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ノート:予言/過去ログ1

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また、聖書に書かれているような預言は、全能神の言葉を預かって語ることを言うことであり、明らかに区別されるべきである。

という記述ですが、現在は「預言=予言」というのが有力な学説です。ただ、もう本記事のような認識が一般的であるのも認められるべき事実ですので、とりあえず、部分的削除だけしておきます。

私にはむしろ預言者#「予言者」との相違の認識の方が適切に思えますが、「預言=予言」というのが有力な学説というのは、一体どういう学問(キリスト教神学、イスラーム神学、宗教学、文学…)で有力な学説なのでしょうか。また、有力というのは、どのような文献に基づいておられるのでしょうか。Sumaru 2006年4月16日 (日) 09:10 (UTC)[返信]
本来「予」も「預」も「豫」という正字の異字に過ぎません。従って預言と書こうが予言と書こうが、どちらも「豫言」と言っているだけのことで意味に違いなどあるはずもありません。もともと「豫言」とは中国から輸入した言葉ですが、あちらではそのような区別は当然ありません。ミッドランドライダー 2006年8月13日 (日) 12:42 (UTC)[返信]
もともとの用字は私も存じておりますが、日本で独自の使い分けや意味の派生が起こることは別に珍しいことではないと思います。実際のところ、啓示宗教で神の言葉を「預かる」ことを「預言」、由来に関わらず「予め」言うことが「予言」といった線引きが辞典類でもなされています。また、英訳などでも、prophecyの訳語には「予言」「預言」の双方が当てられますが、predictionの訳語に「預言」が当てられることはほとんどないと思います。大事なのは、現に日本語でどのような区分がなされているのか、ということではないでしょうか。なお、このコメントは、「現在の用法は~であるが、本来の用字としては~」といった加筆がなされることに反対するものではありません。Sumaru 2006年8月13日 (日) 15:49 (UTC)[返信]
この問題については高島俊男氏が6月から7月にかけて『週刊文春』誌上のコラム『お言葉ですが』で連載されていたのですが、その区分自身が間違い、あるいは区分する意味が皆無で宗教学者の無知によるものという論陣でありました。高島氏の議論を援用しつつ、「予言」と「預言」を区別する事が本当に必要な事であるのか、ということはwikipediaとしても一度議論しておく事が必要かなとは思っているのですが。ミッドランドライダー 2006年8月13日 (日) 22:20 (UTC)[返信]
私は現状では議論すべきではないと思います。ウィキペディアで議論をして定義を定める、というのでは、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかの「まだ人類共通の知識となっていない意見を伝達する場所ではありません。」とある趣旨に反するからです。
私は高島氏の連載は拝読しておりませんが、6月から7月にかけて、というのなら、宗教学者や辞典類を編纂する各種言語学者といった専門家からの反応があるのは、むしろこれからでしょう(英語版でw:Prophecyw:Predictionの記事が別々に立っていることからも、これらを区別することがかならずしも無意味だと思えませんし、誤りなのを承知の上で従来の区分を使い続ける専門家が出てくる可能性だってあります)。
預言者予言の定義を抜本的に変えるのは、そうした反応がある程度出揃い、専門家や辞典類の見解に一定の統一性が見られるようになってからにすべきだと思います(おそらくそれは数年後になるはずです。気の長い話ですが、百科事典の編纂は本来そういうものではありませんか)。
とりあえず現状では、「一般には~といった区分がなされているが、中国文学者の高島俊男からは~という指摘もなされている」というような記述を予言なり預言者なりに加筆すれば十分だと思います。--Sumaru 2006年8月15日 (火) 10:53 (UTC)[返信]

大幅な改稿[編集]

予言とは、…検証可能なものを言う」に特に疑問を感じたため、書き換えました。検証可能でなくても予言と称しているものは結構ありますし(^^;、予言とは何かということと、予言として役に立つかということは、とりあえず分ける方が無難だと考えます。Sumaru 2006年4月16日 (日) 09:10 (UTC)[返信]

予言と預言[編集]

