ノート:張作霖爆殺事件/過去ログ1

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諸外国の反応について[編集]

項目の諸外国の反応ですが、引用の点からいって問題があるように思いますので、元となる資料等お示しいただけるまでコメントアウトとさせていただきます。--Tukasa ryo 2005年9月23日 (金) 08:21 (UTC)


(定説は覆るか=ソ連の特務機関によるものだった?)

事件はスターリンの命令により、ソ連特務機関のナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたもの、という説がロシア側からもたらされた。


産経新聞が2006(平成18)年2月28日の紙面でサンクトペテルブルク、内藤泰明(モスクワ支局長)の署名入りでその概略を掲載。ソ連の特務機関を中心に執筆するロシアの歴史作家ドミトリー・P・プロホロフ氏へのインタビューによる記事。詳細は同社発行の雑誌「正論」2006年4月号。このソ連実行説は「マオ-誰も知らなかった毛沢東」(ユン・チャン;Jハリディ)でも触れている。(※この本には疑問を呈する声もある。)

プロホロフ氏は「従来未公開のソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とするのではない。」と断り、「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と断定したのだという。(※日本側の記録を精査した様子はここからは伺えない。)


1924年9月、ソ連と張作霖は中国東北鉄道条約を結びこれを共同経営としてその当初は友好関係にあった。しかし張作霖軍が鉄道使用料を払わず威嚇射撃で無賃乗車したりソ連側の鉄道管理局長を逮捕し鉄道を実力占拠したりして関係は悪化する。事件の2年前の1926年(大正15年)8月、張作霖は鉄道支配権の引渡しを要求、ソ連側の抗議にあったが9月に鉄道の実権を握った。 一回目の張作霖暗殺計画がこの1926年9月末の奉天の張作霖の宮殿での音楽会を目標に企てられた。しかしこれは張作霖の特務機関が察知、ソ満国境に近い駅で爆発物は押収され、未遂に終わる。ソ連の特務機関の3人を逮捕。これ以後張作霖は明確に反ソ行動に移った。1928年(昭和3年)になり張作霖と日本の交渉が始まる。日本の意向は張作霖による反共反ソの満州共和国建国。これにソ連との緩衝役を期待するというもので、ソ連に対しては張作霖が強硬に出るように求めた。ハルビンにいたソ連の諜報員ナウム・エイティンゴンがこの情報をキャッチ、モスクワに通報。スターリンは再度の張作霖暗殺を指令する。命令を受けたのはエンティンゴンと一回目の責任者だったフリストフォル・サルヌイン。暗殺の疑惑が日本に向かうようにすることが重要だったという。(※ここから先、ソ連側の事件までの具体的な動きの説明がない。)

1928年(昭和3年)6月4日、北京から奉天に向かう張作霖を乗せた特別列車が奉天郊外(皇姑站)で爆破され張作霖は胸に重傷を負い程なく奉天市内の病院で死亡。現場が関東軍の警備区間だったことから日本に疑惑が向き、張作霖が米国人を顧問としたことが動機として説明され、日本側の実行犯の実名まで挙げられて、事件は「日本の犯行」ということになった。

東京裁判で事件について「河本大佐の計画で実行された。」と、証言した元陸軍省兵務局長、田中隆吉(※1927年7月参謀本部付支那研究生として北京張家口に駐在(特務機関任務);1929年8月 - 陸軍砲兵少佐任官。参謀本部支那課地誌班に異動)は、ソ連に捕われ抑留され?ソ連側で予め作り上げられた内容をその通りに供述したものだったという。

(※田中隆吉の経歴では、1943年3月-予備役に編入とあり、1945年のところを見ると、3月-再召集され羅南要塞司令官を任命されるが、阿南惟幾を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。-終戦後、宇垣一成を担いで新政党を発足させようとするが宇垣の公職追放のため失敗。--となっている。抑留されたというのは考えにくい。他の人物、例えば関東軍参謀花谷正少佐(後、中将)などとの混同も考えられる。但し、田中がソ連のシナリオに従って証言したという可能性は残る。)

1990年代初め、ソ連の最高機密資料に接しうる立場の元特務機関幹部で歴史家のドミトリー・ボルゴヌフ氏がロシア紙のインタビューの中で語ったところによると、トロツキーの死因を調べる中で偶然、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺された資料を見つけたのだという。(エンティンゴンはメキシコでのトロツキー暗殺に関与していた。)


