ノート:バートン・クレーン

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  • 全体でひとかたまりの文章になっていたのが見づらいと思い、小見出しをつけました。

それと、文章の細かいところを整えて、内部リンクを入れました。もとの記述がよくまとまっていると思ったので、内容の加筆や移動はしていません。--Morikou8820 2008年10月26日 (日) 00:42 (UTC)[返信]


この項目の中で氏名が言及されている山田晴通です。 ウィキペディア本文の編集スタイルなどにはまだ慣れておりませんので、慎重を期して本文の編集はせず、現状で改善の寄りがあると思われる点をいくつか指摘しておきます。もし今後の本文の更新の参考にしていただければ幸いです。

まず「外部リンク」に挙げられている山田(2002)の書誌がかなり不正確です。また、現在の版には反映されていませんが、その後、クレーンいついての新たな記事=山田(2008)=を発表し、ネット上でも公開しています。 http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/fulltext/02BC.html http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/fulltext/08BC-1.html

山田(2008)で具体的な裏付けを示していますが、クレーンはプリンストン大学を卒業していません。卒業ではなく退学しています。

クレーンの日本語が「なかなか立派な日本語であった。」というのは、榎本健一の著書にある記述で、談話ではありません。前後を含めて正確に引用すると、次のようになります。

前記「酒呑みの歌」には少々呂律の廻らぬ片言にも等しい言葉の調子が見受けられるが,バートンさんの日本語は仲々立派なものであつた。むしろ東北辯や九州辯よりは尠くとも正確に受取れるだけの日本語であったと記憶してゐるのである。(榎本,1947,pp.68-69)

榎本健一(1947):『エノケンの泣き笑ひ人生』日本アート社,187ps.[復刻版(大空社,1998)による]

戦後の滞在の時期について、山田(2002)の執筆時点ではクレーンが歌手活動はしなかったと理解していましたが、レコードの録音はしていないものの、ラジオ番組への出演の中で歌った可能性のあることがわかってきています。括弧書きで書かれている通り、古川緑波の日記の記述などが根拠です。しかし、戦前の録音活動、ステージ活動に比べれば、限られた局面であったものと思われます。

なお、文中で山田の肩書きが助教授となっていますが、これは山田(2002)発表当時のものであることにご注意ください。 また、「山田晴通」の項目がウィキペディアには存在しています。適切であると判断されるようでしたら、リンクの設定などをご検討ください。 --山田晴通 2009年3月5日 (木) 20:59 (UTC)[返信]