ノート:広瀬武夫

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詳細は知らないが、杉野生存説っていうのはもう確定した話なの?本文で断言しているけど。「日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う」ISBN 4794804164 に書いていそうなので読んだ人根拠はこれだぜって加筆宜しく(俺は呼んでない)。昭和21年12月1日朝日新聞と昭和22年11月10日大分合同新聞は真偽は兎も角伝聞だったそうな。--代言人【右】 2006年5月28日 (日) 14:13 (UTC)[返信]

神田須田町の銅像について[編集]

神田須田町の銅像(旧万世橋駅前)の撤去の経緯が,戦後GHQにより撤去が指示された説の他にも戦中に金属材料として供出された説もあり,経緯がはっきりしません。とりあえず本文は「現存しない」に書き換えましたが,くわしい経緯を調べる必要があると思います。--Zyugem 2008年12月15日 (月) 05:26 (UTC)[返信]

山下公園にあったものは戦時中に金属供出で失われました。現在、広瀬神社にある胸像は供出前に石膏で型を取り、それにより戦後に復元されたものです。この情報は広瀬神社にある看板からの情報です。参考までに。--220.210.4.214 2008年12月15日 (月) 06:59 (UTC)[返信]

朝日新聞の1947年7月23日朝刊東京版2ページに,7月21日に広瀬中佐の銅像が撤去された旨の写真付きの記事がありました。GHQ指令による追放政策の一環で撤去されたことを確認しました。記事はRamblerさんが改稿してくださいましたが,参照情報として新聞の書誌情報も加えておきます。--Zyugem 2009年3月16日 (月) 06:28 (UTC)[返信]

コヴァレフスカヤ、或いはコヴァリスカヤ[編集]

広瀬の婚約者は世上一般に「アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤ」と呼ばれていますが、実際は「アリアズナ・アナトーリエヴナ・コヴァリスカヤ」(Ариадна Анатольевна Ковальская)の様です<http://www.dv-news.com/web/guest/analytics/culture/106080>。司馬遼太郎の作品の引用元となったらしい、島田謹二著「ロシアにおける広瀬武雄」には、アリアズナよりの手紙を広瀬が翻訳したものの写真が載っておりますが、そこにも「アリアヅナ・コワリスカヤ(Ариадна Ковальская) 」と表記されております。私が自分で読んだ時に疑問に思って書いた文章がこちらにありますが<http://tsushima.borda.ru/?1-7-120-00000159-000-0-0-1170940388>、独自研究なんでここで言及するだけにしておきます。そもそも島田謹二と司馬遼太郎の言うコヴァレフスカヤという苗字は何処から来たのでしょうか?--YKatakura 2009年11月6日 (金) 14:46 (UTC)[返信]

"Кортик"という雑誌に掲載のC.A.Хрущая執筆の記事によると<http://www.kupiknigi.ru/kn204412.html><http://inchon.forum24.ru/?1-18-0-00000004-000-0-0-1204049417>、アリアズナは広瀬との対面時に23歳、父アナトーリは海軍省勤務で少将への昇進は1903年、両親ともに貴族では無く、弟のアンドレイは負傷により1919年に海軍を引退した後、長崎に定住したとされています。--YKatakura 2009年11月6日 (金) 15:38 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

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