ノート:中庸

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朱熹の『中庸章句』の序は長いので、朱熹が中庸の最初に書いている文章を書き下し文で 記載しております。


子程子曰く、偏らざるをこれを中と謂い、易(か)わらざる(若しくは、やすからざる)を これを庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。この篇はすなわち孔門伝授 の心法なり。子思その久しくしてたがわんことを恐る。故にこれを書に筆してもって孟子に 授く。その書始めは一理を言い、中に散じて万事と為し、末は復合して一理となす。これを 放てばすなわち六合にわたり、これを巻けばすなわち密に退蔵す。その味わい窮まりなし。 皆実学なり。善く読む者玩索して得るあらば、すなわち終身これを用いて尽くす能わざる者 なし。

アリストテレスに関する部分の分割[編集]

アリストテレスの中庸(mesotes)に関する部分を集めて、「中庸 (哲学)」に移動することを提案します。ここは四書の『中庸』専用のページにしましょう。-- Plonk 2007年1月30日 (火) 04:49 (UTC)[返信]

そうですね。それがいいかもしれません。分割自体は賛成です。あえて問題を探すとすれば、誰が『中庸』の記事をリライトするかということですかね。--Tears for Asia 2007年1月30日 (火) 14:38 (UTC)[返信]
現在二つの主題に関する説明はほとんど分離しているので、分割作業時に私が以下のように編集すればよいと思いますが、いかがでしょう。
  • 冒頭は単に「中庸(ちゅうよう)とは、儒教において、「四書」の一つ。」とする
  • 「徳性としての中庸」の節は削除
  • 曖昧さ回避のテンプレートを貼る
    --Plonk 2007年1月31日 (水) 18:05 (UTC)[返信]

    偶然RCで気がついてやってきました。 分割自体には賛成ですが、ちょっと待ってください。そもそも儒学も哲学なわけで(中国哲学)、「哲学」という切り分け方はうまくないように思います。かといって倫理学ではもっとまずいでしょうし……(西洋哲学)くらいにしてはどうでしょうか。なお、どちらがこの場所を占めるべきかについては、もう少し議論が必要なように思います。呼びかけをPortal:哲学の会話ページなどに出していただけると、少しは耳目を引くのではないかと思います。ご一考ください。--Aphaia 2007年1月31日 (水) 18:09 (UTC)[返信]

    わたし自身はPlonkさんのご意見に基本的に賛成です。大学文学部には哲学科と中国哲学科が併存しているようですし、それはそれでいいかなと軽く思っているのですが、Aphaiaさんの言われることも一理のあるので、呼びかけるのはいいことだと思います。とりあえず呼びかけてみて、こちらはしばらく他の方の意見をゆっくり待ってみると良いのではないでしょうか。--Tears for Asia 2007年1月31日 (水) 18:28 (UTC)[返信]
    ありがとうございます。あとで、アリストテレスのほうはメソテースで立ててもいいなと思いました。ギリシア哲学関連では原語表記を尊重した項目名は他にロゴスアルケーなどがあります。--Aphaia 2007年2月1日 (木) 04:00 (UTC)[返信]
    中庸 (ギリシア哲学)」でどうでしょう。(広辞苑には(アリストテレスの意味での)中庸とロゴスとアルケーは載っていますが、メソテースはありません。やはり中庸でいきたいです。)--Plonk 2007年2月1日 (木) 07:52 (UTC)[返信]
    そうですね、専門の方のあいだでもやはり中庸は中庸といわれることが多いようです。ご提案に私は賛成です。1週間ほどまって、異論がなければそちらへ分割するというのではいかがでしょうか。--Aphaia 2007年2月2日 (金) 07:16 (UTC)[返信]
    同じく異論なし。--Tears for Asia 2007年2月4日 (日) 15:09 (UTC)[返信]