ミッドランドライダーさんの加筆について、以下の二点で疑問があります。

>1970年代になって、日本では新たに「予言」を「予め言う」、「預言」を「神から預かった言葉」として区別するようになり、急速に定着した。

私の手許にある『人間』誌(1947年)に掲載された渡辺一夫氏によるノストラダムスの紹介では、既に「予言」が一貫して用いられています。また、関根正雄氏の訳による岩波文庫版『エレミヤ書』『十二小預言書(上・下)』等は1950年代から1960年代に刊行されていますが、一貫して「預言」です。

1970年代からとする出典は何でしょうか(やはり上記の高島氏でしょうか)?また、その出典ではどのような根拠に基づいてそのように主張されているのでしょうか?

> Prophetの項目では「Prophet」を「神と直接遭遇し、それ以降あたかも神の公式な代理人のごとく話す者」と定義し、「神の言葉を受ける過程は通常Prophecyや啓示として知られる」とする。仮に「予言」と「預言」を厳密に区別した上で、Prophetを預言者、Prophecyを予言と訳すと、意味が通らなくなる。

なぜ、(私が既に上で指摘したにもかかわらず)en:Predictionを無視するのでしょうか。単に、この記事(「予言」)のinterlang. をen:Prediction に差し替えればよいだけではないでしょうか(en:Predictionに当たる記事は英語版以外にも12言語で作成されています)。また、Prophecyの訳語には「予言」「預言」の二通りのあて方がありうることも既に上で指摘している通りです。付け加えるならen:Prophecyの冒頭の定義は明らかに「預言」「予言」の二通りを表しており、訳し分けても意味は普通に通ります。このこともなぜ無視なさるのでしょうか(以前interlangを貼り替えようかと思った際にも、この点を意識してあえて差し替えず、書き出しの部分の英訳に Prophecy, predictionの両方を加えるにとどめた、という経緯があります)。

日本語と任意の言語が厳密に一対一で対応することなどまずありえない、ということは翻訳の基本でしょう(ゆえにinterlangは一つの目安であって確定的なものなどではありえません)。ご自身に都合のよい論拠のみを取り出して記事を構成なさることには疑問を感じます。

それと、余計なお世話かも知れませんが、プレビュー機能は是非お使いください。--Sumaru 2007年1月24日 (水) 03:50 (UTC)[返信]

