったタグは、ただ貼られているだけだったとしても、貼られずに放置されることに比べればはるかに好ましいということはすでに述べました。
仮にタグを貼った人が本当にただ貼っただけだったとしても、(付加理由が正当である限り)その後にタグが記事に対してなんらかの悪影響を与えるわけではないでしょうから、付加理由の説明責任以上のものを求める必要性は感じません。そもそもタグを付加する人っていうのは自力で問題点を解消できないからこそタグを貼って協力を募るわけです(今回の僕の場合もそうです)。1人でどうにもならないことでも何人か集まればどうにかできるかもしれないっていうのはWikipediaのいいところのひとつで、独力でどうにかできるなら最初からタグなんか貼らずに出典付加したり書き換えたりするはずです。
それとちょっと整理しますが、とりあえず{{独自研究}}のタグについては、現状でも夜飛さんは「この記事に貼られていない方が望ましい」とお考えであるということでよろしいでしょうか。もしそうだとすれば、「そもそも現状のこの記事に独自研究のおそれはない」という立場なのか、「独自研究のおそれはあるがなんらかの理由によりタグは付加されない方が望ましい」という立場なのかどちらでしょう?--貿易風 2008年4月21日 (月) 13:47 (UTC)(また脱字修正)--貿易風 2008年4月21日 (月) 13:47 (UTC)
(大きな)利益があって不利益がないと主張されるのは構わないのですが、それが明確に執筆するコミュニティと読者に混乱を与える性質の付与はあまり望ましいとは考えられません。範疇が不明な上にどの程度で妥当性があるのか/無いのかを明確化できず、下手をすると妥当性のある個所まで否定してしまいがちであるためです。その点で、貼られて放置されることも十分に問題だと考えます(各々の記述の妥当性を判じても他の部分で外せないのではないかという懸念からいつまでも外せなかったり)。その観点からいえば、説明責任も果たさず薄弱な理由で「ただ貼ってみた」という行動は(無用な混乱を招くため)やめてほしいと考えています。
もちろん、他者の助けを求める上でタグを付与したというケースもあるでしょう。ただ、その場合でも議論の呼びかけとかの「良くするためには何が自分にできるだろう」という視点を持ってほしいところで、たとえばコメント依頼や修正依頼などは、あらゆる側面において専門知識がなくても呼びかけ自体は可能だと思います。そして「記事を良くしよう」という視点に沿って行動する限りにおいて、付与行為とその後の一連の活動で記事は良くなるでしょう。逆に「判んねーから貼ってみた(後は放置)」という視点では、コミュニティを単純に疲弊させるだけで記事の改善は遅々として進まず参加者のやる気を削ぐだけに終わるなど、益はないと思います。
なお独自研究タグの扱いに関しては、「非常に扱いが難しい(子供っぽい思い付きで使われることは適切ではない)タグ」だと考えています。特に専門的に記事に扱われている事物に対して理解がある側が、その視点から見て明らかに問題視できる記述(個人的な主張)に用いられる性質があり、その一方で出典の明記や要出典は、それらの事物などで「確かそれに関する資料があるはずなのだが…」というレベルで、他者に資料の提示を依頼する場合、あるいは独自研究でも汲むところがあり、何らかの資料さえあれば妥当性が計れるような場合に、その論拠を求めることに利用できると思います。結果として示された資料からその独自研究を論拠のある記述に差し替えることにはなっても、それは記事の改善に着実に役立っており、これはWikipediaの理念からいっても喜ばしいことだと思います。
確かに専門的に記事に携われないが、常識的範疇からみてどうにも中立性や妥当性が危うい場合に、出典を求め、それを元に詳しい他者に修正を期待する(そのために詳しい人に声をかけるとか)方向もあるでしょう。ただ、その場合においても「豆ぁ播いた、あとの世話と刈入までは他人に任せる」というのは、Wikipediaに参加する姿勢としては余りにお粗末で、その程度の意欲しかないのであれば無用に記事にちょっかいを出さずに、何所か余所の掲示板で「あの記事はないよなあ」とか雑談しているほうが良いのではないかと思います。
本項に関しては、扱われている事物が俗称によるため、非常にデリケートな問題を含んでおり、事物に理解のある側が丹念に記述を取捨選択していく必要が感じられ、それは一律に記事全体に掛るテンプレートを設置して放置するような行為は避け、問題記述箇所に関しては{{要出典範囲|~~~|~~~~~}}テンプレート(→Template:要出典範囲)などで、せめて節ごとに判じてテンプレートを付与するなど、より精密な対応をしていくほうが良いと思います…所詮はユーザー主導のサブカルチャー分野であり、専門家も限られるのですから。--夜飛/ 2008年4月21日 (月) 14:25 (UTC)
「範疇が不明な上にどの程度で妥当性があるのか/無いのかを明確化できず、下手をすると妥当性のある個所まで否定してしまいがち」との指摘について。「記事のどの箇所がどういうふうに問題と考えてタグを付加したのか」ということについての説明責任は貼った人にあるだろう、とすでに上で述べました。なのでそういったことに疑問があれば貼った人に直接聞くのが一番でしょう。その結果、タグの貼り方が不適切だということになれば修正または除去されることになります。タグを貼らないよりは貼った方がいいといっているのはタグの付加が妥当な場合の話ですので、貼り方に不備がある場合などは「読者に誤解を与える危険がある」という不利益が発生するため無条件に貼った方がいいということにはなりません。
それから、{{出典の明記}}や{{独自研究}}のタグがコミュニティに混乱を与えるということも結局同じで、タグの貼り方が不適切だったりそもそも貼るべきでないところに貼ってしまった場合に起こることだと思うので、タグの付加に関する疑問がある人は遠慮せずに付加した人に質問すればよろしいと考えます。回答が無ければ除去してもいいでしょう。
この記事についていえば、{{出典の明記}}は記事の冒頭に付加されているのが妥当であり、{{独自研究}}についても記事冒頭に付加されていても問題ないと僕は思っていますが、必ずしもベストではないと思うのでより適切な貼り方があるかは検討の余地があると考えます。
本題ですが、この記事に関してテンプレートを付加したまま放置せずに精密に対応していくのが好ましいということに同意します。僕がいっているのはタグを貼らずに放置するよりは貼って放置した方がまだいいということで、放置しない方がよりいいのはもちろんです。とりあえずタグを貼った責任についての抽象的な話はいったんやめて、節をあらためて記事内容をどう修正するかの具体的な議論をはじめたいと思いますがよろしいでしょうか?--貿易風 2008年4月22日 (火) 11:27 (UTC)
お疲れ様です。小生は最近、「テンプレートを方々の(たまたま目にとまった)記事に付与すること」が目的化していて、ガイドラインは考え方であってLawじゃないんだってことを解って無さ過ぎなケースばかりだったため、些かナーバスになっていたようです。それらでは妥当な理由も明示できず、更には記事の構造を無視し前後の文脈が通らなくなるのも構わず記事を削ったり、あるいはより妥当性の疑わしい自身の価値観に基づく記事に差し替える(中には他者が示した資料を読まずに又聞きで内容を勝手に想像して持論文章に組み入れたケースも)という利用者(複数)が方々に出没し、その各々に妥当性を問い質しても揚句自身の主体性に対する攻撃のように見なして(子供っぽい)反発がなされるというまであったため、本案件にも強い警戒心をいだいてしまいました。
記事改稿の提案開始に同意します。--夜飛/ 2008年4月22日 (火) 12:09 (UTC)

(インデント戻し)では、この節での議論はいったん終わりにします。--貿易風 2008年4月23日 (水) 15:27 (UTC)