※特務機関がテロの具体的な証拠を残すことはないだろうし、自ら明らかにすることもあり得ない。今後新たな裏付けが出てくれば別だがプロホロフ氏へのインタビューの内容では、日本軍の実行説を覆すには根拠が十分とはいえない。 拓殖大学の藤岡信勝教授は解説の中で3つ可能性を挙げた。

①ソ連特務機関が関東軍のやったことを自分達のやったように報告した。 ②プロホロフ氏の情報が真実で日本側のこれまでの記録、証言などがすべて作り話だった。 ③河本大佐以下の関東軍軍人が丸ごとソ連特務機関に取り込まれ事件を起こした。


瀧澤一郎氏によるソ連実行説の検証(要旨)(「正論」2006/5月号)

1.ソ連実行説の根拠は「GRU帝国①」コルパキヂ、プロホロフ共著(モスクワ2000年)以上のものは見当たらない。 2.日本は張作霖と当時悪い関係にはなく、事件を起こす動機が薄弱だったのに対し、ソ連には十分な動機があり、事件後それまで活発だったソ連の工作機関は姿を消した。 3.スターリンは「秘密は紙に残さない」をモットーとしていた。しかし何かの形で何かが残っていたとしてもプロホロフ氏が実行段階の説明をしないのは、氏が情報関係筋に近い人物であるため、公にしにくい事実は隠しているのではないか。 4.河本大作大佐の手記といわれるものは本人が直接書いたものではなく、中共に洗脳された疑いが強い作家の平野零児氏が「河本の口述を基にして筆録したもの(平野氏の弁)」で信憑性に疑いがある。 5.田中隆吉は軍内部で挫折したことの鬱憤を東京裁判でぶちまけたのではないか。抑留についてのプロホロフ氏の誤認は瀬島隆三氏などとの混同か。

6.ロシアからこの時期になぜソ連実行説が出てきたかは、プーチン現政権と関係があるのではないか。プーチン大統領は情報機関の出身であり情報機関の手柄を宣伝することは政権安定に寄与する。 7.張作霖爆殺事件の日本犯行説には数々の捏造疑惑がある。もう1つ2つソ連側の資料が出てくれば決着する。

どなたかが延々と「KGB陰謀説」を引用しているようですが、常識的には無理な「説」でしょう。『マオ』により有名になりましたが、KGBの元メンバーがそう言っている、というだけでは、従来の「研究」の積み重ねを覆す材料には到底なりえないものと思います。ゆう(matunami) 2006年5月2日 (火) 14:38 (UTC)
「KGB犯行説」は、取り上げるに価しない「怪説」でしょう。事件後、特別調査委員会、峯憲兵司令官の調査などで既に河本大佐の犯行であることは明らかになっており、また戦後の研究では、天皇に対して河本を犯人と特定する上奏が行われたことも明らかになっています。瀧澤氏は、日本軍犯行説の根拠が「河本手記」と「立野氏の小説」しかないかのようなとんでもない発言を行っていますが、このあたりの事実をご存知ないようす。黙ってrvしてもよかったのですが、一応「この説の成立する余地はまず存在しないと考えられる」(もっと強く否定してもいいかと思います)という一文を付け加えておきました。この節はすべて削除しても差支えないと思います。ゆう(matunami) 2006年5月7日 (日) 19:35 (UTC)

多重アカウントユーザー「松泣見」氏の編集を差し戻す理由[編集]

私の名をパロった「いやがらせアカウント」による、露骨な「いやがらせ編集」ですね。そもそもあなた、「加筆は自由だけど削除には合意が必要」なんて主張、していませんでしたっけ? あなたの考えに基づけば、「合意なき削除」などできるはずがないのですが。
一応、真面目にお相手します。以下、「張作霖爆殺事件」についての「データ」を列挙します。まだ「勉強」の途中なので、一部原典が確認できていない等の不完全な部分があることは、ご容赦ください。

