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ノート:ジョン・ラーベ

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「武器商人」について[編集]

peace系と議論する必要はありませんので、他の方向けの説明です。

「ラーベ」を「武器商人」と記述したがる方(peace系)がいるようですが、ラーベが支社長を務めていたジーメンス社南京支社が、1937当時に「武器」を国民党政府に販売していた、という資料は、私が調べた限りでは存在しません。ドイツー中国国民党への武器輸出は、ハブロ社、あるいはカルロヴィッツ商会を通じたものでした。

「ラーベ=武器商人」説を唱えるのはほとんど唯一、田中正明氏のみですが、その記述の根拠は「南京戦史」の記述を曲解したものであると思われます。

詳しくは、こちらをどうぞ。[1]ゆう(matunami) 2008年2月23日 (土) 09:24 (UTC)[返信]


「ラーベ=武器商人」説の真偽については判断しかねますが、とりあえず本文中にあるのは不適切と判断し、脚注化しました。あくまでも“説”であり、また私見を述べさせていただければ、この説が例え正しかったとしても、南京大虐殺論争に特に影響することは無いと考えておりますので、載っていても別に問題ないとは思います。それでも何らかの問題(例えば、故人への名誉毀損等)が生じるというのであれば、議論を経た上で削除しても構いません。--花蝶風月雪月花警部 2008年2月23日 (土) 18:58 (UTC)[返信]

私としては、学問的に相手にされていない「珍説」を掲載する必要はないと思っておりますが、一応、「客観的事実」を加えておきました。明らかな間違いであり、また掲載に価する文章であるとは思われませんので、異議がなければ、機会を見て削除することにしたいと思います。
なお田中正明氏は、「松井石根日記」をめぐって資料の大量改竄が問題にされ、板倉正明氏などの研究者から厳しく批判された人物です。また氏の文章には根拠のないもの、資料の明らかな捻じ曲げ引用が目立ちますので、氏の主張の正確性を判断するに当たっては具体的な史料での再検証が必要でしょう(サンプルが必要でしたら、ネットでもあちこちで見ることができます。私のサイトにも満載してあります)。なぜかpeace系は田中氏の文章に何の疑問も抱かないようですが。
なお上のpeace系発言は、当アカウントのブロック後、「投稿ブロックの方針」3.5に基づき削除することにします。
あとお願いですが、明らかにpeace系が編集した記事については、できましたら編集を少し待っていただけないでしょうか。本来peace系には「編集する権利」はありませんし、「投稿ブロックの方針」3.5に基づく「peace系編集の差戻し」を行う時に、ややこしくなりますので。もしpeace系の編集が正当であるとお考えでしたら、その「差戻し」の後に再度編集をかけていただければと思います。ご配慮いただければ幸いです。ゆう(matunami) 2008年2月23日 (土) 21:01 (UTC)[返信]

「中立性の観点」との関係[編集]

「井戸端」に書こうと思ったのですが、あちらはすぐに消えてしまいますし、個別の議論はノートの方がふさわしいので、こちらにコメントします。問題提起者が明らかなpeace系であれば、コミュニティはいちいちこれを相手にする必要はないのですが。

Wikipedia:中立的な観点には、こうあります。「われわれに課せられた任務は、その疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介するという何かインチキな「フェア」の概念に基づいて論争をフェアに描写することではありません。むしろわれわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。

では、ある見方が「少数派」ですらなく、「単なる「珍説」であり誰もそれを相手にしていない」場合には、どうすればいいのでしょうか。誰も相手にしていない状況では、そもそも「主流派の反対意見」を掲載することは不可能です。では、それを「事実」であるかのように紹介していい、ということになるのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。

具体的な例を挙げます。Peace系は、「ラーベは武器商人」という表現に固執しました。私がこれを根拠のない珍説であることを指摘すると、今度は文章を「一説には、ラーべは対中国国民党の武器商人とされている(田中正明 月刊日本1998.1)。」と変えてきました。出典が存在するのだから掲載してもいいだろう、というわけです。まさに上の状況ですね。