Sumaruさま、わたくしの個人ページへの寄稿、ありがとうございます。けっしてこちらのノートの記述を無視していたわけではなく、ウォッチリストにも入れていないため、単に気付かなかったことをまず申し上げます。次に、プレビュー機能は使っており、数度確認の後投稿しているのですが、書くと直したくなる性分なもので、ご迷惑をおかけしております。
さて、ご指摘の件ですが、順次お答え致します。
渡辺一夫氏、関根正雄氏による翻訳の件は、貴主張に対しなんらの証拠力を持たないでしょう。「予言」も「預言」も単一「あらかじめ言う」の意味のみを有し、その書き分けにすぎないとする立場からは、「豫言」を単に「予言」「預言」と書いただけでは、としか申し上げられません。両者共に孤証でしかないのですから、書誌学的に「預言」と「予言」が厳然として使い分けられていたことを証明されなくては意味がないでしょう。ちなみに大正訳聖書では、預言以外の部分を含めて「預」の字は全て「あらかじめ」の意味で使われています。
1970年代からというのは、平凡社の『世界大百科事典』が出典です。1972年版を境にそれまで「予言」で統一されていた項目の解説が、文章がそのままなのに「予言」と「預言」に分けられるのです。
predictionについては、そもそも「予言」ではないでしょう。予測でも予報でも予想でも他に適切な訳語はありそうなものです。そもそもそれは、このページのヘッダで予言ではないと言われている言葉の範疇ではないですか。また、私のページではrevelator, predictor, soothsayer, foreteller, foreboder, prognosticator等の単語を列記されましたが、これはそもそも問題が異なると思われます。それらに逐一訳語を付けることはできるでしょうが、一方でまた、それらを全て「預言者」=「予言者」でくくっても全く問題はないでしょう。「予言者=預言者」という広い括りの中で、啓示を受ける者はrevelatorであり、何か超自然的な兆しを感じ取って言う人間がprognosticatorというだけの話でしょう。
翻訳の基本はおっしゃる通りですが、「自分に都合のいい根拠」ではないでしょう。中国語にせよ英語にせよ予言と預言の区別はしていないという典型例というだけの話です。
最後に、わたしの編集では2007年現在において使い分けがされていることを否定していません。予言の項ではそもそもこうであるが今はこうであり、それらのうちもっぱらあらかじめいうことをこの項で述べるとしているのであり、また預言者の項でも今現在いわゆる「預言を受ける者」としての意味を否定してはいません。虚偽ではない歴史的な経緯を加えることになんの問題がありますか?ミッドランドライダー 2007年1月26日 (金) 10:38 (UTC)[返信]
お返事ありがとうございます。まず、渡辺、関根両氏の例は、確かに各人の文章中での使い分けが見られなければ、意味をなさない例でした。お詫びして撤回致します。
ただ、平凡社の1972年版百科事典を出典となさっていることには、なるほどと思う一方で、疑問も湧きます。百科事典が率先して、新たな使い分けをすることがありうるだろうか、と。むしろ1972年版で使い分けがなされたというのであれば、緩やかな形であれ、その何年も前から、使い分けた方がよいという認識が広まっていて、それを踏襲したのではないか、とも思えます。百科事典は独自の調査を披瀝する場ではないのですから。
>predictionについては、そもそも「予言」ではないでしょう。予測でも予報でも予想でも他に適切な訳語はありそうなものです。そもそもそれは、このページのヘッダで予言ではないと言われている言葉の範疇ではないですか。
すみませんが意味不明です。predictionはforetellingなどとともに「予め言うこと」を表す一般的な語のひとつであり、科学的な予測も超自然的な予言も両方含むはずです(predictionは前者に、foretellingは後者に、より重きがあるのは事実でしょうが、en:Predictionでも双方に目配りされています)。マニアックな例で何ですが、ノストラダムスの六行詩集の正式名は”Prédictions Admirables...”であって、現代英語ではそのまま”Admirable Predictions...”と訳されます。このPredictionsは当記事の範疇に入るはずですが、「そもそも予言ではない」と断言する根拠は一体何でしょうか(Predictionについて、予言という訳語が載っていない英和辞典等をご存知ならお示し下さい)。百科事典では既に存在する定義をなぞるべきであって、あなたが勝手に定義を作るべきではありません。
ついでに言うなら、確かにpredictionは自然科学的な「予言」の意味でも用いられますが、それはまさにこの記事でも予言#自然科学における「予言」で触れているのですから、どちらにせよ、この記事の対象外と一概には言えないはずですが。
>一方でまた、それらを全て「預言者」=「予言者」でくくっても全く問題はないでしょう。「予言者=預言者」という広い括りの中で、啓示を受ける者はrevelatorであり、何か超自然的な兆しを感じ取って言う人間がprognosticatorというだけの話でしょう。
