ノート:チベット・モンゴル相互承認条約

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「西蔵地方」「蒙古地方」について[編集]

記述者がこの語にもたせている意味は理解しますが、この二語を削った方が簡便な文章になると考え、手を入れました。 --sower05 2006年5月16日 (火) 06:17 (UTC)[返信]

「西蔵地方」については、他項目との統一など議論がされている最中であり、その結果を待つべきだと考えますので、同様に削除しました。--sower05 2006年5月17日 (水) 03:27 (UTC)[返信]

その統合議論の行方は、この記事にとってては、たんに一部用語のリンク先の変更問題にしかすぎず、ゆえに記事の文面に対しsower05氏が行ったような全面的削除の口実としては認められない。--Dalaibaatur 2006年5月17日 (水) 18:14 (UTC)[返信]

現在議論がすすんでいる「西蔵地方」について「たんに一部用語のリンク先の変更問題」とすることには同意できません。 統合についての議論がされているならば、多数の読者のなかで意見がわれていることの証しです。 そちらでDalaibaaturさんと意見と異にする人にとっては、本記事においても同様な意見の違いを生じさせることになります。 決着していない事柄を多項目に持ち越すことには、やはり問題があると考えますので、これらの語の使用の本記事の使用は当面お控え下さるようお願いします。--sower05 2006年5月18日 (木) 17:30 (UTC)[返信]

西蔵地方というリンクの表示は、この記事の文面にとっては、統合しないで決着したら西蔵地方へ、統合するで決着したらリダイレクト経由で西蔵へ飛ぶ、という相違にすぎず、したがってsower05 氏に対しこの語の使用を制限する権利はみとめず、氏による削除にも同意しません。--Dalaibaatur 2006年5月20日 (土) 01:28 (UTC)[返信]

「決着したら」ということは、まだ決着していないということです。 それが統合問題であったとしても、その議論を尊重して、そちらで決着がでるまで使用を控えるべきだと考えます。 議論されている事項を無視し他項目で使用すれば、同様な内容の議論を他項目に渡ってなす可能性を生じさせますので、よくよくお考え下さい。--sower05 2006年5月20日 (土) 03:10 (UTC)[返信]

「チベット・モンゴル相互承認条約」の記事で、「他項目の議論」を始まる人があらわれたら、しかるべき場所へ誘導すればよいだけのことです。--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 13:37 (UTC)[返信]

「しかるべき場所へ誘導すればよいだけのことです」としていますが、わたくしはそのように他項目へ問題が波及することを避けるべきだと考えます。多項目間で問題とされ、決着されていないことは、元々問題が発生した項目での決着を待って使用を検討すべきではないでしょうか。--sower05 2006年5月28日 (日) 17:39 (UTC)[返信]

このノートは、チベットとモンゴルの相互承認条約にかんする記事の文面について議論する場であり、別の記事の文面について議論する場ではないので、【チベットとモンゴルの相互承認条約にかんする記事】以外の記事の文面について議論をはじめる人があったとしたら、そのほうがおかしいのです。この記事にとっては、たんに「西蔵地方」という用語のリンク先が直リンかリダイレクトになるかの相違にすぎず、したがってsower05氏による用語のいかなる使用制限にも同意しません。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 10:00 (UTC)[返信]

たんにリンクの仕様についての問題であっても、現在当該記事において議論が進行中ですので、先日も述べましたがその議論を尊重するためにも、本記事では決着がつくまでは仕様を控えるべきだと考えます。--sower05 2006年6月5日 (月) 03:53 (UTC)[返信]

清室優待条件に関する記述について[編集]

中国側の態度、主張、立場がよくあらわれている「清室優待条件」に関連した記述がバッサリ消去されたのには同意しがたいので、増補して復活させました。--Dalaibaatur 2006年5月16日 (火) 18:25 (UTC)[返信]

「清室優待条件」の行を考慮しながら手を入れました。また、袁世凱に関する行についても、この時期においては北洋軍は袁世凱によって掌握されており、北洋軍閥が袁世凱を推した、というニュアンスは正確ではないと考えました。 また、袁世凱下中華民国がモンゴル、チベツトに対して統治権を主張した理由として、清が袁世凱に全権を委譲し、清の(モンゴル、チベツトなどへの統治権をふくむ)全権を有した状態の袁世凱が中華民国臨時大総統に就任した、ということがあると考えますので、これに関する行はやはり必要だとおもいます。--sower05 2006年5月17日 (水) 01:02 (UTC)[返信]

  1. 清室優待条件の一節を提示する異議については下述。
  2. 「清の(モンゴル、チベツトなどへの統治権をふくむ)全権」云々について、袁の登用にさきだち「文殊皇帝」は清末新政によりチベット、モンゴルの信頼を失墜、両国は反清武装蜂起に入っているので、袁に対し「モンゴル、チベツトなどへの統治権」を委ねうるような状況にはなかった。
  3. 帝国主義列強諸国が、袁政権を清朝の継承政権と認めたことは取り上げるべき価値あり。--Dalaibaatur 2006年5月17日 (水) 18:14 (UTC)[返信]


「袁に対し「モンゴル、チベツトなどへの統治権」を委ねうるような状況にはなかった。」と述べておられますが、実効統治していたか否かを、わたしは述べたわけではありません。清帝が退位するにあたり、清が有していた権力を袁世凱に委譲したことを述べていたのです。清帝の退位、清が有していた権力の袁世凱への委譲、この袁世凱首班北京政府が南京政府と合流、ということです。--sower05 2006年5月18日 (木) 16:11 (UTC)[返信]

