ノート:空気系

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疑義への自己回答[編集]

遅くなりました。当初考えていたより多くの出典を参照する機会があったため、疑義に対する考えもさらに変わってきました。そのぶん時間もかかってすみません。めちゃくちゃ長くなります。ノートの私物化に等しいが、これからやる大型編集の前に僕の考えを書いておく必要があると思いました。何しろほぼ全部を書き直す必要があると考えたためです。

物語性の排除/関係性
ここはもともと「物語性の排除」だけだった部分を分割したものでしたが、先に述べたように宇野本で関係性と物語性は一心同体であり、この分割は良くなかった。以下この節は少し前の版[1]も含めて考えますが、もちろん分離前から良いわけではない。
まず既に指摘した通り「場所」と「ドラマツルギーの排除」が本記事では一切結びついていない(『ライトノベル研究読本』150pも『ヒットの法則』27-28pも場所の特徴のみの出典であり物語性についての言及ではない)。
ただし宇野氏の文献の中の出典にあがってないページには、木更津キャッツアイ等の作品に関して物語性とも結びつく記述はありました。まあなぜか出典にありませんし、アニメやマンガの話題ではないわけですが、氏は最終的にこれらも空気系に分類してるので、場所と物語には関係があるという立場はどうやらあるらしい。(記述の必要があるかはこれから考えます)基本的に、この節のメイン出典は宇野本であるように見えるが、氏は著書で一貫してあらゆる「物語」のことを話しており、ここに物語性の排除などという迂闊な表現は使っていない。「物語に拠らない」など、直接的でない表現はあるが、それを物語性の排除と切り捨てるのは軽率です。宇野以外の文献になら、ある。
ただし既に僕が消した「実質的に無内容」は似た表現は宇野のものにもありました。これは出典が違い『思想地図〈vol.4〉特集・想像力』319pの宇野の記事、北田暁大の定義する「繋がりの社会性」の説明で「事実上無内容」のメールをやりとりするという表現があり、その次にこれを自論と結び付け、これはアルタミラ作品にも通じる、そして空気系アニメにも通じる、という2段階以上のクッションを踏んでおり、本記事はその表現を強引に拾い出したものだと考えられる。
また予想できていましたが前島賢 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』234頁に「コミュニケーションの自己目的化」とチョココロネの関係を語る説明はない。ここは物語性について単にネガティブっぽく取れる表現をかき集めてきただけですね…いや前島本にも少し後のページにコミュニケーションの話題は出てくる(本記事に未反映)ので完全に宇野の私論というわけではないんですが、基本的には「コミュニケーションの自己目的化」は宇野氏の説ではないでしょうか。
さらにこの節に限らず漂うネガティブさについてですが、2011年ごろまでの宇野氏の文献を読む限り、氏は空気系作品をゼロ年代の表現としてもてはやし、物語の新たな可能性を見ている(過大評価している感すらある)というのが記事からまるで伝わらないのも問題です。
宇野氏は著書の中でニコ動のMADの話もしてましたが、さしづめこの箇所は宇野常寛を原作とした人力ボーカロイドのような印象です。疑義提示時点で本記事に僕が見出していた宇野常寛の実態は投稿者の二次創作であり、宇野さん(原作)と全く違うキャラクターではないが別の意思も混在しているというのが僕の考えです。
なお現行版の最後の行の「空気系アニメは途中から見ても平気」は『ヒットの法則』固有の記述と思われます。『ひだまりスケッチ』は時系列をシャッフルしていたと本書に書いてあり、作品未見ですがこれ自体はおそらく事実でしょうし、そういう一面がないとは言いませんが、後の批判論文であげられてるように舐めた記述だという印象です。シャッフル「できた理由」は書いてあるが「した理由」も考察してないし、途中から見られることと商業的ヒットの関係も著者の想像しか書いてない。
萌え系の美少女に絞ったキャラクター配置
上で教えてもらったとおり、レンザブローの出典は母性のディストピアEXTRAという有料記事に移動していました。[2](この節の出典は無料部分で半分くらい読める)。それはともかく、ポルノグラフィって表現は既に編集させてもらいましたが、これももちろん宇野さん個人の表現であり一般化していた書き方が許されていたのはおかしい(指摘自体は妥当だと思ってる)。氏のほかにこんな書き方する人いないでしょうし、氏がこういう露悪的表現をするのは空気系に限った話ではない。これを許容するとセカイ系や村上春樹の記事に「レイプ・ファンタジー」とか書くことになってたちまち編集合戦となるでしょう。この記事はそれが許されていた。舐めらてます。
また男性キャラクターがいないことは出典に書いてあるが、「性愛の対象とする男性消費者にとって不都合な存在である」とかいう露悪的表現は前島・宇野(有料部分)のどちらの出典にもありませんでした。おそらく編者の創作です。似たようなことは言ってるとは思いますが。本記事、「探せば似たようなことは言ってる、でも少し違う」が非常に多く、たいてい悪意の感じられる表現にされている。
最後に「ぼのぼのは空気系」をここに突っ込む意味もわかりません。それを言うなら宇野さん自身が男ばっかり出る実写作品を空気系に分類している。
虚構への現実の混入
実は宇野氏が『リトル・ピープルの時代』で「キャラクターの半透明性」に絡めた話題でらきすたの聖地の話をしていて、また「拡張現実」という概念について、聖地も含めた結構大き目の言及をしているんですが、本記事はその部分を一切出典として使っていない。わかりやすい要約が難しいせいですかね…。雑にまとめれば現実と虚構が混ざってるんではなく、想像力により現実が拡張されている、ということですが、その対象は空気系だけでもなく、入り組んでいる。迂闊な要約は難しいです。
さて本節の後半の出典『ヒットの法則』p99-106は、聖地に関しては思想地図vol4の黒瀬陽平の記事を参考にしているんですが、引用者が「かもしれない」「ではないか」を多用し、どうも説得力がない、引用部分を著者が理解してないんじゃないか?という雰囲気が漂います。
