ノート:三省六部

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>唐の玄宗期に門下省が中書省に吸収されて、「中書門下」と呼ばれるようになった

についてですが、

「宰相会議は初め門下省の政事堂でおこなわれたが、六八三年に政事堂は中書省に移り、七二三年には中書門下と改称して吏・枢機・兵・戸・刑礼五坊がもうけられて衆務をつかさどった。」(山川『中国史2』P376)
「皇帝を助けて政策を立案、決定するする中書すなわち宰相府は、唐まで貴族階級の利害を代弁していた門下省が崩壊したことで、その任務も吸収し、より強力な機能を持つように変貌した。」(山川『中国史3』P98)

とあります。「玄宗期に」と限定したことはまずかったかと思いますが、武則天・玄宗ごろを始めとして門下の権限を中書が奪っていき、最後は吸収したことは正しいと考えます。らりた 2009年4月10日 (金) 13:26 (UTC)[返信]

気づきませんで返事が遅れましたことをお詫びします。らりたさんの認識には誤解があると思います。
「いずれの場合にも、門下省の政治上重要なる地位が知られるが、唐末五代を経て宋に至る間に、時勢が貴族政治を去って君主独裁政治を趨くに及んで、事実上三省の区別がなくなって、実権が中書に帰し、門下は独立の機関としての意義を失ってしまう、と述べられたのである。」(礪波護『唐の行政機構と官僚』中公文庫P165)
「中書省に移されていた政事堂が中書門下と改められたのは開元十一年のことである。」(礪波護『唐の行政機構と官僚』中公文庫P178)
ということです。玄宗期の723年に生まれた「中書門下」とはあくまで政事堂が改称されたものです。中書省(玄宗期には紫微省)や門下省(玄宗期には黄門省)が改編されたわけではありません。中唐以後にも中書省や門下省は存在します。ただ貴族政治の牙城としての強大な封駁権限をもった門下省の実権が低下していったことや、宰相としての中書門下平章事の実力が強化されたことは事実ですが。それにしたところで、「門下省が中書省に吸収されて」という表現は不適切だと思います。もし「中書門下省」の成立を考えるのであれば、南宋の建炎三年(1129年)を待たなくてはならないでしょう。--Nagaichi 2009年6月12日 (金) 08:19 (UTC)[返信]
「門下省が中書省に吸収され」た結果として「中書門下」が誕生したという私の文章は完全なる誤認でした。大変失礼しました。私の言いたかったのは唐代を通じて「門下省の権限が中書省に吸収され、最終的に有名無実の物となった。」ということでした。らりた 2009年6月12日 (金) 12:24 (UTC)[返信]