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ノート:ジェンダーフリー/archive 1

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この項目の主たる執筆者は「ジェンダーフリー」に対して批判的な方だと思いますが、争点となるような記述については参考文献などを挙げていただけますでしょうか。(たとえば、「精神分析では・・・」という場合、どの研究者・どの文献がそう主張しているのか等。)--130.54.130.68 2005年8月1日 (月) 04:53 (UTC)  

しかし少数のこうした一部の運動をジェンダーフリーそのものであるかのように批判している…

→一面的な見方であり地の文に書くことには問題があると思われましたので、(主に)推進側による主張であることを明確にしました。

…保守派も一部にはおり、問題を複雑化させている。こうした保守派がジェンダーフリーを理解した上でミスリードしているのか無知により混同しているのかは明らかではない。

→極めて偏った内容で中立化も困難と考え削除しました。nachi 2004年9月2日 (木) 10:19 (UTC)


旧稿ではジェンダーフリーという運動がいったいどのような運動なのかまったく説明がなく、読んでいる読者には何がなんだかさっぱりイメージがわからなかったであろう。そこで具体例をあげて大幅に説明を増やした。ジェンダーフリーへの保守派からの反論を述べる前に、まずジェンダーフリーとは何なのか、という具体像を提示しなければお話にならない。

また反対派の意見には、アメリカのウィルソンら社会生物学者の批判や日本の林道義ような精神分析の立場からの男女平等に対する疑問について軽く触れるとおもに、ジェンダーフリー側が性差否定運動でないと主張することと、結果として中性化が進むかどうかということは別問題である、という点も明確にした。

また、ジェンダーフリーの歴史的発祥に関しては、マルクス主義に由来するとする説が主ではないので、その点訂正した。2005年6月10日 (金) 00:03


ここは百科事典です。 ジェンダーフリーの項目は、中立かつ、「ジェンダーフリー」そのものに関する記述があるべきで、ジェンダーフリーの説明よりもジェンダーフリーを批判する記述が主になるような書き方は論外です。 例えば、ジェンダーフリーそのもの記述には「~と推進側はいう」、 と書きながら、ジェンダーフリーを批判する側の記述は「~と批判する側はいう」と断らないなど、意図的に言説を誘導するような傾向が見られるのは問題です。 その結果、ジェンダフリーの記述とジェンダーフリー批判の記述が混同し、 非常に読みにくくなっています。 もしジェンダーフリーそのものの記述ではなく、批判を主とする記述をしたい方はウィキペディア以外の場所で書くことをお勧めします。


運動がどう評価されているのかということも基本的な情報といえます。運動および政策の問題点については国会や地方議会などでもたびたび議題に上っており、特にこの項にとっては欠かせない情報です。また、「~という批判がある」「~と批判されている」等の記述は「批判する側がそう言っている」という意味以外にとれるはずもなく、客観的に記述された事実といえます。もし記述の文末が統一されていないというならばその部分を修正すればよいだけなのに、実際には、文末にかこつけて批判の部分そのものが削除されており、非常に問題です。
よって、基本内容を以前の版に戻しました。


すみませんが、なぜ最後のミードやマネーの文章が消されてるのですか? 明らかに中立的で事実の描写であるのになぜ削除なんでしょうか? 推進側あるいは反対側に不利であれ、ジェンダーフリーに関係のある事実は書くべきでは? それからジェンダーフリーの実例で、ソースがあるもの(公的パンフレット「基本のき」に書かれていたり、実際に記事になったもの)まで削除されるのは何故でしょう?  それから、「ジェンダーフリーそのものに関する記述」をするのは当たり前なんですが、そもそも、そのジェンダーフリー(あるいはジェンダー)自体の定義がコンセンサスを得てないんですが? フェミニストの間でさえも。であるなら、推進側や反対側のそれぞれの意見・定義を並列するのが中立というものでしょう?

あのへんをコメントアウトしたのは、『どういう研究のどんな結果がジェンダーフリーの支えになっていたのか、どう否定されたのか』と言ったことが読んでも分からないということ、そしてそのために『ジェンダーフリーなんてのはもう否定されててフェミニストどもが騒いでるだけだ』と仄めかすだけの記述になっていたことが理由です。もっと詳しく書いてあれば、コメントアウトはしなかったでしょう。
ところで、コメント部で『政府と言えば日本政府に決まっている』と書いておられますが、Wikipedia日本語版は「日本版」ではないので、それは通りませんよ。それと、『日教組のサイトを見よ』などと書いておられますが、URLくらいは書くべきでしょう(長くなるので、ノートに書く方がいいでしょうね)。
それと、出来れば署名を。IPと時刻だけでも、あれば全然違いますから。 -- NiKe 2005年9月26日 (月) 00:52 (UTC)


男女同室着替え事件について 男女同室着替え事件は保守派の知識人たちが伝聞で聞いたものをデマとして流したもので、すでに新聞等メディアの取材によって、ジェンダーフリーとは無縁であることが判明しておる。以前この記述を載せたところ、いつのまにか削除されていた。右翼側には何か都合の悪いことでもあるのか?