「各種族は共和に賛成するにより、漢人と平等に待遇する」(清室優待条件)についての解釈として、Dalaibaaturが述べているような、チベット、モンゴルの意向を問わず勝手に各種族の位置づけをしたという解釈は、この清室優待条件を拡大解釈しすぎているようにおもわれます。 なぜならば、清室優待条件の最大のねらいは清における支配層・満洲族の地位の確保であったことにあります。 また、清は皇帝が退位するまで、実効的にはともかく理念的には中国はもとより、モンゴル、チベットに対しても宗主権を有していたのですから、抵抗の有無とは無関係に清の主張としてその宗主権保持をとらえることはできるとおもいます。--sower05 2006年5月18日 (木) 16:41 (UTC)[返信]

「最大のねらい」が何であったかにかかわらず、意向を問うてもいない当事者が「共和に賛成した」と勝手に述べた史料であることにかわりはなく、チベット、モンゴルが対決していた中国の思想、主張のサンプルとして格好の一例です。「宗主権」については、「新末清政」への着手とともに、文殊皇帝の宗主権は両当事者から否定されています。--Dalaibaatur 2006年5月20日 (土) 01:28 (UTC)[返信]

「勝手」というのはチベット、モンゴル側からみたDalaibaaturさんの感想にすぎないとおもいます。清朝からすれば、意向など問う必要もないほどかれらに対して優越していた認識があったのでしょうから。 清朝の政治機構のなかには、事細かく現地人の意向を問う制度などなかったようにおもうのですが、誤認であればご教示ください。 「宗主権」については、新政とともに宗主権から統治権になったということを述べられたいのでしょうか。 どちらにしても、清室優待条件はあくまで清皇室と満洲族保護をねらったものであり、対チベット、モンゴル対策の一環としての意味はないと考えます。このことは優待条件の他項目をみれば明瞭だとおもいます。 しかし、Dalaibaaturさんの解釈は興味深く、いかに中国がチベット、モンゴルを対等にとりあつかっていなかったを伺わせることにはなるでしょうから、これを考慮し記事を手直ししました。--sower05 2006年5月20日 (土) 03:41 (UTC)[返信]

「勝手に」という単語は、[利用者:Sower05|sower05]] の批判を取り入れて削除し、「 2006年5月20日 (土) 11:01」の版の文面には存在いたしません。存在しない単語を口実とした文面の改変には、まったく同意できません。
「新政とともに宗主権から統治権になったということを述べ」などという発言は、私の文面の中には存在しません。
北洋政権が、「当事者に同意をもとめるという手順」をとることなく「共和に賛成した」と決めつけ、その賛成を根拠として中国に組み込んだことは事実です。ゆえに清室優待条件からの引用文と、「当事者の意向と問う事なく」という一句の削除には同意いたしません。--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 13:37 (UTC)[返信]

「当事者の意向と問う事なく」といっても、それは現代の我々からの視点、価値判断によりすぎているとおもいます。清にしてみれば大元由来の「大ハーン」位、仏教保護者として地位を自認していましたから、Dalaibaaturさんの考えを最大限にくみ取つても、今からみれば、結果的に現地住民の意向を無視した、ということになったかもしれない、としかいえないのではないでしょうか。--sower05 2006年6月5日 (月) 02:54 (UTC)[返信]

「ジェプツンダンバ政権」[編集]

ジェプツンダンバ・ホトクト八世による政権ですので「ジェプツンダンバ政権」でも意は通じるとおもいますが、モンゴルの中国域からの独立を注視しつつ記述するならば、ジェプツンダンバ・ホトクト八世がボグド・ハーンになることによってモンゴルは中国より独立したといえ、従ってこの箇所では「ボグド・ハーン政権」とするのが妥当なのではないでしょうか。ただ、どちらにしてもまだ記事として執筆されていませんで、当該域を専門とする執筆者のご奮起願います--sower05 2006年5月17日 (水) 04:28 (UTC)  [返信]

「ボグド」も「ハーン」もそれぞれ普通名詞なので、「ジェプツンダンバ政権」とするのが妥当。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 13:22 (UTC)[返信]
清の時代よりの在地有力者であったジェプツンダンバがハーンに就いたことによって成立した政権と考えるので、やはり「ボグド・ハーン」政権が妥当ではないでしょうか。--sower05 2006年6月5日 (月) 02:44 (UTC)[返信]
「ボグド・ハーン」とは「聖なる王さま」の意味の尊称。当時のモンゴル人ならともかく、後世の、外国人である我々が1911年から1924年までのジェプツンタンパ八世に敬称を用いる必要がない。日本の今上天皇を「明仁」で立項している百科事典が、外国の、しかも過去の君主政体に敬称を使用するのがおかしい。--Dalaibaatur 2010年5月8日 (土) 14:47 (UTC)[返信]

文章の簡素化[編集]

「中国の歴史」記事内とほぼ同様の記述が散見しましたので、手を入れ簡素化し、「中国の歴史」を関連項目に追加しました。 これによって、本記事が「中国の歴史」内該当箇所のわかりやすい詳細な説明部分と相互に補完しあうようになったと考えます。 また、チベット問題などが一応の決着をみた中華人民共和国云々、という行に手を入れたのは本記事は当該条約についての記述されるもので、問題の解決まで敢えてふれる必要はないのではないかと考えたからです。 もちろん、どういった決着がなされたのか、ということも本条約を位置づける上で重要だとはおもいますが、それはそういった問題を専ら扱う記事でなされるべきであり、本記事はそういった複雑な問題を理解する際の一用語として手がかりとなるようなものでよいと考えました。--sower05 2006年5月17日 (水) 07:24 (UTC)[返信]

私は、この条約締結の歴史的意義をのべる上で、締結後、当事者の運命がどのように分岐していったかを述べることには意味があると考えますので、削除には反対です。また、この記事において扱う項目について、読者に十全の理解を与える情報であるかどうかと、類似の記述が他記事にあるかどうかはまったく別個の問題です。ゆえに、他記事と「ほぼ同様の記述が散見」することのみを理由とした「手入れ」「簡素化」には反対です。--Dalaibaatur 2006年5月17日 (水) 18:35 (UTC)[返信]