黒瀬の文も宇野ほど明確に書いていないが、単純に現実感があるということではなく、現実でも虚構でもある「寛容な空間」と表現している。これも現実と虚構の混入そのものにも意味を見出している、と僕は読み取れる。
それを『ヒットの法則』の著者がたぶん理解してないと僕が思うのは、楽器のくだりが単に現実感の強調になってて、混入してることそれ自体に意味を見出す論がなくなってるのと、無関係な時間経過の話も現実に近い要素として唐突に混ぜ込んでることですが。本記事はどっちかというと『ヒットの法則』に基づいた結論にしているようですが、これは単純には支持したくない表現です。
あともちろん「あずまんが大王」は聖地はほとんど知られてないです。聖地はゼロ年代後半のアニメの特徴であって空気系限定の話題でもないということも注意したいです。
いつか終わる日常
ここは現状おおむね『ヒットの法則』が出典ですね。前の節と出典ページもかぶっていますが、本書は現実に近い時間経過をサザエさんと比較して語っているのですが…普通に例外作品があることに無知なまま総論として語るのが怖いというのもあるが、それは『みなみけ』が数少ない例外作品であり、考慮しなくてもいいという可能性(独自研究)もあります(僕が『みなみけ』にこだわるのは個人的な思い入れが強いためです)。もっともサザエさんには現代と特定できる描写は避けられているという適当なことを書いてる著者がサザエさんについて真面目に考えたとは思えませんが。
さて問題となるのは本記事のセカイ系の節に書いてある小森健太朗氏の論『本格ミステリー・ワールド2012』の記事にある「時間は存在しない」という言葉です。これは文字通りに時間経過しないことを意味するわけではありません。氏はあずまんが大王・らきすた・けいおんが卒業できりをつけたことも述べている。それを含めても無時間的であるとまとめているわけです。(けいおんらきすたは大学以降は空気系と変わってるとも言ってる)
しかし氏は同時に『うる星やつら』の高校時代ループに空気系のルーツを見出しています。本当に時間経過しないみなみけとゆるゆりが入っていることも小森の論の中では何ら矛盾しないんです。
また小森健太朗と接点の少ない宇野常寛も東浩紀も無時間性について述べているのは後述の批判論文の引用箇所でもわかる通り。ここに特に食い違いは起きていない。
単に時間経過が現実的要素でありサザエさんと違うのだ、とまとめた『ヒットの法則』は安直であると言わざるを得ないし、サザエさんとの違いに意識が向きすぎていて、現実的であるという一点以外に何ら考察を与えていない。
(そもそもサザエさんは時間は流れている。正確には「年を取らない」であり人間関係は極めてゆるやかだが変化しているし、舞台もとうの昔に謎の世界観「サザエさん時空」に突入している。サザエさん時空という言葉は単なるループのことではなく、時間の経過するいびつさを表現するものです。
一方小森はサザエさんをある程度知っており、著書を離れたツイッターでの発言はサザエさんとの差異に踏み込んでいた。[3][4]これらツイートにあるが、氏も時間という概念においてサザエ型との比較を考えている。主たる空気系が無時間的でありながら時間も経過していることに思い至っている。ただ実際に完全なサザエ型の空気系があることも考慮すると…小森氏がこの点を掘り下げなかったのはある意味では間違ってなかったようにも見えます)
ところで宇野氏も著書で時間経過「する」ほうについても述べている。むしろゼロ年代作品の特徴としてかなり重視していたんですが、それを空気系アニメに限定した話題で見るとあずまんが大王という一作品が高橋留美子的なループに陥らず終わった件を書いてあるのみで、本記事の出典として使うのは難しいかと思われます。
(宇野がサザエさんとの比較、みなみけ等への言及をしていないのは単に彼がそんなにアニメばっかり見てなく作品に疎い可能性が指摘できるが、現役で放送されているサザエさんもまさにゼロ年代の作品そのものであり、単純に論じられないことくらいは言われずとも承知であろうと思う)
もうひとつの出典「今期の「お仕事系アニメ」を120%楽しむために「セカイ系」「空気系」を総括してみた」[5]ですが、宇野の本の引用が奇妙でした。引用先が僕の読んでない文庫版ですが、宇野定義の「新教養主義」(正確には別の文献のタイトルから宇野が定義を作った)は空気系の学園ものを対象とした言及ではありません。
まず氏はあずまきよひこが空気系のあずまんが大王から新教養主義のよつばとに移行したという話をしており、新教養主義と「時間経過する空気系アニメ(宇野はアニメについてはろくに語っていないが、アニメ以外の類似物では時間経過について語っている)」を同一視するライターの論理はズレています。しかも原文の世界をセカイとカタカナに勝手に置き換えている(文庫版でカタカナに変わったという可能性もあるが、たぶんないでしょうね)。宇野の論と一部一致している著者の意見を、宇野も同じ意見であるように見せかけているといった感じです。
空気系においても時間経過性は興味深い特徴だと僕は思うのですが、それをまともに論じた出典がさっぱり見当たらないため…これが偶然まともな人が書いてないからウィキ的に書きづらいだけという感じだが…、共通の特徴として述べられる段階になく、本記事としても論じなくていいというのが僕の結論です。
空気系という論説への批判
広瀬、禧美らの批判論文についても私見を述べておくと、彼らはいろんな論者をごっちゃにしているが、実質の対象は氷川・東・『ヒットの法則』等で、宇野は微妙、小森はとばっちり。しかし氷川・東はどうも空気系というジャンル分類をしていないし、対象の発言自体も2009年と古い。しかしそれより問題なのは、反論がけいおんの作品擁護に終始しており、他の空気系作品に全く言及しておらず、ジャンルへの総論になっていない。それどころかけいおん以外は『ヒットの法則』の言う通りペラペラだぜ!と言ってるようにさえ取れる。
空気系と言う雑なジャンル分けにあてはめて考えるのはやめろという意見自体は完全に同意だが、そのような雑なジャンル分け、定型化を行っているのは『ヒットの法則』と本記事のような一部の媒体ではないのか。
最後の行の宇野さんの物語性についての原文は読んでないが、このようなレッテル貼りと一緒くたにことにされてることに腹立ててるんじゃないですか…?
広義の空気系/メタ空気系
