ノート:発想

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記事を膨らませ[編集]

発想・理解・物事の認識の仕方の例 の 自然・文化観 に書き加えられた下記は、朝日新聞1988年1月7日の記事(琉球大学国文学教授岡本恵徳の話ほか)にはない指摘なので、記事を膨らませるためにも、出典をお願いします。

>(少なくとも1972年の沖縄返還後)

返還前の沖縄には、人びとを観光で呼び寄せるような南洋のイメージ、は存在しなかったのですか?ぜひ知りたいので、出典をお願いします。返還が契機だということが明らかになったら、記事として大きく膨らみます。

>全日空(長年、夏季に観光キャンペーンを行った)をはじめとする航空会社の宣伝などの影響も考えられる。

たしかにそれは想像できます。発想の転換が起こった現象についてよく知るためにも、調査結果などの出典を求めます。

出典が明らかになったら、記事が大きく膨らみます。Uryah 2006年11月15日 (水) 13:02 (UTC)[返信]

情報付加[編集]

発想そのものと直接関係ないかもしれませんが、2006年11月の上記やりとりに資せる情報がありましたので、ここに書きます。

『沖縄イメージを旅する 柳田國男から移住ブームまで』(著 多田治 中公新書ラクレ ISBN 978-4-12-150287-2 2008年8月10日発行)によれば、
  • 1924年に日本旅行文化協会が設立され、旅行雑誌の“元祖”『旅』が創刊されるなど、大正末期・昭和初期に旅行観光ブームがあり、その頃の大阪商船の旅行団募集にこうあるという。「日本の内地でありながら遠く南に偏在するため、独特の南洋情緒を湛えてゐる沖縄島」「琉球!内地にも、かく異国情緒豊かな処がある」(P41-43)。
  • 1935年に、朝日新聞の記者が「龍宮を連想する美しい琉球」(『南遊記』)と述べているそうだ(P49、P62)。
  • 大阪商船広報誌の昭和12年6月号にある阪神パークと水族館の広告に、「黒潮をわけ 珊瑚礁を探りて 第一回南遣部隊琉球より帰る 絵よりも美しい珍魚二千尾『南海珍魚展』」とあるという(P44,45)。
  • 1960年代には、沖縄病が急増していくという(P102)。
  • 1966年には交通公社に「沖縄エメラルド旅行」という団体ツアーがあった。戦場跡と、「海の青さとパイナップルのうまさを味わう」ツアーなのだという(P132)。
  • 1973年るるぶ創刊にみるような1970年代の観光ブームのなかで、ANA(1972年の復帰直後からの「キラキラ沖縄」キャンペーン)やJALのキャンペーンが観光客を増やし(P146)、1975年の沖縄国際海洋博覧会が輪をかけた、という(P108-127)。
  • 1990年代末には下川裕治・仲村清司・新城和博らによるブームが起こり(P22-23、P152-180)、2000年のサミットや琉球王国のグスク及び関連遺産群の世界遺産登録、2001年のテレビドラマちゅらさんがまたインパクトを与えたという(P152-180)。
  • 大正期、柳田國男をはじめとする学者やジャーナリストたちが沖縄を訪れて南洋イメージを持ったが、それはその人たちが目で見て耳で聞いて肌で感じた自然や事物に加えて、生活者たちが話した口伝や、伊波普猷や島袋源一郎など地元の郷土研究者の話によるのだという(P60-84)。
  • 沖縄在住の和歌を歌う歌人が西暦2000年代のいま、沖縄の自然を肯定的に歌うのか、葛藤をもって歌うのか、否定的に歌うのか、肯定的に歌うのならその変化はいつ頃何が理由・背景で起こったのか、については、記述はありませんでした。
『沖縄学 - ウチナーンチュ丸裸』 著 仲村清司 新潮文庫 ISBN 978-4-10-116342-0 2006年 P282-302 によれば、
  • 沖縄の人がヤマトにて沖縄の人であると胸を張って言えるようになったのは、1990年代に入ってから、だそうです。
--Uryah 2008年9月5日 (金) 10:22 (UTC) 訂正、補記 Uryah 2008年9月8日 (月) 11:38 (UTC)[返信]