「ラーベ=武器商人」説は、まともな歴史学者には誰にも相手にされていない、根拠のない「珍説」です。そこで私は、このような説明を加えました。「田中正明による主張。ただし田中はその根拠を示しておらず、また田中の説に同調する歴史学者も存在しない。」

このようなケースにおいては、「珍説」を全く紹介しないか、このようなコメント付で掲載するのが妥当だと考えます。Peace系は「三大方針」(正確には「三つの方針」だと思う)にやたらと固執しますが、このあたりは「中立的な観点」が想定している範囲を超えており、「常識」で判断すべき世界になるでしょう。

ついでですが、peace系はこの後に、「また史実を世界に発信する会はラーべを「国民党の御用商人」と表現している」という文を加えてきました。

実を言えばこれは、「ラーベが武器商人なんて馬鹿なことを言うとサヨクが喜ぶだけ。「御用商人」とでも言っておけばいいんだ」という趣旨の、ほとんどラーベの悪口を言いたいがためだけの文章です。こんな文章、いちいち「百科事典」に掲載するかあ、ということはさておいても、「右派」においても「ラーベ=武器商人説」は相手にされていないわけですね。peace系はこのあたりをネグレクトしているわけです。ゆう(matunami) 2008年2月29日 (金) 22:07 (UTC)[返信]

「ラーベ=武器商人」説におけるmatunamiさんとpeace系との意見を比較して[編集]

比較すれば、「「ラーベ=武器商人説」を記述については、

  • 「matunamiさんのサイトで既存の資料から多くの反論が可能であること」
  • 「他の虐殺否定派からも見向きもされない珍説」

などからmatunamiさんの主張が通る記述が百科事典としてのWikipediaにふさわしいでしょう。--経済準学士 2008年3月3日 (月) 14:52 (UTC)[返信]

Peace系として無期限ブロックされた者の発言は、無視して終了。Agentsaveさんは要約欄に「議論の経過が追えないので最低でも打ち消し線にすべき」と書いておられるので、以後はコメントアウトにいたしましょう。--大六天 2008年3月4日 (火) 12:42 (UTC)[返信]

時代背景[編集]

当時ドイツは国民党軍を支援する敵国であったという事実を書いていないのはおかしいです。 彼ら南京の欧米人は、中立的立場から滞在していたわけではなく、日本からすれば国民党側につく敵性外国人であったことを書かないのは公平ではありません。 また、ラーベが専門の武器商人であったという表現自体はおかしいですが、そういう表現を使っているのが◯◯さんというだけで、当時武器輸出を禁じられていたドイツが民間商社を通じて国民党政府に武器を売っていたことはほぼ歴史的事実なわけです。たとえラーベ個人について、この日記に記されるはずもない事実が特定できないからといって、彼ら南京にいた欧米人と軍事・武器との関係がないかのように誇張して書くのは、明らかな虚偽です。--Rightpiano 2009/02/15

ドイツと植民地[編集]

1910-20年代のドイツは、植民地主義をとっており、中国にも青島(膠州湾)という植民地をもっていました。他の欧米列国も旅順、大連、広州などを植民地としていました。地名からもわかるように、これらの植民地は日本の伸張や戦勝によって次々と奪われます。ドイツも第一次大戦の青島戦で日本軍に破れて、植民地を失います。領地を失った彼らがとったのが、蒋介石の国民党軍を軍事・武器・資金で支援して、日本の伸張を抑え、中国が日本の唱える新秩序に組み込まれないよう、再び植民地を取り戻せるようにすることでした。しかしながら、この努力は実らず、南京戦で国民党軍が破れたことにより、南京にいた欧米人(軍人・商社員)も中国を追い出されてしまいます。ラーベも30年もの植民努力が無駄になり失意の内に帰国したのです。本国に帰った彼らができるのは、中国側の反日宣伝、戦時プロパガンダをそのまま本国に伝えることだけでした。しかし、中国での利権をすべて失ったドイツは方針を大転換し、東アジアは日本に任せるという条件(三国同盟 1940)で、日本と同盟する道を選ぶのです。 こういう時代背景をすこしは書かないと、なぜラーベが帰国後反日宣伝みたいなことをやったのか、なぜそれが次の時代のドイツでは受け入れられなかったのかわかりません。つまり、ラーベらのヴィルヘルム二世時代のドイツ人と、その後のナチスドイツのドイツ人では、日本に対する態度が正反対なのです。 --Rightpiano 2009/2/15

