ノート:日本基督教団/200704過去ログ

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

国家神道的との関わりについての記述[編集]

革のところに「初代統理富田満牧師によって天照大神に捧げられた合同教会である。」との表現が書き込まれましたが、現在の教団を含む沿革の表現としては不適格であり、議論もなく変更されましたので削除します。また、年表中の同様の表現や、教団前史にあたる部分の書き込みについても、議論が尽くされていないので一旦削除します。サヴォイ 2005年9月27日 (火) 16:46 (UTC)[返信]


日本キリスト教会(新)設立の経緯について[編集]

LRどの、日本キリスト教会(新)設立の経緯を会派問題におくか、信仰告白の問題におくかは難しいし、2つの問題は錯綜していて峻別はできませんが、当時の関係者の証言によれば教団信仰告白制定における内容への不満、歴史的諸信条の扱いへの不満があったとされています(複数教派の資料を参照)。それに照らせば、変更された「会派問題への不満」や「信仰告白の制定が進まないことへの不満」というのは至当ではないし、他教派への批判的見解が含まれていて客観性をも欠いているように思えますが。とりあえず、加筆いただいた点を加味しつつ信仰告白の項に記述を戻しました。また、残留・離脱教派の紹介の中で、旧日基系の連長・改長協の順番をひっくり返しました。改長協は教団内の組織ですが、連長はあくまで教団の枠外の長老派の組織なので。あと、編集履歴はウォッチリストに追加いただけるとありがたいです。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 17:05 (UTC)[返信]

会派問題と信仰告白問題の峻別は極めて容易です。1954年制定の教団信仰告白の内容を不服として1951年に(新)日本基督教会(創設記事は漢字表記、新旧表示は慣例に従い前、でお願いします)が創立される事は歴史的に不可能で、明らかに1950年の第六回総会(私も最初は騙されましたが現記事の年号をご確認ください)での会派案棄却を受けての決断でしかありえません。その引止め工作の説得材料に信仰告白を整備する予定のあることを説明していることからも、それが裏付けられます。また、歴史的信条の取り扱いに不満があった、との見解も、日本キリスト教会(現在はカタカナです)は今に至るも簡易告白で教会を形成されていることから、離脱の直接要因にはなり得ません。本来判りやすい事情を錯綜しているかのように考えられた理由として思い当たるのは、1951年の(新)日本基督教会の設立事情と、1946年の日本基督改革派教会の創立事情をご参照の資料の記録者が混同しているのではないか、ということです。「改革派」(あるいはRCJと略称します)は確かに創立にあたって歴史的信条(ウエストミンスター信仰基準)を基に教会を建てることを宣言されています。以上のことから、複数会派の資料を御参照との事ですが、そこには新日キ(当事者の方々に黙認?頂いている現在の通称です)や改革派の資料が含まれてないのではないか、と想像致しますが、如何でしょうか。ちなみに私が参照しているのは、旧日基系の自教会の独自資料のほか、『日本プロテスタント・キリスト教史(土肥昭夫 新教出版社)』と『合同教会論(北森嘉蔵 キリスト新聞社)』です。LR 2005年8月27日 (土) 02:46 (UTC)[返信]
少し時間が経ってしまいましたが、いろいろとサジェスチョンありがとうございます。ご指摘いただいた資料等も参照してみました。確かに、歴史的信条との関わりについては「日本基督改革派教会」と混同があったようです。ただ、1951年の(新)日本基督教会の成立については、会派問題「解決」直後に出てくる教団信仰告白の制定「方針」を巡る対立が原因、とする資料もありました(『日本組合教会の特質と今日的課題及び日本組合教会規約等(中村敏夫、関東同信会)』)。ただ、これも組合教会からの見方ですから、誤解や偏見のあることは否めません。とはいえ、そのような証言が採録された資料もあることから、今の段階で単に時系列のみで事実を判断することは避けたいと思います。できたら、当時の経緯を知っている方に証言を求めたいと思っています。サヴォイ 2005年9月27日 (火) 17:30 (UTC)[返信]
(新)(旧)表現については改めましたのでご参照ください。サヴォイ 2005年9月27日 (火) 17:30 (UTC)[返信]
別のクレームですので節を分けます。旧日基系教派団体のことですが、連長は教会政治組織であるため、完全に教団内で閉じています。原理的に教団外の教会は加入できません。改長協は教団内向けの啓蒙運動ですが、賛同していただける他教団教会からの参画をお断りしていません。つまり、貴方の認識は真逆です。教団を超えた広義の改革派の連絡組織は「改革教会協議会」といいまして、勘違いなさるにしてもよほど改長協の方に似ています。LR 2005年8月27日 (土) 02:46 (UTC)[返信]
確かに連長は教団内会派でした。地域連長が当該地域の新日キ中会等と宣教協力にあたっているのを誤認していたようです。失礼しました。同様に、改長協も教団内会派ですが他の教団教会からも参加していますね。とはいえ、改長協の方がいまのところネットワークとしては大きいのと、連長については教団内の改革長老派の教会においても是非が分かれている(西日本の組織率が低い)こともあり、規模で云々するのも何ですが、当面は改長協を前置しておくことにします。サヴォイ 2005年9月27日 (火) 17:30 (UTC)[返信]