上記も含めた「ジェンダーフリー実践例」について、「・運動会の騎馬戦を、男女混合にする ・男女児童・生徒を同室で着替えさせる ・身体検査(脱衣)を男女児童・生徒混合で行う(異性に裸を見られること、異性の裸を見ることは恥ずかしいことではない、恥ずかしいと思うこと・言うことこそおかしいと指導される。)」以上については「例」を挙げた八木教授自身が“全て週刊誌報道や伝聞を基にしたもので自分で確かめたわけではない”と認めたようです。南日本新聞「考現鏡」06年1月6日付け「説明責任」より。--211.13.148.207 2006年1月13日 (金) 08:57 (UTC)

↑この問題に関連して どうやら、自分の気に入った版に固執していて、他人の改訂を認めずに元の記述に戻す人(複数?)がいるみたいですね。このノートで議論する気もなく、一方的に元の版に戻すような困った人はなんとかならないのでしょうか。 〔※近年、これまで保守派の一部がジェンダーフリーを批判するために援用してきた脳神経学や遺伝子学などの分野において、逆に男女の脳は従来言われていたほどの差はないのではないか、という傾向の主張もあり、今後の生物学会の研究成果が待たれる。 (最近の脳神経学の研究をわかりやすく紹介しているのは田中富久子著「脳の進化学」ISBN:4121501519など)〕という記述や、 〔※なお、現在では、過去においてジェンダーフリー運動を理論的に支えていた文化人類学者マーガレット・ミードの研究、さらに性科学者ジョン・マネーの主張(性差は後天的な要因のみで決定されるという論。デイヴィッド・ライマーの項を参照)が間違いであることが分かっている。反フェミニズム的な保守・右翼側はこれをもってジェンダーフリーの学術的な正当性は減少したと主張している。それに対し推進側はすでにジェンダーフリー思想は様々な多岐にわたる分野の研究成果から成立しており古い学説に依拠するような時代は大昔に過ぎ去っているとする。〕という記述が載ると、この人は元の版に戻そうとするようです。 どうやら、ジェンダーフリー推進側と保守側が対立しているような記述ではなく、ジェンダーフリーに反対しているのは一部の保守勢力ではなく日本人全般の当然の反応なのだ、という「保守派」という言葉を使わせない記述でないと我慢がならないようです。ジェンダーフリーに反対しているのが日本会議や右翼系宗教団体、あるいは産経新聞などの保守系メディアであることは保守側も自認する大前提なのですが…… こういうノートに現れず、ひたすら元の版に固執する人がいると、この項目はまったく進展がなくなります。どうすればいいのでしょうか。--61.23.86.19 2006年1月14日 (土) 13:18 (UTC)

ソースもなく、共同浴場の意味不明な珍説が載せられていたので削除しておきました。女風呂を男に管理させ、男風呂を女に管理させるなんて一体誰がまき散らしているんですか?


ジェンダーフリー教育の実践例等について 1.石原慎太郎東京都知事の都議会定例会における発言は、正当な選挙で選ばれた行政の長が事実に基づく施政の見解を述べたものにすぎず、これに続いて、「こいのぼりの風習が国民の間に広まったのは戦中の軍国主義時代のこと」~「単なるジェンダーフリー思想をバッシングするための口実にすぎない・・・」というのは、接続文章としては不適切なので削除しました。 2.ジェンダーフリー教育の実践、活動等の具体例の「桃太郎」を「桃子」に変更することについては、小学校教科書の内容ではないので、小学校教科書の内容に続けてまとめるのは正しくなく元どおり段落を変えます。推進者にとって都合の悪い内容が読みにくくなるような編集を意図したのかわかりませんが、閲覧者が誤解する可能性もあるのでご理解をよろしくお願いいたします。 3.「男女着替え事件以外にも」~「まったくの虚偽・・・」というのは、かかる具体例が特定されていないため、事実の具体例があたかも虚偽であるかのような誤解を生む可能性が高いので削除しました。虚偽であると疑われる具体例は、選択して注釈を加え根拠を示された方がよろしいのではないかと考えます。 利用者:43.244.9.204-205 2006年1月22日

