ノート:甘糟景継

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景勝と景継の円満な関係としてのエピソードを書き込みましたが、再度児玉彰三郎著「上杉景勝」を確認しましたら、甘粕近江守への書状となってましたので、削除致しました。申し訳ありません。米沢市史より、景継の切腹記事がありましたので、加筆させて頂きました。どなたか、景継の切腹理由わかる方がいらっしゃいましたら、編集をお願い致します。--Funhouse 2008年5月19日 (月) 10:41 (UTC)[返信]


「上杉家御年譜(景勝公御年譜)」には景継の切腹についての記述(というより死去の記述そのものが)ありませんでした。「上杉編年文書」にもそれらしき記述はないようです。定勝時代になり再興されたということですが、「定勝公御年譜」で、景勝時代に改易処分となった柿崎憲家、斉藤景信、高梨頼親らの家が再興されたことは確認しましたが、甘糟家についてそのような記述はなかったような気がします。なお、甘糟信綱は景継の子ともいわれているらしいですが、景勝が死去し定勝が襲封した年(元和9年)、上洛の供奉の藩士の中にその名があり、佐竹家への使者を務めるなどしています。--Thomo 2008年6月2日 (月) 19:28 (UTC)[返信]

有難うございます。米沢市史も出典史料を明記していないので疑問に残る説ですね。 大阪冬の陣に甘糟丹後なる武将が従軍してますが、この武将がもしかして景継の跡取でしょうか。だとしたら、甘糟家断絶説は米沢市史の誤説でしょうか。--Funhouse 2008年6月3日 (火) 13:12 (UTC)[返信]


「侍組録席掌故」では、死去のことは書いてありましたが、それ以外のことはわかりませんでした。ただ、元和元年、元和九年、寛永二年の記録では、景継家の記載がないので、やはりなにかあったのだと思います。一次史料を見つけることはできませんでしたが、小野栄氏がその著書(シリーズ藩物語米沢藩)の中で「自死、理由は不詳」と述べられているらしいので、そういうことでしょうか。なお、甘糟丹後は景持の子です。--Thomo 2008年7月1日 (火) 05:19 (UTC)[返信]