僕が読んだ範囲では「広義の空気系」なんて言葉はなかった。唯一レンザブローの記事は萌え4コマをベースに、ウォーターボーイズを従属させる順序で書いているが、説明を端折ってウォーターボーイズを単に空気系と書いている部分がありました。これをもしかしたら広義の空気系と呼んでる文献があった可能性は否定できませんが出典にないので知らない。
宇野はウォーターボーイズとアニメは相互影響はないだろうと書いているが作品表現の上では同格に扱ってるわけです。
で、彼の言うメタ空気系というのは空気系への批評性を含んだ作品のことでしたが、この「空気系」というのが本記事でいうところの「広義の空気系」という表現で分類したウォーターボーイズなわけで、別に木更津キャッツアイがらきすた批評をしてるという意味ではない。
なお『仮面ライダー555』と『Angel Beats!』をメタ空気系にしている資料は参照できませんでした。連載をまとめた(らしい)「母性のディストピア」に改稿されて収録されているかもしれない。されてないかもしれない。
空気系アニメとアニメビジネスとの関係
既に述べた通り出典が自己矛盾してる節です。消します。
他の作品類型との関係
正直これらも編者の見つけた私論の寄せ集めと言う感じですし、対比こそされても、まったく類似してない作品もあるようですが…
セカイ系
これだけは難しいのでもう少し考えてみます。比較している言及している資料は実際多いが本記事で述べるように対蹠であるかは、微妙。
バトルロワイヤル系
これはダメです。宇野の言う「バトルロワイアル」は独自定義のものであり(だって『DEATH NOTE』をバトルロワイアルに分類してる人なんかほとんどいないでしょう)、その対象は創作物にすらとどまらず、宇野の『ゼロ年代の想像力』一冊の半分くらい費やして解説している極めて重要な言葉ですが単純なデスゲームなんかのことではないです。
宇野の論として紹介するにとどめ、そこから空気系と関係ある部分だけ切り出す方法があるかは、考えてみますが、あんまりいらないイメージ。
ハーレムもの
既に消しましたが、この節の主出典『ヒットの法則』自体がおかしかったうえ、さらに変な抜き出しを重ねていた箇所です。実際ハーレムものにも日常系的な作品はあるとは思いますが、僕の編集で別の出典だけが残り「あるから何だ」という記述になってしまいました。残す必要があるか意見がありましたら。
ループもの
出典未参照で言わせてもらいますと、書いてあること自体はそう外れてない気がしますが、本記事の宇野関係の出典は架空の宇野の発言でないかという疑念がぬぐい切れない…
泣きゲー
出典『ノベルゲームのシナリオ作成技法』を読んでないが、これはどう見ても空気系と無関係な文献に見える。空気系について語っている文献で語られた定義にとどめるべきでは。
次の出典『ヒットの法則』は日常系の起源のひとつとして氷川らの言及をひいて『To Heart』とそこから派生した泣きゲーについて述べている。この出典での言及度で言うなら「To Heartの流れを汲んだ作品」のほうはあんまり関係ない気がしますが…
ところで記事にないが宇野の文献を用いれば『AIR』は関係ある。宇野はAIRを(宇野定義の)セカイ系とみなしており、大変露悪的な表現を用いて論評してますが、これが空気系の要素を持ったセカイ系作品と宇野が評する涼宮ハルヒに直結する話題でもある。本記事に反映されてない理由は知りません。
『このライトノベルがすごい! 2009』が『生徒会の一存』を泣きゲーとして説明していたのかも知りません。してないんじゃないでしょうか。
百合
出典が宇野の記事のみですが、原文はBLも含んだ言及というか、これむしろ百合ジャンルを指した言及じゃないですよ。もちろん『マジすか学園』の二次創作について熱弁する宇野の文の要約にも全然なってない。書き直してもいいけど跡形もなく消してしまいたいです。
もっと直接的に『ゆるゆり』について言及してる出典がないものか。
日常の謎
原文はアニメ『日常』の批判と併記している。珍しい言及ではあるがこの節自体はそう間違ってはいないようです。ただしこれも小森の私論に過ぎません。
そのほか
宇野常寛は空気系の定義者ではなかった。空気系と分類されている作品群がおそらくネットのどこかに先にあり、宇野の言及はそれを自論と結び付けて解釈する(再定義ともいえる)ものでした。と同時に、宇野は多様なジャンルを全部同列に論じているため、非常に要約しにくい。空気系について触れていない箇所にも明らかに関係あると思える記述もあるし(思えるだけなのでウィキペディアのルールに従う限りは使いにくい)、空気系について触れている部分が他の作品に向けられていることもある。しかも、宇野は空気系アニメに肯定的なくせにジャンルそのものはそれほど詳しくもない印象です。空気系類似ドラマには詳しい。
前島の著書には空気系の定義はセカイ系ほど混乱がないと書かれている。はっきり言うと僕も2010年の時点であればそれは正しい印象だったろうと考えるが、特に入り組んだ宇野常寛の再解釈・私論などを強引に要約して歪めた本記事によってそれを異常に難しいものにしてしまっていたのではないでしょうか。
空気系と日常系は同義
空気系という言葉がほぼ日常系と同義であることはどうやら間違いないが、その理由自体出典を羅列するだけでなく、節を分けて記事に詳しく書くべきではないのでしょうか。
過去の議論の中にあった二次資料についての理解は異なる。日常系を自称する作品が存在することは、その作品においては自己言及ですが、何者が定義したかわからない日常系というジャンル側から見ればそれは誰かわからんジャンル分類者と無関係なアニメ制作者による二次的な言及です。評論家ですらない何かの中にあった謎のジャンルを、アニメという第三者が承認してきていることを意味する。
むしろ評論家こそが定義者=一次資料に近い可能性があり、それをそのまま載せているほうがアウト寄りです。空気系の提唱者がよくわからないことでそれは回避されていると解釈しますが。
そうでなくても日常系を自称する作品が現にあるため、制作側が自称するものではないと書くのはルールと関係なく単純に事実に反しているので書かないほうがいいです。
記事の今後
今のうちに述べておきますが僕もやはり記事改名を提案することを考え始めている。少なくとも空気系という語を優先すべき理由は出典からは見つからなかった。
ただ、それは記事を改訂したのことです。改訂後もまだいくつか参照すべき文献もあると考えている。

