ノート:クソゲー/記事本文の修正・総論

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記事本文の修正[編集]

総論[編集]

すでに{{出典の明記}}{{独自研究}}を付加しましたが、この記事では出典が明記されている箇所が極端に少なく、独自研究のおそれがある箇所もあるため、出典を付加できる部分はできるだけ明記し、それが無理であれば書き換えたり除去したりして対応する必要があります。

ただしそれなりに長い記事であり、全部の箇所を一度に議論するには大変そうなので節ごとに1つ1つ検討します。--貿易風 2008年4月23日 (水) 15:27 (UTC)

すみませんが、「初めに記事の除去ありき」というのはお止め下さい。時間を経るごとに(履歴が重なり)元記述の復帰が後回しになり、結果的に全体の説明が一貫性を欠いたまま放置される危険性が高まります。作業はサブページで行うことを提案します。また呼び掛けに先立っての編集はお止め下さい。既成事実として利用者個人の主張に沿った記事を前提に作業を進めなければならず、これは呼び掛けを行うという趣旨にから外れてしまいます。対話しながら作業を進めるのであれば、記事の骨子には手を入れないでください。これでは対話の結果を記事に反映させるのではなく、記事の変更を対話によって他者に承服させようという意図しか見えません。そしてそのような態度を取られると、対話で記事の改良を望む小生としても、お相手致しかねます。--夜飛/ 2008年4月23日 (水) 22:31 (UTC)
将来的に復帰が見込めるような手掛かりの出ている記述であれば、要出典箇所でも(よほど長期間放置されない限り)除去するつもりはありません(例えばみうらじゅん説など)。出典の付加が見込める手掛かりが全く出ないようなら、その記述はどこかの段階で除去されることになります(どのタイミングで消すかは議論の余地があるでしょう)。
この記事については、現実的に現在の版の全ての文章を掲載し続けるのは困難であり、どこかの段階で(何度かに分けて)記述の除去をするのはおそらく避けられないと思います(もしそれをしなければ要出典タグがついたまま放置されることになります)。
それと、僕がさきほど行った編集についてなんらかの問題点があるのであれば異議を述べて差し戻してもらってかまいません。また、夜飛さんがサブページでの作業を提案されるのでしたら反対はしません。--貿易風 2008年4月24日 (木) 14:42 (UTC)
出典がないからと言って一律除去というのも無理があると考えます(上記の繰り返しになってしまうのであまり言いたかありませんが)。こと議論中の事柄を、相手の出方を聞く前に記事に反映させる行為は、主観編集に陥りやすく妥当とは言えません。出典は(しばしばここを勘違いした演説目的の利用者もいるのですが)、それを付与することで非中立的な視点ないし記事事物から逸脱した記述を掲載するのを許容するものではなく、また無いからと言って一律否定されるものでもない(誰にでも検証可能な事柄は除外される)のですし、既存記述の可否は出典の有無のみによって判じられる性質のものではないと考えます。貿易風さんの記述除去以前の文章で、説明の連続性が図られていた以上は「まずは除去」という編集では、それに続いて説明の連続性に配慮した全体の見直しを必要とし、それは「出典がない・得られそうだと思えないから消す」という即物的判断で余計な作業を発生させ、あるいは見直し作業以前の断片化した記事を読者が見た場合に混乱を招く性質の行為だと考えます。その点で、サブページでの作業を提案した次第で、サブページで作業するうえでは、記事の除去箇所はいったん復旧して、その上でサブページに複製を作って貿易風さんが「出典が得られなさそう」だと判断した記述を削ってそれ以外の個所との整合性を図ったり、あるいは(小生などが)そういう性質の記述によらない説明に切り替えられないかを検討したりするもので、「反対しません」とは仰って頂きましたが、その場合は記述除去箇所の復旧を含むことだけはご了承いただきたく思います。--夜飛/ 2008年4月27日 (日) 00:36 (UTC)
なんらかの典拠に基づいた記述であるということは、おっしゃるとおり記事に掲載するための十分条件ではありませんが必要条件ではあります。「必要に応じて出典の明記を省略する」ということはできますが、なんらかの形で外部の情報源によって検証することができないような情報はWikipediaには載せられません(Wikipedia:検証可能性は個々のノートの合意で覆せないので)。
専門的な分野の記事では、その分野で常識とされていることは出典抜きで書いちゃったりもされていますが、それについても単に出典の明記が省略されているだけであってそもそも出典が存在しないというわけではありません。
ちなみにこの記事は最初から最後まで一通り目を通していますが、「語源」以外の節も含めて「誰にでも検証可能な事柄」はほとんど発見できませんでした(どの記述を想定されているのでしょう?)。
それと、基本的に僕は迷ったらとりあえず編集してみて反応をみるタイプですので、納得がいかなければ理由を述べて差し戻してもらってまったくかまいません。--貿易風 2008年4月28日 (月) 13:48 (UTC)
うーん、何を言わんとしているのかが判じ難いのですが…外部情報で検証可能なことと、自身に内在する情報インデックスで妥当性を判断することが同列に扱われている風味です。ぬるい小生としては、過去に見られた追記においてその妥当性を測るのに、一般の個人が観測可能な視点で見まわした際にどれほどの情報が拾えるだろうかという観点に基づいて、具体性のあるキーワードにおいてはちょっとググって無作為に情報を拾ってみたりもしているのですが、元よりファン視点やファンレベルの価値観に基づく本項だけに、一定の幅で曖昧性を持たせる方向でくくってあります。というのも、元より扱われている事物(クソゲー)の総体的なイメージは存在するものの、それらは細部まで決定された共通認識ではなく、曖昧性にもより緩やかな幅を含む価値概念に過ぎず、それは例えば公的出版物に掲載された一人ないし少人数の各々に内在する価値観のみによって語りえない事柄であり、これは曖昧性を予め断ったうえで記述するほかない性質のものだと考えています。その観点において、(その各々に対応した単一の)出典こそすべてとすることは、その出典にのみ固定化された価値観念で非NPOV化してしまうだけだとも考えています。一般個人レベルで観測可能な事柄までもを全否定する必要性が見いだせないばかりか、否定することで中立性を逸する危険を含むと考えます。
なお「迷ったらとりあえず編集」は非常に危うい方法論だと思います。いくつかの選択肢がある状況において、人が選択するのは、当人の価値観に最も沿ったものでしかなく、それは多くの場合において他人を否定することであり、そのような行動においては、その相手の側が対応する意欲を失わせることに成功してしまった時点で、何かをしてしまった側の価値観がまかり通る(慣用句「無理が通れば道理が引っ込む」みたいなもんで)と考えます。そしてそれは共同作業という原則を損なうと考えます。サブページ化は明日(2008年4月29日)以降に作業を予定していますが、その場合においては対話中の事柄は独断専行を行うべきではない(これは対話という行為の基本原則と言えますが編集合戦などの回避から見ても有効です)ため除去記述の復旧も視野に入れております。--夜飛/ 2008年4月28日 (月) 15:30 (UTC)

(インデント戻し)とりあえず、同じ出典の明記されていない記述でも、「出典の明記が省略されている」ケースと「そもそも外部の情報源によって検証不可能」というケースには大きな違いがあるということは理解していただけますか?Wikipedia:検証可能性では前者は許容されうるけど後者はだめだということです。

結局のところWikipediaっていうのは、外部の情報源にどういうことが書かれているかっていうことをみんなで持ち寄ってそれをまとめる場所であって、各編集者個人が「これは妥当だ(常識だ)」と思ったことを書き足したりしてはいけないんです。それが妥当かどうかを決めるのはウィキペディアンではなく専門家の役目ですので。僕が書いた文書ではないし公式なものでもないのですが、利用者:青子守歌/情報つむぎにわかりやすくまとめられているのでよかったらご覧ください。

Wikipediaでクソゲーという記事を書こうと思うなら、なんとかそれに関する情報を外部の資料から探し出し、非中立的にならないように、さらに独自の解釈を付け加えないようにしながらうまく百科事典の記事としてまとめなければなりません。 はっきりいえばクソゲーというようなテーマで記事を書くのは、他の様々なジャンルの記事の中でも相当難易度の高いものだと思いますが、特定の出典に頼って記述すると非NPOV化するおそれがあるからといって、出典無しになにかの情報を書いていいことにはなりません。どうしても検証可能性と中立的な観点を両立して記述できない部分があるなら、そこは掲載を諦めるしかありません(実際のところ、やってみれば絶対に両立不可能というわけでもないような気もしますが)。有効な資料の少ない分野である以上、資料が豊富な他の分野と同等のレベルの充実した記事を書くのは難しいということは覚悟しなければならないと思います。

それと、上でも述べましたが「一般個人レベルで観測可能な事柄」というのが記事中のどの記述を想定されているかわからないのでなんともいえません。夜飛さんが「ここは出典無しで書ける」と思うところを具体的に挙げていただけませんか?--貿易風 2008年4月29日 (火) 10:01 (UTC)

Wikipediaが所定出典に基づく情報の持ち寄り集積場だというのは、ちと異を唱えます。もし持ち寄り出典付き情報の集積のみがWikipediaであるとするなら、それらは断片的な情報の羅列でしかなく、それは事物を説明するという百科事典としてのWikipediaの存在意義を否定することであり、もはやそれは電子掲示板の「過去Log倉庫」と大差ないかと…いや、これは脱線。ただその脱線部分に関しては、Wikipediaは記事として情報を集めるだけではなく、これをきちんとまとめて一連の説明とすることが必須だと考えております。その過程において、すべての事象が現実という基盤の上においてリンクし合っているだけに、各々の現象や説明(パズルのピース)を組み上げた際に、それは現実において矛盾なく存在し得ているために、これを記事として巨視的視点の上から説明した場合にその記事も整合性を持ち、その整合性を持って妥当性を判ずることも可能だと考えております。まあこの辺りは脱線なんで脇に置いておきますけど。
「妥当性を判断するのは専門家の仕事」だということですが、これはマニアやユーザー視点に基づく価値観において、これを包括的に研究する側が存在しない以上、最もそれら価値観を言及可能な存在はマニアやユーザー自身以外に存在し得ないことになってしまい、これは例えば検証可能性を公的に出版された印刷媒体にのみ求めるなら、それら印刷媒体に関与した側個人の示した価値観や言質の羅列にしかなりえず、これでは事物を説明するという記事にはなりえません。
