ノート:牛久保城

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牛久保城の前身が一色城との記述について[編集]

当ページの概要一色城が牛久保城の前身との説明がありますが、やや正確性に問題があるかと思います。一番早いのが、豊橋市所蔵の「牛久保古図」を確認されるのが良いと思いますが、下記URLの掲載図でも確認可能です。http://oshimamd.sakura.ne.jp/nagaoka2/1812.jpg

これによれば明らかに牛久保城の城外に隣接して一色城が有ったことがわかります。なお、一色城を牛久保古城もしくは牛窪城とする例もあるので、一色城を前身と見る見方が完全に間違っているということではありませんが、初めて閲覧される人が誤解する可能性もあり、区別されたほうがよいと思います。ご検討のほどを。当ページの主筆者様へ。 故城一片之月 2007年2月10日 (土) 12:19 (UTC)[返信]

故城一片之月さん、こんにちは。ウィキ豊です。主筆というほどの者ではございませんが、わたくしの利用者ページのノートに書かれていらっしゃいましたので、少々述べさせて頂きます。
正確であるべきと言う点ですが、故城一片之月さんのおっしゃる通り牛久保城は牧野成勝によって築城された城のみをさす場合も有ります。ただ、一色城の一色の名が一色氏の苗字に由来するものであり、地名ではありません。一色長山城は本来ならば長山城と呼ぶべきでしょう。しかし、なぜか牛久保古城を長山城と呼ぶ習慣が余り有りません。一色城とは一色氏の居城という意味ですので、一色氏が居城とした城は全国すべて一色城になってしまいます。豊橋市#室町・戦国時代今橋城築城の文章)にも「牛窪(後の牛久保、現、豊川市)に拠点を持っていた、牧野氏(牧野古白)」という記述になっていますが、この牛窪は新牛久保城のことではなく長山一色城のことです。一色氏の長山一色城と牧野氏の牛久保城の場所は若干ずれていますが、この程度の場所の違いを持って別の城とは言えぬと思います。また、牧野成勝は波多野全慶のカラーの残る長山一色城を避けて少々別の場所に新牛久保城を造ったものの、牧野成勝築城の牛久保城は実質的に長山一色城の改築に近いととらえるべきと思います。--ウィキ豊 2007年2月11日 (日) 02:46 (UTC)[返信]

ウィキ豊様、早速のお返事有り難うございます。ご解説の趣は了解しました。なるほど長山一色城と牛久保新城を別個と見る見方もあるが、また長山一色城を牛久保城の一部と見る見方も確かに存在するようです。一般的に言って、別個の城が近接して併存することは防衛戦略上不利な筈で、しかし、『長岡の歴史』第1巻に見られる牛久保城の解説でも一色城に牧野氏家臣桜井将右衛門を在番させた内容があり、実は両者併存していたようです。それから類推すれば長山一色城は牛久保新城の一部として取り込まれ機能していたと考えるのは自然の考え方と私も思います。ただ、牛久保城についてウィキ以外で公式的な見解統一がないのであれば上記のようなご説明を本文でもさらりとして頂いてよいと思いましたが、Tetusaburou氏が既にお骨折り下さったので、とりあえずこの件は終了致します。故城一片之月 2007年2月11日 (日) 19:37 (UTC)[返信]

故城一片之月さん、ウィキ豊です。こんにちは。豊川市牛久保町では牛久保城跡の説明に牧野成勝の新牛久保城の説明文が有りまして、大半は一色城とは別の城と言う印象を持たれるようです。ただ、一般に豊橋市の今橋城(後の吉田城)で牛久保城主牧野古白(成時)により築城(1505年)と言う説明文(豊橋市内で発行される観光案内など)に面食らうはずです。古白の時代には成勝の新牛久保城(1529年)は無く牛久保城主は有り得ないはずだからです。古白が城主である牛久保城とは、どう考えても一色城を指しているわけです。牛久保城を調べられるかたはどうしても一色城を落とされがちですが、一色城を牛久保城と表現する文章はよく見かけます。一色城を実質的に規模拡大したものの場所が少し違うと言うのが真実でしょう。Tetusaburou氏がその辺りの説明をされたので余計な事で有ったかもしれませんが、本文を少々変えさせて頂きました。正確さを求められる故城一片之月さんの方針には賛成しておりますので、確かに新・旧両城の説明文は付け加えた方が良かったでしょう。--ウィキ豊 2007年2月12日 (月) 00:56 (UTC)[返信]