独自研究をつけてから3週間以上経っていますので、現状が独自研究であること自体には異論がなかったものと考えます。--Higasikatatom会話2018年11月17日 (土) 14:38 (UTC)[返信]

コメント[編集]

コメント 長文ですので節を分けました。 内容の精査・整理ありがとうございます。特に宇野の言説については腑に落ちない部分がありましたが、上記のご説明で個人的にはかなりスッキリしました。 各節で気づいた点について

いつか終わる日常
この観点での論説は、かなり根本部分の問題としてそもそも「空気系」のジャンル定義をアニメ作品に限定するのか、それとも原作も定義に含めるのか、そこが曖昧なまま各論者の認識が混乱しているようにみえます。小森2011等で示されている原義どおり「空気系」の定義をアニメ作品に限定するなら『らき☆すた』では卒業は描かれていないはずですし、逆に原作も含めて分析するのなら『サザエさん』は連載初期の段階で主人公サザエの学生時代からお見合い、結婚、出産、専業主婦生活という境遇の変化が描かれており、アニメ版を前提とした論旨とは食い違うことになり整合性がとれません。
後年の同作や長期連載の他作品にみられるいわゆるサザエさん時空の採用にしても、それは編集サイドの意向や連載スパンとの兼ね合いが大きいはずですし、対象をアニメ作品に限定するなら基本設定は単に原作の設定を踏襲しているだけなので、それを物語性とかジャンル分析に直結させることに無理があると思います。一見ループしているだけに見える4コマ連載作品でも、人間関係や時代描写などは進歩していっているという点についてもご指摘の通りで、単純な時間経過に依拠した切り分け方は明らかに無理があります。
ちびまる子ちゃん』のように一見ループもののようでも設定時代が特定の年代に固定されている作品(1年間の出来事を時系列でなく複数年に渡って季節ごとに順不同で描いているような作品)との区別も考慮された形跡がありません。
空気系という論説への批判
広瀬と禧美が『けいおん!』という単一作品を取り上げていることについては、複数の空気系論者から同作が空気系の代表的作品であると明言されていること、なおかつ物語の内容について専門家からの解釈や評価が定まっており解釈論に陥る懸念が少ないという点で、同作を空気系論への反証に選んだことには十分な合理性があると思います。広瀬の方は『けいおん!』の扱い自体に傾注しているように見えますが、禧美の方はそれを土台にしつつ「空気系」のジャンル規定全般に対する疑義へと帰着する批評内容となっています。禧美の序盤の記述は空気系論者の言説を一旦反芻しているだけであってそれ(空気系作品全般に対する視線)を肯定しているわけではなく、3章(p86)以降から持論の展開に踏み込む構成になっているので、前者は著者の持論とは区別して読む必要があると思います。広瀬、禧美の主張の強みは、例証に用いた『けいおん!』が空気系の代表作品とされているため「その作品は例外だから」という逃げが打てないという点にあるわけで、特に禧美はその点認識した上でこれを単一作品だけの分析ではなく空気系の概念全体への反証と捉える意図が強いように思います。
広瀬、禧美の批判は宇野の論説との関連性が薄いというご指摘には同意です。両者は宇野の名前を大きく扱った上で空気系論への反証を展開していますが、物語性の排除という論点でいえば実は宇野の主張は大きな矛盾がないようにも見えます。むしろ「コミュニケーションの自己目的化」という見方は同作のアニメ脚本の吉田玲子やアニメ評論家の小黒祐一郎が明言している表現意図(日常的な仲間内での青春譚を緻密なリアリティバランスで描くというコンセプト)と合致していますし、そこは広瀬たちの争点でもないので、できればそこの誤解のない記述ができれば理想ですが、広瀬、禧美の論説にそこまでカバーするだけの広がりが不足しているというのはあると思います。
広瀬は萌えコンテンツという観点での宇野に対する批判にかなりの紙面を割いていますが、この部分に関していえば、広瀬の言説はやや的外れで注意が必要かと思います。当該箇所で引用されている宇野の論述は萌え四コマ作品に対するものと思われますが、広瀬はそれをそのままアニメの話と混同して批判してしまって、錯綜しているように見えます。同作の原作は主に男性ファン向けである芳文社の萌え系四コマ作品(なので宇野の分析は正しい)であるのに対して、アニメの方はコンセプトが異なりむしろ過度にセクシャルな表現を抑えたことで幅広く支持されたとする評価が支配的であり、この観点での分析対象としては同作は不向きだった(にもかかわらず広瀬は原作側への宇野の言説や原作準拠のキャラ設定をそのままアニメ版の分析と混同してしまっている)と考えられます。
本節末尾の宇野の記述は他の編集者の方が加筆されたものなので私は出典の内容を確認していないのですが、広瀬、禧美への反論ではないはずなので、本来はここに書くにはそぐわないと思います。むしろ他の空気系論者との大きな相違点として定義節などで明記するほうが相応しいようにも思います。
他の作品類型との関係
「セカイ系」の説明の中に「『けいおん!』はセカイ系の図式において〜」という記述がありますが、この部分は出典の方でおそらく話が噛み合っていません。出典『思想地図 Vol.4』中の「山本 (略)『うわっ、近っ!』ていう(笑)。/ 東 (略)中景がないだけでなく、もはや遠景もない。近景のみ。」というやりとりの箇所を指した記述と思われますが、おそらく山本は画面のレイアウトのことを(本作で特に顕著な山田監督のコンテの特徴を批判的に)指摘していて、それに対して東は物語構成の話と勘違いして別の話を始めているように読めます。『らき☆すた』(当初の)アニメ監督が自分の作品を棚に上げて今さらそのような作劇法に驚くのは不自然すぎるので、そう解釈するのが自然だろうと思います。セカイ系との関係を整理しないとここだけ弄ってもあまり意味はないので過去の編集時にはここは放置しています。

(その他の節について)

ブームの先
この節は数年前に2011年前後の出典を元に書かれたもので、今となっては維持する必要性は薄いように思います。2011年当時の予想に対して現在までの状況がどう推移したかを考察した情報があれば有意な記述になる可能性はありますが、2011年以降の出典が(そもそも「空気系」論に批判的な)広瀬、禧美以外無いので、現状では有意な加筆は難しいかと思います。
発生・流行までの経緯
『けいおん!』関連の記述については私が数年前に「ブームの先」節から切り離して加筆したものです。2011年末公開の同映画版の興行成績などの記述が2011年以前の出典(同映画が公開される以前の出典)からの記述と合成されて書かれていたので正確性の観点から整理し直すのが主要目的でしたが、その際に空気系の定義にも関わりそうな作品説明を加筆しました。広瀬、禧美の出典はもともと同映画が空気系作品に含まれることを担保するための出典(映画公開後である2011年末以降の出典)として探してきたものです。
その際に記述が『けいおん!』1作品に偏るとバランスが悪いと考えて『ゆるゆり』の記述も加えました。空気系の作品として明確な出典があり、なおかつ受賞歴などの著名性がある作品を選んだだけで、特に百合ジャンルについて言及する意図は当初ありませんでしたが、後年にファン層の推移についての言及を加えました。もしも空気系のジャンル分析の対象として原作漫画も含める場合には、芳文社の4コマ専門誌と百合作品では男性登場キャラが少ないということの意味が全く異なるので、一応客観的事実として書ける範囲で情報を補足する意図もあります。
節名は過去に改稿した際に変更したかったのですが、文章改稿の合意を優先したかったので改定の提案から省いてそれっきりになっています。
それ以前の記述の信憑性は判断つきませんので特に手を入れていません。もしアニメに詳しい専門家による出典があればドラマツルギーよりも日常芝居に振った作品系譜として『かみちゅ!』や『魔法のスターマジカルエミ』(『かみちゅ』の作品評や『苺ましまろ』の佐藤監督のインタビューなどでも名前が挙がる)などはマストで名前が挙がるはずですが、どうやら小黒の批評記事では「空気系」という単語そのものへの言及は無さそうなので(個別作品ごとの説明という体裁なら書けなくはないですが)手を入れにくいです。本来はアニメ作品の人気要因を分析するなら作画・演出面の評価も外せないはずで、特に『らき☆すた』などは作画への反響を抜きにして人気の原因を分析しようがないはずですが、現行の記事では各作品のアニメ技術的評価についてはほとんど言及がない状態です。 
本節も不都合があれば適宜弄っていただければと思います。