いわゆる「教団紛争」に関する記述について[編集]

129.206.196.25という方によって、教団紛争が終結したかのような記述に変更され(客観的に見ても、『合同のとらえ直し』問題に関わる沖縄教区の教団総会ボイコット、教団総会での議題案提出や運営をめぐる混乱、いくつかの教区での問安使拒否など、紛争状態は継続していると見るのが妥当)、また、「教会派」「合同派」なる教団内外でも使われたことのない用語が付け足されています。この記事は、教団をめぐる客観的事実に基づいて記述を続けてきたものであり、こうした記述は元に戻すことにいたします。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 10:21 (UTC)[返信]

「社会派」の対立概念として「教会派」という語は存在します。むしろ教団紛争関連の専用語彙で、他の話題では聞いたことがありません。確かに、全く上手くない造語だとは思いますが、すでに別の意味で定着している「福音派」という語を意図的に誤用するより遥かにマシです。なお「合同派」は私も聞いたことが有りません。LR 2005年8月19日 (金) 11:50 (UTC)[返信]
俗にいう「福音派」「社会派」とも、教団紛争で対立する勢力同士がお互いを意図的に揶揄・中傷するために歪められて使われてきた言葉ですから、そもそもいい意味ではありませんし中立的な概念でもありません。しかし、現実として「福音派」「社会派」という言い方(中傷の仕方)が教団のかなりの部分で定着し、それが客観的事実として認識されるのならそう記述するしかありません。確かに「教会派」の呼び方は教会形成を重んじる人たちの呼び名として適切なように思いますが、Wikipediaは投稿者が現実の事象を「かくあれかし」と望む姿で描き、「現実を啓蒙」する場ではありません。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 18:32 (UTC)[返信]
そのような方向付けを画策しているのではなく、「教会派」という語があるかないかと問われたらそれは存在する、と申し上げているだけです。確かに「マシ」という評価は私見ですのでnoteだから吐露したものの本文には書けません。LR 2005年8月19日 (金) 22:53 (UTC)[返信]
そうですね。今の段階では「社会派」「福音派」または「教会派」ともに、教団紛争に関係しては使えない状態かな、と思います。どう書いても中立的・客観的になるとは思えないですし。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 06:00 (UTC)[返信]
福音派」の記述はかなり正確で、いわゆるJEA系の教会のことを指すだけでなく、メインラインの教会の中での保守的・伝統的な立場をも意味する、という記述がなされています。確かに、教団での使われ方には良からぬ意図を感じますが、福音派の記述を見れば必ずしも「誤用」とまでは言えないのではないかと思います。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 18:39 (UTC)[返信]
勝手にお褒めいただいたと受け取らせていただきますが(笑)、私自身がまったく気に入らなくても現実にそのように使われる局面がある以上、福音派に書いておかざるを得なかったんです。逆に、あそこに書いてあるから誤用ではない、といわれる方が出るようなら、福音派の記事のほうにはっきり「原理主義に纏わるマイナスイメージを想起させる目的で用いられる侮蔑的用法」と記さねばならなくなります。LR 2005年8月19日 (金) 22:31 (UTC)[返信]
実際、メインラインの教会で侮蔑的意味で福音派という言葉が使われることは少なくありません。嫌なことですが、現実を記すという意味では侮蔑的用法もありうることを書くのも一つかもしれません。私見ですが。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 06:00 (UTC)[返信]
横からで失礼ですが、教団どころかキリスト教に縁がない方が読者の大半をしめる以上、そうしたニュアンスで使われることがあるということは書いたほうがよいのではないでしょうか。もう少しいえば、福音派を自称しない教会をそのように呼ぶ場合、と注釈を添えたほうがよろしいかと。--Aphaia 2005年8月19日 (金) 22:39 (UTC)[返信]
とはいえ、「福音派」「社会派」あるいは「教会派」なる用語が、Wikipediaで十分客観的に使うことができかねる用語であるとも言えますので、しばらく使用そのものを控えておきたいと思います。これがなくとも、教団紛争とそれに関わる勢力の記述はできていますので。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 18:44 (UTC)[返信]


