ノート:中村一忠

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一忠か忠一か[編集]

「大名廃絶読本(新人物往来社)」という本にて、「元服の際に徳川秀忠から一字貰い受けて忠一と名乗る。一忠とする資料もあるが誤りである」とあったのですが、その辺どうなんでしょう。秀忠から1字もらったのが事実であるとするなら、「忠」の字が後にくるのは確かにおかしいと思いますし。--ポテンシャル0 2009年10月8日 (木) 06:32 (UTC)[返信]

”一氏”の長子ですから日本の名付けのルールからすれば元服時には”一忠”と名乗っていても不思議はないと思います。その後、徳川家康の後継者である秀忠の片諱を(1601年)に拝受したということだと思います。米子市ホームページ中の米子城にまつわる史跡に中村一忠の諱に関して「一忠は、生存中、将軍徳川秀忠の一字を許されて、公式には「松平伯耆守忠一」と称しました。」との記述があります。但し、慶長6年時点では秀忠はまだ将軍ではないので米子市ホームページ中の記述も正しいとは言い切れませんが。--Reggaeman 2009年10月8日 (木) 11:59 (UTC)[返信]
おっしゃる通りで、一字拝領するまでは「一忠」で、秀忠から一字拝領後に「忠一」と名乗ったのでしょう。ただ、どちらが一般的か、とか一次資料に多く使われているのかな、と思いまして。どちらにしろ短命だった人物なので、その辺うやむやなのかもしれませんが・・・補足説明ありがとうございました。--ポテンシャル0 2009年10月8日 (木) 14:38 (UTC)[返信]