全体として、宇野の言説の強みとしては、「空気系」の用語に縛られていないことと、受け手側の視点に軸足を据えていてブレが少ないというのはあると思います。他の論者は作り手側の論理なのか受け手側の評価の分析なのか判然としないままに視点が入り混じっていることに加えて、作り手側の専門的な技術論や業界事情にあまり詳しくない論者が多いのではないかと思います(宇野の主張はそちらに主眼を置いてないのでそれが必要無い)。宇野の論説をなぞるのが記述の精度を高めるには一番無難だとは思う反面、それだとおそらく典型的な「空気系」という概念からは遠ざかったものになるかなとも思います。

記事の改名については、以前他の方から似たような改名提案があったときには「空気系」からのリダイレクトも削除して「空気系」という単語の痕跡を抹消したいという趣旨の提案だったので反対しましたが、「空気系」から「日常系」への単純な改名とかであればある程度根拠になりそうな材料があれば差し支えないと思います。--ディー・エム会話2018年11月18日 (日) 10:29 (UTC)[返信]

コメント
一応『ヒットの法則』はちびまる子ちゃんにも言及していたことを書いておきます。こっちは超時空作品ではないですが、本書は「現在」にも意味を求めている。聖地性についてはサザエさんと同様に評価しています(どちらも地名は実在だが風景はそんなに再現してない)。
>広瀬はそれをそのままアニメの話と混同して批判してしまって、錯綜しているように見えます。
これは僕の書き方が悪かった気がする。どの論者も漫画とアニメをいっしょくたに考えているようなので、僕もいっしょくたにしていましたが、宇野はその中でけいおん原作ついては4コマである以外の言及を全くしておらず、セクシャル表現をアニメ化で抑えたことについて何も述べていない。おそらくアニメ版の話でしょう。宇野のいうポルノグラフィの範囲が広すぎる(はっきり言えば単なる「萌え」と同じなのだが、定義をあやふやなままにしないで悪しざまに言い換えてるのだと思う)ことなど、宇野の論の問題はもちろん沢山あります。ただ宇野が女性視聴者をあまり想定してないというのは、そうっぽいが、けいおん見る女子が萌え要素(つまり宇野の言うポルノ)を切り離してもいないだろうという言い訳も可能です(独自研究)。
不完全ですが、一度ここで改訂を行いました。手つかずの広瀬・禧美以降の記述もまだ改訂するつもりです。『ヒットの法則』の関わる部分についてはいったん全部切らせてもらいましたが、あらためて言及しなおすべきか考えている最中です。あれは「無知な著者の私論を書いただけの質の低いけいおん便乗本」だと僕は位置付けているが、まず確認した限り本記事に出てくるのは全部各論者の私論であり、評価という点では広瀬と禧美がこれらを引用していることで等しい評価はされていると思える。客観的におかしい記述ならば省くべきだが(著者が無知であることを僕は客観的に言える)、主観がおかしいことは証明できず、低評価してる僕がおかしいだけかもしれない…
前島はシンプルで一般性のある定義を述べているようでした。ただし前島の本だけなら立項するほどの内容ではない。初版は前島と宇野のミックスでしたが、これを分離し、また誤解を招きそうな表現も避けて構成しました。もっとも発表順だと宇野前島小森の順なんですけどね…
小森の5つの条件については、全部抜き出すことに僕が気が引けたのと、その次の行に書いてあった小森自身のまとめで意味が代用できると考えたので、省略しました。しかし小森条件「不幸がないこと」が抜けている気もするので書き直してもかまいません。
宇野については完全に言い訳を書いておきますが、入り組んだ文の要約は僕にはできませんでした。恣意的な抜き出しはしたくないが、宇野さんの言ってること全部書くわけにもいきません。なので要約というより(ただし出典は思想地図に絞った)、宇野論と矛盾していない程度のものを目指したものとなっています。以前の記事と違い、宇野の私論として分離できたことと、ネガティブな雰囲気は変わったものと考えていますが、僕のまとめも相変わらず何か重要な部分を飛ばしているかもしれないし、内容が歪んでいるかも、ポジティブ方面に恣意的になっている可能性は全く消えていません。前よりはいいだろうと僕が思えるだけです…。僕がやったことが適切であるか、この実際に出典を見て評価してもらうしかないですが、論を分離したことで、異論のある方による改訂はしやすい構成にはなっているとは思います…
宇野関係で飛ばした自覚がある内容としては、主に母性のディストピアEXTRA第5回にある「百合(ただし宇野は二次創作に限定した話をしている)」「聖地」「無時間性」。また第4回の「ウォーターボーイズはホモソーシャルだが後継作品はそうでもなく、だからそこまでヒットしてない」という説と、実写作品を主対象にした「メタ空気系」についての説明。それから『リトル・ピープルの時代』にある「バトルロワイアル(宇野定義)と空気系の対比」もカットしました。
迷ったのは、宇野の空気系論は2008年から2011年でだいたい安定していたんですが、その中で「ポルノグラフィ」という言い方(実際は「かわいい女子がたくさん出る」程度の意のように見える)に対する評価は揺らぎが見えたことです。ここが広瀬の批判と関係がある部分なんですが、らきすたとあずまんが大王のみが対象の『ゼロ年代の』(2008年)時点ではこの方向性自体はセカイ系と同じ「レイプ・ファンタジー」とみなしてあまり良い評価をしてるように見えないのですが、2009年の思想地図では表現が軟化し、2011年になるとホモソーシャル方面でも実写作品との共通点を見出したことで肯定的に転じている、ように見える。作品の原因が広義のポルノであるという立場は変えてないが、結果部分に心境の変化があるように見えた。
セカイ系
比較して述べている文献はかなり多いが、対蹠という表現は適切でないと考えています。まずセカイ系の定義自体が不安定で、対義であることも判断不能ではないのか。
セカイ系についての宇野の論は長いので空気系と比べてる部分だけ簡単に述べると、セカイ系の流行りはもう過ぎたとし、ハルヒはセカイ系だが脱セカイ系でもあり、日常に魅力を見出している、空気系の要素を取り込んだ作品である。時代の変遷による対比関係は取れてる感じなんですが、それは古いか新しいかという宇野の気持ちの上での対立のようです。
