ノート:伊治呰麻呂

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「日本に仕えて」「反乱を起こした」そして「日本軍」と戦った?_20061111[編集]

本編の初稿の段階から伊治呰麻呂の反乱をあえて「日本につかえて外従五位下になった。780年伊治城で反乱を起こした」と対大和朝廷でなく日本という表現をされておられるのは、何故でしょうか。最後のくだりでも日本軍という表現をお使いのようですが蝦夷人は、日本人では無いということなんでしょうか。--papamaruchan22 2006年11月11日 (土) 09:25 (UTC)[返信]

この地域・時代の文脈に限定して、という条件を付けてですが、その通りです。蝦夷辺民説とアイヌ説の対立を止揚したことになっている現在の理解では、ある時代の蝦夷は明らかに日本人ではないし、ある時代の蝦夷は日本人を構成する一部である、ということになろうかと思います。ひとつの時代においても分かれるところがありましょう。この時代の胆沢は、「将来日本の領土になる場所」であって、日本ではありません。そこに住む人も同じです。伊治は日本の一部に組み込まれる過程にありました。--Kinori 2006年11月11日 (土) 20:00 (UTC)[返信]
ご返事ありがとうございます。確かに蝦夷辺民説は学者でも意見がいろいろで大変ですね、ただ呰麻呂が反乱を起こしたという反乱の定義は、同じ日本のなかの体制内での事を示すのですよね。朝廷の従五位下に仕えて組み込まれています。ですから反乱という事になってます。国と国との戦いでしたら反乱ではないですよね。で日本国云々の記述の表現を工夫がいるのかなと思料致した次第です。この時代伊治城(宮城県栗原市)は、体制に組み込まれ朝廷に組みこまれ、呰麻呂も、公(きみ)という名を与えられていたといいます。--papamaruchan22 2006年11月12日 (日) 03:30 (UTC)[返信]
多少気になり、家にあった本を少し調べてみました。この時代の蝦夷に関し、「日本に仕えた」とか、「日本軍」と言った表記は見られませんでした。通常は「ヤマト政権」、「律令政府」、「中央政府」などの表記が主のようです。古代の東北地方に関しては日本の領域ではあるが、朝廷の直接支配が及ばない地域との認識が歴史研究家の間では一般的なようです。根拠としては、659年(斉明天皇5年)の遣唐使と唐の高宗の問答から、都加留(津軽)の蝦夷まで朝貢していると主張している事などがあげられるようです。--怪蘇 2006年11月12日 (日) 04:43 (UTC)[返信]
私も手元の本を見返してみました。支配領域による分け方では、阿部義平『蝦夷と倭人』が、倭国・日本国をその支配下にない蝦夷の領域と明確に区別しています。工藤雅樹『古代蝦夷』『蝦夷の古代史』では、政府・政府側と蝦夷。熊谷公男『古代の蝦夷と城柵』では倭王権・律令国家と蝦夷。もう少し調べてみたい気もしますが、「日本」でない言い方が多いことは事実ですので、書き換えても良いかと思います。
ひっかかりを感じるのは、「古代の東北地方については日本の領域であるが」の部分です。そのように書くのは相当古い本ではないかと思います。なお、その問答の箇所では、もっとも遠方の蝦夷を都加留と述べただけです。熟蝦夷だけが朝貢しているとするのが普通の読み方かと思います。--Kinori 2006年11月12日 (日) 09:31 (UTC)[返信]
そうですね、日本という表現を仰せのとおり書き換えてもよろしいでしょうね、対アイヌ民族の場合は組み込まれた時代が後世に下るし日本という表現でもいいかもしれません、アイヌを蝦夷として対日本と表現している場合がありますが、本件は、明らかに熟蝦夷であります。。高橋富雄教授もその著作の中で「アイヌはアイヌ民族で蝦夷でもえみしでもえびすでも無い」。(「古代蝦夷を考える」吉川弘文館ISBN4-642-07292-6・C1021)とのべています。当時蝦夷というのは、東北の辺境の民全体の呼び名だった感がありますね、日本との戦いという表現ですと朝貢し恭順している蝦夷が外人という事になってしまいます、反乱という構図が描けなくなりますよね。それから怪蘇さんの古代東北は朝廷の支配が及ばぬ日本(ひのもと)という意味にも解されます、そんなに古い意見でもないように私は感じております。--papamaruchan22 2006年11月13日 (月) 10:03 (UTC)[返信]
少し付け加えればいわゆる都人の感覚では、東北は辺境の地であの秀衡をも蝦夷といってたんですから。エミシは本来勇武の意味だといいます。そうでなかったら当時、蘇我エミシ・佐伯今エミシ・小野エミシ等人の名前にエミシが用いられていたはずがないですよね。本論からそれました。対日本の表現少し工夫してみます。--papamaruchan22 2006年11月15日 (水) 11:13 (UTC)[返信]

