ノート:寺内寿一

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 元帥にまでなった理由として、二・二六事件後の粛軍で寺内より序列が上の陸軍大将が軒並み予備役に編入されたことがあるようです。  親の七光りについては、寺内の将官時代は長州閥が失墜して「長州出身者が陸軍大学校から締め出された」と言われた頃ですので、あまり関係はないのでは(個人的に「寺内正毅に世話になったから」という引き立てを除けば)ないでしょうか。  1944年に東条内閣が瓦解したときに、寺内首相説があったところを、東条が「昔父(東条英教陸軍少将)が長州閥にいじめられた」という理由で「第一線である南方総軍の総司令官を動かすのは戦局柄まずい」というのを口実に潰してしまったという説があります。ちなみに寺内首相説の根拠は能力ではありません。

というかインパール作戦を寺内が強行したことはないでしょう。 強行したのは、東條などの政府というか軍部上層部で、 その指示に従ったのが寺内。そもそもあれだけ大きな作戦を、政府を無視して独断で行えるわけがありません。--218.223.197.212 2008年10月13日 (月) 11:09 (UTC)[返信]

第一次世界大戦終戦時の寺内寿一[編集]

広岡裕児の著書『皇族』には、終戦の際に日本に駐箚していた外国武官の接待係の人物として、「日本陸軍の寺内中佐」という記述があります[1]。これは寺内寿一なのでしょうか。詳しい方のフォローをお願いします--Alexander Poskrebyshev会話2015年12月8日 (火) 13:37 (UTC)[返信]


  1. ^ 広岡裕児 『皇族』 中公文庫 [ひ-25-1] ISBN 978-4122039605、54p