ヴィルヘルム二世時代とナチス時代[編集]

ラーベはドイツ皇帝ヴィルヘルム二世時代に青春期をすごした人です。アフリカ勤務を経て、1908年に中国にやって来て、そこで30年を過ごしました。つまり彼の考え方は帝政時代のそれなのです。この時代のドイツには強い人種主義がはびこっており、黄禍論者として知られる皇帝ヴィルヘルム二世は、イギリスが日本と同盟を結んだことを「白人種への裏切り」として強く非難します。日露戦争で日本がロシアに勝ったことは脅威で、それまでアジア人を猿としか見ていなかった当時のヨーロッパ人は日本への警戒感でいっぱいだったのです。ラーベら中国の欧米人の植民活動、のちの国民党軍への軍事・資金支援もすべて、日本を増長させないためです。しかし、東アジア地区の欧米勢力だけでは日本に対抗することはできなかった。ドイツも中国での権益をすべて失い撤退します。ナチス時代になると、このことを素直に認めて、日本を無闇に恐れるのではなく、その実力を認めて自らパートナーとして同盟するという考え方が生まれてくるのです。ラーベら前時代の人種主義者(彼は反ユダヤ主義者です)には、そんな考え方はありません。猿と同盟するなど考えられないことです。だから、日本軍は残虐行為を行う野蛮人種だというプロパガンダに走ったのです。ラーベが言いたかったのは、けっして中国人のために日本軍の野蛮行為をやめさせよということではなく、わがドイツは野蛮人種の日本なんかと同盟するなということだったのです。--Rightpiano 2009/2/16

出典の明記[編集]

「国民党の関わり」節において、「しかし、実際にラーベやシーメンス社が高射砲などの武器の供与に関わった歴史資料はなく、シーメンス社にもラーベが武器を販売したという記録は残っていないため、これらの説を裏付ける証拠はない」という記述がありますが、この文章の出典を明記してください。なお、シーメンスが軍事産業に関与していたかどうかについては、項目中独合作を拝見なさるか、本記事にもありますように、田嶋氏などの著作を拝見なさったうえで、ご判断ください。調査もされずに、この文章を書き込まれたのだとすると、独自研究にあたります。--西方 2011年6月30日 (木) 11:11 (UTC)[返信]

