ノート:会津戦争

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後世への影響の記述について[編集]

第2次大戦当時まで長州閥が軍部を牛耳っていたように書かれていますが、第2次大戦前夜には長州閥を憎む東条英機らが 陸軍の主導権を握ったことにより、「長州出身者と書けば不利になる」のが陸軍の現実でした。第2次大戦当時の高級将官 に長州出身者がいないことはすぐにわかることと思います。 現在の記述のように言われていることは理解しますが、事実と異なりますので「事実と異なる」という一文は入れるべきでは?--鱈 2008年3月19日 (水) 13:23 (UTC) 1月以上経ちましたので、上記にしたがって追記します。異論があれば書き込み願います。--鱈 2008年4月19日 (土) 12:21 (UTC)

東條英機が長州閥(父親が陸軍内で冷遇された)を憎んでいたのは事実ですが、東條は会津出身ではないので、この項目は相応しく無いと思います。むしろこの項は『東條英機』の項に転記するべきではないかと思います。ただ気になるのですが、『後世への影響の記述について』の文章全てにアンダーラインを引き、全てに要出典としているのは何故でしょう?本文を記述するときには正確な出典や資料に基づいて記述するのは勿論ですが、自分が知らないからと言って安易に要出典のタグを貼る行為もどうかと思います(ノートのページでは『後世への影響の記述について』に書かれている事を聞いた事があるという記述をされている方もいらっしゃるみたいですし)アンダーラインを引いて協調するのも意味が解りません。是正の必要がありと思います。--219.108.181.38 2008年5月14日 (水) 09:24 (UTC)[返信]

:了解しました。ただ、アンダーラインは他の方が引かれた部分ですので残しておきます。--鱈 2008年7月5日 (土) 10:50 (UTC)

ずいぶん昔のやり取りに何ですが、第二次大戦期の高級将官に長州出身者がいないというのは、本当ですか?海軍は除いて仰っているのだどは思いますが、陸軍にしたって大元帥を除いた最高位の軍人がいたでしょう?有名すぎて名前を記す気もしませんが、彼は長州出身じゃないんですか?--Stingfield会話2012年6月13日 (水) 13:06 (UTC)[返信]
お返事いたけるかどうか分かりませんが、上で問答されておられる方は、つい先日本項を編集なさっていることを指摘しておきます。もしこの方が長州出身者でないというのであれば、その理由をお知らせいただきたいですね。ちなみにこのレベルでなくてもいましたよ。私が気になるのは、IPの方もかなりの有名人について、誤った編集をなされていることです。先日訂正しておきました。まぁ私もミスは多いほうですので、別に責めはしませんけど。さて、会津出身者に対する陸軍部内における差別の問題ですが、私なりに調べましたところ、気になる事例があることはあります。例えば長閥が力を持っていた時期に会津出身将官で有数の出世をしたものの妻は長州系であったり、会津出身将官が代表的な閑職に連続して補職されたことなどです。薩摩の陸軍大将の娘と結婚した方は、陸大を出ていますが少将でした。ちなみに陸大出身者で、大正時代にまだ長閥が力を持っていた時期に将官になった4名は全員少将です。前出の方は陸大を出ていませんが中将になり、配置も重かったといえます。無論本人の実力、軍縮などの問題もあり、差別があったとは断言することはできません。しかし長州側に意図がなかったとしても、そう受け取られても仕方がなかったかもしれません。当時の陸軍内における長閥人事は「まったく横暴きわまる」、「長閥横暴人事の具体例はいくらでもある」(『昭和の軍閥』講談社学術文庫)という状況でした。ただし、会津びいきの方々にも知っておいて欲しいのは、長州側の好意もあったのだということです。たとえば予備役後の世話を長州側の人物が手助けしてくれたといったことです。伊藤博文や松岡洋右と近い会津人もおりました。考えようによっては、明治期に陸大を出で中将になっているものもいる、軍医総監もいたのだから差別は無かろうと考えることも可能でしょう。以上のことは完全に独自研究ですが、学問的な対象になっているんですかね。もしなんらかの研究があるのならば教えていただきたい。しかし、なんですね。私は会津藩士、仙台藩士の血を引きますが、平成の世に長州藩士で元○爵家当主に初対面で露骨に悪意を投げつけられた経験があります。長州側の会津側に対する感情も複雑なものだということを実感しました。ちなみに私は会津で言えばこの方この方かなという長州藩士の家とは親族かつ血族になります。従って別に長州嫌いではありませんので。信じる信じないはご随意に。現状、Wikipedia的に重要なはずの検証がまったくできない記事になっておりまので、今後は出典を明記して編集していただくことを強く希望します。--Stingfield会話2012年6月19日 (火) 15:53 (UTC)[返信]