確実性が高くないものあるいは誤報と思われるものを削除しました。事実の提示以外のコメントも特に必要ないと思われたので、削除しました。--220.158.136.97 2006年1月22日 (日) 10:33 (UTC)

ジェンダーフリー教育の実践例等について2   2006年1月22日「ジェンダーフリー教育の実践例等について」の編集理由により編集しましたが、それに対する反論も編集理由もないままに元通り戻されて編集されていました。理由不明確であり正当な編集とは理解出来ませんので、編集し直しました。 43.244.7.63 2006年1月23日

ジェンダーフリー教育の実践例等について、確実性が高くないかあるいは誤報と思われる例を削除したにもかかわらず、それを再び記述する不自然な編集が行われていたので、適切な内容に戻しました。--220.158.136.61 2006年1月24日 (火) 07:52 (UTC)

ジェンダーフリー教育の実践例等について、「男女混合名簿がジェンダーフリーと関連があるとは意識されていない」との記述がありましたが、近年の男女混合名簿推進運動がジェンダーフリーに関連して進められたことが事実ですので、上記記述部分を削除しました。--220.158.135.125 2006年2月15日 (水) 11:59 (UTC)

「ジェンダーフリー教育の実践例等について」ですが、事実を列挙さえすれば中立であるかのような論調がこのページにはありますね。この記述方法は、「具体例」を通じて「具体例」があたかもジェンダーの現実かのように「定義」する性質である以上、中立性に反します。事実の列挙だけが中立性ではありません。中立性の維持には「言説」の排除が必要です。事実の列挙は結構ですが、具体例がどのような経緯で行われたのかを説明しない限り、万人に同じイメージを抱かせることは困難です。ウィキの中立性は、「具体的事実の列挙による定義づけ」ではなく、「事実の説明」によって保たれるべきです。 また、ここに書き込むジェンダーフリーに対して否定的な意見を持つ人は、ジェンダーフリーとフェミニズムを完全同一視しているように感じる。流れとしては同じだけれども、主張の本質は違うこと(「マイノリティへのエンパワーメント」と「価値観を外部から強制されることからの自由」は違う。)を明記すべき。あと、本当の意味でのジェンダーフリーは、別に女性解放ではない。「女々しい」「雄雄しい」(この二つの言葉はジェンダーを説明する上でうってつけ)というイメージから生まれる「オカマ・女装趣味は不道徳、弱弱しい男は男ではない。」という決め付けを排除するという意味では、男性に対するエンパワーメントでもある。強い男を演じることを強要されて、現実との乖離によって追い込まれて自殺する中年男性は、ジェンダーの犠牲者という見方も出来る。ジェンダーフリーは、男女の社会的性差から生じるマジョリティ・マイノリティ関係から生まれてきていることを念頭に置くべきだ。―― 210.87.74.132:2006年2月17日02:45

「ジェンダーフリー教育の実践例等」の全事例が削除されておりましたが、これは基本的な情報を全削除してしまうという不適切な行為ですので、Revertしました。
実践例を削除した理由として、「万人に同じイメージを抱かせるようにすることが困難だから」ということが書かれてありましたが、ウィキペディアにそのようなことは求められていません。ジェンダーフリー教育の実践例を読者が見て、「良いことだ」というイメージを持つのも、「基本的な理念はわかるがそれはいきすぎだ」というイメージを持つのも、「そもそもジェンダーフリーはだめだ」というイメージを持つのも、それぞれに判断していただくことです。
また、思想系の項目では、「この思想の正しさが書かれていない。批判が書かれてある。思想が正しいという事実を説明しなければならないのに、それが書かれていないから中立ではない」というような主張がよく見られたりしますが、それはウィキペディアでは間違いです。電子掲示板やブログなどで思想を宣伝する際と、ウィキペディアの利用の際では、頭を切り替えてください(もし自分の思想を正しいものとして他の人々に広めたいなら、外部の電子掲示板やブログなどをご利用ください)。ガイドラインを読まずに各項目の編集を行う方も多いように見受けられますが、まずガイドラインを(特にウィキペディアは何でないかを)読むようにお願い致します。--220.158.131.118 2006年2月18日 (土) 23:25 (UTC)

