ノート:偽史

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統合提案[編集]

内容が偽書と同一事象を扱っているために、記事として完成度の高い偽書への統合を提案。実際の統合作業であるが、史料批判作業などを一切無視し正史を偽史と断定する、また都合の良い史料解釈を「偽史」とするなど、解釈と偽書の区分が明確になされていないなど、史学研究の立場からは受け入れがたい内容であるため、偽書へのリダイレクト化とし、必要に応じて偽書を加筆する方針を提案。--Yonoemon 2011年4月18日 (月) 03:53 (UTC)[返信]

この記事独自研究的な問題がありますね。 --ねこぱんだ 2011年4月18日 (月) 07:19 (UTC)[返信]
現在精読中ですが、フィクション云々は独自研究で論外ですね。それ以外の内容は藤野七穂氏の私見に依拠しているようですが、史学として検証できるかどうかは大いに疑問のある内容です。また注釈に使用している若狹和朋氏などと共に『史学雑誌』への掲載論文も確認できず、全体的に検証性が保持てきているとは残念ながら言えない状態です。統合内容は参考文献くらいと現在は考えています。--Yonoemon 2011年4月18日 (月) 07:37 (UTC)[返信]
IP氏の投稿部分の<ref>タグで出典を示している部分に関しては google booksで検索したところ出典をほぼ正しく用いていると確認されました。検証可能性を満たしています。IP氏の挙げた「文献」というのは、おそらく参考文献ではなく、関連文献という意味でしょう。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 13:08 (UTC)[返信]

統合してはいけないと思う。偽史と偽書は別の概念だから。この記事はこのままで、若干混入している出典が不足している文章に{{要出典}}タグを貼ってやればいいと思う。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 12:45 (UTC)[返信]

それと稗史は稗史で別記事として立てるべきです。最初のIPさんの投稿は出典がおおむねついているようなので8割ほどはそのままで良いと思う。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 12:49 (UTC)[返信]

アカウント取得直後にノート編集という不自然さはありますが、それについては現在は問題にしません。ただ「偽史と偽書は別の概念」というのは大きな間違いです。「偽書に記載された歴史が偽史」であり両者は相当密接な関係にあります。記録なくして歴史は存在しませんので、この辺は史学概論を学ばれた方なら誰でも理解できることでしょう。もちろん内容が充実すれば別項目でも可能ですが、残念ながら現状では偽書史料批判以外の内容が記載されていません。
出典に関してですが出典記述を改竄しているとは申したことはありません、ただ偽史である日本書紀を盲信することにより日本の歴史教科書が問題なったなどの中立性が全く保てない記事内容は削除されるべきでしょう。特に七支刀までも偽モノと断定する内堀鼎氏などは失礼ながら専門的な歴史教育を受けていない農民運動家でして、その発言にはは政治的な影響が強く反映されており、一方的な政治的主張に依拠する姿勢は問題がある(ご自身でも一方的な解釈は偽史であると投稿されていますよね)など、現在の内容での中立性は皆無、検証性は全く満たされていないという意見は否定できないと思います(ノート:津田仙でも内堀氏の著作に出典が明記されていない事実が問題視されています)。
ただ今回は恣意的な出典の採用については問題にしておりません。あくまでも同一概念を別項目で作成し、しかも内容に不備がある項目はより優れた内容に統合されてしかるべきというだけの話です(私が削除依頼を提出した零戦爆戦などがその例です)。有用だというのであれば偽書の項目(もしくは史料批判の項目でも可)に統合された後でもいくらでも加筆は可能です。--Yonoemon 2011年4月18日 (月) 13:44 (UTC)[返信]
要出典タグの付与と、問題点をコメントアウト形式で記載してありますのでご参考お願いします。--Yonoemon 2011年4月18日 (月) 15:45 (UTC)(その他自己投稿を修正)[返信]
IP氏が出典を明示してくれるのを待ちましょう。
なお、私の感想としては、IP氏が概説の前半でいきなり若狹和朋の説を記述しているのはいささか無理があるとは思う。若狹和朋の見解というのは“正史はことごとく偽史”と言いきってしまうなど、いささか懐疑的になりすぎた論法、“ひねり技”のような論法なので、どちらかと言えば、概説のなるべく末尾に配置するほうがよいだろうと私は思う。「正史にも偽史は含まれる」くらいならまだしも、ちょっと言い過ぎなのだろうと思う。前半にはもう少し素直な見解を載せて、後半にうがった見方や複雑な事情を説明するほうがよいだろう。ただし、あの文章も掲載しておくべきだろうとは思う。現にそういう見解を示す人がこの世にいて、それが出典も明示されつつ中立的に掲載されているのだから、それを中立的に記述しておくべきだ。私のほうで位置を下方に修正してみる。
なお若狹和朋とは異なった見解を示している論者がこの世にいるなら、それを出典つきで記述すれば良いだけのこと。
(念のため)なお、その時、出典は、はっきりと「偽史」という言葉を書名にかかげているか、章のタイトルに「偽史」が含まれているほうが望ましいと思われる。最低限でも章の中に「偽史」というキーワードが入っていることは必要。「偽史」というキーワードも含まない文章や断片的データ類をあれこれ組み合わせて論を組み立てるとウィキペディアでは「独自の研究」という判定になる。
ウィキペディアンが個人的に気に入らないからといって、出典も示さず個人的意見を書き込んだり、出典つきの記述を消去してはいけない。それがウィキペディアのルール。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 16:06 (UTC)[返信]