1.「張作霖排斥」は、当時関東軍の中で広く行き広まった「世論」であった。例えば秦少将、土肥原軍事顧問などは、「張作霖の従来日本に対する態度は頗る不遜である。依って此の際、東三省より張を排斥して何人かを以て之に代える必要がある」と主張していた(林久次郎『満州事変と奉天総領事』)。斎藤参謀長も日記に「現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし」と書いており、また村岡軍司令官も、密かに部下の竹下義晴少佐に「張作霖殺害」を指示していた(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)。(一部に伝えられる「動機がない」説は、明確な誤り)
2.河本も同じ考えを持っており、事件の直前、在京の親友磯谷大佐宛ての昭和3年4月18日付け書簡で、「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る」と、犯行を予告する文言を書き送っている。(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)
3.河本自身、犯行を認めている。例えば、元陸軍少将大野宣明に対し、「私は軍司令官に関係なく自分でやろうと決心したのである」と語っている。(昭和17年12月1日「満州事件関係者七氏の談話手記」=私は『昭和三年支那事変出兵史』所収稲葉正夫『張作霖爆殺事件』、及び伊藤隆『「満州建国の裏面史の解明に光』(This is 読売1997.11)で見ましたが、全文は森克己『満洲事変の裏面史』に掲載されているとのことです)
4.河本は自分の犯行を吹聴していたようで、小磯国昭も、河本から「一切の事情を聴かせて貰った」という(小磯国昭『葛山鴻瓜』=大江志乃夫『張作霖爆殺』より再引用)。また、義弟の平野零児に対しても犯行の経緯を詳細に語っており、平野はその口述筆記を河本の家族に預けた。その一部は、文藝春秋に「私が張作霖を殺した」として発表された。(平野零児『戦争放火者の側近』より=猪瀬直樹監修『目撃者が語る満州事変』所収)(筆記したのがプロレタリア作家の平野氏であることからこの文の信憑性を問題にする向きもありますが、内容的には他の記録との大きな齟齬はなく、またマスコミに流れたのは家族の保存文書である、という経緯から、大筋では信頼できるものと考えます)
5.実行犯の一人である東宮大尉も、「陰謀の黒幕が関東軍高級参謀河本大作大佐だった」ことを、奉天副総領事森島守人に「内話」している(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』)。なお、出典は不明だが、『赤い夕陽の満州野が原に』に、東宮大尉の「張作霖の列車を爆破したあと、私は部下のひとりに状況を偵察させた」に始まる、事件経過についての詳細な「証言」が掲載されている。
6.河本は、張作霖の乗車した列車の運行状況を確認するために、途中駅に何人かの偵察者を配した。そのうちの一人、角田市朗中尉の手記によれば、角田は河本の命を受けて駅に張りこみ、張作霖の乗車する列車を確認、その乗車位置を河本に通報した。その通報の1時間後に「爆殺事件」が起きた。(塚本誠『ある情報将校の記録』)
7.事件直後、現場調査を行った民政党代議士松本謙三氏なども、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを中国側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している(『三代回顧録』)。
8.田中義一首相は、峯憲兵司令官・難波憲兵大佐のコンビに、事件の調査を命じた。河本はシラを切ったが、峯は事件の実行者である朝鮮軍筋ルートから事件の真相をつかみ、爆弾のスイッチを押したのが東宮大尉であることまでも判明した。この情報は田中首相にも伝えられた。(概説書多数の記述)
9.事件の計画者の一人である大陸浪人「工藤鉄三郎」は、身の危険を感じて、小川鉄相に対して、「爆破事件の真相」と題する書簡を送り、事件が陰謀であった旨を告白した。(多数の概説本に記述あり。出典は「小川平吉関係文書」であると思われるが、未確認)
10.関東軍・関東庁・領事館による「張作霖爆殺事件調査特別委員会」が設けられ、関東庁は、関東軍が「南方便衣兵の死体」と発表した「中国人2人」の出自を調査した。この中国人の「調達」に関わったとの情報があった「伊藤謙次郎」「劉載明」「安達隆盛」らに聞き取り調査を行った結果、「伊藤、安達及劉載明の言の大体一致」し、彼らがアヘン中毒の中国人2人を「日本軍の密偵になれ」と騙して「便衣兵」に仕立て上げ、2人を河本に引き渡したことが判明した。伊藤は、「河本は其際爆破は自分の方にて引受くるに付支那人四五名連れ来れ」と自分に言った、など河本との「共謀」を詳細に供述しており、河本の「クロ」は決定的になった。(「張作霖爆死事件 松本記録」=アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915100)
11.余談ながら、彼らが「調達」した「中国人」は当初3名であったが、うち一名(王某)は途中で計画を聞かされて逃亡した。この王某が、張学良のもとに駆け込んで日本軍の陰謀を暴露し、張学良は事件の真相を知った、と伝えられる。(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』。青林省長「劉哲」から森岡正平領事に伝えられた話。「王某」の名は「松本記録」による)
12.以上の調査を踏まえて、昭和天皇に対しても河本を犯人とする「上奏」が行われた。(粟屋謙次郎『東京裁判論』。「鳩山文書」の発見による。なお、永井和『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』によれば、「河本」の名を出した上奏を行ったのは、田中首相ではなく、白川陸相であると見られる、という)
13.その後、陸軍内の抵抗にあい、田中は関係者の処分を断念。昭和天皇に対して事件の真相を曖昧にする上奏を行った。昭和天皇は、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」と激怒し、田中は辞任に追い込まれた。昭和天皇によれば、「聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである」という事情があった、と伝えられる。(『昭和天皇独白録』)