更に拙いことに、こういった「出典第一主義」的な状況の陥りやすい問題として、自分の価値観に沿った事象のみを紹介してその傾向にある情報を羅列することで、特定視点に対して誘導的な記事を作り易くなる側面が存在します。
非NPOV化の虞があるから出典無く何かを書いてよいのかということですが、では出典さえあれば非NPOV化は許容されうるのかということも有りますが、それ以前に出典を示す過程で出典に示されていない事柄までもを出展に含まれているかのように拡張解釈を盛り込んだケースも多々見られ、その一方で所定の出典に依らずともその方面の情報を紐解いた場合に、単一出典のみに依らずとも断片的にその妥当性を確認可能なケースもあり、元より本稿で扱われる事物が極めて曖昧な総体を持つ価値観念である以上は、それは貿易風さんも認識されているようですが、書く上で極めて慎重さを求められる記事だと思います。その点でいえば以前の記事はその全体を通してみた場合において自己矛盾を起こすようなものではなく、また明らかに不適切な記述は何らかの形で常に除去されたり置き換えられたりといった適正化のための圧力を常に被っていて、記事として情報が限られるながらもそこそこまとまっていたとも考えています。
ただ…個人的には現行の記事形態自体は主題を定める部分が乏しく、余り良くないとも思います…足ばかりが太い印象ですか。これは出典付きの記述を増やしたところでどうにもならず、それは足をボルト止めして周囲を固めることには役立っても、記事としては上半身が陽炎のような感じで、いっぺん(ゲームエンジンなど方々の記事で小生が時々しでかす)「大胆な編集」をやらかしてみたい気も。--夜飛/ 2008年4月29日 (火) 12:52 (UTC)
情報を持ち寄るだけでなく、持ち寄ったあとそれらを「まとめる」場所であるということもしっかりと述べたつもりでしたが、もっと強調しておくべきだったかもしれません。当然ながらまともな百科事典の記事を執筆しようと思ったら、情報をかき集めたあとそれらを単なる羅列にならないようにうまくまとめなおさなければなりません。Wikipedia:検証可能性っていう方針はいわば情報を集める段階において、「なんらかの外部の資料で確認できる情報しかここには持ってきちゃだめだよ」ということを述べており、Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:中立的な観点という方針はそのあと情報をまとめる段階において「特定の観点を推進する形で情報の合成や分析をやっちゃだめだよ」「特定の立場に有利な情報ばっかり意図的に並べちゃだめだよ」ということをいってるわけです(すごく大雑把に言えばですが)。
で、検証可能性を満たした情報を集め、独自研究排除や中立的な観点に配慮して記事をまとめあげた結果、記事の記述がもともとの出典と一対一に対応しなくてもそれはかまいません。Wikipedia:独自研究は載せないでは「情報を整理すること」を許していますので、特定の観点を推進しない範囲内であれば、いくつかの出典で得られる情報をある程度まとめて書くのもありです。
しかし、外部の資料に基づいてない情報をこっそりつけくわえるわけにはいきません。Wikipediaに記述できることは、あくまで外部の資料で確認できる検証可能な内容と、それらを基にした情報の整理で得られることだけです。それらだけでは説明不可能な内容にはWikipediaでは記述をすることはできません。「包括的に研究する側が存在しない」わけですから、Wikipedia上でも包括的な説明をすることは難しいです。外部の資料に基づいて記述できる範囲内で可能な限り最善の説明を模索するしかありません。
「所定の出典に依らずともその方面の情報を紐解いた場合に、単一出典のみに依らずとも断片的にその妥当性を確認可能なケース」については、何度もいってるんですが具体的にどういうものを想定されているのかいってくださらないとなんともいえません。複数の出典を参照するのはありですし、妥当性を確認する過程において情報の整理以上のことが行われないのであれば構わないと思いますが、外部の情報源で検証できない内容が含まれていればだめということです。--貿易風 2008年4月30日 (水) 14:16 (UTC)(誤字修正)--貿易風 2008年5月12日 (月) 16:16 (UTC)
いや、そこまで原理的な事柄は説明されるまでもなく、一応知ってるとも思うし、またその理念は反対するところではありません。どうもそこまで原理的な説明を貿易風さんにさせてしまったことは、偏に小生の説明が判り難かったのかとも思いますので、改めて説明を仕切り直しして行わせて頂きます。
検証可能性は、貿易風さんも御理解されているようですが、他の2つのガイドラインによって相互補完の関係にあり、これは検証可能性がすべてに優先されるものでもありませんし、またWikipediaが事物を説明する百科事典だということに優先されるものでもありません。その上で、こと「クソゲーという概念を説明する記事」という限定的な状況においては、小生個人として「一定のヌルさ」を発揮しなければ殆ど何も書くべき処はなく、それは事物を説明する上で何ら説明的ではないこと(主体となる説明を困難とさせ情報が連続性を失い断片化する)をもって百科事典の記事としては成立し得ないと考えます。その上で、以前の記事が成立していたのであり、また以前の状態で出典が得られる可能性のある記述以外(例えば貿易風さんが除去された部分)の部分においても、それらは実際に想定すれば容易にこれが「クソゲー」の概念に相当しうることや、それらタームが方々で見いだせること(Wikipediaの記事が初出かどうかは別問題として)や慣用句としての「クソッ」が激しい感情に立っていることなどなど、ただ個人の資質で読者が真偽を容易く判断がつく事柄であり、これはガイドラインに立った上でも否定し切れるものでもありません。
これが「クソゲー」などという俗語的価値観に関する項目ではなく、学術的な項目であれば、或いは社会全体に掛る大きな社会現象であれば、これを包括的に扱う情報源が豊富なのはなおのこと、それらは中立的なものを選択することも可能で、場合によっては複数のソースを当たってそれら資料の相互検証も可能でしょう。しかしクソゲーに関して言えば、たとえば「みうらじゅん語原説」に関してすら、これを孫引きした情報は無数にあるものの、確定的で真に信頼できる情報源かどうかという点において、いずれのばあいも掲載が躊躇われるような、あるいは余りに現象が中途半端に古いために資料として同定しうる情報が散逸しているなどの問題を含んでいます。確か小生の知る限りでは1980年代末頃の週刊朝日辺りに抱き合わせ商法かファミコン業界に絡んでコラムがあったような覚えもあるし、そういった雑誌掲載レベルではこの掲載誌の内容を検証することはおろか、その掲載誌を同定しうる情報源も見当たらない有様。
みうらじゅん氏にしても「『ドラゴンクエスト』そっちのけで『いっき』を遊び倒したこと」を『いっき』をクソゲーと明確に評したことも合わせラジオかテレビかのトーク番組で何回か口にしていたらしいことを何かのサブカルチャー媒体で見聞きした覚え(いずれも断片的でうろ覚えレベル)もあり、また同時にみうらじゅん氏の発言が1996年(ドラゴンクエスト発売年)以前にはありえないことを鑑みても、それ以前にゲーム愛好者筋が特定ゲーム作品を糞呼ばわりしたケースは、その後年における同年以前の所定作品への否定的評価の存在と、慣用句としての糞が極めて通俗的用例なことを鑑みれば否定する要素が見つからず、これを前述の「ヌルさ」の観点から「一定の含みを持たせて記述する」という選択肢を取ることで、「クソゲー」という概念の全体的なディティールを説明をする目的を果たすと考えています。結局は、何も確定的に書くことはできませんが。--夜飛/ 2008年5月1日 (木) 13:05 (UTC)
まず、みうらじゅん説については、最初から理想的な出典を付加する必要はありません。多少は信頼性の低い情報源であっても「~によると…とされている」という形でなら掲載が可能ですし、孫引きした資料しかなくても複数並べることで説得力を持たせることもできます。あまり出典の質にこだわっているとほとんどなにも書けなくなると思います。
情報の断片化についてですが、誰でも参加できるというWikipediaの性質上、外部の情報源を参照して記述を進めるというポリシー自体はかえられないですし、クソゲーについて「包括的に研究する側が存在しない」のであれば記事としても包括的に説明するのはかなり難しいわけです。まじめに考えれば包括的に研究したものが発表されてないような対象を記事にしようとすることにまず無理があるわけですが(普通の百科事典にクソゲーなんて項目はないですし)、Wikipediaではある程度無理を承知でやっているわけですから、文章のまとまりについて多少の不具合は仕方ありません。あくまで新しい検証可能な情報を付け加えたりそれらの情報を整理することによって断片化された情報をまとめていくべきであって、まとまりのある文章にするためだからといって検証不可能な記述や独自研究を文章にまぎれこませるわけにはいきません。
検証可能性や独自研究排除の方針に議論の余地が無く個々のノートでの合意で覆せない以上、これらを守っていてはどうしても記述できない事柄についてはWikipedia上での説明はあきらめることになりますが、学術分野であれゲームみたいな分野であれ、本当に百科事典に書くだけの価値のあることなら外部の情報源で全くふれられていないということはないはずですので記事として必須のところはちゃんと残すことができます。
それと「一定のぬるさ」という表現をされていますが、実際にこの記事に出典抜きで掲載されている内容(あるいはすでに除去した内容)は、ぬるさというような表現で許容されうるような範囲にあるものとはとうてい思えないです。とりあえず、特定の出典によらずに「ぬるさ」を持って記述できると夜飛さんが考えていらっしゃる内容を全て列挙していただけませんか?--貿易風 2008年5月2日 (金) 16:26 (UTC)
いや、出典を出典情報として示すなら、それは読者にとって有意性を発揮する確実な情報を提示すべきだと思います。理想は一次情報ですが、二次情報程度でもその顛末の全容ないしその一部でも正確であればいいと思います。しかし孫引き情報ともなると、下手をするとその細部で相互に内容の食い違いすら見られ、これをいくら羅列しても冗長なうえに混乱を招き、もはや出典として示したために検証性を下げるという意味不明の結果に陥りかねません。みうらじゅん氏のクソゲー発言云々に関しても、孫引きレベルでは抱き合わせ商法で販売されていた『ドラゴンクエスト』に対して否定的なコメントを並べていたものも記憶に残っており、果たして『いっき』をクソゲーと評したのかどうかもあやふやだったり…しかもその孫引き情報は、いわゆる「信頼できる情報源」の範疇に含まれないもの(複数あるうちの一つに至っては同人誌の延長にあるミニコミ誌だったような覚えが…)だったりすることも含んで「とてもそれらを提示すべきとは考えられない」面も。週刊朝日云々は、果たしていつ頃の掲載だったか(それどころか週刊朝日だったかどうかさえ)あやふやな記憶であるため、示すほうが無茶と言えますが。故に性急に出典を求めるのではなく、検証可能性に配慮されたものを気長に待つほうがいいでしょう。