そのrevertを再度revertしました。列挙されている「事例」が適切かどうかに疑問が呈されているのですから『これを見せて判断すればいい』とは言えないでしょう。また、(望ましくはないが)コメントによって書き込まれた意見がありますから、単にrevertしてしまってはそれも消えてしまいます。
また、「思想の正しさ」とは『その思想において主張されている「正当性」』のことでしょう。これが書かれていない状態で「批判」だけが書き込まれていては到底中立的とは言えませんね。 -- NiKe 2006年2月18日 (土) 23:41 (UTC)
210.87.74.132氏が用いている「中立性」という言葉は、実際の(特にウィキペディアで求められる)中立性の意味で用いられていません。「210.87.74.132氏の考えるジェンダーフリー観が示されるもの」という意味になっています。
210.87.74.132氏の主張は、「ウィキペディアでは、210.87.74.132氏による理想や評価が万人に伝わるよう説明されていなければならない」「教育の事例の列挙は自分の理想が説明されているものではない。だから排除されるべきだ」というものです。
しかし、各事例がジェンダーフリーを旗印に進められたことが明らかであるならば、それは事実として記述できることです。また、「万人に同じイメージを抱かせる」ような「説明」をつけていくと、執筆者による評論になってしまいますので、そんなものはつけられません。
また今回の場合、ジェンダーフリー教育の事例として周知と思われるものや、出典がコメントに書かれているものまで含めていきなり全削除されており、あまりにも乱暴すぎます。
(もちろん、各事例が実際に存在したかについての疑問が持たれることはあるでしょう。その場合は、「この事例は本やネットなどでも見つからないが、出典は何なのか知りたい」などの疑問をコメントやノートに書くか、また、実際に存在していない可能性が高い場合はその事例を個別にコメントアウトするなどの、適切な方法をとっていただくようお願いします。)--220.158.130.184 2006年2月20日 (月) 09:58 (UTC)

ジョン・マネーの議論に関する部分について修正しました。すくなくとも、フェミニスト(の大半)は、自分たちが、ジョン・マネーの議論をもって、固定的性差の批判の論拠にしてきたわけではないと認識しています。[1] 中立的な表現に改めました。ついでですが、リンク先のブログでの議論で林道義氏は自分のジェンダーフリー批判が、精神分析からのものではないと主張してます。参考まで。133.9.4.11 2006年2月20日 (月) 10:13 (UTC)

基本的な説明にもかかわらず消されていた情報がありましたが、それを復活させ再構成しました。また、情報量が多くなっているので新カテゴリにしました。 --220.158.136.58 2006年2月20日 (月) 19:55 (UTC)

「ジェンダーフリー教育の実践例等」についてですが,真偽の妥当性が保証されていないものがいくつかあるように思います.一次情報を調べて正確な記述に変えようと思ったのですが,なかなか見つからなくて困っています.例えば「昔話の「桃太郎」を「桃子」に変更する。」については女性フォーラムで男女の立場を入れ替えた「劇」が上演されたという事例と,創作による嘘のニュースを楽しむサイト上に過激なフェミニストがそのような主張をしているとの創作ニュースが載っている事例しか見つからず,学校の教育現場で行われているという事例が見つかりませんでした.また,「「ジェンダーチェック」を生徒に行い、ジェンダーフリーを"理解"していないと「化石」と認定される。」というのについては,ジェンダーフリーに批判的な教員がいろんなサイト(岐阜県男女共同参画課「ジェンダーチェックマニュアル」など)を見て独自に作成した「ジェンダーチェック」にて行われていたもので,少なくとも前述のジェンダーチェックマニュアルの方ではそのような認定はされていないようでした. 一人で調べるには限界がありますし,上記以外の事例があるのかもしれませんので,今回は本文の方の訂正はしませんでした.実践例を挙げる場合には真偽を検証可能にするためにも,参照可能な一次情報をあわせて記述した方が良いのではないでしょうか?個人的には一度全ての実践例を消してしまって,一次情報のあるものだけを載せてはどうかと思います.--133.7.7.19 2006年2月22日 (水) 02:55 (UTC)

