ノート:八戸戦争

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利用者‐会話:Hope and Lightning参照。--122.21.190.123 2015年6月1日 (月) 13:32 (UTC)[返信]

うえのIPと同じものです。リンク修正により、大島理森と田名部匡省・匡代親子の長年の戦いが八戸戦争と呼ばれてきたことは分かりました。その点は御礼申し上げます。
ただ、逆に言いますとそれ以外の点は未だ未出典のままのようです。たとえば「民主党政権の内ゲバのような純化路線により、民主党青森県連でも田名部党と揶揄される体質から抜け出せず」といった記述は出典11・12には見当たりません。
また出典4はまだリンク切れのようです。
ネット上にある記事じゃなくてもいいんです。地方紙をも含む紙面、書籍に基づく記述をお願いいたします。--114.153.241.226 2015年6月4日 (木) 11:56 (UTC)[返信]

昨年に上の指摘をしたものですが、残念ながら大きな改善にはいたっていないようですのでもう一度指摘させていただきます。

この記事は出典により断片的な事実のみを示し、そこから投稿者が自身のお考えを展開しているように見えます。たとえば冒頭定義分には出展がありませんし、出典がある節でも、「田名部匡省 対 大島理森」では出典で示される事実は、ネット上で確認できる部分は青森県で自民から離れた政治家で、田名部だけが自民に戻らなかったという点のみ。他に書籍も挙げていますが、本文を見る限りは第41回衆院選から小選挙区制に変わった点のみについてのものと見えます。「木村守男知事辞職」では、津島派と木村派が対立し、木村派は大島派に接近したという所まで。「小林眞 対 中村寿文」では中村が自民と民主の間で一方に肩入れしすぎないという姿勢を見せた点だけ。「田名部匡代 対 大島理森」では2012年選挙で田名部派が敗北したという点だけ。

特に民主の内ゲバ、田名部党うんぬんについては、民主中央側ではそういう評価の出典はありますが、それと田名部との関係が示されず、また「田名部党」については出典にありません。(2004年の「田名部匡省 対 大島理森」では出典に「田名部党」の記述はありますが、それを無出典のまま2012年に援用しているのならそれは独自研究)この点は存命人物の伝記に反する「出典なき批判」ですので一部除去します。

この記事をほぼ一人で書いていらっしゃる方にもう一度お願いします。たとえご自身が「常識」とお考えになっていても、出典から飛躍したことはお書きにならないでください。会話ページを見ますと、他の件で「客観性というのはそれほど難しいのであります」とおっしゃっていますが、難しいのでしたら最初から手を出さないという選択肢もお考えください。--114.171.172.173 2016年3月12日 (土) 22:50 (UTC)[返信]

難しいところですね。本にはページ数は忘れましたが載っていた記憶がございますし、サイト新調により名称しか出せないものが多くなっていますが地方紙には特集が多く組まれていましたし。他記事であれば、KK戦争にほとんど出典が無かったようですので、改めて政争に関する記述の扱い辛さを感じます。いずれにしても私の編集に納得されないようでございましたら、ノート:田村憲久にもあります通り、宜しくお願いします。それから内ゲバですが、過去にこんな記事がございました[1]。--Hope and Lightning会話2016年3月20日 (日) 23:23 (UTC)[返信]