「ふたつの路線」とあげてありますから、そのふたつがなにとなになのかをわかりやすくするように小見出しをつけるなどの手直しすることは必要ではないでしょうか。--sower05 2006年5月18日 (木) 15:52 (UTC)[返信]

「ふたつの路線」という小見出しは、変更しました。--Dalaibaatur 2006年5月20日 (土) 01:39 (UTC)[返信]

「締結後、当事者の運命がどのように分岐していったかを述べる」ということを主張しておられますが、これについては同意しかねます。 百科事典の一項目として、関連する項目が相互に補完しあえる事が重要であり、関連するからといって同様の記述を多項目に渡って載せるのは、煩雑なものとなるのではないでしょうか。--sower05 2006年5月18日 (木) 16:05 (UTC)[返信]

「同様の記述を多項目に渡って載せる」という批判を招かぬよう、これからこの記事に特化した記述として増補してゆきます。--Dalaibaatur 2006年5月20日 (土) 01:39 (UTC)[返信]

「他記事とほぼ同様の記述が散見すること」は削除の理由にならないとのことですが、「中国の歴史」の一部と同じ文章をそのまま流用することには、やはり同意できません。 これを許すと、関連記事内に同じ文章が羅列されることになりかねませんので、本項目に合わせ、わかりやすく読みやすい文章を工夫すべきだと考えます。--sower05 2006年5月19日 (金) 16:47 (UTC)[返信]

最新の「本項目に合わせ、わかりやすく読みやすい文章」を「工夫」した修訂により、「同じ文章がそのまま流用されている」状況は改善しました。--Dalaibaatur 2006年5月20日 (土) 01:39 (UTC)[返信]

マルチポスト状況の改善ありがとうございます。 Dalaibaaturの文章も以前に比すればとても読みやすいものでしたが、見出しに「ふたつの路線」と紹介されていますから、何と何が対立していたのかを明確化するためには、それぞれを分けた方が読みやすいと考え、手を入れました。--sower05 2006年5月20日 (土) 03:49 (UTC)[返信]

「中国の歴史」の記事からそのまま移植していた見出しの「ふたつの路線」という単語は削除しましたので、もはや「それぞれを分け」る必要はありません。この記事は、「チベット、モンゴル相互承認条約」の記事なので、チベット、モンゴルを主体とした構成となっても問題なかろうと思います。--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 14:09 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさんは多項目とのマルチポスト状況回避のために、今回「ふたつの路線」を廃したのでしょうか。wikipediaは読者が読みやすいよう絶えず工夫がなされていく点が特徴でもあるとはおもいますが、ご自分でなさっていた体裁をも廃して大幅に変更する今回の変更の意図がよくわかりませんでした。--sower05 2006年5月28日 (日) 17:50 (UTC)[返信]

この記事は、モンゴルとチベットを主体とした記事であるので、条約の背景として、チベット、モンゴルの思想、行動を理解させるための記述はくわしく、いっぽうで中国側の事情は最低限の描写でよい、ということです。「中国において」、「チベット、モンゴルにおいて」などと平等、対等に描写する必要は、この記事においては全くない、ということです。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 13:51 (UTC)[返信]

「平等、対等に描写する必要は、この記事においては全くない」と述べられていますが、ご自分が当初あげられていた「ふたつの路線」の記述を全面的に改めたいという意向だととらえてよろしいでしょうか。 わたしが以前指摘したのは、マルチポスト状況についてであり、本項目についての理解をはかるにあたって文内容を鑑みて見やすく小見出しをとることに問題はないと考えます。--sower05 2006年6月5日 (月) 03:26 (UTC)[返信]

sower05 氏の 2006年5月17日 (水) の編集について[編集]

チベットとモンゴルがこの条約を締結するにあたって中国のいかなる主張や思想と対決していたのか、その背景を明らかにする上で、

  • 政権取得以前の漢人共和主義者の中国観がチベット、モンゴルの民族政権と一致(もしくはきわめて類似)していることの紹介。
  • 北洋政権が自身の主張する中国の枠組みの設定にあたり、チベット、モンゴル両当事者の合意を得ることなく勝手に中国の一部に組み込んだことを示す史料の現物の紹介を紹介すること

はきわめて有意義であるので、すべて全文復活させます。この2項目の削除をあくまでも必要とお考えの場合は、提案・議論・合意という手順を踏んでいただくよう希望します。--Dalaibaatur 2006年5月17日 (水) 14:57 (UTC)[返信]

    • 削除された文章を全文復活する前に、この復活が必要か否かを、提案・議論・合意という手順を踏んで意見を求める事はご自分ではなさらないのですか?--Kogane 2006年5月20日 (土) 04:37 (UTC)[返信]
「提案、議論、合意」という手順をへて削除された事項について、なおも「復活が必要だ」と考える場合には、とうぜんその復活について、「提案・議論・合意という手順」を踏みます。そして、合意が成立しない場合は、復活はあきらめます。--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 18:56 (UTC)[返信]

この小題「sower05氏の 2006年5月17日 (水) の編集について」については、Dalaibaaturさんの主張を取り入れ記事が作成されておりますので、他の議論が閲覧しやすいようにノートより削除してよろしいでしょうか。--sower05 2006年5月30日 (火) 03:04 (UTC)[返信]

削除の必要性の有無をめぐって議論された事項ですから、記録のため、残しておくべきかと思います。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 10:08 (UTC)[返信]

了解しましたが、ノートの閲覧の便を考え、本項目を最後尾に移すなどの変更はいかがでしょうか。すでに合意したこと議論中のことの別がついていた方がよいと考えます。--sower05 2006年6月5日 (月) 03:49 (UTC)[返信]