「ジェンダーフリー教育の実践例等」について、具体的な事例に関しては本文中に、「教育現場をはじめ、教育行政や団体運動等として・・・・」と説明されています。これは、学校の教育現場のみに限定された具体例ではなく、団体の運動等として行われた事例も含まれる表現になっています。したがって、特定のフォーラム等がジェンダーフリーを推進する意図をもって教育的に行った事例が含まれていたとしても問題はないと考えられます。--43.244.9.204 2006年2月23日 (木)
ある団体が催した劇の一例を教育現場での実践例と同列に並べたうえで表記的な区別せずに「昔話の「桃太郎」を「桃子」に変更する。」とだけ書くのは誤解を与えかねないように思います.もしこの事例のみからこの記述が書かれているのであれば,もっと誤解を与えず状況が正確に伝わるような説明が必要だと思います.他に事例があるのかもしれませんので,もうしばらく待って,それでも上記の事例以外の事例が明らかにならないのであれば,女性フォーラムで上記のような劇が演じられたことがあるという内容に訂正したいと考えています.--133.7.7.20 2006年2月23日 (木) 10:38 (UTC)
以前に記述した"210.87.74.132"です。事例に関しては記述を避けるべきだと思います。「事例」という抽出は、抽出されたものが本当に例として適当なのか、抽出の仕方で容易に「言説」を与えられる、もしくは「言説」が排除されていることを明確に説明できないからです。あと、私の言う「中立性」がウィキのとは別とかいう反論がありましたが、それは筋違いです。ウィキペディアは何でないかによれば、事実なら何でも書いてよいというわけではないし、万人に同じイメージを与えるということは、中立的説明、もしくは、批判・肯定を書く場合でも客観的・ゼロサム的でなければなりません。同じイメージを抱けなければ、万人の共有すべき「知識」を述べる「百科事典」としては価値がないです。では、事例として「抽出」という手法によって抽出したものが、本当に中立的・客観的・ゼロサム的たりえるのか、本当にジェンダーフリーを説明するにおいて必要なのか、その事例が知識としてのジェンダーフリーの全てといえるのか。これらの疑問に答えることはできないはずです。仮に、今回の事例が、肯定的な内容だったとしても、私は同様の批判をします。--219.100.45.200 2006年2月24日(Fri) 0:29(UTC)
追記すれば、抽出などの「統計学的手法」は、「無作為」であるからこそ意味があるのであって、事例として抽出するならば、事実の一つ一つ全てに番号を振って、ランダムに抽選した結果を載せるべき。「無作為」を証明できるような事例の抽出ならば誰も文句は言えない。今のままならば、例えそれが事実であろうとも、「無作為」は証明できない。証明できなければ、「言説」ではないという証明もできない。そういう意味で、事例を批判している。--219.100.45.200 2006年2月24日(Fri) 0:49(UTC)
載せる事例を抽出・選別している時点で中立性が保たれなくなるというご指摘はその通りだと思います.しかし,同時に,正確な事例を示すことによる情報価値も重要だと思います.この両方を生かす方法として,個人的には2通りの方法があると思います.ひとつは,全体が網羅できるような事例列挙の分類基準を設定し,その分類基準を明記したうえで全ての項目に事例をあげる方法.もうひとつは,事例の抽出が意図的に行われている可能性があることを文章中に明記して注意喚起する方法.前者については全網羅可能かつ公平な分類基準を設定するのに議論が必要かもしれません(安易に考えれば「賛成派の主張」「反対派の主張」「それ以外の主張」に分けて,誤って一般化されないように第1次情報を明記したうえで事例をあげるなど.この分類基準には若干問題もあるのでもうちょっと考えてみないといけないかもしれませんが).後者は例えば「なお,これらの事例を列挙するにあたり,編集者が意図的に選別を行っている可能性がある点には注意が必要である」等の文言を入れるなど.後者の方法は以前これに近い状態になっていたこと(若干中立でない表現ではありましたが)もありますが,今はこの種の文言は消されてしまっています.これらの方法は両方同時にすることもでき,前者の対応は多少時間が必要ですが,後者ならすぐにでも編集可能です.--133.7.7.19 2006年2月24日 (金) 03:51 (UTC)
追記です.個人的には上記2つの方法が妥当でないならば,事例提示の情報価値を犠牲にしてでも抽出・選別による誤解発生の問題の方を重視して,事例を全て削除するという選択もいたしかたないと思います.--133.7.7.20 2006年2月24日 (金) 04:06 (UTC)