小森はセカイ系論『社会は存在しない』に対し『本格ミステリー・ワールド2012』で「時間は存在しない」と返したが、そこでセカイ系に書いていることはこれで全部でした。
前島はセカイ系の衰退に代わる新たなジャンルのひとつとして紹介しているのと、単に京都アニメーションという関連性からで、やはり対立関係ではない。あとセカイ系の流れに合流する『ToHeart』が空気系の前身であるという見解を載せているが、これ自体はセカイ系ではないですね。
「ヒットの法則」は、前島の本を読みながら「セカイ系は内容が難しいので現代の視聴者は疲れちゃって簡単な日常系に逃げた」(雑な要約)というすげえ雑な対立関係を作り出していました。まあ「難しさ」も対立ではありますがね…
珍しくはっきり対極としているのが『ライトノベル研究読本』p150で「ある意味対極」としています。セカイ系は「日常と異常の二項対立」であるのに対し、日常系は「ミニマムで等身大の世界」。
全体的には関連づけている論者は多い(記事に書く必要性は高い)が、明確な対称性は僕には見えませんでした。
正直「遠景がないのが日常系(原文の対象はけいおん)」は比較的僕にもわかりやすい対比だったんですが、なんか噛み合わないと思ったら映像の話とごっちゃになってたんですね…。
歴史関係
どの資料でも『あずまんが大王』はほぼ確実に言及しているんですが、その前史は論者によりかなりバラバラです。現状は前島のToHeart説をベースにしているが、エヴァンゲリオン(セカイ系)からToHeartへの流れが現記事では接続されていない(消したい)。これは前島の本でもあまりつながってないためです。そもそも前島さんは別に空気系論者ではないのでそんな細かく書いてない。ToHeart自体は書いてもいい気はするが、前島は萌え文化においてエヴァの影響を過大評価している記述があり、この人の説を代表にしていいんでしょうか。
(どういうわけか、あずまきよひこがToHeartを含むアニメの二次作品出身であることは誰も言及していませんでした)
宇野はあずまんが大王と高橋留美子作品との類似を挙げ、小森も空気系の原型を『うる星やつら』に見出しているが、両者とも作品同士の影響は詳しく論じてはいない。ToHeartに無言及という共通点もありました。
唯一「ヒットの法則」がToHeartのほかにセーラームーンという、ちゃんと論じれば興味深いものを挙げていますが、知識の浅さを露呈しラブひなを組み込むことで信憑性をガタガタにしていました。
また「ヒットの法則」の言う通り、あずまんが大王かららきすた(アニメ)の間の作品があまり話題にならないのも気になるんですが、本書はあずまんが大王の日常系要素が評価されていることを作り手が理解してなかったから作られなかったのだろうと驚異的な判断力で即座に切り捨てるのみでした。実際は歴史を語る人がいないだけで何かあると思います。
2012年以降の作品については宇野が著書『母性のディストピア』に書いてるかもしれませんが、宇野の日常系(空気系の使用をやめたらしい)が本記事で使えるものかは読んでみないとわからない。
全体的には歴史を俯瞰するのは苦手なのであまり手をつけたくないです。--Higasikatatom会話2018年11月24日 (土) 15:40 (UTC)[返信]
日常系について
また宇野の話になりますが、彼は2011年のレンザブローの記事でわざとらしくwikipedia本記事を引用しているんですが、本記事は初版の時点で宇野の影響下にあり、宇野自身の説は2008年から2011年で大きくは変わっておらず、本記事から何らかのフィードバックが起きた様子はない。
しかし個人的に唯一宇野が本記事を参考にしたと思えるのが「空気系と日常系は同じ」という見解です。この出典は前島でしたが、過去の議論でリンクされてる2006年から2008年あたりの話を読む限り本来は区別されていたようです。前島が同一視した理由は本に書かれていないが大して細かく言及しているわけでもないので、「だいたいいっしょ(微妙に違う)」という含みを前島が残していた可能性は否定できない。
2011年の『リトル・ピープルの時代』から宇野は「日常系」を併記し始める。順番に見る限り、宇野が空気系のほうを選んだ理由として単に「日常系」という言葉を知らなかった可能性があるが、前島の本は参考文献に挙げていない。じゃあ日常系という言葉を宇野にもたらしたものとして有力なのは本記事じゃないのか。
さらに後の文になると宇野自身が日常系のほうを主にしてるらしい。これとか[6]
『ライトノベル研究序説』でも既に同一視してますので断言はできませんが、違うものを同じにしてしまった決定打が本記事の可能性があることは指摘しておきます。--Higasikatatom会話2018年11月25日 (日) 15:25 (UTC)[返信]

一週間以上かかりましたが僕の編集をいったんここで終了します。いくつか改善したと思うものの全面的に良くなったという意識もありません…。またどんどん改訂してもらえればよいと思います。特に、既に書いてきた通り「ヒットの法則」の内容を削ってきましたが、残したほうがいい記述はあるでしょうか… 歴史関係は、あずまんが大王の周辺だけ多めに直しました。やはりここも出典の前島の本にない妙な表現が見られた。ただ改訂というか、歴史としてまとめた評論が「ヒットの法則」以外にないなら丸ごと削っていい気がしますが…「代表的作品」という節名に変更したのは年表のようにまとめた出典がないことによるが、これはこれで違う気もする。--Higasikatatom会話2018年12月1日 (土) 06:27 (UTC)[返信]

コメント 『このライトノベルがすごい!2009』を持っているのですが、生徒会の一存については泣きゲーやゲームとしての文脈としては語られていませんでした。「よくある話として大事件が起こって日常を取り戻そうとする」ということです。取り戻した日常はラストに2、3ページ程度のちょっとした長さしかなかったりするので、それを作者の葵せきなが逆転させて日常をちゃん書きたかったとのこと。その部分は葵の発言です。内容からして泣きゲーと関連付けるのではなく別の場所に書くことかなと。--主水会話2019年10月1日 (火) 14:22 (UTC)[返信]

空気系か日常系か・2[編集]

改名提案を出すかもしれないと書いたことについて。空気系は評論の中で使われている言葉であることは了解しており、それ自体は肯定しますが、やはり改名が適切かもしれないとも考えています。