戦後処理の記述について[編集]

「(新政府軍)は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず」以下の記述が何度も加筆されたり消されたりしていますが、この内容についてこのノートで議論をお願いします。

記述を消す人がいるということは、その内容に異議があると推察されますので、加筆を希望される方は、以下の記述の出典は何か、その出典はどのくらい信頼されているのか(学術的な方面で認められているのか)、具体的に提示してください。--miya 2008年3月9日 (日) 02:11 (UTC)[返信]

 「遺体への残忍な恥辱、見せしめ」
この部分の出典は何ですか?--miya 2008年3月9日 (日) 02:11 (UTC)[返信]
「庄屋の吉田伊惣冶が戦死者を埋葬」
この部分の出典は何ですか?もし「飯盛山に彼を顕彰する碑」が出典ならば、その碑を建てたのはどんな人でしょうか。--miya 2008年3月9日 (日) 02:11 (UTC)[返信]
「記録では763人」「ごみ同然に投げいれ」「伴百悦」
この部分の出典は何ですか?また「記録」とは具体的に何ですか?--miya 2008年3月9日 (日) 02:11 (UTC)[返信]
「偽札、偽金が横行」「公開処刑」
この部分の出典は何ですか?--miya 2008年3月9日 (日) 02:11 (UTC)[返信]
「当然の帰結であり断じて喜べり」
この部分の出典は何ですか?たとえ有名な言葉であったとしても、出典を明記すべきでしょう。--miya 2008年3月9日 (日) 02:11 (UTC)[返信]
柴五郎本人の著である「ある明治人の記録」に記されています。ちなみに件の言葉は、両者の死の時点は少年だった柴五郎自身の思い、として記されていますが、(同著を記した)七十五歳になってもその時の気持ちを「いまなお咎(とが)むる気なし」と語っています。--利用者:張遼 2008年5月8日 (日) 19:50 (UTC)[返信]


とりあえず「会津若松を占領した新政府軍が会津藩士の遺体の埋葬を禁止した」というのは完全なガセネタですよ。敗戦で会津藩の権力が崩壊したあと、旧藩領の統治を担当した民政局は、その発足の翌日、戦闘終結から10日もたたない明治元年10月2日に、会津藩の「穢多」集団の肝煎与之助を呼び出して、城内や市内に散乱する遺体の回収と処理を命じています(会津若松史出版委員会編『会津若松史』第10巻(会津若松市刊)所収の民政局達)。しかし、彼ら被差別民集団は、日常的には死刑囚や行き倒れ、病死した牛馬などの死体の処理を担っていたのであって、当然、このときのようにいちどに多数の戦死者が発生する事態に対応できるだけの能力と組織を持っていません。遺体の回収と処理が著しく遅延するのは当然のことです。また、藩士や領民がこれに関与しないのもこれまた当然のことです。人畜の死体処理は江戸時代を通じて賤業として彼ら被差別民集団に押しつけられていた仕事ですから、自分の近親の遺体でもなければ、すすんでこれにあたろうというのはよほどの篤志家だけですよ。まして、藩士の場合、当主が籠城のために城に入るとき、残された家族が自決して一家全滅となった家庭が多いのですから、回収・埋葬されない遺体が大量に発生するのは当然のことです。領民の場合は、この直後に勃発した「ヤーヤー一揆」に象徴されるように、苛酷な藩政に対して深刻な不満を持っていましたから、当然、引き取り手のない藩士の遺体の埋葬に積極的に協力などするはずもありません。同様の理由で、被差別民集団が藩士の遺体の処理にことさら熱心に取り組んだとも思えません。「戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」の町野主水の談話と称するものは完全な又聞きであり、柴五郎の後年の回想も家族からの又聞きかごく幼いころのおぼろな記憶に過ぎません。とても信用に足るものではありません。会津若松市自身が編纂した『会津若松史』に収録された一次史料のほうが100倍も信用できるはずです。そもそも本件記事の「参考文献」にまともな歴史学者の著作がひとつもないのが大問題です。アマチュアが初心者向けに書き下ろした概説書が3件挙げてあるばかりではないですか。話になりません。--呆庵入道 2008年3月12日 (水) 11:40 (UTC)[返信]