提案・議論・合意」という手順をへずに旧来の文章を根こそぎ書き換えるというsower05 氏の編纂方法にたいして、私はまったく同意しておりませんので、この節に対する「すでに合意したこと」という評価には同意しません。
ウィキペディアにおけるノートの習慣では、「最後尾」は「最新の議題」がおかれる場所です。「議論が終わった項目」については、当事者の合意と内容チェックをへて「過去ログ化」という処置をとるべきでしょう。--Dalaibaatur 2006年6月13日 (火) 00:34 (UTC)[返信]

記事の内容について[編集]

「勝手」かどうかは解釈する側の問題であり、記事編集者が編集方針とするべきではないとおもいます。
大多数の人が「勝手」ととらえるような事柄ならば、ことさらそのことを主張しようと材料をならべなくても、自ずと読者間にそのようなとらえかた主流となるはずなのではないでしょうか。
文面の変更については、「高らかに~」など主観的ととらえかねない表現は削除すべきだと考えます。
Dalaibaaturさんの主張を考慮した上で、なるだけ簡潔に、読者に読みやすい記事になることを期して、さらに手を入れましたのでご検討ください。
章炳麟の行については、やはり不要ではないかと考えます。
なぜならば、かれの考えはあくまで一共和主義者のそれであり、立憲派、種々の革命派すべてのものではないからです。
たしかに、章炳麟が述べていることも興味深いのですが、かれをとりあげるとなるとそのほか様々な考えを併記する必要が生じかねず、本記事がますます冗長になるってしまうことを危惧します。
従って、この行の削除を提案します。
Dalaibaaturさんの専門的知識には敬意を表しますし、また勉強にもなりますが、文章がいたずらに冗長であると思います。
上記の「高らか~」も不要なことばでしょうし、他では、もともと不要と考えられる章炳麟の行にあった「革命の三尊」などを冠する必要などまったくないでしょう。
百科事典の一記事とは内容、文章共にもっと簡便なものでよいのではないでしょうか。
わたしは一記事内に種々の内容を詰め込みすぎることは問題だと考えます。
Dalaibaaturさんの文章のほとんどは、すでに他記事(「中国の歴史」)で書いてあるものですので、関連項目にあげ読者の参考に付すことで十分なものではないでしょうか。
あくまで百科事典の一項目の文章であり、長々と論述するのではなく、読者が思索する際の材料となることができればよいのではないでしょうか。それに際しては、どれだけ文章をしぼって把握しやすくできるのかこそ肝要であり、あれもこれもと詰め込むことは編集側にとっては容易でも読者にとっては利用しやすりものではないと考えます。--sower05 2006年5月18日 (木) 17:18 (UTC)[返信]
【勝手に】とい用語が百科事典らしからぬ価値判断を含むという指摘には同意しますが、北洋政権が、「当事者に同意をもとめるという手順」をとることなく「共和に賛成した」と決めつけ、その賛成を根拠として中国に組み込んだことは事実です。ゆえに清室優待条件からの引用文と、「当事者の意向と問う事なく」という一句の削除には同意いたしません。
【高らかに】の削除には異議なし。
政権取得以前の漢人共和主義者には、傾向として、中国を漢人国家と規定し、「漢人国家の樹立」を目指す主張が主流であったことは事実であり、章炳麟はその1サンプルとして提示しました。チベット、モンゴルの中国観と、漢人共和主義者の中国観に一致点があった、ということです。既存の文面( 2006年5月18日 (木) 03:48の版を指す)は舌ったらずな点があることはみとめますが、それはこれから随時補填してゆくつもりです。「そのほか様々な考えの併記」は、チベット=モンゴル相互承認条約の記事でではなく、中国の共和革命史とか、近代中国思想の諸潮流を扱った記事で扱えばよいと考えます。
現行の文面(sower05 氏が手を入れる以前の文面)は、表現、取り扱う事項など、「モンゴルとチベットが対決した中国の思想と主張」という観点から、より充実させる方向でこれからどんどん修訂してゆく予定なので、現行の文面が「中国の歴史」にある文面と似ているという理由のみで「整理」「簡素化」を主張されることには同意できません。また、「関連項目」では、近代のチベットやモンゴルそのものに関する事項で、ここに収録されていないものがあるのに、それらをさしおいて、sower05 氏からみて「中国の歴史」にある文面と似ているように見える、という理由だけで、中国の歴史を取り上げることには賛成いたしません。
【あくまで百科事典の一項目の文章であり、(中略)読者にとっては利用しやすりものではないと考えます】という一句は、一般論としては全面的に賛成します。例えばsower05 氏の編集では、孫文を擁する南京臨時政府関連の記述を、北洋政権に関する記述や、北洋政権がモンゴル、チベットに示した主張二関する記述を削除もしくは「簡素化」してまで、くわしく叙述したがっておられますが、南京臨時政府はチベットとモンゴルの両政権とはほとんど具体的な接触を持つ間もなく数ヶ月で解散しており、チベットとモンゴルの両者が直接に対峙し、交戦、交渉したのはあくまでも北洋政権です。中華民国の歴史を扱う項目ならともかく、この記事はチベット、モンゴルを主体とした記事であるので、南京臨時政府についてあまり詳細に言及する必要はないと思います。
清朝の滅亡」という表現を、より「冗長」な表現に変更してしまわれる点にも賛成できません。
チベットとモンゴルが清朝の滅亡と同時に直ちに「独立の国際的承認への獲得」にむけて行動を開始したのに対し、東トルキスタンではそのような動きがみられなかったのは、清朝による中国への併合が、東トルキスタンでは1884年完了しているのに対し、チベット、モンゴルの場合は、新末清政によって初めて試みられたにすぎなかっただけ、という相違があります。sower05 氏の編集では、「中国への併合」という単語を消してしまったようですが、この時期のチベット、モンゴルのおかれた境遇を正確に理解するうえで、きわめて重要なポイントなので、前後の文脈をより充実させたうえで復活させます。--Dalaibaatur 2006年5月19日 (金) 18:32 (UTC)[返信]
Sower05さんの指摘は適切だと思います。私もDalaibaaturさんの専門的知識には敬服しておりますが、やはり文章が冗長にすぎると感じています。百科事典の記事である点を考慮して、簡潔明瞭さについて一工夫を望みます。それと、ノートにおける議論の記述に対して、Dalaibaaturさんが恣意的にネーミングしたタイトルを勝手につけるのはやめていただきたい。例えばここのページでは、「~氏の文面の変更には同意しない」などと言う一方的なタイトルを付した事に違和感を持ちます。同じように恣意的なタイトルの表示や投稿された他人の記述を一方的に移動する行為については、[西蔵地方]のノートでの議論でも見られます。これでは、議論の方向性や内容を、Dalaibaaturさんが勝手に設定ないし限定しているのと同じです。何かタイトルを付してノートにおける議論の内容を整理したいなら、もっと公平に扱うべきです。Dalaibaaturさんは、それぞれのページやノートの「管理人」ではありません。--水田 2006年5月20日 (土) 01:13 (UTC)、[加筆・修正]--水田 2006年5月20日 (土) 03:16 (UTC)[返信]
  1. このページについては、「~氏の文面の変更には同意しない」いうタイトルは、自分の「氏の文面の変更には同意」しない旨を述べる投稿につけたタイトルであり、他人の文章もふくめたやりとりに付したものではありません。
  2. sower05氏の「文面の簡素化」というタイトルの2006年5月17日 (水) 07:24 (UTC)の投稿は、時系列を無視してこのページの投稿の最上部に配置されたものを、投稿時間に併せた位置に移動したものです。ウィキペディアでは、記事のノートに投稿される新しい節は下方に配置するという習慣が一般的であるので、この移動を「恣意的」とは考えません。
  3. 西蔵地方の「統合の必要の検証」は、統合論者に「統合を必要とする理由」を提出してもらい、検証するために設けた1節に対して付したものであり、この節のタイトルとして問題があるとは考えません。
  4. どの記事にも「ノートの管理人」などいないと思いますが。ある記事のノートにおいて、必要に応じて議論のテーマを設定し、タイトルをつけた節を設置することは、いかなる投稿者にも可能なはずです。--Dalaibaatur 2006年5月20日 (土) 01:42 (UTC)加筆・修正]--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 19:23 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさんの「それはこれから随時補填してゆくつもりです。「そのほか様々な考えの併記」は、チベット=モンゴル相互承認条約の記事でではなく、中国の共和革命史とか、近代中国思想の諸潮流を扱った記事で扱えばよいと考えます。」という意思表明を歓迎します。 Dalaibaaturさんのこの分野への専門的知識は水田さんも述べられているように疑いないところですが、やはり一項目にいろいろな内容を盛り込みすぎるきらいが見受けられますので、百科事典として専門的知識をもたない読者が一読しても大凡の内容が把握できる程度のさじ加減をお願いします。 私の文章での至らない点については、首肯する部分もありますので、今後ご指摘を参考にしてきたいとおもいます。--sower05 2006年5月20日 (土) 04:01 (UTC)[返信]