これもまた意味が分かりません。神の啓示を受けずに未来のことを語るならrevelatorではなく、未来を語ろうと語るまいと神の啓示を受けたならrevelatorだというのなら、「神の言葉を受けた者」と「単に未来を語る者」との間に区別はある、というのが明瞭ではありませんか(この場合、revelatorに現代日本語の「預言者」の訳語をあてることが出来ても、「予言者」はあてられないことがありうる、ということを示しています)。prophetが類語の中でかなり一般的な言葉なのは事実でしょうが、その単語がどちらにも使われるからと言って、英語ではその二つの概念を区別していない、と言い切るのは論理の飛躍があります(アメリカ人がgreen appleの和訳を挙げて「日本人は青と緑を一切区別しない」と言ったとしたら、賛同なさいますか?)。
誤解のないように申し上げておきますが、「予言」と「預言」の語源的な考察を本文で語ることに異論はありません。現状の提示の仕方に疑問が多いと申し上げたのです(あなたのノートでも「大幅な改編」と言ったのであって「全面的な削除」とは申し上げなかったはずです)。--Sumaru 2007年1月26日 (金) 15:10 (UTC)[返信]
(Predictionについて追記)今しがたen:Nostradamusを読み返していて気付きましたが、その記事の中で何度Predict, Predictionが使われているか、そしてそれらが「(超自然的な)予言」の意味で訳せないものばかりなのか、御確認なさるのもよろしいかもしれませんね--Sumaru 2007年1月26日 (金) 16:01 (UTC)[返信]
百科事典については、「使い分けた方がよい」という認識が本当に形成されていたのかが疑問です。この辺りはいつごろから日本語では「預」の字に、中国にはない「あずける」という意味を付すようになったのか、ということも含め、簡単ではない問題です。ただ、「予」が「預」の略字だと知っていれば「予言」でも「言葉をあずかる」の意味になるのですから、このような使い分けを始めた人間に、積極的な意図があったとは考えにくいものです。一方、前記高島氏の記述によれば遠藤周作山本七平も「間違った」区別をしていたとのことで、根が深い問題なのは確かです。
predictについては、当方の記述に問題がありました。前言を撤回し、改めて意見提起します。predictionとprophecyの違いはそれほど深刻なものでしょうか。prophetの語源は古代ギリシャ語のπροφητηs(prophetes)で、その意味はpro-前に+-phemi話す+-tes人=予言者です。一方predictはpre+dictでこれはラテン語のpre-前に+dicere言う=予言、ですよね。要するに語源がギリシャ語がラテン語というだけで意味は全く一緒でしょう。であるならば、いちばん最初にpredictとprophecyを併記されたところまで遡るならば、英語に二つの言葉があるからと言って、区別する意味があるのでしょうか。なるほど、辞書やその他で用例をみる限りにおいては、新約聖書の最初の言語であるギリシャ語に由来するprophecyは日本語で言う「予言=預言」に用例がほぼ限られ、一方ラテン語由来であるpredictは「預言=予言」を含みなおかつ予想や予報といった幅広い「あらかじめ言う」ことを指すようです。してみると、予言の項からはprophecyではなくpredictionにリンクすべきと言う貴主張の説得力は確かに強いものがあります。ただ、それでいいのかと言うと、悩ましいところがありますね。やはり日本語の預言=予言は聖書のprophetを訳した言葉であるがゆえに、そうしたニュアンスを色濃く包含しているのですから。
しかしながら、そのように考えたとき、predictionとprophecyの違いは「あらかじめ言う」と「言葉を預かる」の訳し分け、などという問題なのでしょうか?そうではなく、「予想・予報・預言=予言etcを包含する“広い”あらかじめ言う」と「予言=預言に限られる“狹い”あらかじめ言う」の差にすぎないのではないですか。また、ノストラダムスの件についていえば、ラテン語に精通したノストラダムスがpredictionを使うのは当然として、英訳するにしても当然ラテン語系のpredictionを選択したと言うだけの話ではないですか?我々にとっては呉音と漢音の使い分けのようなものにすぎないと思います。なるほどもしかするとノストラダムスは、predictionとprophétieを積極的に使い分けたのかもしれない。しかし、同時に、「あらかじめいう」を「預言」と書くか「予言」と書くかの趣味の問題であるのと同様に、当時の知識人の当然の選択として同じ「あらかじめ言う」からラテン語のpredictionを選んだとも言える(日本人だって、戦後使われる略字を使わずに正字を使う人がいるのと同様に)。で、前者の発想は「言葉を預かる」という日本語的発想がなければ出てこないものではないですか?もし「予言=預言=あらかじめ言う」が貫かれているときに出てくる発想ですか?「預言」を「言葉を預かる」と読むようになった後に出た、後付けの区別だとは思いませんか?ギリシャ語でもラテン語でも「あらかじめ言う」という意味しかないのに。「預言」が本当に「言葉を預かる」なら、ギリシャ語にせよラテン語にせよそういう言葉を作ったのではないですか?ただ、ノストラダムスがpredictionとprophétieを使い分けたか否かについては、非常に興味深い観点なので、もしご存知でしたら御教示下さい。ただ、仮に使い分けていたとしても、それはpredictionが予言で「なければならない」ことにはならないでしょう。それこそprophecyが「予言」でpredictionが「預言」でもいっこうに構わないのですから。