柴五郎の後年の回想について、信用に足るものではありません。とあります。あなたの幼い頃の知的能力はおぼろげであったかもしれませんが、それを元に柴五郎少年の記憶ならびに元陸軍大将柴五郎の知的能力の信頼性にまで中傷めいた疑義を差し挟むのは如何なものかとおもわれます。このような暴論を振りかざす人間の主張のほうが、私にはよほど信用に足りません。会津若松市自身が編纂した『会津若松史』に収録された一次史料のほうが100倍も信用できるはず、とするもう少し論理的な根拠をお聞かせください。100倍とはどのような計算によって得られた値か、など。--211.13.64.254 2008年12月18日 (木) 15:32 (UTC)[返信]

 呆庵入道さんは、回答されておられませんが 埋葬禁止令は後年の逸話です。昨年、見つかった史料からも『会津若松史』 に収められているとおり埋葬を命じた事が書かれています。開城して 1週間後に書かれた史料と昭和や大正の憶測記では前者の方が信用性があります。 今年、埋葬禁止令があったと書かれた数十年後の聞き書きが出てきましたが 残念ながら史料的価値は書くまでもありません。--利用者:富岡

なお追記で疑問を呈しますが、彼我の戦死者一切に対して決して何等の処置をも為すべからず、もしそれを敢て為す者あれば厳罰す、との会津若松での明治新政府通達は完全なガセネタという解釈をされておられるのでしょうか。もちろんこの通達と民政局の埋葬命令はなんら矛盾しません。埋葬命令をこれをガセネタとして否定する根拠とするのは、それこそお話にならない論理展開です。民政局に命じられた遺体処理業の者を除き、たとえば吉田伊惣治のような有志が遺体の埋葬を行って罰せられた逸話が現にあるのですから。あるいはこれもまた、歴史学者の著作に納められておらなければ、あなたの信用には足りないのかもしれません。そういえば吉田伊惣治は、藩士の遺体の埋葬に積極的に協力などするはずもない領民のようですね。ただ、吉田が埋葬したのは白虎隊士だから藩士ではない、とは言えますね。--211.13.64.254 2008年12月18日 (木) 17:21 (UTC)[返信]

 遺体の埋葬を行って良い場所は会津若松城内と定められていました。翌年、 阿弥陀寺へ移されるわけですが。その時に絵図が描かれておりました。つまり、 後に埋葬地の絵図が描かれたので間違わないでください。  つまり、会津若松城内以外に遺体を埋葬した者やエタ・ヒニン以外で埋葬に 協力したものは罰すると書かれているわけです。エタ・ヒニン以外は何らの 処置もすべからずとのことです。--利用者:富岡

史料としての根拠がなく、逆に埋葬命令がある以上、内容の修正をしたいのですが?--218.223.197.212 2010年1月7日 (木) 11:34 (UTC)[返信]




要約欄で議論したことは反省します。議論はノートでします。

遺体埋葬関連のポイントは、
1・民政局の記録以外の一次資料が見つかっていない
2・郷土史家でも意見が分かれている(星亮一・宮崎十三八らが官軍による遺体への侮辱があったと主張するの対し、前田宣裕・牧野登は懐疑的・否定的な意見を述べている)
3・会津若松市が推薦している『会津若松市史』ですら、下記の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀之由来』を懐疑的に見ている
だと思います。  