教団のより詳細な記述について[編集]

長いことこの項目がなかったので日本のキリスト教は見通し悪かったのですが、執筆いただいてありがとうございます。ですが、神学的にどういう立場なのか結局よくわかりません(爆)

  • 信条は何を告白するのか
  • プロテスタント諸派30が合同とありますが、具体的にどういう流れが入ってくるのか(既存項目でも使われている会衆派等々の名称を使っていただけると有機的な関連が出てくると思います)
  • 戦後どういう集団が分離したのか
  • 現在の主な潮流(これは冒頭記述にも少しありますが)

こういうことを書いていただけると、部外者としてはいいんじゃないかと思うのですが。。

合同教会なので、すぱっと書くのは難しいと思いますが、自前で?神学部までもっておられるわけなので、ある程度充実した記述があると、読者としてうれしいかなと思います。一部の方から要望のある日本のキリスト教の歴史など、教団史を抜きにしてかきえないことでもありますので、合同にいたる経緯なども、(ここに書くかはともかく)充実していっていただければと思います。--Aphaia 2005年8月19日 (金) 18:50 (UTC)[返信]

あとついでというのもなんですが使徒信条アタナシウス信条をお願いしてもいいでしょうか。こちらの教団では告白されると伺いましたので(デマかもしれませんが)。よろしくお願いします。--Aphaia 2005年8月19日 (金) 18:53 (UTC)[返信]