revelatorの件ですが、言いたいことはそうではありません。予言者=預言者を「言葉を預かる」という理屈で預言者と予言者に切り分けるまでもなく、revelatorに「啓示者」なり「天啓者」なりの訳語を与えればすむ話です。predictorはさんざ書いた通りギリシャ語とラテン語の違いに過ぎませんし(それこそ「あらかじめ言う」ということを「預言」と書くか「予言」と書くかの違いに過ぎないのと全くパラレルでありかつ同レベルの話です)、soothsayer以下も適宜訳語を与えればすむでしょう。どこにわざわざ「預言」を「言葉を預かる」などという解釈をする余地があるのかという話ですよ。そしてそれぞれが区別されているのは当然です。この点に関しては、先の発言の「広い括りの中で」という私の語は明らかに誤りでした。預言者=予言者の部分集合ではなく、予言者=預言者がそれぞれと和集合の関係にある、というように訂正します。
最後に、31日までこの議論に参加できる時間が取れそうにありません。御返事が遅れても、それは議論を無視していることではありません。あらかじめお詫び申し上げます。ミッドランドライダー 2007年1月26日 (金) 20:08 (UTC)[返信]
まずはお忙しい中のお返事に御礼申し上げます。
>この辺りはいつごろから日本語では「預」の字に、中国にはない「あずける」という意味を付すようになったのか、ということも含め、簡単ではない問題です。
あなたの加筆内容を拝読していて、この点は私も気になりました。誤用のなされ始めた時期がいつであるか、がはっきりしない状況で「1970年代から新たに」という断言が適切なものでしょうか。
>いちばん最初にpredictとprophecyを併記されたところまで遡るならば、英語に二つの言葉があるからと言って、区別する意味があるのでしょうか。
あなたの理屈で言うと、book と bible は語源まで遡れば同じだから区別する必要はない、となるはずですが? 元の言語や流入経路が異なれば、本来は同じ意味であっても、異なる意味に変化しうることなど、よく知られた話ではないでしょうか。
そもそも、現在の英語で語義上の「守備範囲」にずれがあり、prophecyに啓示宗教臭さがつきまとい、predictionは宗教色に必ずしも縛られない「予め言うこと」である点は、あなたもお認めになっているというのに、それで何故「語源まで遡れ」と言う論理が出てくるのか、理解に苦しみます(日本語では「予言」「預言」といった変化・派生が生じているというのに、英語は起源から現在まで固定的に捉えるべしとは、余りにも無茶な話です)。
どうも議論がかみ合わない理由は「言葉を預かる」という表現にこだわるか否か、にあるように思います。私は現代日本語的な意味での「預言者」が、本来「豫」の俗字だったらしい「預(あらかじ)め」と読まれていた単語(これは私の方でも複数の漢和辞典で改めて確認をとりました)を誤用したことで定着した、という点に最初から異論は挟んでおりません。
あなたは
>「予想・予報・預言=予言etcを包含する“広い”あらかじめ言う」と「予言=預言に限られる“狹い”あらかじめ言う」の差にすぎないのではないですか。
とおっしゃいますが、神の言葉を受け取る意味でprophecyを使うときは「予め言う」の意味になど限られません(モーセが受けとめた「預言」であるところの「十戒」は、一体何を「あらかじめ」言っているというのでしょうか?)。例えばロングマン英英辞典でprophetを引いていただけば、「神の言葉を受け止める人」の意味に対応している語義(1 - 3)に、「予め言う」ニュアンスなど込められていないのはお分かりでしょう。というよりも「預言者」の冒頭に書かれていることが事実なのだとすれば、「語る者」でしかなかったヘブライ語を「先に語る者」と訳したギリシャ語自体が誤訳だった、という話なのではありませんかね。その意味で現代のprophetの宗教面の語義は、聖書の内容をより適切に理解すべく、オリジナルの語義に近づけて理解していると見るべきではないでしょうか。それは同時に「やはり日本語の預言=予言は聖書のprophetを訳した言葉であるがゆえに、そうしたニュアンスを色濃く包含しているのですから」というような、和訳された辞典だけに見られる使い分けでないことは明らかです。
ProphecyとPredictionについて、いい加減、どちらか一方の単語がもう一方の単語を完全に包摂する関係にある、という発想から脱却なさいませんか?--Sumaru 2007年1月27日 (土) 03:55 (UTC)[返信]

