ノート:パタリロ・ド・マリネール8世

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○○を演じた人物[編集]

例えば「勝海舟を演じた人物」とか「西郷隆盛を演じた人物」なら、○○を演じた人物という書き方はごくごく普通の自然な書き方だと思う。ところが「パタリロを演じた人物」になると、ちょっと違和感を覚える。それは先だっての要約欄に書いた通り、パタリロが実在の人物じゃないからだ。パタリロに限らず、「○○を演じた人物」の○○に架空のキャラクターを嵌めこむのは、私としては日本語的に少し気持ちが悪い。文法的な誤謬じゃないから意味は通じるけど、なんか違う。試しに「○○を演じた人物」という文字列を検索してみたところ、こういう検索結果も出た。93件中圧倒的に実在の人物に対して使われてて、例外はブラックジャック(#)ハカイダー(#)くらい。やはり架空の人物に対しては使われない言い方だってことだと思う。他にもっとこなれた言い方があるかというと、たぶん無い。かと言って3人目に舞台女優が混じっている以上、節タイトルだけ単純に「声優」に戻すこともできない(このあいだ書き換えた時は舞台劇という単語を見落としてた。ごめん)。で、このへんを踏まえて頭をひねった結果、結局こういう形にしてみた。舞台女優を箇条書きから外して文章を補っただけなんだが、これでおkだろうか?(長々と申し訳ない。できれば編集合戦は避けて、勝と西郷のような無血開城と行きたいところだ)--Nazki rhetorica 2009年4月3日 (金) 16:12 (UTC) 細部訂正--Nazki rhetorica 2009年4月3日 (金) 16:38 (UTC)[返信]