本記事にも書かれているように、現在教団は紛争状態にあります。教団そのものの歴史も一定の評価を下せる現状ではなく、教団自身も年表で事実を羅列することしかできていません。教団系の神学部や神学者は、ある意味で全て紛争の当事者でもあり、公平な立場で書かれた教団史というのをついぞ見たことがありません。神学的にはプロテスタント全派の思想が包括されていると言っていいほど、多様です。
    • 信条について・・・建前上は「日本基督教団信仰告白」がそれにあたるのですが、これをどう神学的に位置づけるのか、信条として規範性を持つのか、あるいは信仰告白のための式文にすぎないのか、口語が相応しいのか、文語が相応しいのか・・・旧教派ごとで考えが大別できれば記述できるでしょうが(クリーダルなのか、ノンクリーダルなのか、など)、その後の教団紛争の影響もあってその立場は千差万別、書きようがないのが現状です。
    • 戦前の30教派合同・・・はっきり言えば、当時日本にあったプロテスタントの教派ほぼ全てと言っていいかと思います。合同しなければ、宗教団体として存続を許されなかったのですから。
    • 戦後の分離・・・かならずしも特定の教派がすっきり分離したのではなく、同じ教派でも残留組と分離組が出るなど複雑です。分離組が出なかったのは組合教会くらいではなかったでしょうか?
    • 現在の主な潮流・・・キリスト教界すべての動きを包括するほど、千差万別、多種多様で(エキュメニズムからリベラル、福音主義、カリスマ運動まで何でもあり)書きようがありません。
前述のとおり、教団関係の神学部こそ紛争と対立の当事者であり、今の状況では公平な教団史は望むべくもありません。なにしろ、合同にいたる経緯そのもの(それをどう表現するかも含めて)が紛争の主要因なのですから。むしろ、外部者の曇りない目で見ていただく中で、記述がなされることを期待するしかないのが現状です。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 19:26 (UTC)[返信]
礼拝で告白するかどうか別として、使徒信条アタナシウス信条に示された教義は概ねすべてのキリスト教会が重んじるものとして、自覚的ではないにしろ受け入れられていると思います。ただ教団的には、これをどの訳で用いるか、なんてことですら紛争の種になっているので、なかなか書きにくいものはあります。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 19:35 (UTC)[返信]
使徒信条の執筆はお引き受けします(魔法少女本文よりは優先で)。こちとらクリーダルな改革長老教会なので、個人的には抵抗ありません。てか、Aphaiaさんて東方の方なんですか? それから、「合同しなければ、宗教団体として存続を許されなかった」は、誤解の元ですね。宗教結社としてなら存続できましたから。LR 2005年8月20日 (土) 06:40 (UTC)[返信]
制度上はそうだったかもしれない。しかし、それは教団に望まざる形で合同され、少なからぬ弾圧を受けた聖公会ホーリネス教会の方からは大いに異論があると思いますよ。あと、使徒信条については、文面を紹介されるのでしたら、できれば日本語訳はさまざまなバージョンを紹介していただけないでしょうか? 教団の文語訳だけでなく、教会教育訳(口語訳)やカトリックのものなど。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 06:56 (UTC)[返信]
東方にシンパシーもっているのは確かですが、東方の人ではないです。;-)訳はほとんど著作権切れているのかな。翻訳権が翻訳者にあって教団なり教派なりに移転していないと、ちょっと調べてからじゃないとまずそうですね。カトのは2バチ以降の口語訳(信仰宣言)だとどちらからまわっても切れてない可能性が高いんじゃないでしょうか。--Aphaia 2005年8月20日 (土) 07:12 (UTC)[返信]
おっと、著作権の問題がありましたね。それでいくと、教団文語訳(1954年)や口語訳(1966年)はどうなるのかな? これらは、もともと個人の訳業ではないと思いますが。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 07:18 (UTC)[返信]
共訳であればそれぞれの翻訳者の没年(没後50年)、団体が著作権をもっていれば発表後50年です。ですので、教団が著作権をもっていたのなら、文語訳はPDになっていますね(たぶん教団で保有していたのでしょうが、確認したほうがいいでしょう)。あといわゆる雪ノ下カテキズムというのは教団でしたっけ?
ええと、あまり本質的ではないのですが、文語訳聖書の著作権は切れています。口語訳聖書の著作権は今年切れます。でも(元の)版権者はいずれも教団ではなく日本聖書協会です(サヴォイさんの提示された出版年次には強い違和感が有ります)。讃美歌の著作権者は教団で、讃美歌21の一つ前の版の著作権も去年か今年で切れています。LR 2005年8月20日 (土) 09:38 (UTC)[返信]
LR さま、上の教団文語訳(1954年)や口語訳(1966年)は、聖書や讃美歌の出版年次ではなく、使徒信条の訳出されたものの制定年次です。それぞれ、教団信仰告白とその教会教育用訳(口語)の制定に伴っているものですので、ご確認ください。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 16:21 (UTC)[返信]
教団独自で信仰告白があるのだとすると、使徒信条などは、教団全体としては「否定しない」、一部の教会では告白する(こともある)ということなのでしょうか。あと聖書と賛美歌は何を使っているのか(あるいは使われることのある版)、というのも情報としてほしいかな。。--Aphaia 2005年8月20日 (土) 07:33 (UTC)[返信]
使徒信条の本文は必要ですか? まして幾通りも必要でしょうか。それによってなにか中立性や客観性が向上するようには全く思えませんが。必要なら、手に入る一番古い訳、つまり旧日基の告白の末尾にあるものをひとつだけ(115年前の訳です)載せて、異訳はリンクで足していただくようにしたいのですが。また、雪ノ下カテキズムは教団鎌倉雪ノ下教会の独自の信仰問答で、教団のものではありません。加藤常昭の著作物です。教団信仰告白の各教派での取り扱いを客観的に記述するのは可能でしょう。洗礼やらなんやらも同じ書き方なら出来ますが、なにか「教団の統一見解」とか「共通の習慣」があるはずだとお思いなら、それは幻です。喧嘩になるのでヤバくて書けないんじゃなくて、存在しないので書けないのです。LR 2005年8月20日 (土) 07:56 (UTC)[返信]
使徒信条については、LRさんのお考えでよろしいかと思います。ただ、信仰告白や聖礼典の各教派での取り扱いについて記述するのは、案文を重ねて慎重を期した方がいいと思います。それぞれ主張がありますし、少しでも批判めいたこと、否定的な見解、一方を他方より優位たらしめる文脈があれば、当該記事の信頼性や存立を危うくするものになりかねません。教団にこれらに対する統一的な見解や習慣がないことは、もっともだと思います。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 08:14 (UTC)[返信]
カテキズムについてご教示ありがとうございます。あと「統一見解」がないことは仄聞しております。そして、お願いしているのは提案していただいたようなことです(戦前の各教派にひきつけてかけば比較的見通しがよいでしょうか)。なんでもありといわれても、たとえば決してしないこともありえるでしょうし、必ずすることというのもあるでしょう。洗礼は(必ずするんですよね、というのは救世軍なんかだとプロテスタントといってもやらないわけで)どういうやりかたがあるのかとか、聖餐なら、いろいろたぶんあるんでしょうが、すべての理論がみられるというわけではないでしょうから(全実体変化は。。ないですよね)、あと「秘蹟」の概念があるのかとか(これはたぶんたかだか2つですよね)、そういうことを具体的に書いていただきたいのです。とてもつまらないことをお願いしているような気もしますが。具体的な話がないとわたくしなどは像を結びませんので。。「プロテスタント」の「○○派」「○○派」「○○派」などが合流していて、そうした諸要素がそれぞれの教会にそれぞれに保持されているということを示していただけないかなと(詳細は○○をみよ、でもいいので)。たとえば私などはノートの議論をみるまで聖公会が一時期合同していたということも知りませんでした(不勉強ですみません)。
あと、一般書店で著作が手に入るくらいには有名な代表的な神学者も挙げてくださると項目として充実もするし、項目からさらに進んで知識を得たい読者にも有用ではないかと思います。--Aphaia 2005年8月20日 (土) 08:25 (UTC)[返信]
秘蹟や聖餐論にまで入ってくると、それこそプロテスタントの項で論じるべきであって、プロテスタントの一合同教会の項で微に細に論じることではないと思います。また、旧教派に引きつけて、とありますが、エキュメニズムの影響などを受けて、旧教派の枠を超えたスタイルを獲得した教会もあり、いちがいに論じ得ません。戦前の部制に関しては、一部記述をプラスしようと思いますが。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 09:12 (UTC)[返信]