検証可能性や独自研究の範疇は、必ずしも定量では示されておらず、その理念を示すのみです。その限りにおいて、これを絶対として(いわんや自身が妥当性を判断できる情報も持たずに)、また「ぬるさというような表現で許容されうるような範囲にあるものとはとうてい思えない」のような量的な判断を行うことは論理的に無理があり、果たしてその量的基準がどこから出たかということに関しては、その発言者自身の価値観以外にはありえません。小生としても「一定のぬるさ」とは言いましたが、これの定量を定めた覚えもなく、これに関しては文字通りの「ぬるさ」という非定量の価値観であたる性質のものでしかありません。
この問題に関しては、そもそも「クソゲー」という価値観念ないしこれに合致すると目されるゲームが共通化された仕様や公式が示されていないこと、またみうらじゅん氏の思う所のクソゲーと小生やいわんや貿易風さんがイメージする所のクソゲーはほぼ別物である可能性も大きいように、最終的には個人の価値観に帰結する概念でしかなく、これを学術として定義することこそ不可能なんじゃないかと思いますけどね。まあ不可能じゃ記事にもならない半面で、社会現象タームとしては意味を用いるだけに、こと該当分野への関心が強い向きのみが妥当性を判じながらやっていくほかなく、そこに事物への無理解を論拠として口を挟むことは、害こそあっても無益だとも思いますね…クソゲーの記事がWikipediaの他記事へ侵食しているでもなし。--夜飛/ 2008年5月3日 (土) 11:42 (UTC)
(インデント戻し)予告し貿易風さんにも提示したとおり、一旦記述除去部分は差し戻した上で、サブページノート:クソゲー/改定案を作成します。改訂作業は記述の変更や除去もふくめ、こちらで行いましょう。--夜飛/ 2008年5月3日 (土) 11:51 (UTC)
Wikipediaにおける検証可能性というのはその記述を裏付ける信頼できる情報源を出典として明記することで保障されます。夜飛さんが特別なケースとして特定の出典に拠ることなくなんらかの形で検証可能性を満たそうと考えるなら、具体的に特定の出典によらずに検証可能性を満たせると考えられる箇所を列挙し、またそれぞれの箇所についてなぜ出典抜きに検証可能性を保障できるのかということに対して合理的な説明を行う必要がありますのでよろしくお願いします。
「妥当性を判じる」という表現がみられますが、下でも書いたように、僕や夜飛さんを含めウィキペディアンには検証不可能な記述に対してこれは妥当だとか妥当でないとか判断するような資格はありません。そういった判断ができるだけの知識があるなら自分の考えを信頼できる情報源上で発表した上でそれを出典としてWikipediaに投稿してください。
みうらじゅん説については、孫引きした情報は無数にあるとのことですので、記憶があやふやなものでなくどこに載っているかはっきりしているものをいくつか並べてください。複数ならべても孫引きである以上理想的ではありませんが、ある程度の検証可能性は保障できます。--貿易風 2008年5月4日 (日) 05:38 (UTC)
妥当性云々の問題や貿易風さんが「特別なケース」と表現する部分(=出展の示されえない妥当な記述)に関しては、所謂「分別ある大人が常識的に検証できる部分」(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)という部分であり、小生が述べている「ぬるさ」とは、ややこの概念を緩く適用することで、一次情報は定かではないが広く流布されている情報ないし想像力を逞しくして想定すればその妥当性が判断できる部分を広めに取ることに他ならず、それは読者として読んだ場合において意味が通ることを主題としており、そこには「記述者としての価値観念」を抜きに事物を語る必要はありますが、こと消費者主体のサブカルチャー分野の記事を記述する場合における一つの方法論だと考えています。まあ出典があればそれに越したことは無いのだし、WP:5の基本理念のいずれにも準じる上で、検証可能性や出典の明記、また独自研究を載せないというガイドラインにも異を唱えるものではありません。ただ事物の性質上において「クソゲー」という価値観念は、個々の消費者(ユーザー)が抱くものの曖昧な総体でしかなく、貿易風さんおっしゃるところの「具体的に特定の(中略)箇所」というのは、概ね過去クソゲー記事の全体に掛かるところであり、それは外部情報で補強可能という側面しかないと考えています。合理的な説明ということですが、それはその各々の視点がユーザーのそれに他ならないという一点のみを持って理由とさせていただきます。(というか余りに全般的過ぎ、他人の記述も含んでその全てを説明するのも小生の仕事と違うと考えるので)
孫引きレベルの出典情報は幾ら並べても、それら孫引き情報がわに記載されている内容の出典が不明なら、もはや何の意味も成しません。なお小生が過去に目にしたものは資料として残しておらず(というか雑誌などで「既に十分読んだので捨てた」という水準)、覚えがあるというもの。ただ、同様の情報は複数箇所で目にしているため、これは一般に常識レベルで流布されている通説という判断もでき、それは現状の通説とする記述で何ら事実に反することは無く、またそれは通説レベルで流布されていることは「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる(読者に内在する内部情報がそれを補強しうる)」とも考えております。まあ、これも多少は「読者の範囲を一部想定して記述する」というぬるさを含んでいるんですけどね。--夜飛/ 2008年5月4日 (日) 13:21 (UTC)(修正)--夜飛/ 2008年5月5日 (月) 01:21 (UTC)
結局のところ、みうらじゅん説については孫引きした資料ですら、過去に読んだ記憶があるというだけで具体的な出典はなにもわかっていないということでしょうか。情報が無数にあると書かれていたので期待していたのですがちょっとがっかりです。
Wikipedia:独自研究は載せないに書かれている「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」という記述についてですが、僕があらためてクソゲーの記事を(語源以外の節を含めて)見回してもこれに相当するような記述はほとんど見当たりません。しいて言えば
それらの製品もゲームクリエイターやプログラマー・デザイナー・ミュージシャン・(ゲームの種類によってはシナリオライター・声優も含めて)らによる合作である。
といったところぐらいでしょうか。夜飛さんが「専門知識がなくとも(略)検証できる解説」に相当し出典を示さなくとも掲載すべきと考える記述については、(さしあたっては語源の節の中の記述だけでも)それぞれ具体的にどうやって専門知識の無い分別のある大人が正確性を簡単に検証できるのか説明をお願いします。--貿易風 2008年5月5日 (月) 06:59 (UTC)
(インデント戻し)いやいやいや、どうも貿易風さんの一連の発言から察するに「孫引き」と「二次資料」を同水準で扱っておられるようですが、はっきり言って別物とお考えいただければ幸いです。その上でみうらじゅん語原説に関しては、「みうらじゅん クソゲー」をググった程度で出るサイトを見て下さい…それが所謂「孫引き」レベルの情報群です(まあ小生が目にしたものでは印刷媒体もあった訳ですが)。この中には静岡大学サーバー上のサークル内で書かれた文章やらITmediaというニュースサイト上のゲームライター・ゲイムマン氏による記事なんかもあるのですが、もはやそれら記事では主題ですらなく、通説ないし定説として織り込み済みのものとして扱っており(Wikipedia記事が初出かどうかという混ぜ返しは抜きにして)、一応の確認は取れるがこの程度の情報をいくら羅列しても主題でない以上はノイズにしかならないと考えるわけです。ゆえに「無数にあるが提示できない」性質のものであることをご了承ください(個人の論説ではWP:ELの観点からも難があるし)。
また語源部分での「分別ある大人が(略)」に関する判断を全般的に適用させるという判断は、これが1980-1990年代のゲーム雑誌を読んでいた側(当時のゲーム少年など)では一応の判断がつく部分だという考えで、当時のゲーム少年じゃなかった人はどーすればいいかという部分では、そこはぬるく考えて「ググったり元ゲーム少年の大人と雑談していれば断片的でも情報は得られるし何とかなるでしょ」と云う訳です。まあ、ぬるく考える必要があるのかという部分に関しては、それくらいしないと書くことが非常に限られ、これは「本当に百科事典に書く必要がある事柄なら公的に発表された資料があるはずだ」という根拠のない希望的な視点(俗にいう「願望」)によって無制限に「ある筈だ」で待ち続けるのもどうかと考える次第であるため、数あるガイドラインの中でも最終兵器級の破壊力を持ちすべての前提が破綻してしまうので余りこういった議論では使いたくはないんだけどWikipedia:ルールすべてを無視しなさいの考えを耳かき一杯加える程度で「ヌルさ」というか寛容さを必要とする記事だと考えています。--夜飛/ 2008年5月6日 (火) 04:30 (UTC)
孫引き情報については、上で夜飛さんが挙げられているようなものしかないのであればWikipediaでは出典としてあげるには不十分なので他の出典をお願いします。
で、「専門知識がなくとも(略)検証できる解説」の適用について。この記事の記述について当てはめると、専門知識がないことを仮定しているので当時のゲーム少年でない人が正確性を簡単に検証できるのかを考えることになります。そうするとまず最初の問題はその人が「1980-1990年代のゲーム雑誌を読んでいた側」の人を簡単に見つけられるかという問題です(対象が非常に曖昧です)。さらに、そういった人を見つけて雑談して情報を得ることが「正確性を簡単に検証した」ことになるのかが次の問題です。ググったらそれらしい情報がヒットするというのも同様で、正確性を検証したといえるような情報がヒットするなら最初からそれを出典にすればいいわけで、正確性を検証したといえない情報であればいくらたくさん見つかったところで意味をなしません。元ゲーム少年をなんとか見つけて雑談し、この記事の内容がだいたい妥当だという返事をもらったとしても、その行為は「正確性を検証した」ことにはならないと考えます。結局のところ正確性を検証しようとした人がたまたま見つけた元ゲーム少年の記憶や認識に依存した個人的な返事が返ってくるだけなわけです。元ゲーム少年を何人も集めてインタビューすればある程度平均化した返事がもらえるでしょうが、それはもはや「簡単に検証できる」の域を超えていますし、あくまで「その人が雑談相手に選んだn人の元ゲーム少年の見解の平均が判明する」だけであってやはり記事の記述そのものの正確性を検証したことにはなっていません。あるいは、もし雑談相手の元ゲーム少年から「記事の内容は妥当でない」という返事が返ってきたらどうしましょうか?