遺体論争のきっかけとなった『会津史談会誌・第三十三号(1957年発行)』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀之由来』。
これは一次資料どころか二次資料でもなく「町野主水から話を聞いたと称する『石川寅次』の談話を高野磐美が書いたもの」です。つまり後世による伝聞の伝聞です。
会津史談会誌には、筆者名に「故・町野主水」と記してますが、決して当事者である町野本人の発言ではありません。あくまでも石川寅次による談話です。
当たり前ですが町野はすでに没しており、この石川発言の真偽を確認することは不可能。ハッキリとした裏付けもありません。
これに書かれている「時ニ官命ハ彼我ノ戦死者一切ニ封シテ決シテ何等ノ處置ヲモ為ス可カラズ。若シ之レヲ敢エテ為ス者アレバ巌罰スト云フニアリキ」という記述を、
文学博士の今井昭彦は、
「会津兵の死体を埋葬することを禁じ、「賊兵」の死体はそのまま荒野で朽ちていったという」
と解釈しており一部の郷土史家なども同調していますが、
これに対し、会津若松市が推薦している『会津若松市史』の七巻には、
「一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為ス可カラズ」との官命が下っていたという。『事実とすれば』これは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる(前田宣裕)」
と記されています。
この時点で、会津の郷土史家たちの間でも意見が分かれています。
さらに今に至るまで、埋葬禁止令などという官命が下ったという一次資料は見つかっていません。
『明治戊(略』を掲載した『会津史談会』は石川寅次の談話を事実と見ていますが、『会津若松市史研究会』は一次資料がないことから懐疑的な見方をしています。
ちなみに会津若松市はホームページで会津若松市史を推薦しているため、それを発行している会津若松史研究会を公式としているようです。(会津史談会の項目は一切無し)
地元公認の歴史書が懐疑的で、そもそも町野本人による証言でもなく、それを裏付ける資料もなければ『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀之由来』の信憑性はもはや皆無。
つまり真偽不明です。

ウィキペディアは『中立的な観点』を根本的な方針としています。
『独自研究を載せない』には、ウィキペディアの創始者ジミー・ウェールズの言葉として、
「もしあなたの考え方が多数派に属するのであれば、広く認められている参考文献を示してその観点を実証することは容易なはずだ」
「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない」
と書かれています。
多くの歴史学者によって証明され、正式な歴史書に載るほどの事実ならともかく、あくまで一部の郷土史家が主張している内容を、中立的な観点を求めるウィキペディアに、
いかにも事実のごとく記述するのは間違いだと思います。
ウィキペディアは『少数派の意見』を主張する場所ではありません。

なお、会津戦争を経験した柴五三郎の著書『辰のまぼろし』にある「遺体の始末」は、私的には二次資料に値すると思います。
これも町野主水による談話を書いたものですが、これは柴五三郎が直接、町野から聞いたものです。
「遺体埋葬を命じられた穢多が費用として三千両をもらったにもかかわらず遺体を雑に扱った」という部分は『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀之由来』に似てますが、
それ以外のことは書かれておらず、官軍による埋葬禁止の官命や、会津側への侮辱があったなどという記述はありません。
ちなみに「十月、城内外の遺族を阿弥陀寺に埋葬することになり」と書かれており、遺体の埋葬開始は降伏翌月の十月となっています。
降伏したのが九月二十二日であることを考えると、降伏から十日後ぐらいに埋葬を始めたようです。
『会津若松史』にも十月四日に埋葬を始めたと書かれています。これは会津若松市による公式の資料です。--175.28.210.86 2015年2月5日 (木) 15:37 (UTC)[返信]

>多くの歴史学者によって証明され、正式な歴史書に載るほどの事実ならともかく、
>あくまで一部の郷土史家が主張している内容を、中立的な観点を求めるウィキペディアに、
>いかにも事実のごとく記述するのは間違いだと思います。
>ウィキペディアは『少数派の意見』を主張する場所ではありません。
これどこかに元があるわけじゃなくて自分の都合で作ったルールなんですか…

ウィキペディアの『独自研究を載せない』のページを読んでください。
そこの「8.2 中立的な観点」に、「ただ単にごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、独自研究に認定される場合があります」と書かれてます。
さらにウィキペディア創始者ジミー・ウェールズの言葉として、
「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、ウィキペディアに言及するに値しない」
とも書かれています。
遺体関連などの掲載は、一般的な教科書・歴史書の記述はおろか、ほとんどの歴史学会にも取り扱われていない、あきらかに少数派(一部の郷土史家)にしか支持されていない観点です。
ジミー・ウェールズの言葉通り「言及するに値しない」と思います。
それと上記にもありますが「埋葬禁止令」などの主張には一次資料と二次資料がまったくありません
「3.2 一次資料と二次資料」には、「ウィキペディアの記事は、公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません」とあります。
火付け役となった『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀之由来』は石川寅次による検証できない「伝聞」であり、一次・二次資料でも三次資料でもありません。
「戦後処理の記述について」の項目で、遺体関連を掲載したいのなら最低でも二次資料が必要だと思います。--175.28.210.86 2015年3月3日 (火) 15:16 (UTC)[返信]