現在書かれている事例は、「ジェンダーフリー教育の実践例等」とされているが、ここに最大の問題があると思う。今書かれている事例の発生過程を概観すると、「思想としてのジェンダーフリー」→「人に理解されたジェンダーフリー」→「理解をもとに現実化されたジェンダーフリー的制度・組織・運動等」→「行動の結果としてのジェンダーフリーの実践例」のような感じになると思う。「思想としてのジェンダーフリー」の具体的事例とするならば、「理解をもとに現実化されたジェンダーフリー的制度・組織・運動等」までは直接の産物といえるだろう。たとえば、「内閣府男女共同参画局の設置」など。どうしても、副産物と見なすべきジェンダーフリー教育の実践例を記述したいならば、むしろ「ジェンダーフリー教育」を別の記事として分化するほうが良いと思う。ジェンダーフリーという項目で説明すべきこととしては、枝葉を広げすぎだろう。--210.87.75.227 2006年2月24日 (金) 06:48 (UTC)
制度・組織・運動について政府や地方公共団体や女性センター等が公式に示しているものに限定して,それ以外は削除するか別項目にするのでも良いと思います.それから追加で『「鯉のぼり」「雛祭り」などの文化的伝統的行事は駄目とされる。』についても調べたところ,これには日本女性学会が見解をだしていて,そこでは,これらの行事に含まれていた「性別と人のありかたを結びつけるシンボリズム」について批判し,5月5日がこどもの日であるようにひなまつりも性別によらない祝いにするのが良いとしているようです(しばらく待ってから修正すると書いた手前もあるので,こちらも含めてもう少しした後で修正したいと思います).--133.7.7.20 2006年3月1日 (水) 10:47 (UTC)
追記.さらに調べたところ,日本女性学習財団発行「新子育て支援 未来を育てる基本のき」に「無意識のうちに,子どもたちに『女らしさ』や『男らしさ』を押しつけるような子育てをしていませんか? ふり返ってみましょう」という項目に「ひな祭り」「鯉のぼり」が出ているというのがあい,これがおおもとのソースのようなので,こちらに書き換えたうえで,賛成する側と反対する側の立場に違いがあるという方向で修正したいと思います.
教育に関連するものと団体の活動とを区別するようにし,上述の注意書きを加えたうえで,ソースを調べたものについてはその情報を追加しました.教育の項目には制度・組織・運動といえそうなものを集めてみましたが,ソースを調べたわけではないので,妥当でなければ位置を変更してください.--133.7.7.19 2006年3月2日 (木) 13:27 (UTC)
本文中に「事例列挙にあたり編集者が意図的に選別を行っている可能性がある点には注意が必要」という不適切な記述があったので削除しました。百科事典の本文中において、ひとりの編集者が他の編集者を攻撃するような記述はあってはならないものです。ウィキペディアにおいては、項目に問題があると思われる場合は冒頭にテンプレートを貼るようになっておりますが、本項目ではすでにその措置がとられております。--220.158.136.197 2006年3月13日 (月) 10:03 (UTC)
この文言は219.100.45.200さんの指摘に対して「事例を載せている時点で抽出・選別により中立性が保たれなくなる危険性への配慮」として書いたものです.ここ数日私自身も事例を編集しており,私自身もこの文章の対象となる編集者でありますから「ひとりの編集者が*他の*編集者を攻撃する」という意図はありません.この文を「攻撃している」と解釈する考え方を私は理解できませんし,そのような誤解がなされないような文章にしたつもりです.しかし,もし,この文章でそのようなご懸念をされるのであれば,消すのでなく,上述の配慮がなされていてかつ攻撃していると解釈されないような別の適切な文章に書き換えていただきたく思います.なお,冒頭のテンプレートは文章全般への指摘であって「事例列挙による問題」に関する指摘ではないため,上記の配慮としては不十分だと思います.もし,しばらく待って他の対処方法がとられないようでしたら時期を見て戻したいと思います.--133.7.7.20 2006年3月15日 (水) 06:39 (UTC)
上記につきまして、「私(133.7.7.20)は219.100.45.200さんの意志にしたがって代わって書いただけ」と言ったところで、ひとりの編集者が他の編集者を攻撃している内容になっていることに変わりありません。そもそも、百科事典の本文中にそのような記述があるのがおかしいということは、市販の(紙製の)百科事典などを思い浮かべてもらえばすぐにわかるはずです。
それ以前に、「全項目をいきなり削除しなければならないほどの重大な問題点がこれだけある」等の具体的な証明も一切なく、「事例抽出の無作為が証明できないから事実さえも書くな」などという曖昧かつ乱暴な主張をきいていたら、ウィキペディアのすべての記述を削除できることになりかねませんので、そのようなものに配慮する必要などありません。133.7.7.20氏は事例についての情報源を追加されたようですが、そちらだけで十分だったと思います。不適切な要求に対して余計な親切心まで出し、百科事典の体裁を壊してしまう愚を犯すことはありません。--220.158.135.149 2006年3月18日 (土) 09:06 (UTC)