統合してはいけません[編集]

いや、統合してはいけません。英語でも別に立てています。やはり基本的に別概念です。だから日本語でも別の名称がしっかり存在しているのです。

wikipediaの中での議論を根拠にしてはいけません。外部の文献をよく調べてから発言するようにして下さい。

【偽史】という概念は基本的に内容の真偽のことを問うている概念で、「内容に虚偽が含まれている」ということと結びつけられる概念です。英語ではpseudohistoryに対応している語です。偽史という概念では、基本的に文章の意味内容が問われています。

それに対して【偽書】という概念は、内容の真偽は問うていない概念です。単に内容にあやまりを含むだけの文書は偽書と呼ばれることはありません。偽書というのは、執筆者の名を騙ったり、執筆時期を偽ったりしているもののことです。英語で言えばforged documentとかpseudographなどと呼ばれるものです。「偽書」という概念は広い概念であり、美術品も含みます。たとえば書道の作品の作者の署名を模倣したもの、いわゆる贋作も含みます。つまりある書道作品で、まったく同じ意味内容を書いていてもある芸術家が書いていないのに、その芸術家のサインを真似たり、その落款印を模倣したものを押したりしたら偽書にあたります。気付いていただきたいのですが、この偽書は偽史ではありません。

また、逆にたとえば、王羲之の書が王羲之の書として伝わっていれば、意味内容に多少の間違いがあってもそれは基本的に「偽書」とは言われません。

ただし、偽書の広い概念の一部が偽史と重なることもあります。それは、嘘(偽史)を書く者が、嘘に信憑性を与えるために同時に執筆者名も偽ることがあるからです。その場合は、偽書であり同時に偽史であるもの、ということになります。そういった事情でうっかり概念を混同してしまう人が一部にいるのでしょう。

つまり、偽史が全て偽書というわけではありませんし、また偽書が全て偽史というわけではありません。基本的には偽書≠偽史なのであり、基本的には別概念なのです。だからこそ別の用語が存在しているのです。ただ、たまたま一部で重なることがある、ということです。よって統合してはいけません。

たまたま部分的に重なることはある、という程度なので、こういう場合は、偽書の記事の中に偽史へとリンクする小さな節を造ることは良いと思います。その時も出典はしっかりと示すべきでしょう。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 15:57 (UTC)[返信]


もちろん史料批判の記事と統合してもいけません。偽史という概念と史料批判という概念は、やはり別概念です。それなりに関連があり、一部で重なる部分もありますが、基本的に別概念です。他国語版でも別に記事が立てられています。統合提案を乱発し、同制度を濫用するようなことは慎むべきです。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 16:51 (UTC)[返信]

どうも擬史(pseudohistory)偽史(forged history)を混同しているようにしか思えません。もし両者を混同しているのだとすれば偽史は削除依頼とすべきなのかも知れませんが、ここは素人でも編集できる空間ですので議論すべきでないのかも知れません。面倒なので依頼は取り下げます。--Yonoemon 2011年4月18日 (月) 23:34 (UTC)[返信]
pseudohistoryを「偽史」と翻訳するのはあまりにも乱暴なので、擬史として別項目を再作成しておきました。--Yonoemon 2011年4月19日 (火) 01:26 (UTC)[返信]

中立性の問題点[編集]

下記の問題があるため中立性テンプレを使用してあります。

  1. 異論の多い南京大虐殺や従軍慰安婦を問題視することが「偽史」と断定する記述
  2. 社会運動家である内堀鼎氏の私見のみを取り上げ、日本の歴史教科書を虚偽と断定する一方的見解(その政治的見解こそが「偽史」とも言える)
  3. 過度な自虐史観を論述せず、エスノセントリズムによる日本人の歴史観のみを提示