例えば「コアラのマーチのパッケージは6角柱である」といったレベルの記述ならば、専門知識が無くとも正確性を検証でき、意見がわかれることがないので商品自体を情報源とみなして記事に記載できると思いますが、このケースでは雑談相手として選んだゲーム少年がだれかによって検証結果が変わる可能性を含んでいます(コアラのマーチのパッケージはどれを選んでも形は一緒ですが)。そもそも「1980-1990年代のゲーム雑誌を読んでいた側」の共通認識なのであれば、「1980-1990年代のゲーム雑誌」を出典にすればいいだけなのではないかとも思います。
「正確性を簡単に検証する方法」のひとつとして「なんらかの知識がある人と雑談して情報を得ること」が採用できるのであれば、例えば物理学のなんらかの理論を出典抜きで書き込み「知り合いの物理学者と雑談して正確性を検証してください」と主張することもできるわけで、一部の人間の脳味噌を情報源として扱っているに等しい行為であって不適切だと考えます。--貿易風 2008年5月7日 (水) 15:49 (UTC)
コアラのマーチに関しては、ふと「ありゃ、あれは五角柱だったか六角中だったか?」と一瞬考えたのですが、それは本件と全く関係のない事柄であり、それを例として本件を論じることは事物の性質からして別物であることをもって不適切であると考えます。またその部分は物理学というアカデミックな分野とクソゲーの如きサブカルチャー社会現象分野を同列に扱うことも、不適切な例ではないかと考えます。
で、それはさておき孫引き情報に関しては、無数に存在してすぐさま情報自体は幾らでも引っ張れる「孫引き情報」(孫引きの概念を辞書で確認してほしいところ)が資料としては何ら意味を成さないことを例を挙げて示したのですが…それ(孫引き情報)と信頼性のある二次情報は別物だということはまず認識してほしいところ。その観点がないと小生が上で述べた説明が意味をなしません。いずれにしても信頼性のある二次情報はクソゲーという価値観念に関しては得難いことは既に述べた通りで、そこで「ヌルく考えましょう」というのが上でも述べている趣旨です。そこを「孫引きでいいから列挙を」などの混ぜ返しともとれるご意見をいただいたのですが、どうやらまだ孫引き情報がどんな性質のものであるかもよく御理解頂けていないようで。なお「1980-1990年代のゲーム雑誌」を出展とすることは、実際問題として決定的な資料となりうる記述の捜索が膨大な発行量に埋没していることや、それら情報が断片的で「情報の合成」でもしないと総合的な説明となりえないことなども想定され、「できるのではないかと思う」という視点も「出典第一主義」的な詭弁の一つなのではないかとも思うのですが…どうしたものやら。
いずれにしても既に話が例を入れ替えただけの堂々めぐりの様相を呈しているため、コメント依頼を提出した現時点では同種の堂々巡りを延々と繰り返して記述を冗長化させるのも得策とは言えないため、あくまでもその辺りは「事物の性質上ヌルく判ずる必要がある」という定量を定めない概念を示し、その内容の判断は記事編集に関わった「事物に関心と理解がある側」が一定の妥当性がある(誤りだとして削除する理由がない)と見て存続させたという側面から、一定の妥当性判断が加わった結果だと思う旨を示させていただきたく思います。まあサイレント・マジョリティを数えるのは不毛かもしれないので、その辺りは余り論じるつもりもありませんが。--夜飛/ 2008年5月8日 (木) 13:46 (UTC)
まず孫引きについて。これは簡潔に述べれば「引用の引用」です。原典から直接引用せず、原典から引用したものをさらに引用することを孫引きといいます。今回の例では、みうらじゅんがいっきをクソゲーと評した資料があればそれが原典になります。そしてそれを引用して、評論家Aさんが「これがクソゲーの語源だ」と分析したのであれば、それはWikipediaにおける出典となりえます。ここで別の評論家Bさんが登場し、Aさんの情報を引用して「Aさんの~という本(or雑誌など)によると『みうらじゅんがいっきをクソゲーと評したのがクソゲーの語源である』とのことである」ということをなんらかの情報源に記した場合、これが孫引き情報で、これはこれで重要な手掛かりです。それを元に引用元の情報源を確認することができるし、なんらかの事情でそれが無理であったとしても複数の情報源から孫引きされている様子が確認できれば信憑性があります。
で、上で夜飛さんに孫引きした資料として挙げていただいたものはそもそも引用元が具体的に明示されておらず、かつ情報源の信頼性という面でも疑問のあるものだったので出典にできないというだけのことです。無数にある孫引き情報の中でも引用元が具体的に明示されているものやある程度の信頼性が保証されているものを選んで例として挙げてくださるようお願いします。
Wikipedia:独自研究は載せないに記述されている「専門知識がなくとも(略)検証できる解説」について、もともと夜飛さんがこの文章を根拠として、特定の出典を示さなくても検証可能性を満たした情報であるといえるとの指摘をされたので、それを適用するのは無理があるでしょ、ということを述べたのが上の僕の発言です。夜飛さんがこの文章を根拠として出典を提示することなく記述の掲載を希望されるのであれば、「専門知識は無いが(元ゲーム少年ではないが)分別のある大人が、どうやって記述の正確性を簡単に検証できるのか」を説明していただく必要があります。それができないのであれば出典を示すことによって、いわゆる普通の方法で検証可能性を満たす必要がありますし、それも無理であればその箇所の掲載を希望することはできなくなります。
ヌルさうんぬんについては、何度もいっているようにWikipediaの3方針は議論の余地が無く他のガイドラインや利用者同士での合意で覆せないので、検証不可能な記述や独自研究のおそれのある記述を記事に持ち込むことはできません。
「信頼性のある二次情報はクソゲーという価値観念に関しては得難い」とのことなのですが、もし信頼性のある二次情報が全く存在しないのであればそもそもクソゲーという記事をWikipediaに成立させることは不可能となります。しかし実際には少ないながらも多少は存在すると考えられることから、それらの検証可能な情報、および特定の観点を推進することなくそれらの情報を整理して得られる事実だけをもってできうる限りの最善の説明を行うのがWikipediaの役割であり、それ以上のことは求められていません(にもかかわらず行われていることを問題としています)。
堂々巡りになりかけているのは同感なのでたくさんの方が議論に参加してくださることに期待します。--貿易風 2008年5月9日 (金) 16:04 (UTC)(脱字修正)--貿易風 2008年5月11日 (日) 15:47 (UTC)(誤字修正)--貿易風 2008年5月12日 (月) 16:16 (UTC)
いや、既に言葉遊びの領域に差し掛かっているようにも思いますが、引用は必ずしも(著作権の観点にも絡み)出典元を明記することを保障せず、こういったいわば「広義の引用」(→引用)において孫引き(これは二次引用に限定されず三次四次と引用を繰り返した状態も含む)がもはや原典すら不明化した一つ(正しくは二つ)の例が件の外部リンクであり、ことクソゲーのようにサブカルチャー分野ではそれら出典不祥だがその分野では共通認識化された情報が数多存在するという例な訳で、別にあれを「出典」として示した訳ではないことはご了承ください。
その上で「元ゲーム少年ではないが」という条件付けで検証可能性を満たすのに足る情報を得ることは極めて困難な半面、「元ゲーム少年やそれに類する側や関係する側」(これは同時代には社会現象化するほど一般化していた動向)には反駁の余地がない情報が多いという側面から「ヌルさを加え判断する」という提案をした次第で、まあこの辺りは「検証可能性は厳密に適用されるべき」とお考えの様子である貿易風さんとは相容れない部分のための堂々巡りではあるのですが…ただ、「分別のある大人」は貿易風さんが「元ゲーム少年ではない」という条件付けをせざるを得なかった部分が逆説的に証明しうるとおり、その条件に合致しない「分別のある大人」も含まれ、それはどの水準に合わせるかは不定量の判断が働く部分だと思います。
いずれにしても検証可能性という概念も、実際のところとしてかなり前提面で危うい部分(資料が示されることと資料として利用可能なことはイコールでもないし)を含んでおり、このためWikipediaはは検証可能性のガイドラインのみによって立たず、3つの概念を同時に示して相互補完させている面は、Wikipediaというプロジェクトが存続する上で様々な考え方を示している(これは貿易風さんの検証可能性を絶対とする姿勢も、小生の中立性に寄り掛かった姿勢も、同時に成立させ得ると考えます)と思います。--夜飛/ 2008年5月10日 (土) 12:55 (UTC)

(インデント戻し)えっと引用元が明記されていなくても引用だというのはいいんですが、孫引き情報が無数にあるということであればわざわざその中から引用元が明記されていないものを選んで例示していただく必要はないわけで、ふつうに引用元が明示されているものを2~3個でいいから挙げてくださいということをいってます。ちなみに引用元が明記されていなくとも、その情報源の信頼性が保証されていればちゃんと出典になりえます(情報の出所を最後まで追及しなければならないということはありません)。

ヌルさについては、夜飛さんがWikipedia:ルールすべてを無視しなさいの適用を提案するということであればそれはかまわないのですが、それでしたら記事本文のどの記述について出典を提示することなくWikipediaの記事に掲載できると考えるのか、またなぜその判断が妥当だと考えられるのかについて、それぞれ記述ごとに具体的な説明をお願いします。これは以前にもお願いしましたが、それがなければWikipedia:ルールすべてを無視しなさいを適用すべきかどうかという議論を始めることすらできないので。

検証可能性と中立的な観点については、どちらかをとればいいというものではなく両方を満足する必要があります。この2つは相反するものではないので検証可能性を満たせば中立的な観点が危ぶまれるということはないと僕は思いますが、もしそうであるならば2つを両立させられるような記事の書き方が見つからない限りWikipediaの掲載基準には達しないことになります。--貿易風 2008年5月11日 (日) 15:47 (UTC)

いや…なんていうかな、「わざわざその中から(中略)選んだ」んじゃなくて、もはやそのレベルでの情報ばっかりだといっているのですが。まあ上2例を選ぶうえで「大学のサークル」と「ITmediaというニュースサイト(情報処理系では古参の一つ)」という「記事発表者個人の主観しかない個人サイトは除外」した訳ですが、このレベルの情報なんていうのがWebサイトのみならず出版物レベルでも無数にあるわけですがな(まあ先に述べたとおり小生の手元にゃないですけどね)。で、その観点から無数にそいう水準の情報が存在していることをもって、検証可能性は「厳密には保持されないが全てにおいて全く妥当性を判断できないわけでもない」といういわば「資料がなくても一般的な範疇で中途半端な検証可能性が存在している」…ってのは、いい加減何度も繰り返したことを表現を変えただけですが、ある訳で。この辺りは堂々巡りなんで切り上げますけど。