sower05 氏の2006年5月20日 (土)の諸編集にはまったく同意できませんでしたので、結果として全面的にリバートいたしました。詳細は、上記の各項で、個別に回答の予定。--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 09:07 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさんは、他人には「議論」とか「手続き」を求めながら、ご自分の文章に加筆されて気に食わない時は問答無用でリバートするのですね。やり方がおかしくないですか。私自身はSower05さんがノートで述べた編集方針は良いと思っていたし、実際の編集結果もいいと思ってました。他にも同意見の人はいるかもしれませんよ。今回は、Dalaibaaturさんもまずご自分の考えをノートに記入して、それこそSower05さんや、その他の読者諸氏の意見や同意を得るのを最初にすべきだったんじゃないですか?--Kogane 2006年5月26日 (金) 11:02 (UTC)[返信]

今回リバート対象としたsower05 氏の2006年5月20日 (土)の諸編集は、清室優待条件からの引用文など、すでに私がsower05 氏に対し繰り返し「削除には同意しない」と表明している部分を含め、それ以前に存在した文章に対する全面的な削除であり、単なる「加筆」ではありません。ゆえに【ご自分の文章に加筆されて気に食わない時は問答無用で】云々というkogane氏のご批判は、事実誤認に相当すると思われます。そもそも、私は、編集方針の対立する項目については「まずご自分の考えをノートに記入して、・・・その他の読者諸氏の意見や同意を得る」手順を踏むべきだという考えです。そして提案、議論、合意を経た語、句、文、段落などの文面に対し、一方的な改変を行うことにも強く反対しております。sower05 氏の2006年5月20日 (土)の諸編集は、私がこの記事に必要だと考えて取り上げた事項を多数削除するものであり、かつその削除は提案、議論、合意の形成という手順をへたものではなかったため、復活させたところ、結果的に全面的なリバートとなった、ということです。
--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 13:25 (UTC)--2006年6月3日 (土) 10:35 (UTC)修正[返信]
Kogane 氏の
削除された文章を全文復活する前に、この復活が必要か否かを、提案・議論・合意という手順を踏んで意見を求める事はご自分ではなさらないのですか?--Kogane 2006年5月20日 (土) 04:37 (UTC)[返信]
という発言へのコメント。「提案、議論、合意」という手順をへて削除された事項について、なおも「復活が必要だ」と考える場合には、とうぜんその復活について「提案・議論・合意という手順」を踏みます。そして、合意が成立しない場合は、復活はあきらめます。--Dalaibaatur 2006年5月26日 (金) 19:30 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさんの述べられる「事実誤認」とはどの部分についての指摘なのでしょうか。また、わたしが提案、議論、合意を経た語句を削ったかのようなことを述べられておられますが、合意を経たものを削った箇所はないと思いますので、具体的にはどの語句のことでしょうか。 また、編集方針として安易なリバートをするのは自重をお願いします。わたしの編集した文章においては残すべき部分はまったくないというお考えなのでしょうか。--sower05 2006年5月28日 (日) 18:00 (UTC)[返信]