一口で言ってしまうと、それは完全にNazki rhetoricaさんの言葉に対する好みの問題でしかありません。「○○を演じた人物」という言葉は、対象が架空の人物か実在した人物かの区別を必要とはしませんから。
例えば架空の人物の独立記事ではそう多くない秀逸な記事に選考されているシャーロック・ホームズの記事に「演じた俳優たち」という名前の節があります。これが「演じた」の後の言葉が「俳優たち」から「人物」になろうと、その前にキャラクターの名前が付記されようと、全くおかしくはないのです。
確かにバンコランのように現在の時点で声の演技しかされていないならば声優という節名で特におかしくはないでしょう、しかし、既に声のみではない演者が存在しているのにわざわざ説明が必要になるようなスマートでない書き方を選んでまで節名を「声優」にし続けるのは全然合理的ではありません。とりあえずどうしてもNazki rhetoricaさんが「○○を演じた人物」という言葉に引っかかるものがあるのなら、こちらは別にその節名に固執しているワケではないので、マライヒ同様「演者」にしておきます。--210.188.77.107 2009年4月22日 (水) 10:38 (UTC)--210.188.77.107 2009年4月22日 (水) 10:51 (UTC)[返信]
たびたび申し訳ないが、「演者」はもっとヘンだ。演者って歌舞伎とか文楽とか古典芸能で使う言葉じゃないか。それをサブカルに持ち込むから違和感が生じる。上でも言ったが、もっといい言い方が他にあるかと言えば、無いんだ。無いものを無理してひねり出そうとするから変な言葉使いになる。君自身述べているようにこれはたしかに言葉の好みの問題かも知れない。だがそれだけというわけではないんじゃないか? 理窟をこねれば「全くおかしくはないのです」ということになるが、だが「演者」とか「○○を演じた人物」という言葉使いをすることで、読んでる人に余計な引っかかりを与えてしまう。ヘンな節タイトルでくくっているな、なぜこんな節タイトルになっているんだろう、と。読み手の受け取り方とかそのあたりのことは、やはり考えに入れておくべきなんじゃないかな。で、箇条書きの形式を維持するなら、打開案としては、
  • == パタリロを演じた声優と俳優 ==
  • == 演じた声優と俳優 ==
  • == 声優と俳優 ==
  • 小山瞳の記述を除去する
あたりが考えられるが、どれがいいもんかね。--Nazki rhetorica 2009年4月29日 (水) 09:40 (UTC)[返信]
>演者って歌舞伎とか文楽とか古典芸能で使う言葉じゃないか。
古典芸能の分野でしか使わないのかと言えば別にそんなことは無いと思いますけど。
とりあえずそちらの提案への意見を言わせていただくと、3つの内どれにせよ「声優と俳優」という言葉が入る点で賛成しにくいです。言わば総称である俳優と、俳優の一種である声優をそういう風に並べるのはそれこそ言葉としておかしいように思いますので(声優の記事で書かれているように声優とは「声だけで出演する俳優」のことで、そもそも俳優の中に含まれます。例えるなら「ジャイアンツの選手とプロ野球の選手」と言っているようなものです)。
こういうことは二人だけで話しても難しいので、井戸端にでも投稿してみましょうか。--61.201.72.111 2009年5月8日 (金) 02:58 (UTC)[返信]
言い忘れました。節名の辻褄のために記述の方を削っては本末転倒ですので、「小山瞳の記述を除去する」の案も賛成しかねます。--210.188.79.4 2009年5月8日 (金) 03:08 (UTC)[返信]
ここで声優の定義と俳優の定義を盾に理屈をこねられても話は進まない。それどころか話がズレてゆく。思うにいま考えるべき点は2つ、
  • 完全無欠の言葉を探すんじゃなくて、一番マシな言葉を探す
  • 一番プレーンで、一番引っかかりのない、色のついてない言葉はどれか
この2点を判断基準にすると、「声優と俳優」の3案は妥当で無難な落とし所なんじゃないかな。だから君は、「声優と俳優」が不完全だと論うんじゃなく、「演者」と比べてどちらがマシかという点を考えてみてはどうかな。で、同じこと繰り返すようだが、「演者」には古典芸能という色がついちゃってるよということなんだよね。
井戸端に投げるなら投げるで構わないが、井戸端に行くならアカウントを取ってから行ったほうがいいと思うよ。ノート等で議論する時は可変IPでは困ります、みたいなルールが確かあったはずだ。--Nazki rhetorica 2009年5月8日 (金) 10:49 (UTC)[返信]
二人で議論を続けてもどうもよろしくない気がしたので、やはりWikipedia:井戸端に投稿してみました。IPのままなのであるいは怒られるかもしれませんが、けど見る限りではIPで参加している人もいるようなので、あるいは大丈夫かも。全部について議論しようとするとややこしいので、とりあえずは発端である「○○を演じた人物」の使用の是非だけに内容を絞ってあります。