この牛久保城古図は、真木善兵衛の屋敷が出てない。端のほうにあるから、はみ出た可能性があります。--鉄三郎 2007年4月19日 (木) 20:52 (UTC)[返信]

項目名変更、牛久保衆について[編集]

項目代表的な牛久保城寄騎・年寄衆は牧野氏直臣や地侍衆など説明内容を含みきれないので牛久保牧野氏に参集する武士集団の一般用語である牛久保衆 に変更しました。また、『牛久保古図』記載の武家屋敷の人名で竹内氏を竹垣氏とするのは、長岡藩の『諸士由緒記』で竹垣氏が奥州田村の住人であったとあり適当ではなく、榊原氏(渋右衛門)を神戸氏の誤記とするのも『牛窪記』に同名の榊原渋右衛門とその子に関する記述があり、適切ではないので修正しました。 なお、長岡藩先方家疋田水右衛門の疋田氏が三河時代に牛久保寄騎であったかは疑問があります。故城一片之月 2007年2月18日 (日) 03:20 (UTC)[返信]

一色城は、中条神社の南ですね、地図で見る限り。牛窪城からかなり距離の離れたまったく別の城ですね[編集]

http://oshimamd.sakura.ne.jp/nagaoka2/1812.jpg

↑これは、略図なので、遠くにあるものが隣接して見えるだけです。 きちんと、地図で確認しましょう。

一色城は、牛窪城からかなり距離の離れたまったく別の城ですね。

一色城の位置は、中条神社の南。ほこらのマークに該当すのは、中条神社しかありません。

大聖寺、長谷寺、牛窪城との位置関係・方位からも確定。 以上の署名の無いコメントは、220.214.229.29会話履歴)氏が[ 2007年4月6日 (金) 17:58]に投稿したものです(故城一片之月による付記)。

220.214.229.29さん、こんにちは。ウィキ豊です。この件は上記のように故城一片之月さんと少し意見の違いが出たところです。220.214.229.29さんは現地(愛知県豊川市牛久保町)を確認したことが有りますか。牧野成勝の父古白は一色城主一色時家への逆臣波多野全慶を討った人間です。牧野家は一色城の一色家と対立する理由はあまり有りません。新牛久保城が築城されてからも一色城は残ったようですが、実質的な一色城の規模拡大と言えると思います。220.214.229.29さんは一色城を牛久保古城とする表現にどうお考えでしょうか。--ウィキ豊 2007年4月8日 (日) 02:21 (UTC)[返信]

一色城[編集]

時空の旅人氏へ。ウィキ豊です。一色城(愛知県豊川市牛久保町あたり)の記述を消すのならば、一色城について貴殿が記述すべきです。--ウィキ豊 2007年4月9日 (月) 01:49 (UTC)[返信]


牛久保城主牧野出羽守保成の謎[編集]

「三河地方の古典籍である『牛窪記』には、牛久保城主として牧野出羽守保成を大きく取り上げるが、江戸時代の寛政重修諸家譜や、越後長岡藩文書をはじめとする近世大名・譜代大名となった牧野氏の文献などには、牧野出羽守保成は、牛久保城主として登場しない。また、同じ三河地方の古典籍である『牛久保密談記』は『牛窪記』の訂正増補として著されたが、こちらは牧野保成を一色城主(牛窪城)とし、牧野民部丞(右馬允・成勝)を牛久保城の築城者かつ城主としている。」

  • 以下の記述内容は上記の文章との整合性を検討する必要がありますので本文ページより、一旦とりさげました。

逐次、編集・補正のうえ復帰させたいと思います。故城一片之月 2007年11月29日 (木) 15:09 (UTC)[返信]