sower05 氏が、既存の文面を、提案、議論、合意なく一方的に全面的に削除し、ご自分の文面で置き換える、という編集をなんどかお繰り返しになったので、先日不本意ながらリバートいたしました。上記で「その部分の削除には同意しない」と繰り返し表明した文面をも含めての削除でしたので、私としてはまことに不本意ですが、やむをえず、しょうがなく、渋々、嫌々行ったもので、決して「安易」におこなったのではないことをご理解ください。
「事実誤認」とは、kogane氏のコメントに対するものです。誤解が生じぬよう「2006年5月26日 (金) 13:25 (UTC)」の投稿に修正を加えました。sower05氏に対し「提案、議論、合意を経た語句を削った」などとは述べておりません。「削除に同意しない旨を表明している部分をふくめ、既存の文面に対し、提案、議論、合意を経ずに全面的な削除を行った」という趣旨は述べておりますが。
sower05 氏の【編集した文章においては残すべき部分はまったくない】などということは決して思っておりませんが、一方的に削除された文面を復活させる作業と、既存の文面を根こそぎ削除して全面的に置き換えられた文面とを共存させることが、きわめて難しかった点についてご理解いただければ、と思います。既存の文面に、「チベット、モンゴル相互承認条約」についての有為な情報を付加する形での編集なら大歓迎ですし、(東亜同文書院による紹介は、日本においてこの条約を最も早期に紹介した史料だと思います)、また、当然ながら、既存の文面に対するなにがしかの提案に対しては、真摯に議論し、合意の形成を目指す姿勢をもっているつもりなので、よろしくお願いいたします。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 10:35 (UTC)[返信]

Dalaibaaturさんの文章に大きく手を入れることについてですが、専門知識をもたない読者を想定した場合においては、私見ですが、Dalaibaaturさんの文章が難解であるようにおもわれるためです。一部を平易な表現にし、別箇所を一切手を入れずにおくと全体としては甚だ奇怪な記事に陥りかねないのではないか、と。この点、ご理解いただければ幸い。 また、安易なリバートと述べたのは、辛亥革命を1910年としたままの記事に差し戻しており、記事内容についてはしっかりと檢討した上でのものにはとてもおもえなかったからです。 わたくしも、議論、合意にもとづくわかりやすい記事を標榜しており、Dalaibaaturさんと姿勢を一にしておりますので、こんごの記事の改正についてはよろしくおねがいします。--sower05 2006年6月5日 (月) 03:47 (UTC)[返信]

2006年5月30日 (火) 11:49の版でも、あいかわらず旧来の文面を、提案、議論、合意を経ないで根こそぎ入れ替える編纂を繰り返しておられますが、今回の編集では、「削除に同意しない旨とくに明言した2項目」については存続しているようであるので、再リバートは差し控えます。事項の、配列の変更や削除など、事前に提案があったなら対案をだすなど同意しない旨明言したであろう事項が多数あることを表明しておきます。誤りの指摘など有益な提言も行ってくださっているので、それらを取り入れた改訂版を準備中です。--Dalaibaatur 2006年6月13日 (火) 00:24 (UTC)[返信]

駐蔵大臣の権限について[編集]

「1750年以降、ダライラマ位の継承や、閣僚の就任に関与するようになる」の記述を「18世紀以降ダライ・ラマ位の継承や閣僚人事に清が関与する」としたことについて。1750年代に先立ち清はチベットに軍を送りこの地域に対して権威を有していたので、時間的に幅をもたせ「18世紀」としました。--sower05 2006年5月30日 (火) 04:00 (UTC)[返信]

清朝の駐蔵大臣やその護衛兵のラサへの派遣は1720年代からみられますが、駐蔵大臣がダライラマ位や閣僚の任免に権限を行使しだすのは1750年からなので、「時間的に幅をもたせ「18世紀」と」するような曖昧化は不要。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 10:35 (UTC)[返信]

具体的には1751年の「西蔵善後章程」のことを述べられているのでしょうか。--sower05 2006年6月5日 (月) 03:31 (UTC)[返信]

1750年とは、駐在大臣がギュルメナムギャル(ダライバートル)を殺害して「ポラネー王朝」を転覆させた事件を指します。--Dalaibaatur 2006年6月13日 (火) 00:28 (UTC)[返信]

記事題名について[編集]

現在「チベット・モンゴル条約」とかかげていますが、本条約締結地がモンゴル領内であり、また漢語系史料では「蒙蔵条約」とされることが多いようですので、「蒙蔵条約」や「モンゴル・チベット条約」を本記事とし現題名を転送元にするなど題名の変更がなされるべきか否かについて諸氏のご意見をうかがいたいです。--sower05 2006年5月30日 (火) 02:56 (UTC)[返信]

本条約の締結主体はチベットとモンゴルなので、記事名の設定はチベット、モンゴル語と日本語の問題として考えるべきかと。「漢語系史料における表記」は副次的なものにすぎません。また、本条約の内容は、チベットとモンゴルが相互に国家承認しあう条約なので、記事名としては、「チベット・モンゴル相互承認条約」という通称を用いて、なんら問題ないかと思います。したがって、「わざわざ記事名を変更せねばならないような必要性」はないと考えます。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 09:55 (UTC)[返信]