教団の現状に関する記述について[編集]

お返事ありがとうございます。ここに書いていただいたようなことをそのままかいたらいいんではないか、いろいろな観点を並べて書き、何が多数派で何が少数派なのかを明記していただければ、書きようがあるのではないかと思うのですが、楽観的過ぎるでしょうか。
信条のこと、大変そうですね。。ただそういうことが争われている、また統一的な見解が存在しないということ自体が情報として意味があると思うので、そのように書いていただければと思うのですが。
教会により「自分で書いた信仰告白を読みあげる」(ここは組合派らしいです)とか「聖餐式がない」とかいろいろ他教派からするとなかなかどういう状況なのか想像しにくい話を聞きますので、そのあたりも整理して、こういう多様な展開がある、ということをお互いに好意的になって書いていくというわけにはいかないのでしょうか。
<並列的記述について>並列的に記述することすら客観的でないとする人たちがいるのが、この紛争の根深さなのです。多数派・少数派なんてことを書いたら、たちまち編集合戦になってしまうことは目に見えています。教団の人がWikiに出入りしないなら書けると思いますが(笑)
<信条について>統一的な見解がないのは確かなのですが、それを書くことすらも客観的でないという主張があるのが現実です。クリーダル(信条的)な教派と、ノンクリーダル(信条を用いない)な教派が合同していますから、教団の記述の主要部分に据えるのも相当な議論がいると思います。
<信仰告白について>私は組合派ですが「自分で書いた信仰告白を読み上げる」というのは、受洗に際して信仰の「証し」をするようなイメージだと思います。うちの教会では月報に載せるくらいですが。他教派の「信条」に相当するものではありません。
<さまざまな教会のあり方について>それを認め合ってWikiに書けるようなら、教団紛争はとうに終わっていると思います。今は、その多様なあり方を互いに「恵みがない」「信仰に欠ける」「霊性が足りない」と非難し合っている現状ですから、多様であることすらも認め合えないと思います。残念なことですが。サヴォイ 2005年8月19日 (金) 20:03 (UTC)[返信]