これだけの「事実」に固められた「河本陰謀との事実認定」を、KGBの誰ぞやが事件は自分の「手柄」であったと(どのようにして「手柄」を実行したのか、という経緯さえも語らずに)言った、という程度のことで引っくり返せるわけがありません。瀧澤氏自身がいみじくも語っている通り、「ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多い」(『諸君』2006.6)のですから、常識的には「いい加減な自慢話」と捉えておくべきところでしょう。
「KGB犯行説」はロシアの「歴史学者」の記述として伝えられますが、この方は上記の「事実」群には何も触れていないようで、おそらくは日本語が読めず、上の「事実」群を承知していなかったものと思われます。
私は、以上の事実をふまえて、このような編集を行いました。あまりに膨大になりますので「記事本体」には「結論」のみを記述しましたが、これを「意見」として排除するのであれば、「KGB犯行説」のところに、上記の「事実」群をすべて掲載しておくことにします。

なお、「現時点では」との文言が挿入されたようですが、これは、「将来においてはKGB犯行説が事実と認定される可能性がある」とのニュアンスになります。もしこのような編集を行いたいのであれば、「KGB犯行説」が「事実」と認定される現実的可能性を説明していただけないでしょうか。「関係者全員が口裏を合わせて「自分たちの犯行である」と嘘をついた」とか、「実は河本はKGBの手先であった」とか、およそ現実的ではない、空想的可能性を想定しない限りは、これが「事実」として認定されることはないように感じるのですが。ゆう(matunami) 2006年5月12日 (金) 22:29 (UTC)

IPユーザーさんの編集について[編集]

編集合戦になるのもいやですので、「ノート」で合意形成を目的とする討論を行いたいと思います。

1.「ソ連特務機関員のホラ話の可能性が高いが、戦前はゾルゲ事件、戦後も冷戦下に於けるソ連の日本での諜報活動があり日本側の証言の信憑性の再確認は必要となった。」という一文が付け加えられたようですが、「ソ連」が日本で他の要人暗殺を行ったわけでもあるまいに、「ソ連の諜報活動」云々をここに書く意味がわかりません。また、この程度の「浮説」の出現でどうして「日本側の証言の信憑性の再確認」が必要になってくるのか、不明です。実際問題として、関係者はすべて他界しており、どうやって「信憑性の再確認」を行おうというのでしょうか。
2.そもそも、記事の全体の分量に比べて、「KGB犯行説」のスペースが多すぎるように思います。この問題にあまり詳しくない方が騒いでいるだけであり、伊藤隆氏が否定している通り、アカデミズムの世界ではまず相手にされることはないでしょう。すべて削除するか、せいぜい、「ソ連崩壊後に公開された公文書などを分析し、ロシアの歴史研究家ドミトリー・プロホロフ氏が唱えた説。ただし、この説の明確な根拠は示されておらず、また事件の経緯については、当事者の発言をもとに日本側の研究者によってかなり詳細に明らかにされていることから、この説の成立する余地はまず存在しないと考えられる。」ぐらいにしておくのが、妥当であると考えます。ゆう(matunami) 2006年5月13日 (土) 22:28 (UTC)

とりあえず、争いのない部分のみを残し、残りをコメントアウトさせていただきました。私は次の週末に、まだ確認していない「満洲事変の裏面史」「葛山鴻瓜」「田中義一伝記」「小川平吉関係文書」あたりを、図書館で確認してくる予定です。情報量にあまり格差があると話が噛み合いませんので、できましたら、私の挙げた出典文書の、せめて半分ぐらいは確認しておいていただけると嬉しいです。もし確認困難な環境にいらっしゃるのであれば、私にメールをいただければ、情報提供いたします。ゆう(matunami) 2006年5月14日 (日) 10:29 (UTC)

