ノート:成田山新勝寺

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

大正10年成田山荒木貫主印度欧米御旅行がとりおこなわれている。凡そ1年かけてアメリカ、カナダからヨーロッパ、印度、をめぐる地球一周の世界旅行です。旅行記のような資料があるらしいですがご存知の方は居ませんでしょうか?--202.213.151.217 2008年10月8日 (水) 20:34 (UTC)[返信]

関連施設について[編集]

関連施設に「千葉・八街文化幼稚園」が挙げられているのですが、まず、成田山財団とは無関係です。両幼稚園の設置者は学校法人文化学園(文化学園大学の設置母体とは別)で、八街市の「不動院」(真言宗智山派)が経営しているようですが(八街市|宗教法人一覧。代表役員が文化学園理事長と同一人)、なぜ成田山の関連施設として挙げられているのでしょうか?--Sorafumi会話2016年8月29日 (月) 15:38 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

成田山新勝寺」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 00:45 (UTC)[返信]

独自研究の記載について[編集]

‎Haretahisan氏が、本記事において、新勝寺に対して信仰的態度を示した人物や団体がトラブル等に巻きこまれている旨の記載を大量に加筆。当該事項については、私は、「新勝寺」が主体とならないと判断し除去し、コメントに「『△△を信仰する〇〇は~になった』という記事は、△△の記事に必要ですか?」をのこしました。それに対し、‎Haretahisan氏は、「成田山で祈祷依頼し不幸になった事例」との節を起こし除去分を復活させました。

私は、宗教的態度によって何らかの験が現れるというのは、客観的因果関係に欠け、そこに因果を見出すのは独自研究と考えており、ウィキペディアに採録するのは相応しくないと考え除去いたしました。

Haretahisanさんにあって、もし、当該内容を復活させたいと思うのであれば、独自研究ではない旨の主張をいただきたいと思います。--Mtodo会話2018年3月21日 (水) 11:46 (UTC)[返信]

  • ある宗教・宗旨を信仰していることは、その信仰している者(上で言う、〇〇)の記事になる可能性(あくまでも可能性です)はありますが、信仰対象(△△)の記事にするのは相当の理由が必要と考えます。しかも、「疎遠になった」という事実が記載されたなら、疎遠になった後のことは無関係です。--Mtodo会話2018年3月21日 (水) 11:56 (UTC)[返信]
  • 成田山慈尊院は京都市宇治市に所在する別法人、この項目に書かなければならない理由を請う。本末関係を言うなら、例えば、カトリックの司祭の犯罪は、すべて、ローマ教皇の記事とかの記載されるのか?--Mtodo会話2018年3月21日 (水) 13:32 (UTC)[返信]

所属していた僧侶の起こした事件について[編集]

#独自研究の記載についてにも絡んできますが、この除去された内容についてのセクションです。

これは、Haretahisanさんが編集に参加する直前の版では、一行書きの「こういうことがあった」レベルの記述でした。元々出典とされていたのはFNNニュースの報道です。それ以外の情報は後で加えられたものになります。3年間本文に記述があったことが「重要な事であった」ことの証左にはなりません。結局のところ、これは当時所属していた僧侶が起こした事件で、成田山新勝寺がどうこうしたという話ではありません(単に所属していただけで、新勝寺の僧侶であったから問題になったわけでもなく、また新勝寺が何らかの影響を受けたわけでもない)。よって、元々記述されていたものを含めてこの件は除去で問題ないと考えられます。

あと、WEB検索した限りでは、どうやら記述そのものが2chからの転載の疑いがあります。もう少し調べてみて状況によっては(大量の版を巻き込んで)削除依頼を出す可能性が否定できませんので、注記しておきます。--アルトクール会話2018年4月8日 (日) 15:07 (UTC)[返信]

報告 いろいろ確認したところ、上記で懸念していた2chソースの転載のほか、複数の著作権侵害の疑いが強いものを発見いたしましたので、Wikipedia:削除依頼/成田山新勝寺を提出しています。恐れ入りますが、関係各位は一度ご確認くださいますようお願いいたします。--アルトクール会話2018年4月8日 (日) 15:54 (UTC)[返信]

開基に関する史料について[編集]

以前、ある方が当山開基について疑念を示されていたところ、その他の私的な想いと想定されることが過剰で、その多くを記述から排除しなければならなかったという事情がありました。しかしながら、確かに開基に関しては、多くを新勝寺の開山縁起によっており、言わば自称のもののみのようです。ここで疑問なのが、この事情は、京都(朝廷)側のいずれかの史料に記載されていることなのでしょうか。

開山とされる寛朝は、宇多天皇の皇子敦実親王の子で、当時かなりのVIP、いかに仏法への熱意があろうともさほど自由な行動は認めがたく、調伏目的で関東に下ったとあれば、朝廷の何らかの記録に残っていると思うのです。また、関東下向は940年(天慶3年)とされますが、948年(天暦2年)灌頂とあり、まだ、修行中とも言える立場で、朝廷を代表し向かうというのも解し難いところです。なお、国史大辞典の記述は、『大日本史料』二ノ三 長徳四年六月十二日条を典拠にしているようですが、国史大辞典の記事には成田山開山についての記載はありません。

本件ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示ください。--Mtodo会話2021年1月25日 (月) 14:55 (UTC)[返信]