洗礼と証し[編集]

「重みをもった並列記述」がNPOVの基本なので難しいですね。。
ええと「受洗に際して信仰の証し」というのがまず説明していただかないとわからないです。正教会やカトリックですと、受洗に関しては洗礼志願者または親(一部の幼児洗礼の場合)が信条を告白するか信仰告白(カトリックの場合。どうも使徒信条ぽかったですが)のですが、それを自分の言葉で語るということなんでしょうか。これは項目に反映していただけるといいじゃないかと。「証し」というのがそもそもテクニカルタームなわけで。。
各個教会主義を取る組合教会の一教会員の私の「受洗に際して信仰の証し」という解釈で、教団の項目に追加はできません。「証し」というのは信徒による信仰的なお話、メッセージのことで、当然ご自分たち一人一人の言葉で語られるものです。ただこれも、あくまで組合教会の伝統を踏まえた解釈かもしれず、教団全体の解釈として掲載するわけにはいきません。洗礼や聖餐など聖礼典の執行についても、解釈や方式をめぐって混乱が続いています。各教派、各個教会のやり方を尊重すべきという立場から、全体教会的に統一すべきだという考え方までさまざまです。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 06:00 (UTC)[返信]
私がいっているのはもっと形式的なところです(神学的な意味というのではなくて)。上に書いた教派ですと、は典礼のなかでそうした「個人が一人一人の言葉で語る」という場をもちませんので、当然といわれても困るのですね。「「証し」というのは信徒による信仰的なお話、メッセージのことである」というような記述的なことがほしいのです。
たとえば洗礼についても、あるべきであるというのではなくて、事実としてどうなのかということの記述がないというのは百科事典としてはものたりないと思うのです。浸礼メインなのか滴礼メインなのか、どちらも同じように行われているのか、幼児洗礼はするのかしないのか、そういうことが書かれていないのは事実の記述としてものたりなく感じます。「やり方を尊重すべき」といわれても、教団の外にいる読者にとってはどういうやり方があるのかということがわからない。神学的につっこんだことを書くのは地雷だということはわかりますので、強くは求めませんが、それなら事実として何が起こっているのかを(これは客観的ですよね)百科事典として書いてほしいなと思うわけです。

--Aphaia 2005年8月20日 (土) 06:50 (UTC)[返信]

正直、それらを忠実に描写することは地雷原を踏むようなものです。たとえば、組合派では幼児洗礼は「できます」が、強くも勧められていません。あえて、牧師一家が幼児洗礼を受けさせない例もあります。伝統的な教派構成から見れば、滴礼がメインだとは「思います」が、バプテスト系もおりますので浸礼もあると思われます。それ以外でも、教会の方針として浸礼を取り入れたところがあるとも聞きます。正直なところ、教団内部ですらお互いの教派・教会の伝統に踏み込んだり、理解し合うのは「タブー」に近いものがあります。実態さえお互いによく知りません。何かを書けばそれが重みを持ってしまい、「それは客観的ではない」という異論を生む地雷原になってしまいます。事実を書くとすれば、それが事実です。まさに、「現在でも、教団成立の経緯や戦争責任のとらえ方、合同教会に対する考え方、その形成にいたる神学、方法論、将来の展望にいたるまで、派閥的対立が先に立ち、十分な共有や対話がなされていないのが現状である。」の一文に集約されているとしか、言いようがないのです。申し訳ないのですが。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 07:11 (UTC)[返信]