特に第1点は特定の歴史観を強要するものであり受け入れがたい記述です。私はこのようなあやふやな記述には参加したくないので、どなかた有識者の修正願います。--Yonoemon 2011年4月19日 (火) 09:15 (UTC)[返信]

中立性は確保されています[編集]

【1】長谷川亮一の見解について。

中立的な記述がなされています。

Yonoemonさんは、ウィキペディアのルールWikipedia:中立性を理解していないようですね。まずWikipedia:中立性をよく読んで、じっくり時間をかけて理解してください。 ウィキペディアにおける中立性というのは、外の世界で言う中立性とはちょっと異なっています。Wikipedia:中立性というのは、何らかの説を紹介する時に、その説に賛成もしないし反対もしない、ということなのです。端的に言えば、以下のような中立的な言い回しで見解を紹介する、ということです。

A氏は~と述べた
A氏は~とした
A氏は~との見解を示した
A氏は~と見なした

A氏の説の内容が正しかろうが、まったく間違っていようが、A氏は~と述べたということは事実なので、それをそのまま距離を置いて紹介するのがウィキペディアにおける中立性なのです。Wikipedia:検証可能性の「真実かどうかではなく、検証可能かどうか」の章をよくお読みください。ウィキペディアの「検証可能性」というのは、そういう発言があったのか、なかったのか、ということなのです。

いちウィキペディアンが、説の内容について「正しいか、間違っているか」などという判断をして、コメントしたりレッテルを貼ってはいけません。Yonoemonさんのように、「オレはA氏の見解は間違っていると思うから、オレはムカつくから、偏っていると思う。だから中立性テンプレートを貼ってやれ!」、というのはウィキペディアではやってはいけないことです。ある見解に対して、ウィキペディアンが反対だ、という感情を表明したり、いやがらせ的なテンプレートを貼る行為も中立性を欠く行為です。ウィキペディアにおける中立性というのは、ある論者が意見を述べた見解に対して、賛成もしないし反対もしない、ということです。意外に思うかもしれませんが、ある論者の見解に反感を持ち、記事に反論を書き込むことや、記事にレッテルを貼るような感覚でテンプレートを貼る行為も中立性を欠いた行為なのです。Yonoemonさんのように個人的な判断で、特定の論者に対して反対したり攻撃していることこそが中立性を欠いているのです。

IP氏はあくまで、長谷川亮一の述べたこととして距離を置いた言い回し(=中立的な言い回し)で記述しています。中立性は確保されているのです。長谷川亮一が「南京大虐殺はなかった」とする説、「従軍慰安婦に問題はない」とする説に言及したということは事実なので、そういう指摘があったという事実を中立的に記述しているから問題ないのです。

(ちなみに、私は長谷川亮一の意見に全然賛同していません。どうか誤解なきように。そういうことではなくウィキペディアの作法を守っているという点で、これで良いと判断しているのです。)Yonoemonさんのように、個人的な感情として紹介されている説に納得がいかないからということを口実にして中立性テンプレートを貼るのは、テンプレートの濫用でルール違反です。ウィキペディアの記事はウィキペディアン個人の感情でレッテルを貼っていいようなものではありません。

そういう間違ったやり方をするのではなく、あなた自身が今までに読んだ文献の中で、誰かが、「南京大虐殺があったとすることこそが偽史だ」と主張した文章などを知っていれば、それを出典を明示しつつ、中立的に記述を加筆すればよいのです。例えば、以下のような記述を加筆できます。

ただし、一方で○○大学歴史学科教授の鈴木○○氏は「南京大虐殺があったとすることこそが偽史だ」と指摘しており(出典:『“南京大虐殺???”の真実』....頁)。

出典さえ明示すれば、基本的に誰も問題視しないのでYonoemonさんもどしどし加筆すればよいでしょう。誰も止めはしないと思いますよ。私もYonoemonさんが長谷川亮一とは異なったものを偽史と見なす記述を出典つきで加筆することには賛成です。ただし、くれぐれも「偽史」というキーワードそのものが明確に入っている文章を出典にしてください。キーワードが含まれない文章を自分の判断で組み合わせて論を組み立てると「Wikipedia:独自の研究」と判定されます。

【2】内堀鼎氏の見解について

今朝のIP氏の加筆によって、以下の記述が加筆されました。

* 歴史修正論[4]
(学会などでも、また一般でも)歴史的事実とされているものを、ただの虚構だと断定したり、歴史的事実に一般的な解釈とはかけはなれた解釈を下したりするもの。