:他人に反論する場合は、他人の発言をきちんと読んで反論してください。「事例抽出の無作為が証明できないから事実さえも書くな」と言っているのではなくて、「決定的な定義が発生し、それに基づいて過去をきちんと精査し、客観的な結論を出せるような時機ではないにもかかわらず、中立性を証明できないような事例の抽出を、現在の不安定な段階で中立性を犯す危険を取ってまで記述することにどのようなメリットがあるのか」と言うのが趣旨です。また、前にも言いましたが、「ウィキとは何ではないか」にも、「事実なら何でも書いてよいわけではない。事実暴露の場ではない。」と明記されています。百科事典の体裁と言う文言もありますが、百科事典とは、世にある定義と客観的事実を伝える媒体であって、世の中にあるものを定義づけるものではない(辞書ではない)。専門家集団でないにもかかわらず、今無理をして事例の列挙にこだわることにメリットはないし、ウィキ内の他の文書でも、ひと段落して客観的価値判断が確定してから書き込むというのは常識。百科事典には、体裁だけの論理は不要なのです。--219.111.93.242 2006年3月19日 (Sun) 15:12 (UTC)

219.111.93.242氏は、 「「ウィキとは何ではないか」にも、事実なら何でも書いてよいわけではないと書かれてある」 とたびたび主張されておりますが、その注意事項をきちんと読んでおられるのでしょうか。その注意事項は、主に個人のプライバシーの保護の目的で書かれているものです(「知られていない事実を暴露することが目的ではなく、個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述に関しては、それが事実であっても保守的な態度で記述をさけるべきです」というのが主旨です)。本項目については公的に行われている教育等の事例が書かれてあるだけであり、上記の注意には該当しません。
それから、「“客観的価値判断”が確定してから書き込むのが常識」なる記述は、ウィキペディアのガイドラインのいったいどこに存在しているのでしょうか? それどころか、 「記事は偏りのない「客観的な」観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません」 と、はっきり書かれています。これは、いち編集者が 「私こそが、この事実(本項目ではジェンダーフリー思想や運動)に対する“客観的な観点での(「正しい」)評価”を行える者であり、読者にその評価基準を持たせなければならない」 といった独断により、本文内に演説が書かれてしまうことを避けるために、わざわざ書かれてあることです。
219.111.93.242氏の間違いは、ウィキペディアにおける「中立性」を、「事実についての“客観的(「正しい」)評価”」であると思っていたこと、また、その「客観的価値判断」なるものが存在するとしたうえで、「万人に同じイメージ=客観的評価を抱かせなければならない」と考えていたことです。しかし、ウィキペディアにおける「中立性」とは、「論争における様々な立場がある場合、両論が存在する事実を書くこと」なのであり、けして、「論争について“客観的価値判断(評価)”が決定されているものとすること(どのような意見が正しいものであるか等示唆すること)」「読者の皆がその“客観的評価”を抱かなければならないこと」などではありません。本項目でも、推進派の主張と、反対派の主張が併記してあるわけで、各事例はその論点となった事実の情報が提示されているものです(したがって、いち編集者である219.111.93.242氏が、「私が考えるジェンダーフリー観が示されない記述は削除してしまえ」 という乱暴な行為をしてよいものではないということになります)。
以上により、219.111.93.242氏がウィキペディアについて間違ったとらえ方をしていたことがわかっていただけたと思います。--220.158.136.88 2006年3月20日 (月) 11:12 (UTC)
上記の意見は、至って正しいように見えますが、誤りがあります。まず、私に他にする反論が常に敵意と、私の論理を貶めるための意図を含んでいると言う点(たとえば、「したがって、いち編集者である219.111.93.242氏が、「私が考えるジェンダーフリー観が示されない記述は削除してしまえ」 という乱暴な行為」と言う記述。あくまで、「中立性の維持が困難」と言う事例の削除理由を主張しているだけで、「○○というジェンダーフリー観を記述しろ」と主張した覚えは無いにもかかわらず、こういった反論をされては困ります)。そして、他人に情報を与える上で、「事例の抽出・列挙」が、世の中に価値判断のない状況では、容易に言説になりえると言うことです。たとえあなたが「賛否両論を併記している上で、その情報に関する事実だから大丈夫」と言ったとしても、それはあなたの想像の域であり、危険性は依然として維持されていると言う点です。仮に譲歩して、219.111.93.242氏の中立性の意図を持って事例を書くならば、反対、賛成、中立etcの一範囲同数事例にまとめるべきです。220.158.136.88氏の主張は、情報提供者としての責任感が感じられません。このままの事例列挙が世の中の定義に影響を与える危険性を多分に含んでいることを考えれば、避けるべきです。また、ガイドラインに無いから行ってよいというのも誤りです。そういう論理は、ガイドラインが完璧であることが前提条件です。今後様々な問題が発生すれば、そのガイドラインも改正されるのです。さらに、ノートでの合意形成の産物をいきなり削除するのも問題です。