WP:IARに関しては、「適用する」という水準で扱うつもりはありませんよ。これは余りにも扱いどころが難しいので、全面適用することができない(それこそ民族紛争の解決にICBMを打ち込むようなもの)性質のガイドラインだと思います。考え方としては「このようなガイドラインがある以上、一つのガイドラインを金科玉条のようにすべてに適用して記事の性格を鑑みずに所定の記事の在り様を否定するのはどうなのか」という疑問提起を行っているのです。その上で、あるガイドラインを所定の記事に厳密に適用することが、百科事典として事物を説明することを困難にさせているのであれば、WP:IARの考えを加えて所定ガイドラインの厳密な適用を緩め、記事として成立させ得る道を模索したほうが(堂々巡りなんかやるよりも)建設的ではないですかと申し上げている次第です。もっとも、こういう考え方をするのもクソゲーなんていう総体の輪郭が曖昧模糊としたユーザー視点に過ぎない価値観を示す記事ならではなのではありますが(これが包括的に扱う学術分野が存在する記事や、現象として検証可能性を満たした記録が多数存在している事物に関しては、その限りではないんですけどね)。
検証可能性と中立性自体は、その事物が最終的に現象ただ一点に収束できる性質のものであれば、相反しないでしょう。しかし価値観という限りにおいて、価値観は個人に内包されるものであり、その個人が属するコミュニティの内部で一定の同意が図られることはあっても、個人に内在する価値観とコミュニティ全体の価値観は必ずしもイコールではなく、ましてコミュニティを違えれば更にその差異は増えると考えます。ある個人ないし集団が所定のゲーム作品をクソゲーと評しても、その作品を愛好する側から反対意見が示されるのがその一端で、その限りにおいて単一の資料を示して検証可能性を満たしたとしても、それは中立性を逸した内容になってしまう危険性を常に含んでいると考えています。--夜飛/ 2008年5月12日 (月) 12:43 (UTC)
孫引き情報が無数にあるにもかかわらず全て引用元不明かつ信頼性も薄いということであれば、最初からそういってくだされば複数挙げてくれともいわなかったのですが…。
ただ、大学のサークル内の文章はともかくとしてITmediaの記事に関しては、これを単独でみうらじゅん説の出典として扱うのは難しいものの、「少なくとも1名のゲームライターは『クソゲーという語句の考案者はみうらじゅんだ』と認識している」という情報をもたらしますので、ノイズにしかならないということはないと思います。みうらじゅん説に限らず、夜飛さんが「単独の出典よらずに検証可能性を保証できる」と考えている記述については、このレベルの情報が無数にあるというのでしたら、それらの中でもある程度の信頼性が期待できると思われるものをいくつか挙げていたたき、さらにWikipedia:信頼できる情報源に一番下に書いてある「大衆文化やフィクションにおける英語版での仲裁事項」を適用するという形で検証可能性を保てる可能性があります。ただしWikipedia:信頼できる情報源は現在草案であり、文章中にも英語版にそういう仲裁事項があると書いてあるだけで日本語版に導入されているというわけでもないあたりが難点です。これが適用できるかどうかについては個々の記述ごとに検討する必要があり、「検証可能性をゆるく適用しましょう」の一言で済む問題ではないです。
なお、僕は検証可能性についてはそれほど厳しい基準は持っていないと思っています。なんらかの情報源に基づいて書かれたものであろうと推測できれば出典の明記が多少不十分でもさほど気にしませんが、この記事についてはそもそも外部の情報源に基づいて記述されたものではない可能性が高い記述が多く、さらにそれらの情報に今後出典が付加される望みが薄いと記事の執筆者の一人ですら述べている状況を問題としています。「外部の情報源に基づいて記述を進める」というWikipediaのスタンス自体はかえられないわけですから、外部の情報源を参照しながら記事を構築した上で、どうしてもそれだとうまくいかないが重要な部分について、やむを得ず特定の典拠によらず検証可能性を保証するということはもしかしたらありうるかもしれませんが、そもそも記事を構築する方針として外部の情報源を参照して記述する以外の方法をメインにとるということはありえないと考えます。
中立性については、外部の情報源でクソゲーと批評されたゲームをリストアップするというわけではないのでさほど問題ではないと思います。情報源に記載されていることを絶対的な事実として記事に載せる必要はなく、そういうとらえかたをされることがあるという事実を淡々と述べればいいわけです。--貿易風 2008年5月12日 (月) 16:19 (UTC)
ITmediaの記事に関してですが、あれはあくまでも主体が『頭脳戦艦ガル』の紹介にあり、あくまでもこのような対話の場で「一つの例」として挙げるのはともかくとして、記事中で「ゲイムマンというゲームライターはみうらじゅん語原説を支持している」とか書いて件の記事にリンクしたとしても、それは本項の主体性からすれば瑣末事を大きく取り上げて所定論説を強調することに他ならず、一歩間違えれば中立的な立場を損なう危険性を伴う荒業ではないかとも思いますし、加えてゲイムマン氏というゲームライター個人から発信されたただ一つの記述を挙げても「では他はどうなのか」とした場合に同氏以外がどう見ているのかは何も説明していないために記述中の「通説とされている」の説明にはなりえず、結局は余計な記述を増やしただけで本文に対しては何も説明していないためにノイズ以外の何物でもないと考えます(同種のほかの例を列挙したとしても冗長なだけでWP:TRIVIA化するだけでしょうし…)。で、結局のところとしてこういった問題は本項のほぼ全域で発生しうるというのが上に続く小生の論点であります。無数に存在するその全てのうち一応の著名性が見出される例だけを列挙したとしても、その主体の説明を補強しうるのでなければ、なんの意味があるのか?という部分でもありますけど。
中立性に関してはクソゲーのリスト化をするという話ではないという貿易風さんの仰る所も判りますが、クソゲー作品の列挙のみならずクソゲーという概念を説明するにしても、その概念(価値観)は俗語の常として揺らぎを含み、その揺らぎを否定して所定書籍の定義のみによって説明したとしても、それとは違う概念が存在する可能性を常に含み、その違う概念をやはり所定の資料を示して説明し、更に別の資料によってさらに違う概念が示され…して、結局は全体として重複する個所とその差異とが時間経過(現在進行形の現象であるため資料は将来にわたって出続けると考え)とともに増加するだけで、その全体において主体が存在しない見通しの悪い記事になることも危惧します。まあ「誰もが納得する包括的資料」が出てくれれば書きようもあるかと思いますが、現状においてそれが存在しないか見つかっていない状態で、聖杯探しのように空転を続けるのもどうかとも思います…この辺りは「所詮は俗語なのだ」という観点から、曖昧性があるという含みを持たせて一通りの説明をした上で、聖杯の欠片…もとい断片的だが確かな情報が出て来るのを待つくらいのヌルさが必要だと考える次第です。--夜飛/ 2008年5月13日 (火) 12:33 (UTC)
ITmediaの記事は、「(みうらじゅん説が)通説とされている」の出典にはもちろんなりません。あくまで1人のゲームライターがそのように認識しているらしいというだけの情報をもたらします。みうらじゅん説については今後もっと確定的な出典が見つかる可能性があると思いますが、もしそういったものがまったく見つからないという話になってしまうのであればWikipediaではせいぜい「何人かには支持されている」といったようなことしか書けなくなります。
検証可能性というのは、WP:Vにも書かれている通り、執筆者が独自に検証できるのではだめで、読者が検証できるようにしないといけません。夜飛さんが掲載すべきと考えている記述について、このノートで「情報が無数にある」と述べても読者の検証可能性にはまったく寄与しないですし、全く信頼性の無い情報であればいくつ集めても無意味ですので、無数にある情報の中でもある程度は信頼性が保証されていると考えられるものをいくつか示してください。前述の「英語版での仲裁事例」を持ち出すのだとしても、数多くの情報そのものが出典となるわけではなく、情報が十分多く見受けられているということから、その中でも最良のいくつかの情報源について、本来なら出典としてあげるのに少し難があるものでも許容可能になるというだけのことです。結局のところ1つまたは複数の具体的な出典を挙げるのであり、そういった具体的な出典を一切挙げることなく漠然とそれっぽい情報が多いという理由では検証可能性は満たせません。
クソゲーという概念の揺らぎについては、それを否定する必要はないし否定すべきでは決してありません。「クソゲーという概念は揺らぎを持つ」とはっきり書いてある信頼できる情報源があればそれを出典としてそのように書けますが、そういったものが見つからないのであれば、ある情報源においてこういう扱われ方をしている、別の情報源ではこのように扱われているといった、個々のケースについて客観性を持った解説を複数挙げることによって記事全体としてクソゲーという概念の揺らぎを読者に納得してもらえます。
揺らぎを持っている概念について説明を行いたいとしても、Wikipedia上の個々の情報そのものは客観的で検証可能なものでなければなりません(Wikipedia:言葉を濁さない)。その概念が揺るぎを持っている、あるいはこれこれこのように揺るぎを持っていると考えられているといった客観的な事実を並べることによって揺るぎのある対象について揺るぎのないを説明を行うことになります。--貿易風 2008年5月14日 (水) 15:02 (UTC)
(インデント戻し)うーん、何ていうかーーー…資料の発見ができなかったことをもって「せいぜい「何人かには支持されている」といったようなことしか書けなくなります」というのは、如何様にいっても違う気がする。というのも、それは記事捜索者(便宜的呼称)が(あるいはその捜索能力の限界から)少数の資料しか得られなかったことをもって「何人かには支持されている」と書く(それ以外には支持されていないことを暗示しかねない)のは、雑小な事柄のニュース記事一つをもってさもそれが世間一般の現象であるかのように誇張させて表現することの逆ではあるけれど、そのどちらにも言えることとして実状を必ずしも正確にあらわしていない非中立的かつ独自研究(情報の合成)な記述になりうるわけで、それは記述としては大変拙い代物ではないかと感じます。この手の資料の得方や示し方の問題に関しては、それが包括的に扱われた資料ではなく個々の現象のみを捉えた資料のみをもって社会現象や一定の概念を説明しようとする場合に付きまとう部分であり、また読者にとって個々の現象のみが羅列された状態というのは、その全体の社会現象ないし概念などの説明でも何でもないために冗長で可読性を落とすだけの雑記に等しい部分だとも思います(そんなのは箇条書きで一覧記事として分割するかWP:TRIVIA案件として割愛してもいいくらいかと)。