空気系論の中で空気系と言う言葉を使う理由、「なぜ空気と称するのか」という理由を述べているものがいなかったことが一つ目の理由。少なくとも前島・小森・宇野・広瀬・禧美(あとヒットの法則、ライトノベル研究序説)は書いていない。出典『オタク語事典2』があるように、何が空気なのか書いてる人も探せばいるんでしょうが、現状本記事において主だった論者とみなされている人たちは書いてない。むしろこの大半が「日常」という語と結び付けた説明をしている。日常的な舞台や話題を扱う作品なのですから、日常系なら言葉通りですが、空気系には名前の由来が必要だと思われるのに、ない。宇野・前島ら空気系と日常系を区別していない論者については「らきすたとかあずまんがみたいなやつ」に対するカテゴリ名としてちょうどいいネット用語を使っていただけであろうと考えます(※ツイッターの発言を見る限り小森は空気系と日常系の区別を保っている可能性がある)。上記でリンクされていた発祥ブログの定義[7]についても、空気系の定義を論じる人たちにおいて、定義1はなんとなくの一致を見るが、2はそうでもない。空気系の論者はいずれもソリッドなキャラクターのほうを重視しており、そこから生じる空気みたいな言い方はあまりせず、単に日常と(結構乱暴に)表現している評論が多い。

ふたつめが一次資料についての扱いについて。これは既に記事に反映しましたが、作品側のジャンル自称は本記事においては一次資料だとはみなせないのではないでしょうか。評論側では空気系を使っている人のほうが数が多いようですが、作品側の自称は完全に日常系のほうが優勢です。「新日常系」の話ですが、それを定義する発言は一次資料であるが、「日常系」という既存ジャンルに対し「新日常系という言葉が発生した事実そのもの」は二次資料となる(記事に書くほど重要な二次資料かは別問題)。この認識で良いはず。

また記事名を変えることでサザエさんなどを含んでしまう混乱がないのかという指摘ですが、空気系だろうと日常系だろうと宇野常寛が実写ドラマをねじこんできてますので誤解も何もあったものではない。基本的には「女の子がいっぱいでてくるマンガやアニメ(ラノベ)」という時点でサザエさんも実写ドラマも弾かれているが、含める人がいたら含めるし、定義がない言葉なんですから含めない人が同時にいることも矛盾ではない。含める派と含めない派のどっちが強いかの問題です。

最後の理由ですが、過去の議論においての発言

>「空気系」はこのジャンルに対するネガティブなニュアンスを含むので、自虐的な文脈でない限り、公式に自称する作品は少ないと思います。

このような認識を編者が持ってる時点で十分改名に値すると考えられますが、なぜ見過ごされているのかわからない。これはルール以前の問題で拒否すべき理由として十分すぎます。もしこの認識が共有されているのなら「改名できないならこの記事自体いらない」という立場も否定できないと僕は考える。これは僕自身の感想でもある。何年も前に『みなみけ』を空気系に分類されて内心イラっとしていたときから僕の引っかかりは始まっている。これはwikipedia編者による『みなみけ』批判にも等しい。

しかし。

>ただ、元々の由来が第三者によるレッテルであっても、

そうではない。他の人はともかく宇野も小森も空気系にネガティブなニュアンスなど与えていなかった。いや宇野はひどい表現はしてるが明確な肯定と入り混じっている。宇野より前のネットの誰かならわかりませんが、それは本記事として関知することではないし、宇野も小森も定型にあてはめて作品を貶めるような表現はしていない。むしろレッテルとして使ってるのは肯定的な文献であるはずのヒットの法則のほうで、「日常系」のほうでした。けっきょくネガティブであるかどうかは書き手と読み手の気持ちが反映されているだけであり、記事がそれを解消しない限り記事名は大して重要ではない。それは何とかできたと思っていますし、どっちかというと改名したほうがいいんじゃないかなあって程度の意見です。まだちゃんと提案として出すかどうかも決めていません。

もっとも、空気系を自称する作品が全然存在しない理由は実際にネガティブと思われてるせいもたぶんあります。それこそ本記事のせいだと思います。

上に書きましたがどうも本記事のメインキャラクターである宇野が空気系を日常系と呼び変えているらしい。死語化はしてないかもしれないが、宇野自身は死語に追いやろうとしている可能性がある。そこには本記事の存在も意識されてないとは言い切れず、何らかの意図があると思われる。今まで空気系を維持してきた理由のひとつは初版の時点から宇野常寛のような主たる論者が使ってきたからということがありますが、じゃあ日常系のがいいってことじゃないかと思うんですが、これはいずれ宇野の本を読んでみて考えます。しばらくは読む予定がないので僕から提案することもありませんが、誰かが提案したら反対はしないものです。--Higasikatatom会話) 2018年12月1日 (土) 06:27 (UTC) もうひとつ書いていて思ったことですが、確かに空気系・日常系という語は複数の評論家が使っていますが、これらの言葉をメインで論じた文献が「ヒットの法則」というしょうもない本しか見当たらない、他のまともっぽい評論も実態は既存のネット用語をなんとなく紹介しているという程度であり、セカイ系と比べると重要な言葉と見なされていないように思えます。今まで特筆性があるとされてきたが、この程度で本当に特筆性があると認めていいのかという気持ちも多少。あるいは「日常の謎」のようにもっとささやかな記事のほうがいいのかも。--Higasikatatom会話2018年12月1日 (土) 06:56 (UTC)[返信]