記事名については、記事をたてたわたしの不注意です。 条約締結地がモンゴル領内であることを考慮するならば、「モンゴル・チベット相互承認条約」が妥当なのではないかと考えております。--sower05 2006年6月5日 (月) 03:38 (UTC)[返信]

漢人科挙官僚について[編集]

IP220.211.150.21氏は、「2006年5月29日 (月) 03:18」の編集で、「これらの地域に派遣される清朝の文武官はすべて旗人であり、中国から漢人科挙官僚が派遣されてくることはなかった。」という文面を、「中国から漢人官僚が派遣されてくることはなかった。」と変更しましたが、漢軍八旗に属する漢人の文武官僚は旗人として従前から着任可能であったので、「漢人科挙官僚」という限定ははずすべきではないと考えます。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 13:43 (UTC)[返信]

捐官経由で官僚が派遣されるケースを全然考慮されていないようですが、清代中期以降捐官は増加します。たとえば何曰愈という人は「捐升知県、以習辺事、弁西藏糧台」(『清史稿』列伝266)とあるように、官僚は旗人か進士かといったように単純には分けられません。--220.211.150.21 2006年6月3日 (土) 15:48
ご指摘感謝。「西蔵糧台」は、四川省所属で、職掌は清の駐屯軍の兵糧の差配およびラサ、シガツェ、ガリにおける「清国人ノ利益ヲ代表」することですから、西蔵およびチベット人に対する清朝の統治行為に旗人ではない漢人が携わった例には該当しませんが、漢人が「派遣」されていることにはかわりありませんから、「派遣」その他、表現に多いに工夫が必要ですね。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 16:26 (UTC)[返信]
あの、武官などは武科挙を経ないで赴任している人の方が多いでしょう。ですのでむしろ科挙官僚と限定する方が誤りです。--220.211.150.21 2006年6月3日 (土) 17:30

科挙を経た漢人の「官」僚が、チベットの各ゾンの知事や4大地方の「総督」、チベット政府の「カロン」に任命されることは全くなかったわけですから、「誤り」とはいえません。--Dalaibaatur 2006年6月13日 (火) 00:46 (UTC)[返信]

チベット、モンゴルにとっての「中国」について[編集]

IP220.211.150.21氏は、【「清末新政」は、モンゴル、チベットにとっては、諸侯やガンデンポタンをとり潰し、その所領にを設置して中国に併合しようとするものであり、】という文面を、【「光緒新政」は、モンゴル、チベットにとっては、諸侯やガンデンポタンをとり潰し、その所領にを設置して中国プロパーに併合・内地化しようとするものであり】と変更したが、「中国プロパー」「内地」なる表現は、チベットやモンゴルを「中国の辺境」と規定する観念をその背景として不可分に有する用語であり、この時期のチベット、モンゴル自身の観念を説明する用語として不適切であるので、この用語を用いた修正に反対いたします。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 13:43 (UTC)[返信]

この点に関して特にこだわりませんが、モンゴル研究の権威である杉山先生も授業で「中国プロパー」ということばを使ってましたよ。--220.211.150.21 2006年6月3日 (土) 15:56
歴史学の用語として、現代日本人がつかうことに問題がある用語とはおもいませんが、1913年当時のチベット、モンゴルの民族政権自身の観念や観点をあらわす用語としては不適切だ、と述べているのです。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 16:28 (UTC)[返信]
別に民族政権自身のことばを引いた史料内ではないため、研究者が使うことばを使用しても問題ないでしょう。特に不適切とは思えません。--220.211.150.21 2006年6月3日 (土) 17:10
民族政権の観点を紹介する文章で、民族政権の中国観と相反する用語をわざわざことさら使う必要はないとおもいます。というより前後が首尾一貫しなくなるので、次に記事を編集するときには、もとの形で復活します。--Dalaibaatur 2006年6月13日 (火) 00:13 (UTC)[返信]

皇帝推戴[編集]

Sower05さんは2006年11月8日(水)23:23(UTC)の編集で「推戴」を削除していますが、要約に「引用元表記に戻しました」とあるのは引用元(東亜同文会調査編纂部編『支那』第4巻第5号(東京:東亜同文会、1913年3月1日)45頁)に「推戴」の語がない、ということでしょうか。Sower05さんの編集による、私の編集のひとつ前の版(2006年7月26日 (水) 07:32(UTC))には「推戴」の語があります。念のため確認させてください。--Novo 2006年11月9日 (木) 14:08 (UTC)[返信]

示されている典拠『支那』はまだ見ておりませんが、浦野起央編著『資料体系アジア・アフリカ国際関係政治社会史第2巻 アジアIr』(パピルス出版、1996年。 ISBN 4938565862)10828ページ所収のテキストを見たところ、該当部分は「蒙古共戴二年一二月四日(ママ)」とありました。もとより厳密な対照はまだ必要ですが、少なくとも共戴紀元へのリンクを張ることに問題はないと判断しましたので、「推戴」の語も復活の上、元に戻しました。ご意見あればお聞かせ下さい。よろしくお願いします。--Novo 2006年12月5日 (火) 13:20 (UTC)[返信]

訳文について[編集]

『支那』第4巻第5号所収の訳文は、この条約を日本で紹介したもっともふるい邦訳の一つだろうとおもわれ、ここでそのまま引用紹介する価値は非常にあるとおもうが、条約の前書きとあとがきも省略せず、きちんと紹介すべき。Sha sgab paのテキストからの翻訳は、この訳文とは別個に、条文もふくめて別に行うべき。--58.70.53.96 2006年12月5日 (火) 18:46 (UTC)[返信]

原文テキストが発見され、Web上でも公開されたので、この原文テキストにもとづく和訳を準備しています。--Dalaibaatur 2010年5月4日 (火) 11:05 (UTC)[返信]

「背景」について[編集]