あと、お願い。できましたら、ログインしていただけないでしょうか。「IPユーザーさん」では、ちょっとお呼びしにくいので。ゆう(matunami) 2006年5月14日 (日) 10:47 (UTC)

なかなかお返事をいただけませんので、私の方から、議論の「追加」を行ないます。

「KGB犯行説」は、『マオ』の記述に端を発します。それに飛びついたのが、例によって『正論』と『諸君』です。
いずれも、これで事件の真相はわからなくなった、という「論者」の見解を大喜びで掲載していますが、いずれの雑誌も、上に述べた「事実群」にはほとんど(というか、全く)触れておりません。唯一まともなのがこの事件の研究者である伊藤隆氏(『諸君』6月号)で、私はやはり日本軍の仕業だと思う、という趣旨の冷静な発言を行っています。

それに対して、頭が痛くなる発言を繰り返しているのが瀧澤氏です。「事件」の根拠を「河本大作手記」と「立野氏の小説」のみであったとする無茶苦茶な言説は既に上で紹介しましたが、『諸君』のこの号では何と、「森島守人も同じようなことを著書『陰謀・暗殺・軍刀』に書いています。しかしこれらはいずれもいわゆる伝聞証拠です」と、ちょっと知っている方が見たら引っくり返るような発言を行っています。

念のため、森島守人の文を紹介しておきましょう。

>私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。(P22)


事件の当事者である東宮大尉ご本人から、直接「事件」の真相を聞いた、と言っているわけです。「伝聞」を一切合財否定してしまうのもどうかと思いますが、氏にとっては、本人から直接聴取したことも「伝聞」になってしまうそうです。いやはや、そんな無茶な。
「KGB犯行説」は、この程度の方から持ち上げられている「怪説」であるに過ぎません。そもそもこの程度の「浮説」をここに取り上げる必要はない、というのが、私の考えであることを、改めて述べておきます。ゆう(matunami) 2006年5月16日 (火) 11:52 (UTC)

国会図書館でいろいろ調べたところ、随分と「補強材料」が集まりました。そのうち私のHPに掲載するつもりですのでここでは詳細は省略します。ところで、1週間お待ちしておりますが、何の反応もありません。とりあえず、コメントアウト部分を削除してもよろしいでしょうか。ゆう(matunami) 2006年5月21日 (日) 06:24 (UTC)
当初から数えて2週間お待ちしましたが、何の反応もありませんので、コメントアウト部分を削除します。ゆう(matunami) 2006年5月27日 (土) 22:41 (UTC)
どこに書くべきかちょっと迷いましたが、中国近代史を専門としているものからすると、『マオ』なんぞに基づいた説など妄説といってよい。取り上げるに値しません。これは単なる私見にとどまるものではなく、[1][2]を見ればわかるように、中国近現代史研究の最前線に立つ人々の見解でもあります。別に大学研究者の著作じゃないとWikipediaに記載するなとは言いませんが、査読論文などに最低限引用されるようなレヴェルのものに限定してほしい。というか、そろそろ加筆ルールとして義務づけ・明文化してほしい。--Tears for Asia 2007年7月24日 (火) 15:52 (UTC)

竹下少佐の関与について[編集]

「当初は関東軍司令官村岡長太郎は、部下の竹下義晴少佐に張作霖暗殺を命じたが、この命令を聞いた高級参謀河本大作大佐が竹下の代わりに実行を引き受けた」という文をコメントアウトしました。この文は「通説」に従ったものですが、井星英氏によれば、竹下少佐は井星氏に対して「軍司令官からは命令を受けず、河本大佐から北京行きの指示しか与へられなかった」との証言を行っており、井星氏もこれに対して「結局それは真実と思はざるをえなかつた」とコメントしています。(『張作霖爆殺事件の真相』(四)=『芸林』1982年12月、P47)ゆう(matunami) 2006年5月27日 (土) 22:41 (UTC)

「張作霖爆殺事件 河本大佐犯行説、これだけの根拠」[編集]