私がなぜ、世の中の価値判断の決定にこだわるのかというのは、その決定が行われることが、「その事例に対する精査・評価が一般的に成立した」という基準になるだろう考えに基づいています(つまり、自分の判断ではない、圧倒的大多数の共通認識による判断基準の採用)。そうすれば、百科事典が辞書となる、もしくは世の中の評価に影響を与えるような百科事典にあるまじき事態を避けることができると考えるからです。 百科事典に事例を記述するなら、「完全過去性(事例と、事例は何だったのかが確定している)」「追跡可能性(記述の判断を他のソースで確認できる)」「単純知識性(○には△があり、×には□がある。=同様のイメージ、中立的)」が必要。「客観的」に関しても反論がありますが、私の言う「客観的」とは、本人の思う「客観的」ではなく、一般共通認識としての「客観性」です。また、編集者に完全な「客観性」を持たせることはできないとはいえ、できる限りそれは達成されなければならない。だからこそ、「自分以外」の「客観的論理・一般共通認識」が必要なのです。学会で参考文献、引用文献が重要視されるのもその理由からです。 「日本語版ウィキペディア」の「客観性」の現状は惨憺たるものです。大学では「インターネット、特にウィキは使うな」と具体名まで指定してお達しが出るほどです。なぜそのようになるのかは、「学術レベルに準ずる、もしくは近づくような論理性、客観性がない」からです。本来、ウィキの中立性の目的の一つは、こういったことを達成するためにあるはずです。つまりは、「客観」の対義語、「主観」があってはならないし、「主観」を与える可能性のある文言、文章構成、言説は排除して当然なのです。だからこぞ、文言によらない部分の「言説の排除」も、ガイドラインには明記されています。最終的には、編集者としての責任感の問題に尽きると思います。「決まり」に従うことが大切なのではなく、「決まりの根本にある精神」を順守することが重要だと考えます。そして、ガイドラインの先を行く「高い倫理」を要求することも必要だと考えます。。--219.100.47.80 2006年3月23日 (thu) 06:09 (UTC)

「中立性の維持が困難」「主観を与える可能性のある文言、文章構成、言説は排除して当然だ」等、曖昧なことを何度繰り返しても意味がありません。そろそろ、具体的なことを書かれるようお願いします。「事例の列挙は明らかな言説だ」と主張されるのでしたら、まず、それがどのようなことを言っている言説であるのかと、その「言説」のどこが問題であるのかを具体的に書いてください。--220.158.130.121 2006年3月26日 (日) 11:01 (UTC)
数日前に事例の前文について意見を書いた者です.私の懸念は「事例を載せている時点で抽出・選別により中立性が保たれなくなる危険性への配慮」ですので読み違えないでください.この対象には私の編集内容も含まれますし,この配慮ができるのであれば方法にはこだわりません.個人的にはこのジェンダーフリーの項は「中立的な観点」での議論が要求されているので,一般の百科事典の如何にかかわらず,念のために先のようは配慮のための文章を入れた方が良いと思います.また,そうするか否かに関わらずですが,現状での事例列挙には,抽出の仕方がおかしなものや根拠が不明瞭だと思われるものが多いと私は感じています.教科書の記述の点検や最近追加されたスカートの件などは誰が(あるいはどの機関が)いつ何を言ったのかの記述がありません(Web上に出所不明のページがあるのは見つけましたが).保育士関連の話はおそらくフリーセル保育のことだと思って調べたのですが,批判者側の国会答弁等にはこの事例が見つからず,また推進している側のこの事例を示す正式な文書も見つかりませんでした.ジェンダーチェックについても同様です.これらの一部は以前消されたこともありますが,ソースが示されることなく復活しています.このままでは記述の信頼性はかなり低くなりますし,直そうにもソースがわからないので手がでません.私にできる範囲で内容を修正していますが,個人で調べるにも限界があります.検証可能な1次ソースが示せないならこれらは削除するか,あるいは,「批判の事例」のような項目を作って2次情報(国会答弁である議員が○○という事例があるといって批判したとか,ある新聞に○○が行なわれているという批判記事が載った等)に書き換えるべきだと思います.--133.7.7.19 2006年3月27日 (月) 11:52 (UTC)
「抽出・選別により中立性が保たれなくなる危険性」について言われることはかまわないと思いますが、本文中に「編集者が意図的に編集している可能性がある」と書くようなことを、百科事典において行ってはいけません。すべきことは、中立性に疑問があるならば具体的にどの点がそうであるかを、このノートなどで説明することでしょう。
事実としてあったかが疑わしいものについては、調べたうえでどうしても見つからなければ、その旨を明記したうえでいったんコメントアウトしてもよいとは思います。なお、「ジェンダーチェック」については検索すればいくらでも出てきますので、事実として間違いはないでしょう。--220.158.128.116 2006年3月27日 (月) 15:06 (UTC)