対立といふこと[編集]

んー「お互いに非難しあっている」というのをそのまま書いたらまずいんですかね。Aphaia
それすらも主観的ではないでしょうか? 繰り返しますが、教団は「紛争状態」なのです。「紛争状態」であること以上の記述をしてしまうことは、一方に偏った主観的な表現になると思います。現在の記述以上に、教団全体をWikipedia的に詳しく書くためには、しばらく時間をおく必要があるかと思います。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 06:00 (UTC)[返信]
一般論としてですが、注釈なしに「非難しあっている」というのを書くのは、客観的にそう認知されているのでなければ避けたほうがよいでしょうね。ただ「○○は××が不当に非難していると著書○○でいい、△△は○○が不当に非難していると論文××で評した。一方△○は××で両者の間に本質的な対立はないと評している」というのは、それぞれの主張を正確に伝える限りで客観的な表現です(WP:NPOV)。百科事典の記事がある種の論文である以上、思想や宗教の項目は理想的にはそうした形で書かれるのがよいだろうと思います(なかなかそううまくはいかないのも事実ですが)--Aphaia 2005年8月20日 (土) 06:40 (UTC)[返信]
あと50年待って下さい(笑)。そうしたら、この対立をそれぞれの立場、あるいは客観的に見た評伝が出るかと思います。それまでは「言った、言わない」「殴った、殴らない」「謝った、謝らない」の話になるでしょう。おかしな怪文書や告発文の類は別として、そうした経緯をまともに書いたものは教団内で見たことがないです。サヴォイ 2005年8月20日 (土) 06:56 (UTC)[返信]
なるほど、それはあと50年まったほうがよさそうですね。;-)--Aphaia 2005年8月20日 (土) 07:35 (UTC)[返信]

お願い[編集]

上の議論でも、みなさま複数資料をあたって書いておられるようですが、項目の末尾にそれらの資料を参考文献としてあげていただけないでしょうか。欧米の宗教時点などみましても、百科事典というのは一種の論文集であって、参考文献を挙げ、主要な文献を挙げして書くものという規範があるように思います。私は記憶や自分の把握に頼って書いてきちんと出典を表示しないことが多いのですが(だめじゃん)こうした匿名投稿者の多いところでは、せめても文献を提示することで信頼性を高められるのではないかと考えています。--Aphaia 2005年8月27日 (土) 02:56 (UTC)[返信]

それはウザくてしょうがないので、本見て書いたときとモメた時にさせていただけませんか。私見としては、資料を引き写すしかない=執筆資格がない素人=資料選定眼そのものがあてに出来ない、だと思っていますので、当事者としてソラで書けない記事には手を出さないようにしているのですが。LR 2005年8月27日 (土) 03:44 (UTC)[返信]
お説には違う意見も持ってますが、それはおいておいて
じゃ、早速ですが、本見て書いたときということで、上に挙がっている本については記載をお願いします。;) 
なお、英語版やドイツ語版などでは参考文献を書くキャンペーンなどをしています。RGG(ドイツ語の宗教辞典)なんかは、ルターみたいな大物ですと、参考文献だけで4ページくらいあったりしますね。--Aphaia 2005年8月27日 (土) 04:36 (UTC)[返信]
何が起こるか判らないのでまだ本文を戻してません。返事を一週間ほどお待ちするつもりです。さらに、今回無為に編集が往復した部分以外にも信憑性の怪しいところがある現在、誤謬を帰すようで申し訳なくて参照表示に躊躇するのですが。LR 2005年8月27日 (土) 05:40 (UTC)[返信]
逆にある文献に依拠して書いた場合にそのことを銘記しないと、最悪の場合盗用や著作権侵害ということも問われえて、投稿者だけでなく再配布にも支障をきたすのじゃないかとおもいますが、そのあたりのかねあいはいかがでしょうか。--Aphaia 2005年8月27日 (土) 05:43 (UTC)[返信]