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 指す事実が変わらないかぎり、どの言葉を用いてもいいのでしょう。私自身の考えはありますが、実際に学者さんが使っている語のあれこれが間違いだと論じてもしょうがないというか。しかし、おっしゃるように呰麻呂が起こしたのは反乱ですから、15日にPapamaruchan22さんが書き換えたものが良いと思います。--Kinori 2006年11月16日 (木) 01:20 (UTC)[返信]

加筆依頼:記事の主題は何か[編集]

反乱を起こした首領のページですよね。反乱のページではないはずです。この人は捕まって殺されたのですか? 討ち死にしたのですか? 許されて、病死したのですか? わからないのですか? この人の一生の終わり方について何も触れていないのは不自然です。追記をお願いします。--ひまつぶし太郎会話2019年1月31日 (木) 05:48 (UTC)[返信]

記事中に突然現れる「栗原郡」について[編集]

主ページを読んでいて初心者にはよく分からない箇所があったので、書き留めておきます。どなたか出典を確認できる方に、記述の改良をお願いできればうれしいです。

「来歴」の「上治郡大領」の節で2024-03-12 14:12:09 (UTC)の版、『続日本紀』に拠って 780年の3月よりも前から呰麻呂が上治郡の大領の地位にあったことを述べたあと、以下の記述があらわれます。(一文ごとの改行およびアルファベット (A) - (E) は私が加えたものです。)

(A) この「上治郡」について、上記多賀城出土漆紙文書から、「此治」の表記が検出されたことから、「上治」を「此治」の誤記とする見解が示され、有力な説となった[15]。
(B) しかしその後熊谷公男の研究により陸奥国の郡制について検討が行われ、政府によって扶植された移民系の郡である栗原郡と、服属した狭義の蝦夷を編成した蝦夷郡である上治郡とは別の郡であるとする見解が示された[12]。
(C) 栗原郡上治郡を別であるとする説は今泉隆雄[12]、鈴木拓也[16]、永田英明[17]らによって支持されている。
(D) また、呰麻呂が後に乱を引き起こす発端となった、彼が夷俘として差別を受けていた事実および、俘軍との強い結びつきは、彼が移民を編成した郡の長でなく、服属蝦夷によって構成された郡の長であったことを示唆する[16][17][18]。
(E) 加えて、上治郡の設置が、呰麻呂が官人身分を得た宝亀9年(778年)から、郡名が記録上初見する宝亀11年(780年)までの間と考えられる一方で、栗原郡は神護景雲3年〔769年 ※引用者註〕には設置されている[12]。

文(E) をもって節「上治郡大領」は終わるのですが、これはこの節の結論が、【a】『続日本紀』に見える「上治郡」は、「此治」(此治郡?)の誤記 ではなく、実際に呰麻呂は上治郡の大領だったのだ(かつては此治-郡の誤記とするのが有力説であったが、現在支持されている定説は違う) という話だと理解してよいのでしょうか? それとも【b】呰麻呂が大領になった上治郡は此治郡(栗原郡?)のことである という説1と、上治郡が此治郡(栗原郡?)とは別に存在したのだ という説2と、二つの学説があり、どちらが事実かまだわからない、ということなのでしょうか?

文(A) で呰麻呂が大領であった地域は「上治(郡)」が正しいか「此治(郡?)」が正しいか の話をしていたのに、文(B) は文(A) を受けて「しかし、」と逆接で始まりながら、突然「栗原郡」なる郡が新たに登場し、文(B) から文(E) まで、呰麻呂が大領となった地は栗原郡が正しいか上治郡が正しいか の議論に変わってしまうので混乱し、なんの話をしているのか五里霧中になるのだと思います。

読んでいて浮かんだ疑問は、次のとおりです。

  1. 「此治郡」という郡が存在した(なんらかの記録にある)のか?
  2. 「此治」郡=「栗原郡」である、と実証されているのか?
  3. 文(E) は、栗原郡は上治郡よりも古くから(769年から)存在していた記録があり、呰麻呂の乱(宝亀の乱)と同時代(780年)に初見する上治郡のほうが、夷俘(服属蝦夷)として官位を得た呰麻呂のために新たに設置された郡として考えやすい、と主張しているのか? (宝亀の乱より10年以上前から存在している栗原郡の大領を、朝廷が呰麻呂に任せるとは考えにくい、ということか?)
  4. 結局ところ現在は、2つの学説のどちらが優勢なのか?

以上です。詳しい方のご教示を得られれば幸いです。--Yumoriy会話2024年3月27日 (水) 14:40 (UTC)[返信]