だから「埋葬禁止令」があったなどと書いたのは誰ですか?あなたが勝手に書いたのです。自分で書いて自分で反論されているようなので。
>火付け役となった『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀之由来』 これを書いたのもあなたです。
『辰のまぼろし』と言ったはずですが、なぜ勝手に摩り替えたのですか?
そこに「遺体埋葬禁止令」などという記述はないので当然書いていません。あなたが勝手に書きました。

あなたに勘違いがあったようですが、それでも『辰のまぼろし』を信憑性が無いなどと断ずるのでしたら根拠が欲しいですね。

>『独自研究を載せない』のページを読んでください。
>:そこの「8.2 中立的な観点」に、「ただ単にごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、独自研究に認定される場合があります」と書かれてます。

だから『独自研究を載せない』を確認した上で言っているのですけど。
>多くの歴史学者によって証明され、正式な歴史書に載るほどの事実ならともかく、
>あくまで一部の郷土史家が主張している内容を、中立的な観点を求めるウィキペディアに、
>いかにも事実のごとく記述するのは間違いだと思います。
>ウィキペディアは『少数派の意見』を主張する場所ではありません。
独自研究を載せない』にそのようなことは書かれていません。これはあなたが自分の都合のいいように暫定的に作り出したルールです。 そういった、そもそも考えた本人が守れていない(一見それらしい)ルールを声高に主張するのは一番駄目でしょう。 独自研究という言葉についても、根本から勘違いをされているようですね。
 

長州藩の会津戦争参加の有無について[編集]

会津藩の記事においては長州藩は実質会津戦争に参加していないとかかれていますがどちらが正しいのでしょうか。--202.232.81.177 2008年3月10日 (月) 03:02 (UTC)[返信]
『三百藩戊辰戦争事典〈下〉』によると、白河口の戦いに参加した新政府軍(東山道軍)700人のうち、1中隊、1小隊、合計約150人弱が長州藩兵です。その後、白河城に新政府軍が増員した際(総数2~3000人)、援軍として1中隊(約100人)が加わり合計250名程になります。長州藩の主力部隊(奇兵隊など)は長岡藩攻略を行っていました。長岡藩降伏後、そのほとんど(1300名程)が、会津に援軍として派遣され、8月27日から若松城外にある会津藩兵・旧幕府兵の小拠点攻略を行っています。9月14日からの若松城への攻城戦には、この北越部隊も参加しています。そのようなわけで、実際に戦闘もしていますが、会津戦争の主力と呼ぶにはほど遠いのが実情のようです。深山 2008年3月11日 (火) 10:36 (UTC)[返信]
詳しい経緯、ありがとうございました--202.232.81.177 2008年3月31日 (月) 01:55 (UTC)[返信]
しかし、主力部隊は越後戦線から攻めのぼるものの会津若松城攻めに間に合

わなかった。 富岡


記事には、薩摩・長州が新政府軍の中心と書かれてますが、会津戦争における新政府軍の中心は薩摩・土佐のため訂正しておきます。--175.28.210.86 2015年3月10日 (火) 14:00 (UTC)[返信]

後世への影響について[編集]

「“現在でも会津若松市民にとって戦争と言えば第二次世界大戦(太平洋戦争)ではなく戊辰戦争”とまでいわれている。」とありますが、現在の会津若松市民は戦争=第二次世界大戦と捕らえている方が大多数です。

「福島県人は、山口県・鹿児島県出身者とは付き合いたがらない・関わりたがらないと言われ、特に山口県出身者に対する遺恨は深く、会津若松では、山口県人という理由で宿泊を拒否したり、タクシーの乗車を拒否したりすることがあると言われている。」とありますが、これは100%正しい論述ではありません。山口県民へ深い遺恨を持っている会津若松市民は一部にすぎません。1の話を10にするような誤解を招く論述はいかがなものでしょうか?--以上の署名のないコメントは、Nymst会話投稿記録)さんが 2008年3月30日 (日) 14:59 (UTC) に投稿したものです(呆庵入道による付記)。[返信]