検証可能性がある資料のある現象の羅列は、総体的資料が得られない場合の次善策ではありますが、それらはあくまでも例示的な部分であり無制限に列挙していったとしても、それは全体をまとめ説明する百科事典としての立場を放棄して、現象を示すことで読者側に対象事物のまとめをさせることも説明することも求める異質な記事のように思います。してそういった資料の収集と提示には、情報の閾値を設定して情報として掲載する取捨選択を行った時点でそういった資料を収集する側の主観的価値観が作為的にせよ無意識にせよ盛り込まれる性質もあるため、結局は複数利用者によって無制限に羅列化が進行して収拾不能になる問題も生むかもしれませんが、それ以前に記述者側好みの現象が真っ先に掲載され特定言説に誘導されやすくなると考えます(無意識レベルでの取捨選択ともなると排除困難だし)。--夜飛/ 2008年5月15日 (木) 12:17 (UTC)
えっと、資料を探しても見つからなかったときに、「多くの人間に支持されていることを裏付ける適切な資料が実際にはあるけどもウィキペディアンの力不足により見つけることができなかった」のか、「実のところどれだけ探してもそういった適切な資料は無く、実際に少数の人間にしか支持されていない」のか、ということはわかりません。
実際には前者であるにもかかわらず「何人かに支持されている」というように書いてしまうのは確かにあまりよろしくはないのですがいちおうウソはついてないわけで、その一方、実際には後者であるにもかかわらず「多くの人に支持されている(or通説である)」と書いてしまえばそれはもっとまずいわけです。
「何人かに支持されている」みたいな感じの書き方はどうしても決定的な出典が見つからないときの妥協策です。「通説である」と書きたいのであれば決定的な出典を見つけることが不可欠であり、それができそうにないのであれば妥協してわかっている範囲内のことだけを仕方なく書くか、いっそその情報の掲載をすっぽり諦めるかしかありません。
検証可能性のある資料のある現象の羅列が雑記に等しいという部分については、単なる羅列にならないように、検証可能な情報を(WP:NORの許容する範囲内で)整理して、中立的にまとめることこそがウィキペディアンの役目でもあり腕のみせどころです。それに失敗している例がまさにそのWP:TRIVIAです(人物記事のエピソードの羅列なんかは検証可能性すら満たしていない場合が多く、検証可能性を満たしていればまだましな方です)。
具体的な情報を提示する段階で偏った情報ばかりを提供してしまうとそれは中立的な観点から問題がありますが、要するにそういう偏りがみられるようなら修正しなさいというのがWP:NPOVなわけです。これは記事に検証可能性を満たさないような記述が含まれていることが指摘されたらそのつど出典を付加したりそれが無理なら記述を除去したりして対応しなければならない、ということと同じようなことで、Wikipediaが誰でも編集可能で永遠に未完成である以上は避けられません。
無意識のレベルで情報の取捨選択が行われている可能性があるという指摘はごもっともで、その危険性があることは全てのウィキペディアンが肝に銘じておくべきことだとは思います。ただその一方、無意識に偏見を持ち込んでいるかもしれないというのは反証不可能な主張でもあるわけで(なにしろ無意識ですので)、検証可能な情報が集まる前から疑い始めたらきりがありません。
読者側にまとめ・説明を求めるということについては、その説明が「信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないもの」(WP:NORより)の範囲内で行えるのであればWikipediaがやればいいし、その範囲で行えないのであれば少なくともWikipedia上では説明はできません。情報の解釈は読者に任せて、その手掛かりを与えることまでなら、Wikipediaでできます。--貿易風 2008年5月16日 (金) 17:26 (UTC)
「もっとまずい」というというのは違う気がします。これは両方向とも同程度に拙いと考えます。嘘は事実と異なるから嘘なのであり、それは不完全な情報を提供する(結果ミスリードさせる)ことも嘘になります。貿易風さんのおっしゃる所として次善策的ではあるが所定人物が赫々云々と述べている資料を提示して同人物が斯様に述べていることを記述することもできるでしょう。しかし「何人かが」などと具体性を欠く不定量的な人数表現を持ち出した時点で資料から外れ独自の解釈を加えてしまったことになり、厳密化された「出典の明示」を適用してしまった場合には最早書きようのない自縄自縛に陥ると思います。
中立性に関しては、所定人物がある発言をしたことのみを文中で取り上げる際に出典を挙げつつ記述することはアリですが、ある特定の指向性を持った論説ばかりを収集して羅列した場合には出典の明記とは全く別問題で中立性を逸するのであり、その匙加減をするのもWikipedia利用者のお仕事で、「疑いはじめたらきりがない」とは全くその通りながら、これは「常に疑いをもってあたる程度の慎重さを持つことは当然」で「きりがないという理由で注意し続けることを放棄すべきでもない」だとも考えています。
まあいずれにしても自縄自縛に陥った揚句に説明として成立し得ない断片的な情報だけしかないのではお話にならないし、また本稿で扱われている事物からして同時多発的な現象で観測されうる価値観でしかないのだし、いわゆる「検証可能性を持つ(そもそも検証可能性をどのレベルに設定するかにも依りそうだが)資料」とやらが結局のところとして現象の主体ではないメディアからしか得られない状況で検証可能性を厳密に求めること自体がナンか違っている気がします。--夜飛/ 2008年5月17日 (土) 12:58 (UTC)
「何人かが」という表現が具体性を欠いていると問題視されるのであれば、支持者を具体的に挙げるってのでいいですよ。というか、わかりにくかったかもしれませんが、もともと僕は「何人か」というところに具体的な支持者が何人か代入されている状態で掲載することを想定して書いていました。ただ僕はいずれにしろそういった妥協策を積極的に肯定する気はなく、あくまで「決定的な出典は見つからないけどどうしても掲載を希望する」という人がいるとして、そういう形の掲載であれば反対しないというだけです。
多くの人に支持されている説だということを裏付ける出典が見つからず、妥協策もとらないのであれば、結局のところWikipediaの掲載基準に達しない情報ということで最終的には除去されることになってしまいます。
中立性については、「常に疑いをもってあたる程度の慎重さを持つことは当然」も「きりがないという理由で注意し続けることを放棄すべきでもない」も否定する気はありません。WP:NPOVも「議論の余地が無く利用者間の合意で覆せない方針」ですので、この点で意見は対立していないと思います。
検証可能性についても、僕はそんなに厳密に適用しようとしていません。この記事で「査読済みの論文で裏付けられた情報だけ載せよう」などといいはじめたら何もかけなくなりますのでそういうのはばからしいと思いますが、検証可能性の方針が「議論の余地がない」と規定されている以上、「外部の情報源を参照しながら記述を進める」というスタンスを否定するような記事の書き方はできません。
断片的な情報というのは、WP:NORが許す範囲内の「情報の整理」によってなるべくまとまった文章に修正されるべきですが、WP:VWP:NORを守った範囲内で行える最良の説明でもなお断片的な記事にしかならなかったとすれば、そこが(その時点での)Wikipediaの説明の限界ということになります。Wikipediaの3方針は標準名前空間に載せられる情報のタイプ・質を規定するものですので、それらの方針に反しないと掲載できないような説明は求められていません。そのあと新しい情報源が発見されたり、画期的な情報のまとめ方が考案されたりすることによって徐々に改善されていくのを待つことになります。
前にも述べましたが、「包括的に研究する側が存在しない」「周辺事象を網羅した資料が存在しないか未発見」という分野である以上、資料の豊富な他の分野と比べるとWikipediaが説明できる範囲は狭くなります。--貿易風 2008年5月18日 (日) 14:11 (UTC)
(インデント戻し)いや、具体的に挙げたところでそれが「著名人がクソゲーに関連して(みうらじゅん語源説に)言及したリスト」以上に成り得るかは微妙…というか「みうらじゅん語源説」なのか「メディア上で明確に発せられたクソゲーという表現はみうらじゅんが最初」説かはビミョーかも(漏電中)。まあ「今ンとこみうらじゅんがメディア上で初めにクソゲーと明確に表現した」ことを否定しうるだけの確証を与える資料が見出されていないことは書けるかも~(大分体調が緩いんで文章にまとまり無くてすみません)。そんなこんなでクソゲーなんて記事はユルく書くしかないと思うんです。
ところで本題には全く絡みそうにもないんですが、貿易風さんのいう「僕はそんなに厳密に適用しようとしていません」に関しては「議論の余地がない」という部分を過大にないし取り違えて解釈しているように思えてなりません。この文言が掛るのはWP:NORWP:NPOVWP:Vの全てであり、この相互関係を含めた理念の総体が議論によって覆される性質のものではないことだと思うのですがいかがでしょうか?してその中には「分別ある大人であれば(略)」に代表される一般的知識で判断できる事柄は除外されるなどの部分も含まれ、クソゲーに関しては俗にどのような情報が出ているかなどはネットなどから無作為に情報を拾うことに関してはともかくとして、雑誌や放送番組からニュースサイト上のコラムなど方々に同種論説の断片が見いだせるなら、それを一般の大人とやらが目にする機会も総体的に増加し…で、まあそこから先は既に上で述べた通りではある訳で。
ともあれ、書きようが無いなら書ける範囲を最大限に生かすのが、事物を説明しようとする側としては最優先に考えることなんだと思います。--夜飛/ 2008年5月19日 (月) 12:25 (UTC)
えっと体調が悪い(緩い?)ならすぐに返事を書いてくださらなくても大丈夫ですよ。もちろん「著名人がクソゲーに関連して(みうらじゅん語源説に)言及したリスト」以上のものにはおそらくならないでしょうが、なにも書かないよりはそういうものが載っていたほうがマシだと思う人がいれば載せても反対しないよ、ということです。妥協を許さずはっきりと本文に載せたいのであれば掲載を希望する責任として出典を見つけていただくしかありませんので。