私のページに、コンテンツとしてアップしておきました[3]。どうしても「KGB犯行説」を掲載したい方は、最低限、これを読んでからにしていただけないでしょうか。ゆう(matunami) 2006年6月13日 (火) 13:27 (UTC)

さらにわかりやすく、直接「KGB犯行説」に的を絞ったコンテンツを作成しました。関心のある方、ご覧ください。[4]ゆう(matunami) 2006年6月18日 (日) 00:20 (UTC)

*アカウントGuckjyun はpeace系ソックパペットとして無期限ブロックを受けました。投稿ブロックの方針3.5に基づき、同アカウントの2008年10月13日 (月) 13:02(UTC)の編集を削除しました。


ええとですね、
1.10月10日0:42に最後のpeace系アカウントがブロックされた直後、10月10日3:27に新規アカウントを作成し、
2.アカウント作成直後から、自分に分がないことに目をつむってのエンドレスの執拗な編集合戦、という初心者にはありえない行動をやらかし、
3.いつpeace系が再登場するか、と待ち構えていた当記事に、ソ連陰謀説の宣伝、というpeace系そのものの編集で登場し、
4.しかも過去のノート議論を全面無視。普通のユーザーであればまずはノートに書き込んで、合意を得てから編集しようとするものだが、「合意を得る努力」など全くせずにいきなり強引な「反対編集」を行い、
5.一応はノートにおざなりの書き込みはするが、自説の論拠にもなっていなければ私への反論にもなっていない、「ただ書いただけ」のコメント。しかも私を「ネット左翼」「自称歴史研究者」呼ばわりする「暴言」つき。
6.かつ、ネットを通り一遍に検索しただけで、通常の研究書なり論稿なりを読んだ気配は全くなし。
一応は偽装したつもりなのかもしれませんが、これだけ材料が揃ったら、誰だって、ああ、またpeace系が出たな、と気がつきます。とりあえず、差し戻しておきますね。上の書き込みも、本アカウントのブロックを待って、削除しておきます。ゆう(matunami) 2008年10月14日 (火) 10:52 (UTC)


あとはおまけみたいなものですが、ロムの方向けに、以下の事実を指摘しておきましょう。
1.張作霖爆殺事件についての研究実績がある、日本近現代史専門の歴史学者は、以下の通り、「ソ連陰謀説」を全く相手にしていない。 
秦郁彦「ソ連犯行説は西郷隆盛が西南戦争で死なず生き延びたたぐいの妄想に見える」
伊藤隆「私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね」「私はやはり日本の軍部がやったと考えています」
念のためですが、秦郁彦、伊藤隆とも、「保守派」あるいは「右派」の方です。
あるいは、中国経済論、現代中国論専攻の、矢吹晋教授。
矢吹晋「これだけの記述から、「張作霖爆殺事件はスターリンの陰謀であった」と信じ込むのは、よほど脳細胞の単純な人か、陰謀が好きなマニアか、あるいは知的水準の疑わしい知識人たちではないのか」[5]
とまあ、これが、「学会」の一般的な評価でしょう。


2.イデオロギー的立場からこの説に肩入れしたがっているとしか思えない瀧澤一郎氏、中西輝政氏にしても、「これで真相はわからなくなった」までで、「ソ連陰謀説」の明確な支持にまでは傾いていない。
なおこの二人は、「松本記録」「小川平吉文書」「満洲事変の裏面史」といった「張作霖爆殺事件」関係の基本的文献すら知らず、河本大佐犯行説の根拠は「河本手記」「田中隆吉証言」ぐらいしかない、と本気で思い込んでいる、というレベルであり、その言説を採り上げるに価しない。


以上の事実から、次の私の文が出来上がります。
>但し、この説の明確な根拠は示されておらず、また事件の経緯については、当事者の発言を基に日本側の研究者によってかなり詳細に明らかにされていることから、この説の成立する余地はまず存在しないと考えられる。
もし異論があるのであれば、
1.この説(ソ連陰謀説)の明確な根拠は示されていないこと(GPUの資料だけでしたら、矢吹氏の言う通り、「信じ込むのは、よほど脳細胞の単純な人か、陰謀が好きなマニアか、あるいは知的水準の疑わしい知識人たち」ということになるでしょう)。
2.事件の経緯については、当事者の発言を基に日本側の研究者によってかなり詳細に明らかにされており、「ソ連陰謀説」など成立する余地がないこと、
この2点について、具体的に反論することが必要でしょう。
でもpeace系は、結局「KGBという私の勘違い」以外、何の反論材料も提出できませんでした。念のためですが、私がこのような勘違いをしたからといって、上の趣旨には全く影響しません。


