ノート:標津線

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標茶線?計根別線?[編集]

当方、手持ちの資料「停車場変遷大事典」では、この区間の線路名称は間違いなく「計根別線」となっています。建設時の仮称が「標茶線」(Sasaraさんが言及されているように、「北海道建設事務所での呼称」ですし)で、標茶~計根別間開業時に「計根別線」が命名されたのではないでしょうか。もっとも、計根別線の名称が使用されたのは、計根別~中標津間が延伸開業するまでの1年(1936年10月29日~1937年10月30日)だけですから、建設時から使用されていた「標茶線」が”通称”として残ったと考えるのが妥当ではないかと考えますが、いかがでしょうか。再調査をお願いできればと思います。 --Kone 2006年5月27日 (土) 14:07 (UTC)[返信]

了解しました。今回参照しましたのは参考文献に追記しました『彩雲鉄道』(根室市、中標津町、標茶町、標津町、別海町共同発行)なのですが、そちらには当時のポスターがのっており、標津線/標茶線となっておりました。中標津町史には計根別線となっており、編纂当時ではどちらが正しいかは不明確のようでした。1年ほどで使用されなくなった呼称であればどちらが明らかに間違っていると言うことはなく、不明確になるのも仕方なかったことかもしれませんね。来週以降にはなりますが国会図書館で再調査をしたいと思います。気長にお待ち下さいませ。--Sasara(T/C) 2006年5月27日 (土) 15:10 (UTC)[返信]
国会図書館で調べてきました。が、資料が少ないですね…。個人的には別個に殖民軌道計根別線があったということで、区別のために省線標茶線と呼んでいたのではないかなと思うのですが、これは所詮憶測。一応全通の時の記事を見つけました。「標津、標茶線両線けふ開通祝典」という見出しで昭和12年10月30日の北海タイムス紙に掲載されていました。これではちょっと弱いかもしれませんが、これ以上調べるなら鉄道省の原文に遡らないといけませんね。はたしてどう調べたものやら…。--Sasara(T/C) 2006年6月10日 (土) 11:24 (UTC)[返信]