その下に内堀鼎氏の見解が配置されています。 非常に面白いことに、これによって、内堀鼎氏の見解自体が偽史として紹介されているようにも読めます。読み方次第で、どうとでも読める配置になっています。 つまりIP氏はただウィキペディアの中立のルールを守って、内堀鼎の見解を中立的に紹介しているだけで、支持も不支持もしていないようにも読めます。つまりIP氏はウィキペディアのルールどおりに記述している、ということでOKです。

【3】について

Yonoemonさんの個人的な信念や感情で文句をつけすぎです。文句をつけるのではなく、出典を示して中立的に加筆をするべきなのです。

もしもYonoemonさんが個人的に抱いている感情「過度な自虐史観こそが偽史だ」と同じ内容を述べている文献をご自身で読んだことがあるのならば、その文章をYonoemonさん自身が出典を明示しつつ紹介すればよいのです。誰も止めていないと思いますよ。(ただし、加筆の時は、くれぐれも、「偽史」というキーワードが明確に含まれている文章を用いて下さい。) (もしも仮に、そういう文章は読んだことが無い、そんな文章の存在を知らない、これはあくまでオレの個人的信念だ、というのなら、そういうことを主張することはウィキペディアでは無理筋、ということになります。)

くれぐれも、出典が明示されて中立的な言い回しで紹介されている文章を、個人的な好き嫌いや「正しい/間違っている」という判断で消去したり非表示にしたり、個人的に嫌いだからという理由で記事全体にテンプレートを貼らないように。Yonoemonさんの行為はテンプレートの濫用にあたり、ルール違反ぎみです。Yonoemonさんはご自身で出典を見つけてそれを中立的に(距離を置いて、醒めた記述のしかたで)紹介する努力をするべきなのです。--Zittermimic 2011年4月19日 (火) 14:57 (UTC)[返信]

【3】についてですが、この記事内容に対して加筆する意思は全くありません。また【2】の双方に意味が取れるというのは詭弁でしかないでしょう。歴史関連記事にトンデモ本だろうが出典を明記してあれば何でも書き込んでいいというのはそれこそ基本ルールを理解していない者の言動です。言い方は悪いですが、政治思想の存在する農民運動家の歴史観なんぞは、史学の専門教育を受けた者からすれば単なる主義主張でしかありません。それこそ歴史小説を出典に歴史関連記事を書くようなものです。私は無定見な記事には参加しないのが基本ですので、まぁ頑張って偽史運動ともども記事を充実させてください。--Yonoemon 2011年4月19日 (火) 16:04 (UTC)[返信]
内堀鼎氏について。google booksで読める部分を幾つか読んだのですが、自費出版と思われるので消去します。
出典となる本について。日本書紀と朝鮮半島の最古の歴史書である三国史記は日本の歴史学者によって改竄された、という主張の本です。読めば分りますが、明治以降に書き換えられたという強烈に個性的な本です(第4章まとめ)。筆者のプロフィールは余りに簡素で、どこのどういう人物なのかも分りません。1936年生まれで高校卒業を18歳とすると、1954年頃から農民運動を始め、1963年までに会社に勤め始め、10年勤務。1973年より2001年当時まで時計店を営む。2001年この本を出版。卒業した高校不明。勤務した会社不明。時計店の名前不明(巻末のプロフィール)。最後に文芸社という会社。1996年設立の自費出版で大きくなった会社です。因みに「内堀鼎氏の見解自体が偽史として紹介されている」出典は存在しないようなので、そのような記述は出来ません。あと、長谷川氏は経歴も十分ある方ですし特に問題なしと考えますが、分類の項目は長谷川氏一人の論拠によりすぎている気がします。--Seisato会話2014年10月12日 (日) 10:47 (UTC)[返信]

東アジアに関する記述の削除について[編集]

2022年2月14日 (月) 09:42利用者:たたたたたたたたったポンタさんによって東アジアの例示が削除されました。私は、議論や合意形成を踏んでおらず合理性を欠くと判断し、その版を取り消しましたが、2022年7月25日 (月) 22:21、同利用者によってまたしても削除されました。理由を「わざわざ東アジアに対する差別を助長しかねない文章を入れる必要はない」としています(2022年7月25日 (月) 22:21より)。

これ以上取り消しても、編集合戦が起こるだけだと思いますし、私は同利用者より「お叱り」を受けておりますので(利用者‐会話:高砂の浦)、他の方々からの意見をいただきたいと思います。

利用者‐会話:たたたたたたたたったポンタの節3番目及び4番目も参照願います。--高砂の浦会話2022年7月26日 (火) 11:02 (UTC)[返信]