では、話はここまで。私もpeace系なんぞとの議論に無駄なエネルギーを使いたくはありませんので、以降はいつもの通り、黙って差戻し、黙って削除、ということにしたいと思います。ゆう(matunami) 2008年10月14日 (火) 10:52 (UTC)
花蝶風月雪月花警部さん、編集に関するご意見があるのでしたら、まずはノートに提議していただけませんか? 私はここまで自分の編集についてしっかりと説明したわけです。それを削除しようというのであれば、最低限、ノートの議論を経るのが礼儀ではないでしょうか。
そのご意見がもっともだと思えば、私も考慮することにやぶさかではありません。とりあえず今回は、あなたの削除を尊重して「根拠を追記する」ということで収めました。これ以上の編集については、ノートで合意を得てからでお願いします。ゆう(matunami) 2008年10月14日 (火) 22:08 (UTC)
先日の編集は、本文中に出典が示されていなかったので、要出典タグを貼ろうとも考えましたが、とりあえず穏当でないと考えられる部分を削除したものです。例え、取るに足らない説であるとしても、強く否定するとなればそれなりの根拠・出典が必要な場合もあるのです。--花蝶風月雪月花警部 2008年10月18日 (土) 18:04 (UTC)

参考文献・秦郁彦氏によるソ連犯行説批判[編集]

現代史家の秦郁彦氏が「張作霖爆殺事件の再考察」『政経研究 第44巻第1号』(日本大学法学会)にて、日本側の犯行であることを詳しく論証。ソ連犯行説を否定。

「4万の概数は最高限」として30万人南京大虐殺を否定している秦郁彦ですね。Shachin 2008年10月8日 (水) 19:20 (UTC)

強引な編集はおやめください[編集]

「ソ連犯行説」については、既に上のノートで議論済みです。秦氏も「ソ連犯行説は西郷隆盛が西南戦争で死なず生き延びたたぐいの妄想に見える」と評するなど、歴史学会では全く相手にされていません。Wikipediaの記事は、標準的な「学説」をもとに記述するべきでしょう。いったん差し戻しますので、編集合戦を避けるため、合意の上編集をしていただくようにお願いします。ゆう(matunami) 2008年10月8日 (水) 21:11 (UTC)

アカウント利用者:shachinについては、peace系として、投稿ブロック依頼を提出しました。ゆう(matunami) 2008年10月8日 (水) 21:11 (UTC)

まあ、少数の意見も大切にしときましょう。自分の主張したいものだけを載せようとするのではなく、世の中に出ている主張は主張として載せておけばよい。学会では相手にされないと、現在のようにあとに続けて記述すれば良いだけなのですから。読者も「こう言う説も存在するんだな」と知ることができ、幅が広がります。天動説が異端だった時代があるように、何が真実で何が嘘なのか、私たちにはわからないものですしね。--220.147.9.135 2008年10月18日 (土) 16:23 (UTC)

「ソ連犯行説」は、あくまでも「異説」の一つとして記載されたものであり、ここにいる誰も「正しい」「真実である」とまでは主張しておりません。この「異説」によって、直ちに標準的な「学説」が否定されるとは考えられず、記事が存在していることについて過敏に反応するのは考え物です。--花蝶風月雪月花警部 2008年10月18日 (土) 19:23 (UTC)

今手元に資料がありませんので引用や説明が正確であるか再度確認しておきたいと思いますが、現在の記述は、概ねは私の了解の範囲です。ただし「田中隆吉証言」については、これだけが「定説の根拠」であるかのように誤解されかねませんので、補足する必要があると思います。ゆう(matunami) 2008年10月18日 (土) 22:03 (UTC)

一方の説(河本大佐犯行説)を唱えているリンクサイトを除去いたしました。Wikipedia:外部リンクの選び方をご覧になっていただければわかるように、「ある観点から書かれたサイトへのリンクを掲載するときは、別の観点から書かれたサイトへのリンクや参考文献も同じぐらい多く掲載するべきです」とございますので、「河本大佐犯行説」は通説ではありますが、もう一方の「ソ連説」をリンクさせなければPOVとなってしまいますので、両方除去するか、両方載せるかを判断していただきたいと存じます。--220.147.34.115 2008年10月25日 (土) 09:51 (UTC)