ご指摘の一文を記述した者ですが、その前の版ではこのような内容になっており、私はそれをいくぶん中立的な表現に近づける編集を行ったのみで、内容については特に調査などはしておりません。ですので、それ自体の真偽に関しては改変前の文章を記述された方々のご意見を伺いたいところです。ただ、「確かに記録がないということを示せ」というのは一種の悪魔の証明であって、示さない(示せない)なら独自研究だとするのはやや無理筋のようにも思えます。逆に「記録があること」が証明できるなら話は別ですが。--Yasu 2011年7月1日 (金) 14:58 (UTC)[返信]
Yasu さんの編集とは、
1.「なお、当時のドイツは中国戦線においては日本の同盟国ではなく、第一次大戦での青島攻防戦での旧交戦国であり、アメリカ、イギリスとともに、蒋介石の国民党軍を軍事、財政的に支援する敵対勢力であった。ドイツは国民党に莫大な借款を与え、多量の武器を供与し、軍事顧問団の派遣まで行っていた。ちなみに蒋介石軍の用いていた武器の70%がドイツ製であったといわれる。ただし、ドイツは先の第一次大戦の敗北によって、表向きは武器の輸出を禁止されており、ラーベらのような民間会社の駐在員が中国への武器輸出をも仲介していたと思われる。ジーメンス社はラーベを通じて国民党に電話施設や発電所施設を売っており、彼自身が武器密輸の責任者であったかどうかは不明であるが、中国滞在30年の最古参の社員であり、ナチス党南京副支部長でもあった彼がこれに全く関与していなかったとは考えにくいと主張する者がいるが、実際にラーベやジーメンス社が高射砲などの武器の供与に関わった証拠は全くないのが事実である。 いずれにせよ、日本軍の侵攻によって、30年間の植民努力を無駄にされて帰国せざるをえなかったラーベは、個人的にも、また国民党を支援する当時のドイツの国策的にも中立的人物であったとは言いがたい。」
という記述を、
2.「しかし、実際にラーベやシーメンス社が高射砲などの武器の供与に関わった歴史資料はなく、シーメンス社にもラーベが武器を販売したという記録は残っていないため、これらの説を裏付ける証拠はない」
とされたわけですね?
この編集は、Yasuさんが調査をされたわけではないということですので、出典なしに、記述を大幅な削除をふくめて編集されたものです。したがって、「いくぶん中立的な表現に近づける編集を行ったのみ」とは、私にはとうていおもわれません。むろん、1の記述にも出典が欲しい箇所が複数ありますが、それであれば、要出典テンプレをつけるなどの対処の方が賢明だと思われます。さて、以下、私がコメントアウトした理由も含めて、説明いたします。
出典の明記
軍司顧問団や借款などについては、参考文献は相当あります。ジーメンス社の関与については、中独合作記事をご覧くださるとわかるかと思いますが、Germany and Republican China by William Kirby, Stanford University Press, 1984、ほか田嶋信雄氏の研究をはじめ日本語文献も多数あります。Kirbyの邦訳が出ていないのかどうかは調査してみますが、この件については、おそらく英語版を翻訳しているところもあるかと思います。そして、出典が明記されている以上、その記述を消すには、それが英書であっても、出典に実際にあたって、当該記述が出典先と内容上合致するかどうかを確認する作業が求められます。私自身の編集議論経験でも(別記事においてですが)、出典先と記事本文の記述が異なることについても議論されたケースも複数回あります。(もっともYasuさんの編集は、元の文が出典を明記してなかったので、この限りではありませんが)。
「中立的な表現」
それから「中立的」とおっしゃいますが、あなたの編集だと、節内の他の記述との整合性とも矛盾し、かつそれらを否定される内容になっております(これがコメントアウトの理由です)。William Kirby氏や田嶋信雄氏の研究を全否定される内容ともとれる記述は、出典がないのであれば、なおさら、記載に値しません。むろん、だれか論者が著作物などにおいて同内容のことを書かれている場合は、「◯◯は、“シーメンスの関与を示す資料は存在しない”としている(以下出典)」とは、当然、事実ですので、記載できます(Wikipedia:中立的な観点参照)。
おそらく、Yasuさんは、「ラーベは、個人的にも、また国民党を支援する当時のドイツの国策的にも中立的人物であったとは言いがたい」という表現を「中立的でない」と判断されたのだと思います。この記述については、たしかに私も出典を要求したく思います(とはいえ、文章からして、むしろなにかの著作物からの引用ないしは引き写しのようにも私は推定しますが、その場合はWikipedia:著作権の観点から削除または再編集の必要を主張可能です)。私も時間をみつけて、調査しますが。