コメント 引き続き記事の加筆、推敲ありがとうございます。
(改名の判断材料について)「日常系」と「空気系」の両用語の使用状況の判断根拠として「作品側のジャンル自称」を考慮に加えることには反対です。たとえば『小林さんちのメイドラゴン』の「人外系日常コメディ」といったジャンル表記は「日常系」と表記してしないから考慮外なのか、もし仮に「日常系人外コメディ」だったらジャンルに含めるのか、そもそもそのような作品内容とは無関係な表面的要素で作品区分やジャンルの定義を判断することに妥当性があるのかどうか、それを二次資料の根拠無しに判断するということは(どの作品の自称ジャンル名を記事名の参考にすべきか記事編集者が恣意的に独自判断することになるので)「Wikipedia:独自研究は載せない」との兼ねあいで問題が大きいと思います(「既存の用語に新たな定義を与える」に抵触)。
ただ単に作品広報の文言に「日常系」という字面上の表記が含まれているというだけで『おはようとおやすみとそのあとに』の「日常系BL」や、『踏切時間』の「日常系オムニバス」といった自称「日常系」の作品群をすべて一律に「日常系」ないし「空気系」のカテゴリに分類することが妥当なのかどうか、少なくとも今のところそのようなジャンル区分の方法を採用している専門書誌はひとつも無いわけですから、それを作品分類の判断基準として何かしらウィキペディア記事編集の判断材料として採用することは避ける必要があろうかと思います。
「空気系」という用語がネガティブなニュアンスを含むかどうかという点についても、それはその論評の内容や質の問題であって、用語選択の直接的な判断材料にはならないでしょう。
「空気系」の名前の由来について明示が無いというのも、直接には用語の選択には関係が無いと思います。それを重要な説明要素と考えて自説の中で述べるかどうかは各論者の考え方次第ですから、その説明がないのであれば「用語の由来については言及されていない」という事実をそのまま記事に書けばよいだけですし、もしもそのことをもって「空気系」のジャンル規定が不備だと主張する専門家がいるのであれば、そのような批判が存在することを記事で説明すれば良いだけのことなので。
『サザエさん』を含むかどうかもそもそも現状の定義が説明不足で曖昧すぎますし、それもどちらでも良い話で。前島らは空気系の端緒として『あずまんが大王』や『To Heart』等を挙げていますが、ではなぜ『ももいろシスターズ』や『同級生 (ゲーム)』は挙げなかったのかの説明が無いわけですし、『愛の若草物語』(主役が4姉妹ですが『みなみけ』が含まれるなら)とか『赤毛のアン』(作中の背景の再現度と日本人ファンの聖地巡礼の代表格としても先例)とかも日常系萌えアニメとして捉える要素があれば全部ジャンルに入れるのか、それとも何かしらの基準で線を引くのか、そのあたりの詰めは非常に雑なようなので突っ込むだけ無駄だろうと思います(ジャンル分類に欠陥があると指摘する出典があればそのように加筆できますが、材料がない部分はスルーするしかないので)。『みなみけ』はさすがにかなり乱暴というかおかしなカテゴライズだとは感じますが(姉妹なので家庭内も主要舞台で恋愛ネタもあるし、太田監督・あおしま脚本のコメディでそれなりにエンタメ的な見せ場や起伏もある)出典にそう書いてあるので含めざるをえないとしか言いようがないというか。
「空気系」論全般へのアプローチについて、たとえその主張や作品分析に欠陥や疑義が多々あると思えても、ウィキペディア的に適切な出典を伴って書かれている記述は基本的には維持した上で、それに対して適切な出典を伴って「彼らの空気系批評にはこのような誤りある」、「このような批判を受けている」といった対論をきちんと併記することで記事読者に適切な情報を提供することが一番望ましい対処方法だろうと思います。
もしも「空気系」というカテゴライズによる作品批評群が不完全で誤ったものであるようならなおさら、そのような不完全な作品批評を伴った特殊なジャンル分類の用語が2000年代に存在していたという事実を(もちろん彼らの批評内容が的確な内容である限りにおいてはそのように)適切な二次資料に沿ってありのまま説明をすることが百科事典の役割として重要であって、そのために記事名を改名したほうが整理しやすいということであればことさら改名を避ける必要はないと思います。ただ、「日常系」への改名自体には特にこだわりはないので反対ではありませんが、それによって主要な論者のジャンル定義や主張内容が本質的に変わるわけではありませんから、根本的な問題解決には寄与しないような気はします。むしろ空気系論の不備や問題点がボヤけて正確な全体像がより把握しづらくなる可能性もあるので。--ディー・エム会話2018年12月1日 (土) 16:18 (UTC)[返信]
まず、記事の修正ありがとうございました。だらだら編集していたので、終わるのを待たせてしまっていたようで申し訳ない。
改名について、おっしゃられることはおおむね肯定します。僕としては日常系に変えてもいいんじゃないかなーとは思うものの決定的な理由は結局残らなかった。しかし、いろいろ読んだ結論として空気系のほうにも決定的な理由が見当たらなかったのも確かです。セカイ系と違って空気系には決定的な評論がなく、独立した各論者が私論を述べている段階でしかないと考えました。決定的な本が出てきたときに、空気系と日常系のどっちを主体にしているかを考えられればいいんですが…今さら出るタイミングはなさそう。
日常系を使っているらしい宇野の『母性のディストピア』が何か新しいことが書いてあれば提案する可能性を残すものですが、あんまり書いてない気がするという予想もしています。
>少なくとも今のところそのようなジャンル区分の方法を採用している専門書誌はひとつも無いわけですから、
これは、指摘されていることと同じかはわかりませんが、コミックウォーカーのジャンルに「日常系」があります[8]。「ラブコメ」や「ギャグ」と同ランクのカテゴライズとして機能してはいるらしい。あやふやすぎるのと、分類がおかしい作品が多少混在しているタグではあるが、「日常」ではなく「日常系」であることから既存の分類を意識したことは確かであろうと思われる。
(姉妹なので家庭内も主要舞台で恋愛ネタもあるし、太田監督・あおしま脚本のコメディでそれなりにエンタメ的な見せ場や起伏もある)
おそらく小森条件における家族ドラマというのは両親の不在のことを言ってて兄弟姉妹のことを忘れていますが(その点では『みなみけ』はこのジャンルで比較しても際立って不自然に両親が排除されている)、小森条件自体も「だいたいの」共通性でしかないので、多少外れているものがあっても例外というだけで終わるだけであります。ただ私見ながら強調しておきたいのは、小森を含む空気系論における物語性の話題は「目的とか大きな物語を持たない」(ドラゴンボールを7つ集めるとか宇宙の帝王を倒すとか)という意味であり、一話ごとの見せ場、オチとかヤマとかはみなみけ以外でも普通にある要素と思われるし、その点では小森の条件に「オチがない」みたいな表現はない、逆にオチが崩壊している『日常』を小森は批判している。
ともあれ空気系は原作が4コマだから話の展開なんてできない(みなみけは4コマじゃないが)という書き方をしていた媒体はむしろ少数であることを僕はここに書いておきたいです。(ここはそちらに修正されていますが、前島に関しては修正前の通り「4コマだから物語性がない」という書き方を確かにしていました。それが本記事にそのまま書かれヒットの法則に受け継がれたと僕は見ているが、残した)
ということで「空気系」はネガティブな言葉じゃありませんし、小森健太朗氏がみなみけを空気系に分類したことについて僕は文句はないということになりました。--Higasikatatom会話2018年12月2日 (日) 11:12 (UTC)[返信]