整理[編集]

長くなってきたので、私の立場を整理する意味でも節を区切ります。

異論のない点
  • prophet に漢訳聖書で「預言者」とあてられていたが、これは「預(あらかじ)め言う者」の意味でしかなかった。
    • 手許の文献(鈴木範久『聖書の日本語』岩波書店)では、prophetの訳語としては「先知」の方が先だったようです。理想を言うなら、漢訳聖書で「預言者」は一般的な訳語だったのか、むしろ例外的な訳語だったのか、などの説明もあると親切かとは思いました。
  • 日本語で「預」に「あずかる」の意味が付与された結果、本来の語義から離れて「言葉を預かる者」の意味に変化し、「啓示宗教において神から言葉を受け取る者」の色彩が強くなった。
異論のある点
  • 誤用が新たに生まれたのが1970年代からである。
    • 『平凡社大百科事典』が典拠だというのなら、例示としてそれに話を限定する分には異論はありません。そもそも「根が深い問題」と仰るところのこれを、出典を示すこともなく一般化し、断言している現状の記述には違和感があります。
  • もともと英語では「啓示宗教において神から言葉を受け取る者」と「単に未来を語る者」とを区別することがない。その区分は日本特有である。
    • 「言葉を預かる」という表現にこだわって、ぴったりそういう表現が英英辞典に出てくるかと言えば、そんなことはありえないでしょう。しかし、現代日本語の「預言者」が意味している「神の伝言役」と「予言者」が意味している「未来を語る人」の区別自体が英語にないかといえば、そんなはずはないし現に区別されている、というのが私の反論です。ですので、「予言者=預言者を「言葉を預かる」という理屈で切り分ける」などという私が言ってもいないことに反論頂いても困惑するばかりです。--Sumaru 2007年1月27日 (土) 03:55 (UTC)[返信]

Prophetの語源は「先に語る者」なのか[編集]

上の整理の一番最後の論点に関わる問題です。

ミッドランドライダーさんはギリシャ語の語源は「前に+話す+人」だと説明なさっており、上のコメントを書いた際には私もそう思っておりました。ところが、今回の議論に関係あったはずと思い、箱詰めでしまいこんでいた蔵書の中から、セラフィノ・フィナテリ『終末論のまぼろし』(講談社、1982年)を引っ張り出してみると、こんなことが書いてありました(一段下げてある箇所が引用部です)。

「預言者」のギリシア語はプロフェデスで、プロフェデスとは「何者かに代わって言葉を宣言する者」、いいかえれば「神の言葉を預かって、これを宣言する者」のことである。(上掲書、17ページ。傍点は割愛)

著者は20年ほどのローマでの司祭、イタリア軍従軍司祭の経験の後来日した、滞日経験の長いイタリア人神父で、この本はフィナテリ氏が日本語で書き下ろしています。

上記の文章後半は日本人に分かりやすいようにと言い換えた結果、かえって字面に惑わされてしまった観があり、ここでは扱うべきではないでしょうが、気になったのは前半です。なぜprophecyの語源が「代わりに語る者」と訳せるのか? そう思って改めて英語、仏語、ラテン語などの辞書(生憎ギリシャ語は持ち合わせておりません)で接頭辞"pro-"を調べてみると、「前に、先に」のほかに「代わりに、代理で」の意味があることに気付きました。

モーセアブラハムが「先に語る者」と「代わりに語る者」のどちらにより適合するかと言えば、後者なのは明らかです。

英語版ウィキペディアでは残念ながらギリシャ語の語源について説明はありませんが、フランス語版(fr:Prophète)では「神の言葉を通訳する者」の意味だったと書いてあり、ドイツ語版(de:Prophet)でも「(神の)代弁者」となっています。