以上をもちまして、私は、1の文章を、出典タグを付けた上で,復旧することを提案します。
なお、これは悪魔の証明の話しでもなんでもなく、たんに、Wikipedia:出典を明記するWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:信頼できる情報源といった、ウィキペディアの方針とガイドラインに関することです。--西方 2011年7月2日 (土) 08:48 (UTC)[返信]
若干の誤解があるようですが、差分をよくご確認ください。当該節に関しては、表現の修正を行ったのみです。具体的には、
  • 田中正明は……とする説を発表した。……)しかし、この説を証明する歴史資料は皆無であり、ラーベが高射砲を販売したという話を田中がどこから持ち出したのか、全く不明である。ジーメンス社にあるラーべの販売記録にも武器を販売したという記録はない。
  • (米ハーバード大学のウイリアム・カービィ教授は……と述べている。)しかしながら、この説も事実関係を証明する証拠が全く存在しない。
  • (……彼がこれに全く関与していなかったとは考えにくいと主張する者がいる)が、実際にラーベやジーメンス社が高射砲などの武器の供与に関わった証拠は全くないのが事実である。
といった部分が、田中やKirbyらの説を一方的に否定しており中立的でないように思われましたので、西方さんが挙げられた2.の文章の通り修正したものです。1.の部分の内容も別段落に残していますので、記述の「大幅な削除」にはあたらないものと判断します。また、この編集によって完全に中立的な内容になったとは申しませんが、少なくともかえって中立性が損なわれていたり、他の記述と矛盾しているとも思われません。それでも以前の版の通りに戻すべきであるということでしたら、改めてご説明いただいた上で再度ご提案をお願いしたいと思います。なお、ご発言のインデントを一部調整させていただきました。--Yasu 2011年7月4日 (月) 15:02 (UTC)[返信]
特にご反論もない様子ですので、当方の申し立てはご理解いただけたものと判断します。当方からも提案ですが、現在コメントアウトされている「しかし、実際にラーベやシーメンス社が……証拠はない」という記述の部分につき、このコメントアウトを外し記述を復帰したいと思います。理由は、ラーベやシーメンスが実際に武器を売っていたかどうかについて、どちらか一方の説を裏付ける確たる証拠がないのであれば中立性に鑑みて両論併記とすべきであり、現状では「ラーベは武器商人であった」という説のみが述べられているため、「しかしその証拠は残っていない(または発見されていない)」という注記が必要になるからです。--Yasu 2011年7月13日 (水) 15:08 (UTC)[返信]
差分については了解しました。コメントアウトの外しの件については、やはり出典が明記されないといけないと思います。両論併記といっても、出典のない独自研究的な記述が増えることは適切ではありません。むろん、両論併記そのものには反対ではありませんが。あと、「ラーベ=武器商人」というより、シーメンス社が武器製造に関わっていたということだと思いますが。いずれにせよ、十分に信頼可能な出典に基づく記述であれば、異論はないどころか、歓迎ですが、出典を明記されないでの記載(コメントアウトからの復帰)には反対です。--西方 2011年7月16日 (土) 23:09 (UTC)  なお、シーメンス社の武器製造については、三菱重工業の武器製造とまったく同程度に明白な史実ですし、そのことをあえて否定する書籍や研究書は、あるのでしょうか?--西方 2011年7月16日 (土) 23:12 (UTC)[返信]
差分に関しては了解していただけたということで何よりです。しかし、ここでも誤解があるようですが、今回問題になっているのは「ラーベ(およびシーメンス)が中国側に武器を売っていたかどうか」であって、「シーメンスが武器を作っていたかどうか」ではないはずです。私の編集の前の版でも、シーメンスが武器を製造していたこと自体を否定する記述は本文中にありません。
もし「ラーベが武器を売っていたという証拠はない」という記述の出典が必要かということであれば、以前にも述べた通り「ないことを証明せよ」というのは悪魔の証明になりますから、そもそも無理な話です。ウィキペディアの正式なルールにはなっていませんが、これまでの各種議論に目を通した限りでは「ないことを証明せよと要求することはできない」という考えが一般的なようです(悪魔の証明にリンクしている各議論ページをごらんください)。逆に、ラーベが武器商人だった証拠があるならば、その出典を明記した上で「証拠はない」という記述を除去できるわけです。それが不可能であるのなら、「証拠はない」と記述されていても同じことではないでしょうか。--Yasu 2011年7月18日 (月) 15:55 (UTC)[返信]

