ノート:ジョージ山岡

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山岡鉄舟との血縁関係?[編集]

山岡鉄舟は曾祖父にあたる」という記述がありますが、ジョージの父・山岡(鈴木)音高と鉄舟との血縁関係が確認できません。年齢的にも、鉄舟は1836年生、音高は1862年生で26歳しか違わず、音高が鉄舟の孫という可能性は考えにくい。正直に申し上げますと、私は、この話は音高のことを知らない誰かが広めたデマではないか、と疑っています。--Sorafumi会話2016年4月26日 (火) 11:05 (UTC)[返信]

山岡鉄舟研究会「痩我慢の説と鉄舟・・・その一」というブログ記事に、「定本山岡鉄舟」(新人物往来社)に掲載されている牛山栄治氏の記述として、興味深いことが書いてありましたので以下長くなりますが引用します。
「鉄舟屋敷には、日本の石油開発の創始者になった石坂周造が、明治三年に第三回目の入獄から出牢して身を寄せ鉄舟の付籍となっていたが、鉄舟夫人英子の妹圭子を後妻にしたのでこの石坂夫婦が同居している。
この石坂には、嘉永五年三月二日に先妻との間に生まれた長男宗之助がいたが、この宗之助を鉄舟は長女松子の婿養子にして同居し、これが東京に出てから明治十六年十一月二十六日に長女まさと、明治十九年一月十四日に長男英一を生んでいる。
宗之助は温順な人柄であるが、石坂が石油会社を創立すると、八年間もアメリカのペンシルヴァニア州に留学させられ、石油採掘と精製について研究し、帰朝してからは鉄舟の養子になり、不振な石坂の石油事業にまきこまれて苦労していたが、鉄舟が死んだ明治二十一年に鉄舟の後を追うように死んでいる。
このとき長男英一は三歳になったばかりであったが、米国の知人が養育を引きうけてアメリカに連れていった。
英一はその後時計商として成功したというが、いつとはなく山岡家とは音信が絶えていた。大東亜戦が終わった後の、昭和二十一年五月三日から東京市ヶ谷台の旧陸軍省大講堂に、国際法廷が設けられて、東条英機元首相以下、A級戦争犯罪人二十八被告の極東国際裁判が開かれた。
この裁判は勝者が敗者を裁くという無理な裁判で、日本側の弁護人清瀬一郎など悲壮な努力をつづけていたが、この日本側の弁護人の中に、日系米人で、ジョージ・ヤマオカという人がいた。名刺には日本名で山岡譲治と添え書きがしてあった。
昭和二十二年七月十九日の鉄舟忌に、筆者は谷中全生庵の法要に出てこのジョージ・山岡に紹介された。彼は当時丸の内中通り、成富弁護士の事務所を借りていたがフランス人を妻にもち、その日も可愛い金髪の少女を連れていた。
このジョージ・山岡が山岡英一の子供であると鉄舟研究家の安部正人が断定してつれてきたのであるが、当人は親の家は元静岡県士族であるくらいの知識しかなく、鉄舟の曾孫であると言われてもあまり感激もない様子だったが、それでも当時としては大金の金二十万円を全生庵に寄進し、また千葉県勝浦に住んでいた鉄舟孫の龍雄君を度々訪ねて、魚釣を楽しんだという」
ジョージ山岡が鉄舟の曾孫であるとの説(おそらくは誤説)は、この「鉄舟研究家の安部正人」氏に起因する可能性が高そうです。--Ryota7906会話2016年4月28日 (木) 13:23 (UTC)[返信]
誤りの可能性が高いため当該記述を削除しておきます。--Ryota7906会話2016年4月29日 (金) 11:47 (UTC)[返信]