段々と遺恨を持っていた人が鬼籍に入り、過去の話になりつつあるのかもしれませんね。あーと、議会が「まだ120年しかたっていない」との話は新聞で読んだ記憶がある。長州・薩摩と結婚してはならないとの話は十数年前に聞いたなあ。その遺恨をテーマにしたロミオとジュリエットみたいな演劇をつくったという話も新聞で読みました。記憶モードなので、出典にはなりませんが、そのような遺恨話は南東北ではわりと知られています(誇張があるかどうかや、それが2008年まで続いているかどうかは分かりませんが、20年近く前は聞きました)。編集は慎重に願います。--Los688 2008年4月3日 (木) 13:49 (UTC)[返信]
遺恨話の演劇の話がネットにありました[1]。そのサイトの記述によると、H8年アンケートで山口県にこだわりのある人は32%とあります。--Los688 2008年4月3日 (木) 14:05 (UTC)[返信]
いつの放送だったかは失念しましたが、朝日放送『探偵ナイト・スクープ』で「会津と長州は仲が悪い?」という調査が放送されていました。それによると年長者を中心に山口県出身者に対しての嫌悪感は高いようです。また、「“現在でも会津若松市民にとって戦争と言えば第二次世界大戦(太平洋戦争)ではなく戊辰戦争”とまでいわれている。」の記述においては、新人物往来社刊『イラストで見る戊辰戦争』に、会津若松に住む老人の話として紹介されていますし、現在では冗談のネタとしてされているみたいです。「現在の会津若松市民は戦争=第二次世界大戦と捕らえている方が大多数です」というのは当たり前の事でいちいち指摘するのはどうかと?--219.108.181.126 2008年4月10日 (木) 18:02 (UTC)[返信]

上記の『後世への影響の記述について』の項にも記述しましたが、この項にわざわざ点線によるアンダーラインを引いた上に、文章全てに『要出典』のタグが貼られているのには疑問を感じます。--219.108.181.38 2008年5月14日 (水) 09:27 (UTC)[返信]

この部分ですが、記述の参考となる資料やサイトがいくつか紹介されてきていますので、この部分を本分に入れて再編集しては如何でしょうか?--男梅 2009年4月12日 (日) 02:07 (UTC)[返信]

リダイレクト回避のお願い[編集]

現在、半保護状態で、IPの私には編集が出来ません。

会津戦争#会津戦争を描いた作品」の『獅子の時代』(NHK大河ドラマ) ですが、現在は『獅子の時代 (NHK大河ドラマ)』(リダイレクト)へリンクしています。ログインユーザーの方に、『獅子の時代』へ訂正して頂きたいと思います。--202.224.75.85 2009年11月22日 (日) 22:13 (UTC)[返信]

(報告)対処しました。--Kurihaya 2010年1月7日 (木) 12:17 (UTC)[返信]

遺体埋葬論議に関する宣伝について[編集]

外部リンク参照と称して出典の疑わしいリンクへ誘導する宣伝行為が見受けられますので削除してください。--以上の署名のないコメントは、126.64.109.153会話)さんが 2013年2月1日 (金) 04:43‎ (UTC) に投稿したものです(Kuropen会話)による付記)。[返信]

遺体埋葬にかかわる議論[編集]

管理者の一人であるKinoriと申します。要約欄で議論しながらの編集合戦が続いておりましたので、一時的に編集できなくしました。要約欄は議論の場所ではありません。議論はこのノートで行ない、話がまとまったところで本文を編集するようにしてください。1か月の期間をおきましたが、話がまとまればWikipedia:保護解除依頼を使って短縮できます。議論ではどうぞ友好的にお願いします。--Kinori会話2015年2月4日 (水) 01:03 (UTC)[返信]

日本語の使い方が間違っています。[編集]

板垣らが会津を攻め落した為に、ビスマルクから返書が阻止されて蝦夷地売却の話が反故となったが、長期戦となっておれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる。 ”おれば”でなく、”いれば”が標準語です。 それを訂正しようかよ思って修正したのですが、改行になってしまい、さらに”い”が抜けてしまいました。 もう一度、再考願います。 以上。--以上の署名のないコメントは、222.7.28.40会話/Whois)さんが 2022年4月14日 (木) 13:25 (UTC) に投稿したものです(春春眠眠会話)による付記)。[返信]

編集しました。--春春眠眠会話2022年4月14日 (木) 13:36 (UTC)[返信]