まあ「演じた人物」だの「俳優」だの人物に主眼をおいた捉え方でなくとも、単に芝居になった際の配役をまとめた節であるとも言えるので、単に「配役」という節名にしたっていいかもしれないですが。--61.201.130.233 2009年5月23日 (土) 14:38 (UTC)作品そのものの記事でなく一人の人物の記事で配役という言葉を使うという案は適切じゃなかったですね。取り消します。--61.201.130.233 2009年5月24日 (日) 04:48 (UTC)[返信]
井戸端への投稿を確認しました。以降はWikipedia:井戸端/subj/「○○を演じた人物」という節名は架空の人物には相応しくないのか?で続けましょう。--Nazki rhetorica 2009年5月23日 (土) 18:09 (UTC)[返信]
(字下げを戻します)井戸端でのご質問ですが、こちらで。
声優と俳優を並べることへの考えに変化は無いかのことですね、それならば変化無し、です。なお自分としてはあくまで「正しいとは言えない言葉の使い方は賛成できない」という考え方ですので、Nazki rhetoricaさんの言うような「違和感」とはちょっと違うつもりです。たとえば「== ○○を演じた俳優 ==」という見出しの中に「=== 声優 ===」という小見出しを作るのは別に間違いじゃないですが、その逆に「== ○○を演じた声優 ==」「=== 俳優 ===」としたらおかしいのはお分かりでしょう。
井戸端に場を移してわりとすぐ、草薙さんが「パタリロの役を担当した俳優・声優」という案を上げてくれています。そのように俳優が先に来ているならまだしも分かるのです(もっとも草薙さん自身は俳優・声優の順番には寛容な様でしたけどね)。ただ、声優の方が多数で時期的にも早く、閲覧者や編集者の中でおそらくそっちをメインとみなす人の方が多いであろうパタリロのような記事の場合、「== 演じた俳優 ==」「=== 声優 ===」としたり「== ○○を演じた俳優・声優 ==」としたりすれば、それこそ違和感を持つ人も出るだろうなと思いました。
それを考慮すると「○○を演じた人物」というのは範囲が広くて汎用性が高いというか、便利そうに見えたわけです(今回は関係無いですが、井戸端の方で光舟さんがおっしゃったように明らかに声優でも俳優でもない人が演じている場合にすらこれなら対応できます)。なぜと言われれば選択の理由はひとえにそれです。この節名が実写映像作品やらラジオドラマやらの複数の分野で演じられている人物の記事で使用されがちなのもそういうことからじゃないでしょうか。--61.201.130.233 2009年5月25日 (月) 09:38 (UTC)[返信]
変化無し、ですか。井戸端では複数の方から「どっちでもよい」という判断を頂いたわけですが、それは考慮せずですか?(ちょっと意地悪な質問ですが)
とはいえ、これ以上節名に関して掘り下げる理由はなくなりましたし、「演じた声優・俳優」も次善策のひとつとは言えベストの案ではないですから(中黒ぶくみな所とかね)、このあと一週間から十日程度の期間を見て、意見別案等つかなければ節名を書きかえて構わないかと思います。なんにせよ演者よりはベターですから、任せました。私はしばらく謹慎しときます。--Nazki rhetorica 2009年5月26日 (火) 12:55 (UTC)[返信]
はい変化はありません。前後の脈絡からしてそれらの「どっちでもよいと思う」というコメントは議論本筋への意見を述べつつ、ついでに「私個人としてはどれもおかしいと思わない、どれが選ばれても文句は無い」という旨を添えてくださったわけでしょう。ですから、有り難くそれを踏まえて判断させて頂くつもりです。大体、Nazki rhetoricaさんも最初に「(実在人物にだけならば)○○を演じた人物という書き方はごくごく普通の自然な書き方だと思う。」と言ってくれているじゃありませんか。そして架空の人物に使うのはおかしいというのが誤解だったことはもう十分わかって貰えた筈です、いまさら問題は何も無いでしょう。
別に私は「演者」を変だとまで感じているわけじゃないですが「○○を演じた人物」に戻す分には特には反対ありません。今やっても別に問題なさそうにも思いますが、念の為Nazki rhetoricaさんの言うように10日ほど待ってから編集することにしますね。--210.188.79.45 2009年5月27日 (水) 06:58 (UTC)[返信]
先ほど実際に編集を行いました。なお、ここと同じく演者にしてあったマライヒの記事も同様に編集しました。--61.201.132.195 2009年6月6日 (土) 16:57 (UTC)[返信]

宗旨について[編集]

前からそういう記述だったか覚えていないのですが、宗旨を「真言宗智山派」としたのはなぜでしょう。本文に何も記述がありません。即位時に宗旨を聞かれて「真言宗だ」と答えたのは知っていますが、派まで答えていたでしょうか?どこか別の場面で詳細に答えている、僧侶の装束で断定できる・・・など根拠はありますか?ギャグ漫画のトリビアと因縁つけられ、その根拠となる記述を削除厨に消されたためかもしれませんが、根拠も無く派まで断言されても見た第三者は戸惑うだけでしょう。真言宗智山派の誰かによる宣伝行為、もしくはそれ以外の別派を知らないバカによる蛇足を疑ってしまうので、できれば明記いただきたいと思います。