(インデント戻し)ラーベ=「武器商人」という表現が私にはひっかかるのです。そのような表現を行っている信頼性の高い出版された刊行物はあるのでしょうか?あれば、記載してください。

なおYasuさんは「ないことを証明せよと要求するのは悪魔の証明」と繰り返されますが、「…という説の根拠はない」という文章があらゆる記述に記載可能になりますよね、論理的に。それは、無茶な話ですし、悪魔の証明記事のノートやはてなキーワードその他でもありますが、隠語として「悪魔の証明」を使用することは、適切ではありません。私はディベートをしてるわけでも、詭弁を述べているのでもなく、たんに、出典の明記を要求しているだけです。私が要求していることを「悪魔の証明」だと難じることは、私の言い分が、「詭弁」だという意味ですか?--西方 2011年7月19日 (火) 15:52 (UTC)[返信]

問題なのは「シーメンスが武器を作っていたか」ではなく「シーメンスやラーベが武器を売っていたか」であるという点についてはよろしいですね。
なぜ突然「武器商人」という表現に異議を唱えられたのかよく分かりませんが、これは本ノートの過去の議論にもある通り『月刊日本』(1998年1月)という文献における田中正明の説に基づくもののようです。なお、これは私が記述したわけではなく、当該文献の確認もしておりませんので、そこで「武器商人」という表現が実際に用いられているのかどうかは不明です。しかしそもそも、もしラーベが実際に武器を中国側に売っていたとするなら「武器商人」と言い換えても一般的には何ら差し支えないはずですし、「ラーベ=武器商人」説の真偽は別として、この表現自体が特に問題になるものとは思われません。逆に言えば「武器商人」という表現を使わなくともよいということにもなりますが、いずれにしても重要な論点ではないと判断します。
後段については、おっしゃる通り、ある説を証明することができないのであれば「……という説の根拠はない」と記述できるということになるでしょう。はてなキーワードに何が書いてあるのかは存じませんし、「隠語として『悪魔の証明』を使用」とはどういうことなのかもちょっと分かりかねますが、私が申し上げたいのは「証拠が存在しないということの出典を要求することは、ウィキペディアでは受け入れられないようだ(従ってそのような出典要求に応える必要はないはずである)」ということです。もっとも先に申し上げたように、これはルールとして明記されているわけではないので、もし納得していただけないのでしたらコメント依頼を出されることをお勧めします。--Yasu 2011年7月20日 (水) 15:40 (UTC)[返信]
「武器商人」という表現の是非については、私は同じくWikipedia:検証可能性に準しているのみです。Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にをお読みください。そこには、「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。…」とあります。なお悪魔の証明に関しましてはWikipedia:方針とガイドラインに記載がございません。--西方 2011年8月2日 (火) 14:05 (UTC) なお、私は検証可能な出典が明記された記述であれば、削除はいたしません。--西方 2011年8月2日 (火) 14:10 (UTC)[返信]
まず、悪魔の証明云々に関して過去の議論を探したところWikipedia‐ノート:検証可能性/Archive02#不存在の証明というものがありました。それによれば、西方さんのおっしゃる通り「『証拠がない』と書くだけでなく、誰が『証拠がない』としているのか明示する必要あり」ということになるようです。よって、当初の判断を撤回し「証拠はない」という記述部分のコメントアウトを外す提案は取り下げます。
一方「武器商人」という表現については、私の感覚では「武器を売る者」とほぼ同じ意味に取れます。従いまして、ある情報源において「ラーベは武器を売っていた」と書いてあったとして、それを「ラーベは武器商人だった」と言い換えたとしても何ら問題とは思われません。念のためWikipedia:検証可能性を確認しましたが、「情報源が用いている通りの表現しか使ってはならない」というルールは見当たらないようです。もちろん、あえて言い換えなくともよいわけですが、特に禁じられていないことに対してダメだとおっしゃるのには違和感が拭えませんので、この点ははっきりさせておきたいと思います。--Yasu 2011年8月6日 (土) 16:15 (UTC)[返信]
  • 出典の明記に関して、Yasuさんのご理解がいただけたようでよかったです。
  • 「武器商人」という表現については、「情報源が用いている通りの表現しか使ってはならない」といっているわけではなく、若干、煽動的なといいますか、あくまで語感に関してですが、ニュアンスについて問うたまでです。むろん、私の提起の本筋はあくまで「出典の明記」に関してであり、「武器商人」という語に関する疑義は二次的といいますか、瑣末な話題ではあります。しかし、ウィキペディアの記事本文における表現について、議論が禁じられてることもありません。つまり、表現についての議論はあってもいいわけです。ただ、現時点では「武器商人という表現を使うべきではない」という案件を強く主張したいわけでもありません(わたしが前に発言したのは、あくまで説明の一環としてでした)。--西方 2011年8月8日 (月) 15:34 (UTC)[返信]
なるほど、よく分かりました。私個人としては、「武器商人」は(肯定的な意味合いで使われることは少ないにせよ)わりあい一般的に用いられる語であると認識していますので、この語について取り立てて偏ったニュアンスは感じませんが、たとえば歴史上の経緯などで特定のコンテクストを帯びていると思われる語の場合、使用の妥当性について問題提起することはまったく構わないと思います。西方さんがおっしゃりたいのはこういった内容ということでよろしいでしょうか? --Yasu 2011年8月9日 (火) 14:58 (UTC)[返信]
一般論としてはそうですね。「商人」という語は、歴史時代といいますか、おおざっぱには、近代以前の商業従事者を指すように感じていますもので。ただ、すみません、この件については、私も過敏にすぎたかな、と思っておりますので、現時点では、問題提起としても取り下げいたします。むしろ、この話題は、死の商人記事において行うことかもしれません。(私がいっていた「ニュアンス」とはまさにこの「死の商人」という表現に類似したもの、と思われたからでした。)--西方 2011年8月13日 (土) 09:46 (UTC) 補足。かつてこのノートにおいても「武器商人」という表現について議論がかわされておりますが、私は先行する議論をふまえておりませんでした(走り読み程度はしていましたが)。まあ、私の立場は、出版物などにおいて「武器商人」という表記をする論者がいるのであれば、出典明記のうえで記述されてかまわない、と思っております(そういう意味では、先行する議論においてみられる見解とは異なるのかもしれません。)--西方 2011年8月13日 (土) 09:53 (UTC)[返信]

