ノート:市ヶ谷刑務所

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改名提案[編集]

「職員録」や公文書では「市谷刑務所」のようなので、市谷刑務所に変更したいと思います。

近代デジタルライブラリーの「職員録」[1](S10.7)(247/776コマ)
公文書館デジタルアーカイブ[2]で「市谷刑務所」14件ヒット、「市ヶ谷刑務所」は議事録に1件のみ。

 --忠太会話2013年10月19日 (土) 14:54 (UTC)[返信]

警視庁監獄[編集]

鍛冶橋から移転した「東京監獄」は、警視庁の管轄だった模様。(cf:巢鴨監獄の前身は警視庁監獄巢鴨支署)。確証はまだ。 --忠太会話2013年10月20日 (日) 12:54 (UTC)[返信]

以下は「警視庁百年の歩み」P57ほか  ※「昭和43年版犯罪白書」[3]に刑務所の歴史がある。

  • 明治維新後、石川島囚獄小伝馬町囚獄は東京府に引き継がれた。(所管替え・名称変更など詳細は略)
  • 明治3年12月 鍛冶橋門に未決囚を収容する「監倉事務取扱所」を設置。 (←東京拘置所のルーツか?)
  • 明治8年12月 (5月?)小伝馬町囚獄は市ヶ谷に移転(市ヶ谷谷町囚獄)。石川島(懲役署)と市ヶ谷は東京府から警視庁に移管された。
  • 明治9年2月 監倉事務取扱所を警視庁に移管。まもなく、鍛冶橋監獄署と改称。
  • (明治10年 東京警視庁→警視本署、明治14年 警視本署→警視庁)
  • 明治10年 囚獄署を廃止、懲役署を監獄署と改称。(?)
  • 明治12年4月 小菅に内務省直轄の東京集治監を設置。
  • 明治36年3月 鍛冶橋、巣鴨、市ヶ谷(の警視庁監獄)が司法省に移管される。(行刑施設を警察組織と分離するため)(職員はそのままだった模様)
鍛冶橋監獄は東京監獄と改称。東京集治監も司法省に移管され、小菅監獄と改称。
  • 明治36年6月 鍛冶橋の東京監獄が市ヶ谷に移転。(鍛冶橋に東京駅が造られることになったため)

 --2013年10月24日 (木) 14:32 (UTC) --忠太会話2013年10月24日 (木) 16:37 (UTC)[返信]

一部は本文に入れました。 --忠太会話2013年11月15日 (金) 15:48 (UTC)[返信]

明治地図[編集]

goo地図の明治地図。[4]

市谷谷町のところに「監獄署」とあるが、正式名称は「市谷監獄」のはず。左の市谷富久町の方(東京監獄)に「警視庁用地」とあるのは、警視庁監獄の移転先として用地買収したためか(goo地図は明治40年地図が元のようですが、当時は既に司法省所管では…?) --忠太会話2013年11月12日 (火) 12:55 (UTC)[返信]

大杉栄の入獄歴[編集]

大杉栄「自叙伝・日本脱出記」(岩波文庫)の年譜をもとに作成。(獄中記もその一部)

  • 1906年(22歳) 電車賃値上げ反対運動で検挙(電車事件、兇徒聚集罪)、(東京監獄(未決監)へ)、保釈(文庫P183)、11月新聞紙条例違反で起訴
  • 1907年(23歳) 3月新聞紙条例違反で追加起訴、5月~11月新聞紙条例違反で巣鴨監獄へ(既決監)(文庫P199)
  • 1908年(24歳) 1月金曜会屋上演説事件(治安警察法違反)で検挙、(巣鴨監獄へ1ヶ月半、文庫P183、199)、3月出獄、6月赤旗事件(官吏抗拒罪及び治安警察法違反)で検挙、(東京監獄(未決監)へ、文庫P215)、9月懲役刑で千葉監獄へ(文庫P216、218)
  • 1909年 服役中
  • 1910年 服役中に大逆事件、11月出獄
  • 1919年 5月警官を殴る(東京監獄へ5日、文庫P186-187)、「獄中記」[5]を発表、11月豊多摩監獄
  • 1920年 3月出獄
  • 1923年 フランスで検挙、帰国後拘引され虐殺される

  • 電車事件で2年の刑期のはずだったが、赤旗事件に併合され、免れた。(文庫P184)
  • 東京監獄の未決監で、野口男三郎出歯亀に会った。(文庫P193-195)
  • 「一犯一語」…はじめの未決監ではエスペラント、巣鴨ではイタリア語、2度目の巣鴨でドイツ語、赤旗事件後の未決監でドイツ語の続き、千葉ではロシア語、スペイン語…(文庫P223)

 -- 2013年11月15日 (金) 15:33 (UTC)--忠太会話2013年11月16日 (土) 00:59 (UTC)[返信]