条約そのものとは直接関係ない行政制度の変遷とか、中国の革命家の思想などが含まれ過ぎているとおもうので、コメントアウトしました。○○の部分は、条約を直接に説明するために必要な事項である、ということを説明していただけるなら、書いた人が復活させるのにはまったく依存はありません。--58.70.53.96 2006年12月5日 (火) 18:46 (UTC)[返信]

コメントアウトおよびその後の削除に同意します。2007年7月23日 (月) 14:01におこなわれたIP[202.250.174.200]氏の編集は、必要な文章まで削っていると思われるので、ほぼ同一文面を復活させています。--Dalaibaatur 2010年2月8日 (月) 22:18 (UTC)[返信]

記事の内容と関係のない文・典拠のない文[編集]

以下の文章について、記事の主題には関係のない記述、典拠不明の記述について、検討のため、本文よりノートにうつしました。--Dalaibaatur会話2015年1月31日 (土) 07:03 (UTC)[返信]

【記事の定義にふさわしくない】
なお、中華民国はモンゴルとチベットの双方を自国領土だとしていたので双方の独立は認めなかった。
【典拠不明】
ボグド・ハーン政権が崩壊すると、ソビエトの衛星国たるモンゴル人民共和国が建国された為に、この条約はホルローギーン・チョイバルサン政権下で破棄されたと思われる。

典拠はあるけど、変な記述[編集]

以下の文章について、典拠は示されていますが、本文の他の記述と整合性が取れていないので、この部分を増補した方には、改めて典拠をご点検のうえ、典拠の記述と引用者(=投稿しようとするあなた)の意見・主張とを混ぜない形で改めてご投稿いただきたく、よろしくお願いいたします。

  1. この条約は、アグワン・ドルジェフと二人のチベット人代表[1]によって締結された。
  2. なお、後にダライ・ラマ13世はイギリスの外交官に、アグワン・ドルジェフはチベットのためのいかなる条約も締結する権威立てをしていなかったと語っている[2][3]
  3. この条約文は、その後の中国大陸における動乱のなかで公表されなかったため、条約の存在が疑われていたが、1982年にモンゴル語の書面がモンゴル科学大学で発見された[1]
  1. ^ a b Udo B. Barkmann, Geschichte der Mongolei, Bonn 1999, p380ff
  2. ^ Grunfeld, A. Tom. The Making of Modern Tibet (1996) East Gate Book, pg. 65.
  3. ^ Bell, Charles Alfred. Tibet: Past & present (1924) Oxford University Press, pp. 150-151

1についての疑問。「アグワン・ドルジェフ」は、「前文」に登場する「侍従・侍読・僧官長ロサンガワン」です(赤い名前をクリックのこと)。Barkmannは、チベット側全権代表3人だけでこの条約を締結したと主張しているのでしょうか。
2についての疑問。両国の全権代表を列挙提示する記述に続けて、何の脈絡もなく「グルンフェルド氏による全権に対する疑念」の主張を挿入する編集に反対。節を改め、この条約についての様々な主張・見解を列挙・紹介する一環として、「グルンフェルドの理解・解釈・主張」として紹介するという形式なら、同意可能。
3本条約の原文については、チベット語原文の書面も発見されている(記事本文の写真参照)。Barkmannに依り、「モンゴル語原文の発見」についてのみ取り上げるのは中途半端。--Dalaibaatur会話2016年7月31日 (日) 03:53 (UTC)--2019年8月16日 (金) 00:36 (UTC)校訂[返信]

「チベット・モンゴル相互承認条約」否定論の典型[編集]

以下に「チベット・モンゴル相互承認条約」否定論の典型例を紹介します。
 会談を促したもう一つの要因は協定、すなわち一九一三年一月のいわゆるチベットーモンゴル条約による刺激があった。ドルジはウランバートルでフトクトと会い、チベットとモンゴルが"独立"していることを相互に承認する条約に署名したと伝えられた。この"条約"文は、一九一三年にモンゴルでロシアの役人からコピーを手に入れたと語る二人の英国の役人が出版した書物の中にはじめて現れた。当時もその後も、いずれの筋からもこの条約文が正式に発表されたことはない。英文以外のいかなる言語でも公表されたことはない。さらにあるチベットの高官は数年後に、「条約など必要なかった。もし可能なら我々は常に互いに助け合える」と指摘した。これはロシアのモンゴル駐在植民地官吏が流した"ニセ情報"の典型的ケースに見える。---A.T.グルンフェルド『現代チベットの歩み』(八巻佳子訳, 東方書店,1994, ISBN 4-497-94431-X, p.89)
グルンフェルド氏が条約のふたりの「署名者」として挙げる「ドルジ」はアグワン・ドルジエフ、「フトクト」は、この時期モンゴルの「聖皇帝(ボクド・エジェン・ハーン)」に推戴されていたジェプツンタンパ八世です。グルンフェルド氏が、条約の締結者をなぜこの二人だと考えたかについての典拠については全く示されていません。(→注釈ナシ)
この文章の著者グルンフェルド氏は、チベットに関連して、中国の現政権好みの歴史解釈・歴史叙述をすることで有名なカナダ出身・米国ニューヨーク州立大学エンパイアーステート校歴史学部教授。曲がりなりにも、まぎれもない歴史研究者の一人ですから、この人の主張・見解・史実解釈を紹介することには、十分に特筆性はあると思いますが、この記事を含むチベット関連の記事において、この人の、中国の歴史解釈にベッタリ寄り添った極端な見解・歴史解釈を、記事の地の文の記述の土台とするのはいかがなものかと思います。
この人の上記の「学説」をチベット関係の記事中で取り上げる場合には、(1)チベット語原本・モンゴル語原本の紹介をきっちりと行った上で、(2)「かつて存在した"実在否定論"のひとつ」として扱うことが必須と考えます。--Dalaibaatur会話2016年7月31日 (日) 10:18 (UTC)[返信]