果たしてギリシャ語の語源は本当に「先に語る者」なのでしょうか? むしろ、「先に語る者」という理解は、pro- という字面にまどわされて後から出てきたものなのではないでしょうか? ミッドランドライダーさんが「もし「予言=預言=あらかじめ言う」が貫かれているときに出てくる発想ですか?」と仰る大前提は、そもそも成り立つものなのでしょうか?(付け加えるなら、この大前提は高島氏のエッセイ以外にどのような文献を参照した上で導いたものでしょうか)

ブリタニカ百科事典第11版Prophetの項目ではギリシャ語語源の説明はないようですが(長すぎるので全部は読んでいません)、ヘブライ語の語源説明では、「先に語る」などというニュアンスを一切述べておらず、上記の疑念を増幅させます。

なお、ミッドランドライダーさんが「我々にとっては呉音と漢音の使い分けのようなものにすぎないと思います。」と仰る prophecy と prediction の使い分けについては、前記フィナテリ氏はこう述べています。

イタリア語でもプロフェツィアとプレディッツィオーネと、はっきりいいわけている(『終末論のまぼろし』69ページ)

「代わりに語ること」と「あらかじめ語ること」なら、使い分けがあるのは当然ですよね。--Sumaru 2007年1月28日 (日) 03:16 (UTC)[返信]

(追記)誤解のないように一言。ミッドランドライダーさんには語源で議論するのは変だ、と言っておいて私が語源の話をしているのは、上で挙げたようにロングマンやブリタニカでは、「先に語る者」という語源では理解しづらい用法がメインになっているから、つまり現在の辞典類に載っている用法に直結する話だからです。--Sumaru 2007年1月28日 (日) 04:24 (UTC)[返信]

(更なる追記)こんなページを見つけました。高島氏よりも1年以上早くほぼ同じ論旨を展開していた方の書き込みのようですが、それに対しLiddell & Scott, Intermediate Greek-English Lexiconを根拠に反論している方がいますね。この辞典は未読ですが、正しく引用されているのならば、私の上の疑問は正しかったことになるのではないでしょうか。--Sumaru 2007年1月28日 (日) 06:26 (UTC)[返信]

改稿について[編集]

回答予定日の1月31日を過ぎて一週間になりますが、ミッドランドライダーさんからのお返事がなく、また彼の見解を擁護するような意見もないため、図書館を回って博捜した結果を元に書き換えさせていただきました(預言者のほうを大幅に書き換えたため、予言のほうはカットしました)。

なお、高島氏のエッセイもざっとは読みましたが、そこでは「予言と預言の概念自体に区別がない」などとは仰っていないように思います。彼の主張は、漢字熟語としての「予言」と「預言」は同じものでヘブライ語直訳ではないのだから、概念を区別するために字を使い分けるというのならば、新しい熟語を創出するのが筋だというだけではないでしょうか。「概念自体を区別するのが無意味」だの「日本特有の現象」だのといったミッドランドライダーさんの加筆内容や主張は、高島氏のエッセイを曲解したものに過ぎないように思います(念のため申し上げますが、曲解していようといなかろうと問題の本旨には関わりません。出所がどこであれ、要するに「概念自体を区別することが無意味」などという主張が、全く的外れなものであることに変わりはありませんので)

また、1970年代云々にしても、高島氏は自分の「推測」であると述べていますし、別の箇所では昭和29年頃から「言葉を預かる」という誤用がなされ始めた可能性を示唆していますから、「1970年代になって、(略)区別するようになり、急速に定着した。」などという加筆は失当なものです。どうしても書きたければ、「高島俊男は平凡社大百科事典の表記の変遷などを元に、1970年代初め頃から辞書・事典類にも誤用が広まり始めたと推測している」とでも書くのが精々でしょう。言いだしっぺが個人的な推測だと断っているものを、出典も示さずに確定的なものとして提示するというのは正確性の点で問題があります。--Sumaru 2007年2月7日 (水) 14:12 (UTC)[返信]