『日記』の記事の出典について[編集]

  • 「ベルリンの失意時代に書かれた」という説明がありますが、『南京の真実』p.17では、「(1936年の秋から)それからおよそ1年後、ラーベは日記に書いた。」(…)「帰国後、ラーベは日記を清書し、資料とあわせて800ページからなる2巻本にまとめ」とあり、南京で書いたものをドイツで編集しているだけなので、「ベルリンの失意時代に書かれた」という説明は適切とは思えません。記載がなくても説明上の問題を生じないので、必要なければ削除したいと思います。特段ご意見なければ、1週間後をめどに記載を修正します。
  • 「また、一般的にこの日記は日本軍の南京における残虐行為を証言する内容を含むと誤解されているが、実際には中国人の間に日本軍による虐殺の噂があること、安全区において5件の殺人事件の通報があったことを伝えているだけで、ラーベ自身は1件の殺人も残虐行為も目撃・証言してはいない。さらに、日記では日本軍に対する告発のほかにも、難民が避難している安全区に砲台を設けたり、安全区内の空家に潜伏し、放火や掠奪行為を行う中国兵、市民を置いて逃亡した蒋介石政府と唐生智将軍など、中国側にとっても辛辣な記述があり、ラーベ自身も「ここはアジアなのだ!」と記している。また文中には反ユダヤ的な言動がいくつか見られ、ラーベが帝政時代に多かった反ユダヤ主義者であったこともわかる。」については、出典がなく、検証可能性に問題があると思います。執筆者の責任で、出典を明記してください。ご対応いただけない場合は、1週間後をめどに削除し、ノートに記載を移します。

Aburakass会話2014年3月26日 (水) 19:59 (UTC)[返信]