「議論の余地が無く利用者間の合意で覆せない」については、3方針全てにかかるもので、どれひとつとしてローカルに覆すことはできません。それらの方針は相互補完的なので、ひとつでも覆せば全体の理念が崩れることになります。例えば検証可能性を破って典拠不明の記述を許してしまうと、同時にそれは未発表の概念やアイディア(独自研究)を呼び寄せる結果になり、さらに執筆者が自分に都合のいい事実を載せやすくなるので中立的な観点を維持するのが困難になり、結局は方針全体が維持できなくなります。
一般的知識で判断できることに対して出典を省略することは、理念を崩しているわけではないので問題ないと思います。ただこの記事に関しては一般的知識で判断できるような情報が見当たりませんが…。
「雑誌や放送番組からニュースサイト上のコラムなど方々に同種論説の断片が見いだせる」というところについては、その断片が具体的に提示されないことには話が進みません。いまのところこのノート上でわかっているのは、みうらじゅん語源説について「ゲイムマンというライターは支持しているらしい」ということだけであり、それ以外については全く情報ゼロの状態です。全く信頼性のない情報の断片であればいくつ集めても無意味ですし、多少は信頼性のある情報の断片であれば「こういう断片があるよ」と記事で紹介することができると思いますが、いかなる断片があるのかが具体的に提示されなければ議論にすらなりません。--貿易風 2008年5月20日 (火) 15:34 (UTC)
なんていうかー…妥協せずに云々っていうんじゃなく、クソゲーという事物の性質上で妥協しまくってどうにか包括的な説明が可能だろうというのが小生の論点なのですが。ついでに言うと大衆向けの週刊誌(これは前出の「みうらじゅん語原説はたしか週刊朝日にも」に掛る部分ですが)とかゲーム雑誌とか何とかの益体無い俗げな情報ソース一般にも過去見出された(しかも余りに俗げなだけに現存資料として得難い)部分でもあり、これは全くその事物に関する情報を持たないどころか自発的に探そうともしない側が「一般知識で判断できるような情報が見当たらない」と述べること自体が「ナンか視点としてはどーかと思う」部分がある訳で、いわんや貿易風さんに内在する情報が世間一般の知識の全てでもないと思いますが(まあ小生に内在する無駄知識の全てを世間一般が存じているわけでもないでしょうが)。
また断片に関しては上に述べたとおりゲイムマン氏の例にしても(個人サイトは除外するなど)一定水準を設けたにせよ無作為抽出したものであり、「“みうらじゅん+クソゲー”でググっただけでもいくらでも出る」もののうちの一つに過ぎません。もちろん「ググった結果」なんて記事中に載せられませんから言及しないだけで、クソゲーというだけでみうらじゅん氏が引き合いに出される例は枚挙に暇がなく、読者が同様に「ググってみた」だけでも検証可能な事柄だとみなせるわけで。なんか『仰天 B級ゲームの逆襲』といういわゆるクソゲーを扱った書籍では、巻頭でみうらじゅん氏のインタビューが掲載されてるなんぞの話もあるようで…まあこれも例の一つではある訳ですが、このレベルの情報を羅列しても無数にある以上は冗長なだけの羅列化するだろうから載せてもしょうがなかろうとも申し上げる次第です。
ともあれ本題の説明から逸脱して論拠となるソースを羅列するのは、どっかの匿名サイトでディベートごっこをする場合には有効でも、事物を説明することを主題とするWikipediaでは羅列が説明としては脱線に過ぎない場合に必ずしも妥当な手法とは言えないと考えています。--夜飛/ 2008年5月21日 (水) 12:42 (UTC)
有効な資料の少ない分野ですので、ある資料を出典にできるかどうかという観点でいえば、アクセシビリティや信頼性の観点からは本来出典にするのが難しそうなものでも妥協して採用せざるを得ないケースはあるかと思います(結局のところはなんらかの資料が出てきた時点で個別に検討するしかなく、一般論としてなんともいえませんが)。が、「妥協しまくる」ということが外部の情報源を参照せずにウィキペディアンで独自の解説を試みるということでしたら、そうやって行った「包括的な解説」とやらはWikipediaでは求められていません。
そもそも、外部の情報源の後を追う形でしか説明が行えないWikipediaにおいて、「包括的な資料が存在しないか未確認」であるような記事で最初から包括的な説明をしようという発想にまずかなりの無理があるわけです。有効な資料が全く存在しないのであれば記事自体が存続不可能になりますが、少ないながらも存在するのであれば、そういった情報をなんとか集めて、WP:NORが許容する範囲内の「情報の整理」によって断片的な情報をなるべくまとまったものにし、包括的な説明に近づけられる可能性があります。そういった情報を集めたりまとめたりする作業こそがウィキペディアンの仕事であって、外部の情報源を無視して勝手に妥当性を判じたりすることはできませんし、資料が少なくて包括的な説明ができないからといって検証不可能な情報や独自研究を記事に持ち込むことはできません。
一般的知識で判断できることは出典を省略してもいいだろうといいましたが、これは例えば雪だるまの記事で「雪の降る地方でよく作られ冬の風物詩となっている」と書いてある部分に出典を求めたりするのはばかばかしいだろうということで、限られた一部の人だけが共有している知識を典拠抜きに書くことはできません。それがその集団にとっての一般知識であるということをその集団の外の人に納得させるための出典が必要です。
みうらじゅん語源説については、週刊誌やゲーム雑誌に出典となりえる情報があるのであれば、具体的にタイトルと何号なのかを調べて提示してください(できれば頁数もあったほうがいいです)。Googleの検索結果は出典にならないですし、読者がググったらそれっぽい情報がいくらかヒットするからといって検証可能性を満たしたとみなせるというような方針もありません(ググっても信頼に足る情報源がヒットしないのであれば意味がありません)。Wikipedia:信頼できる情報源にある「大衆文化やフィクションに関する英語版での仲裁事例」を持ち込むのであれば、大量の情報が存在することを持って、その中の最良のものが許容可能になりますが、あくまで求められる情報源の信頼性のレベルが少し引き下げられるというだけのことで、大量の情報の中でも最良の信頼性を持つものを(1つまたは複数)出典としてあげることになります(つまり出典として挙げられる程度の信頼性は最低でも必要ということです)。
繰り返しますが、現在のところはっきりわかっているのは「ゲイムマンというライターは支持しているらしい」ということだけですので、夜飛さんがこれ以上のことを書きたいと思うのであればその出典を示してください。
『仰天 B級ゲームの逆襲』のインタビューについては、そこでみうらじゅんさんがクソゲーという言葉をつくったのは自分だと述べているのであれば、「本人はそのように主張している」ということの出典にできますし、十分有益な情報になると思います。Wikipediaの記事としては無理に完璧な出典を探さなくても、本人がそのように自称しているという出典があるならそのことだけ書いておくだけでも上出来だと僕は思います(もちろんよりよい第三者からの出典があるならそれに越したことはないですが)。--貿易風 2008年5月22日 (木) 18:34 (UTC)
いやあ、断片的な情報が(出典があるというその一点のみをもって)羅列してあったとしても百科事典の記事としては成立し得ないと考え…ってのはいい加減堂々巡りなんで割愛しますけど、出典がない(示されていない)ことと独自研究であることを直結で扱おうというのに無理を感じます。また検証可能性はその原義で「出典を示すこと」と直結して語れないし、また検証可能性は閾値のある量的判断の結果として可否を論じられるところであるんだけど、「出典と称して何か書いてあること(ないし何も書いてないこと)」のみをもって独自研究かどうかを判断すること(そしてその記述の価値を測ること)は、ビミョーな気がします…というか、小生としては「クソゲーなんて事物の説明は緩い観点で書くしかなかろ」というだけで、その各々の記述は様々な利用者さんの手を経て来たものだけに査読してみて一定の妥当性さえ見いだせれば余り強硬に否定しても不毛だし放置っぽく…といったところなんですが、貿易風さん曰く「これ以上のことを書きたいと思うのであればその出典を示してください」とかで、なーんかクソゲーの記事全ての文責が小生にあるとでも思ってるのかしらん?とかいぶかしんでみたり(漏電中)。
ああいえ、いぶかしんだかどうかは兎も角としても、この場で示されたものだけが出典というわけでもありますまい。その上で、この場で示された事柄だけでしか論じられないというのは、記事に関わる姿勢としてもどうかと思うんです…たんに疑問を提示する立場から離れて、記事の内容に手を入れようとする側としては。--夜飛/ 2008年5月23日 (金) 12:37 (UTC)
(インデント戻し)断片的な情報を羅列するのではなく、それらをまとまった記事になるように整理するのがウィキペディアンの仕事だと何度もいってるのですが堂々巡りですね。極端な話、Wikipediaの記事の内容というのは、どれもつきとめれば「どこになにが書いてある」という形の情報の集合体です。実際には記事がそのようにみえないのは、単に情報が整理されているからに過ぎません。
「出典があるというその一点のみをもって」というところについては、出典があればなんでも載せろとはいっていません(検証可能性は、その情報を記事に載せるための必要条件ではありますが十分条件ではありません)。
また、僕は出典の無い記述は全て独自研究だともいってません。例えばみうらじゅん語源説については、独自研究でない可能性が高いと考えています。これは単に「検証可能性に問題のある記述」であって、それが満たされない限りはWikipediaの掲載基準に達しないといっています。前にも述べたように、みうらじゅん説のように出典が出てくる可能性がありそうなものについては性急に除去するつもりはありません。
むしろ、いまのところ手掛かりがまったく出ていない「パソコン通信説」「自然発生説」や、「パッケージは豪華だが内容はさっぱり」以下の部分などについては、今後も出典の明示が無いようであれば除去されることになります。語源の節の範囲内で言えば、独自研究のおそれが強いのは類義語・対義語の部分です(語源の節の外にも目を向ければ他にもあります)。
「その記述の価値を測ること」について、僕はこの記事の記述についてなんらかの価値判断をしようというつもりはありません。単にWikipediaの掲載基準に達していないといっているだけです。ノーベル賞クラスの論文であってもWikipediaで初めて発表されるのであれば掲載基準を満たせないのですから、Wikipediaに載せられないからといって価値が低いということにはなりません。
