ノート:五大老

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。


小早川隆景を含めるのか否か[編集]

結局、五大老制の起源をどこに求めるのかで解釈が分かれそうです。制度として確立したのは秀吉の死の直前、1598年7月だそうですが、起源を1595年の秀次切腹事件に際し、家康、利家、輝元、秀家、隆景の五人が連署して掟書を発したことにする解釈もあるようです。(参考文献:『日本歴史大事典』小学館、2000年(五大老の項)、『戦国武将合戦事典』吉川弘文館、2005年(豊臣秀吉の項))--ポコポコ 2009年1月24日 (土) 00:38 (UTC)[返信]

反対に、矢部健太郎氏は五大老というのは実は武家関白制とともに豊臣政権の根幹をなしていた清華成(武家清華家)のことであり、その起源は1588年まで遡る秀頼の誕生とは全く無関係の制度であるとの見解を出されています。--水野白楓会話2012年6月4日 (月) 18:30 (UTC)[返信]

順列について[編集]

慶長3年8月5日の遺言では家康が一番初めに記されていますが、同年同月10日では家康の署名は最後になっており、名の順序をもって地位の上下は語れないと思います。--HI 2009年5月27日 (水) 07:04 (UTC)[返信]


豊臣秀吉遺言覚書[編集]

「豊臣秀吉遺言覚書」の最初の二か条は、秀頼を孫婿にするよう秀吉が家康に頼んだことは「大納言(利家)(と)年寄衆五人」が証人であり、また利家を秀頼傳役とすることは「内府(家康)(と)年寄五人」が証人である、という意味。これを「大納言(ら)年寄衆五人」「内府(ら)年寄五人」が証人であると解するためには、隆景在世中の「六大老時代」の委嘱を蒸し返した、とでもするしかないが、それではあちこち矛盾が生ずることに留意。--TETSU28会話2013年6月29日 (土) 22:00 (UTC)[返信]

私は「大納言殿(利家)(含む)年寄衆五人」「内府(家康)(含む)年寄五人」と解しています。また浅野家とは別の早稲田大学図書館所蔵の別の遺言覚書では、明確に吏僚を奉行としています。--HI会話2013年6月30日 (日) 00:32 (UTC)[返信]
「大納言殿(利家)(含む)年寄衆五人」を証人に立てて家康に頼み事(秀頼と千姫の婚約)をするのであれば、大老は6人になりますよ。「内府(家康)(含む)年寄五人」も同じ。やはり浅野家文書は「(長政含む)年寄衆五人」の主旨であり、親家康派の浅野長政といえども「自分は年寄だ」という自負をもっていたので、秀吉の遺言を文章にするとこうなるのでしょう。記事のこの箇所は、「長政を含む吏僚たちの主観」が論点であることにご注意を。「別の覚書」は記事の別の箇所で引用されるべきでしょう。--TETSU28会話2013年6月30日 (日) 09:03 (UTC)[返信]
了解しました。--HI会話2013年6月30日 (日) 12:52 (UTC)[返信]
そうですか。分かりました。--42.83.41.114 2022年8月7日 (日) 23:39 (UTC)[返信]

考え直しました。「別の覚書」も「内府三年“御”在京事」とするなど書写の可能性ありと堀越祐一氏が指摘していますが、2つの遺言覚書の信憑性という入口で足踏みしていても仕方ないので、「その呼称」という新しい節を立てて、書状を俎上に載せることにしました。これに伴い、「清華成」と「御掟・御掟追加」と「五大老・五奉行」の時系列を正しました。みなさま、加筆よろしく。--TETSU28会話2013年7月6日 (土) 21:55 (UTC)[返信]