  1. 第一説 牧野出羽守保成は、牧野氏の惣領権を持っていたが、牛久保城主ではなかったとする説がある。これは海軍の連合艦隊の旗艦の艦長には、大佐が就任し、艦長より格上の連合艦隊の司令長官・大将は、旗艦に乗船して艦隊の指揮を執るのと同じような意味となる。
  2. 第二説 牧野出羽守保成は、真木越中守等と共に、頑強に徳川氏(松平氏)に抵抗して、戦国大名今川氏に旧主の義理を重んじていた。このため徳川氏の天下であった江戸時代に、その譜代大名となった牧野氏が、体裁の悪さから、歴史上・家伝上から牧野出羽守を意図的に隠蔽、あるいは、関係を遠ざけようと謀ったとされる。こうした操作のため牛久保城主牧野出羽守保成は、家史から抹殺されたか、或いは秘史となり譜代大名牧野氏においては、やがて忘却されたと推察されている。
  3. 第三説 牛久保城は、その前身となる旧城(牛窪城)が併存していた時代があったとする。新城(牛久保城)と、旧城(牛窪城)主の城主を混同したり、旧城(牛窪城)の城主を、新城(牛久保城)主を含めると拡大解釈をしたため、このような混乱が起きているとする。
  4. 第一説と、第三説の折衷説

 牧野出羽守保成は、牧野氏の惣領権を持っていたが、実は新城の牛久保城の城主ではなく、その界隈となる旧城の牛窪城(牛久保古城)に居たとする。特に大聖寺が一色城であり、その後、一色長山城に移転した上で、牛窪城に改築して、さらに近隣に牛久保新城を築城していたとする説が正しいとすれば、この折衷説は有力である。

牧野出羽守保成については、牧野保成に詳しい説明がある。嫡子と思われる成元は高野山追放となった。

今回の整合性検討箇所はここまでです。意見のある方はお寄せ下さい。故城一片之月 2007年11月29日 (木) 15:09 (UTC)[返信]


  • 特に御意見も無いようなので、とりあえず前段の本文は牛久保城主の初代:牧野成勝の脚注解説に活かし、城主牧野保成の謎というタイトルは本ページでは適合的でないので今回ははずし、もし該当する内容で投稿される場合は牧野保成のページに該当項目の設置・投稿を希望いたします。よろしく。--故城一片之月 2007年12月26日 (水) 14:16 (UTC)[返信]


Gyrobesttt氏の編集について[編集]

2008年11月23日 (日) 09:41 の版より2008年11月23日 (日) 09:41の版までの利用者:Gyrobesttt氏の編集について、疑問があるので以下に示します。

1. >三河国二葉松では、牛久保村古城、牛久保村一色城と、まったく別の城として掲載されている。(2008年11月22日 (土) 10:37 の版の要約)

>出典不明のため削除。三河国二葉松では、牛久保村古城、牛久保村一色城と、まったく別の城として掲載されている。( 2008年11月22日 (土) 10:49)

反論)まず、出典不明で削除は乱暴、出典明記の請求ないしは要出典のテンプレを貼付すべきである。

出典は存在する。『牛窪密談記』に「明応二年丑ノ歳田内ヲ改メ牧野左衛門尉始テ一色ノ城ニ来リ玉フ・・・中略・・・里ノ名ヲ改ムベシトテ信心ノコラシ、奉幣ノ儀厳重ナリ。此一色トコサブヲ牛窪トゾメサレケル。」とあり。 また、「一色ノ城牛窪ニ改名ス牧野出羽守保成守護ス。」と記され、同文献は一色城が牧野古白により牛窪城に改名されたことを示唆している。よって『三河国二葉松』に異なる見解があろうとも一方的に削除されるいわれはない。