検証可能性と出典の明記の関係性については、どの信頼できる媒体で確認可能な情報か簡単に判断がつく場合は省略可能ですが、そうでない場合は、WP:Vに「執筆者が独自に検証できるだけでは不十分」とあるように、読者や他の閲覧者に対して情報のソースを明らかにしないといけません。
「査読してみて一定の妥当性さえ見いだせれば」について、Wikipediaでは査読に相当するプロセスは外部に求めることになっています(WP:Vを参照)。Wikipediaの記事としてどうかっていうのを査読する場所はありますが(Wikipedia:査読依頼)。
「これ以上のことを書きたいと思うのであればその出典を示してください」についてですが、WP:Vにあるように、出典を示す責任を負うのは掲載を希望する側であり、必ずしも最初に書き加えた人ではありません。他人が書いた出典の無い記述でも除去されたくないなら出典を示す責任が発生しますし、自分が書いた出典の無い記述でも掲載を希望しないのであれば出典を示す責任は発生しません。したがって、夜飛さんがゲイムマンの情報以外に出典を提示されないのであれば、それ以上の情報の掲載を希望することはできなくなります。--貿易風 2008年5月24日 (土) 15:58 (UTC)
?…??…えーっとぉ…「それらをまとまった記事になるように整理するのがウィキペディアンの仕事だと何度もいってる」とは…はて。ああ…いえ、すみません。「何度も言っている」と申されましたが、ちょっと思い当たる節がなかったので混乱しました。というか冒頭一節目あたり自体が何を言わんとしているのかさっぱり。「僕は出典の無い記述は全て独自研究だともいってません」というのも「なんだかなあ」って気がします。で、ちょっとその辺は思う処もあるのですっ飛ばしますが「出典が出てくる可能性がありそうなものについては性急に除去するつもりはありません」の辺りは(すっ飛ばした部分はともかくとしても)実際において判断するのが貿易風さんの主観に帰結してしまうようにも感じられ、これは非常に危うい気がします。まあ貿易風さんとしては「僕の考えで除去するのではなくルールに沿って除去するのだ」という感覚なのでしょうが…(いや、別に貿易風さんの在り様がどうとまでは言いたくありませんけどね)
というか「全て」とかともなると、もはや言葉遊びの領域に差し掛かってくるので、小生としても「All or Not」でことを進めるつもりもない(というかヌルいんもんでその各々に個別対応する志向が強い)ため、そういう視点で語ることはどうかと思います。というか、誰も貿易風さん個人の属性としてそれらを問題視していないんだし…(誰がそれをやっても)そういう対応全般が拙かろうというだけで。
また査読に関しては「外部に」とはいっても、完全な部外者(事物に対する知識のない者)に査読させてもしょーがないでしょ(漏電中)。査読依頼は記事に対して中立的(記事への思い入れなどを持たない)な側が記述の内容を査読するのであって、文章構成や表現レベルの補正から記述内容の正確性などに関するまで、こと記事の記述者が自身で仕上げた記事を他者から見て「百科事典の記事として役立てられるかどうか」を見てもらうのが査読依頼であり、一方小生が上で述べた査読は、記事に関わる全ての者が他者の記述を読んだ段階で(無意識レベルから意識レベルに至るまで様々だろうけど)ほとんど自動的に行われる編集行為全般を含んでおり、その意味では記事に関わった全ての利用者が(初版投降者は別だろうけど)編集者であると同時に査読者であり、更に言えば記事を見た人も(サイレントマジョリティみたいな実体を語るのも不毛かもしれないが)ある意味では査読者でもある訳で。その範疇からいえば貿易風さんも査読をしている訳ですが、対象事物を知らないことをもって記事の否定を行うのは「ナンか違う」気がする訳です。
なお「出典を示すのは掲載を希望する側に」というのは否定するところではありませんが、それをたまたま貿易風さんに応対している小生に全部おっかぶせようというのもどうかと思う次第…だいたいゲイムマン氏のコラムにしても「議論の上での参考資料(一例)」であって「出典」ではないし。--夜飛/ 2008年5月25日 (日) 12:14 (UTC)
「それらをまとまった記事になるように整理するのがウィキペディアンの仕事」については、「2008年5月16日」の発言をはじめとして何度も同じようなことを言ってますが、ぜんぜん読んでもらってないみたいで残念です。前の発言の第一節についてですが、Wikipediaの記事は全て「信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録している」(WP:Vより)ので、当然記事の内容をひとつひとつ分解して追求していけばそれは「どこに何が書いてある」という情報の集合体になります。逆に言えば、その集合体に対して「情報の整理」を施すことにより、「情報の集合体」が「百科事典の記事」に化けるわけです。その過程が上で述べた「ウィキペディアンの仕事」です(もちろん、その前に「情報を持ち寄る」という仕事もありますが)。多くの場合、「どこに書いてあるか」ということは情報の整理の過程で省略されて参考文献や脚注の節に追いやられるので、記事本文には「何が書いてあるか」という情報だけが残ることになります。
「出典が出てくる可能性がありそうなものについては性急に除去するつもりはありません」についてですが、これは単に「少なくとも僕は除去しようと思わない」ということであり、方針上は出典が示されていない記述はだれでも除去できますので、他の人が性急に除去するのであればとめるつもりはありません。典拠の無い記述の除去を提案するときは、出典の無い全ての記述について一律に除去を提案しなければならないということはないですし、むしろそういった形式的な検証可能性の方針の適用は、(ルール上は問題なかったとしても)僕は嫌いです。
査読について。わざわざ「WP:Vを参照」と書いたのですが、読んでいただけなかったのでしょうか。WP:Vには、「要するに、査読に相当する機能はウィキペディアの外部に求めよということ」とちゃんと書かれています。ここでいう外部というのは、出版社や学会、すなわち「事物に対する知識のある者」のことです。といっても実際に「知識のある者」に電話して査読してもらうように頼むということではなく、(査読に相当するプロセスを経た)信頼できる媒体に書いていることを出典としてWikipediaの記事を書くことにより、結果としてWikipediaの記事の信頼性を査読済みのものと同様のレベルで保とう、ということです。Wikipediaにおいて自主公開された情報源が原則として出典にできないのは、査読に相当するプロセスを経ていないからです。
Wikipedia:査読依頼においてはWikipedia内部であるにもかかわらず査読という行為が行われていますが、ここでいう査読というのは情報の信頼性を保つための査読ではなく、Wikipediaの記事として優れているか、わかりやすいかという意味での査読ですので、WP:Vでいうところの査読という語句とは区別しないといけません。
で、夜飛さんはどうやらこれら2つの意味とはさらに違う意味で査読という言葉を使っておられるようで、何人かのWikipediaの編集者(あるいは閲覧者)を夜飛さんが査読者と呼ぶのは自由ですが、「事物に対する知識のない者」あるいは「事物に対する知識のある者を自称する人」が行った査読は検証可能性を満たす根拠にならないので、そのような査読(?)を行ったところでなにかの意味があるのか疑問です。
「記事の否定を行うのは『ナンか違う』」というところについては、僕はこの記事を否定したことはなく、単にWikipediaの掲載基準に達していないといっているだけです。個人的には書いてあること自体はそう間違ってないと思ってます。
ちなみに夜飛さんは、だれかに強制されているわけでもなく自分の意思でこのノートでの議論に参加されているのであり、対話に応対しながらも「掲載を希望しない」という立場をとることも可能なのですから、それでもあえて「掲載を希望する」という立場を取るのであれば当然出典を示す責任が発生します。自分ひとりが出典を示す責任を負うのがいやなのであれば、知り合いのウィキペディアンの中から掲載を希望するようなほかのひとを探すなりして対処してくださいとしかいえません。--貿易風 2008年5月26日 (月) 17:49 (UTC)
いや、書き方が拙かったかなあ…そんな「言った/言わない」なんて水準の話じゃなくて、「何度も言った」と表現するほど主要な論点として貿易風さんが述べたような覚えがなかったので混乱したのですが…小生としては「記事の全ては一連の説明としてまとめられるべき」という観点から「ことクソゲーの場合では検証可能性を確実に満たす資料が得られた記述だけに限定すると説明が断片化しがちであることが予想されるためにクソゲーの項に限定しては細に至るまで出典を求めようとするのはどうか?」と一貫して述べているのであって、それに対して貿易風さんは「検証可能性を満たす出典付きの情報をウィキペディアンは一連の説明にまとめることができる(情報の合成にならない限り)」という立場から「検証可能性を満たす出典が得られなければ書くことはできないので断片化した羅列になっても仕方がない(というか出典の得られる現象なら羅列しても問題ない)」と云う事を「何度も言って」いるんだとばかり思っていましたので。
問題は「それを主要な論点として扱っていたのかどうか」なんですが…ああ、なんかどうでも良くなってきました(脱力して漏電しまくり・理由は後述)。
査読に関してですが、「外部か記事関係者か」は「記事内容に踏み込んで手を出す」位の意味しかないと思うんですけどね。記事を初見した段階では「外」ですけど、内容がこれでは拙かろう(理由はそれぞれ)と手を出した段階で「中の人」化するという意味ですが。学術的な研究などにおける査読なら、査読を専門に行う側が常に存在する訳ですが、Wikipediaは査読者も執筆者もともに利用者である以上は明確に境界なんか存在しませんって。
ところで「掲載を希望する側/しない側」的な部分ですが、小生としては「みうらじゅん語原説」なんかに絡んで一例を挙げて難しい問題を含むことを説明しましたがね…最初から「まず除去ありき」や「要出典の大量投下」という姿勢(または「独自研究タグの付与」に際して誰がそれを設置するのかなど)を問題視したのであって、「(独自研究的な内容の?)掲載を希望」したのではなく「記事内容の現状維持を希望」しただけなんですがねえ…改稿に値する資料が出たならそれを阻まない格好で(嘆息)。--夜飛/ 2008年5月27日 (火) 14:21 (UTC)
いくつかレスをしたいことはありますが、下の節での発言をみる限り資料探しをはじめてくださったようなので、この節での議論は終わりにしましょう。僕と議論するために文章を書いたりする時間を少しでも資料を調べる時間として費やしていただけることを期待します。--貿易風 2008年5月28日 (水) 16:37 (UTC)