線路際の爆発にしちゃあ、列車の壊れ方が変なので調べてみました。 上から爆破されたようです。誤解の無いように書き換えました。

線路側からの爆発がなぜ列車の上部に空間転移するのです?その点に関しておかしいとの観点での疑問の記述を消した方はSFマニアですか? 爆発は列車の内部か上側からでしょう。どう考えても待ち受けて点火作動させる爆破方式ではないことは明白です。 記述を消した方は物理法則や技術上の問題は”歴史的な常識よりも無視してはいけない”という事に留意してくださる様にお願いします。だんじょう(matsunaga) 2009年3月21日 (土) 09:15 (UTC)

掲示されている写真だけでは、そう判断されるのも当然ですが、あの写真は一両だけしか写っていません。牽引していた蒸気機関車も写っていませんし、それに別の角度からみた写真では路盤がえぐれるような穴があります。それにあの客車の上の屋根が崩壊しているのは交差していた鉄橋が崩落して上に載ったためです。客車内部で爆発したのであれば、爆風は同心円状に広がるはずであり、路盤に穴が開くこともありません。爆風が上に抜けるのとすれば客車の側壁が戦車なみの防弾であれば、屋根に抜けてもおかしくはないのですが、よく見ると客車の側壁構造も壊れています。それに内部による爆破説は全くありません。それに上からのむしろ内部ないし上方からの爆発による説は「独自研究」にすぎません。--Carpkazu 2009年3月21日 (土) 00:27 (UTC)
画像を追加しました。中国語版では内部から破壊されたかのような記述がありますが、英語版の記述によれば、あの客車は張作霖が乗車していたということです。ただ、ほかの客車がバラバラになった写真もありますので、横からの爆風で上部構造が吹き飛ばされたり、崩落した鉄橋に押しつぶされたとみるのが自然ではないでしょうか?上からの爆破でしたら鉄橋が遠くまで吹き飛んでもおかしくないのですが、写真を見ると下に転がっていますし、それに上からの爆破でしたら張作霖の体は飛散していたのではないでしょうか?一枚だけの写真のみを証拠に判断するのは大変危険な行為ですよ。--Carpkazu 2009年3月21日 (土) 01:23 (UTC)
すいません、従来の説は橋脚の爆破でした。路盤ないし線路が爆破ではありません。仕掛けた位置によっては上方からの爆破になりますね。もっともこれでは誰が行うことも可能ということになりますね。--Carpkazu 2009年3月21日 (土) 05:07 (UTC)

まいりましたね。半世紀以上も前の話だというのに、こうも基本的なことで新事実が続発ですか?これでは事件の状況をよく見直す必要がありますね。一応私もいろいろ調べることにして見直していますが、現時点では河本犯人説が自然な結論に見えます。ただし、それが正しいとしても河本本人が日本政府の意思を無視し勝手な行動に出た事。それが日本に災いをもたらし、敵(ソ連)を利した事は事実であり、彼は本当に祖国日本に忠誠を誓った人間なのか?という疑問さえ感じてしまうことも確かです。今後も検証は続けますが、英国諜報部に関して気になる情報が入りつつあるのでそこを見て見ます。だんじょう(matsunaga) 2009年3月21日 (土) 23:56 (UTC)

編集が錯綜してきたので当該部分を張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説として分離して新規作成しました。田母神氏らが主張している英国諜報部ですが、第三者による適切な出典があれば検証できます。ただ東京裁判の資料を検証したところ張作霖の一件では誰も起訴されていませんし、河本自身も中国国民党に戦後協力していたという事実もありますので、張作霖の事件では結局誰も刑罰を受けていないことだけは間違いないし、訴因にすらならなかったということだけは確かです。個人的には河本のスタンドプレーだと思いますが、ソ連の謀略説はソ連大使館の弾圧があったにせよ張作霖殺害の動機になりませんし、ソ連の満州における権益に有害になるので、ソ連が張作霖を抹殺する動機が見えてきません。ドミトリー・プロホロフ氏もそこらへんの背景について説明しているのでしょうか?このままでは週刊新潮赤報隊事件の真犯人の告白記事と同じになりそうです。--Carpkazu 2009年3月22日 (日) 14:28 (UTC)