反論2)『三河國寶郡誌』(編集・発行;早川彦右衛門、明24-26)第五集の牛久保城趾の項に牛久保城趾について「牛久保字城跡ニアリ」と説明する一方、「三河國聞書ニ云享禄二年牧野出羽守保成長山の岸ト云処ニ一城ヲ築キ牛窪城ト号ス、一色城ハ同名民部丞成時住ス云々・・・」とし一色城と同じ長山の岸という場所に牛窪城があったことを指摘している(牛窪城ついて、かつて牧野成時が在城した一色城の改築・拡張という考え方である)。

また、『三河國寶郡誌』は一色城趾について「牛久保字岸組に在リ今ニ牛久保旧名ヲ一色トイヒシハ・・・」と説明し「大永二年牧野民部丞成勝、一色城ヲ改メテ牛久保城と号スト三河國聞書ニ見へタリ」とこの一色城が牛久保城(古城)になったことが紹介されている。

つまり、長山にあった一色城と牛窪城(牛久保古城)は同じ城という意味である。しかしこの万葉書きの牛久保城名が用いられたのは『牛窪記』によれば享禄二年に牛窪の本郷に新城を築いたときとされ、一色城は正しくは牛窪城(牛久保古城)であった。すなわち牛久保古城は一色城と同一の城とされている。


2.>長山は誤り。三河国二葉松で校正(2008年11月22日 (土) 10:43 )

>一色城は、牛久保村であり、本宮山のある長山村とは、まったく別である。三河国二葉松で校正。(2008年11月22日 (土) 11:00)

反論)『三河國寶郡誌』のpp1牛久保町の冒頭の説明には明治24年10月16日に成立した牛久保町の中には、中條村・牛久保村と並び下長山村が含まれる。この下長山村こそはかつての長山村であるが、本宮山を上に頂く上長山村が存在するので下長山村と区別されている。つまり本宮山のある長山村(現豊川市上長山)は別物であり、対象とすべきは下長山村なのであるから、Gyrobesttt氏の指摘は全く的外れであり、校正と称する編集は妥当ではない。


3.>三河国二葉松では、牛久保村古城として、城主に、牧野出羽守保成、牧野成元、牧野成守が記載されている。(2008年11月23日 (日) 09:41)

反論)『三河國寶郡誌』(編集・発行;早川彦右衛門、明24-26)第五集のpp22、牛久保城趾の項に「二葉松ニ云、牧野出羽守保成息田三郎成元同右馬允成守トアリ」と記述されるが城主とは明記されていない。Gyrobesttt氏は『三河国二葉松』を出典根拠としているようだが、その出典情報の詳細(収録刊本なら出版社、原史料ならば所蔵機関名などの書誌情報、そして該当個所の見出し及び頁数など)を示すべきである。

ウィキ豊です。3点のうち、1と3はほぼ同じ点でしょう。牛久保の古城と一色城は別の城であるかどうかはわたくしは不勉強であまり分かりません。そうなると牛久保には古城と一色城と新城の3つの城が有ることになります。新城はいわゆる牛久保城址でしょうが、一色城は謎でして諸説紛々状態です。大聖寺(豊川市牛久保町)が一色城ではと言う説も有りますが、確実では有りません。その上に古城が有るとするとその古城はどこに有ったのでしょうか?2は現在の地名で説明ができます。確かに本宮山の豊川市地域は豊川市上長山町ですが、ジェイアール牛久保駅の南西は豊川市下長山町です。いわゆる「牛久保のナギ」は現在の地名で言うと豊川市下長山町です。それだけでもGyrobesttt氏の2の編集は明らかなる誤りです。--ウィキ豊 2008年11月25日 (火) 00:26 (UTC)[返信]
一色城と牛窪城(古城)の関係については実際の所は今後の考古学的発掘調査の結果に委ねられるべきと存じます。しかしWikipediaでは現存の古記録・古文献とその解説本の記述の紹介で充分と思います。2城説・3城説共に相容れないのであれば、それぞれの関係記述の併記紹介でも良いはずです。でも、どちらかを一方的に削除というのは戴けません。ただ、ページの構成を考えて編集して貰えれば良いのです。--故城一片之月 2008年11月27日 (木) 15:06 (UTC)[返信]