ノート:西郷頼母

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西郷頼母の本名は?[編集]

明治3年に西郷頼母が保科頼母に改名しているというのは複数の文献に見られます。一方、明治3年~明治5年の3度に渡る太政官令により、それまでの諱や字、通り名をつかう方法は禁止され、戸籍にただ一つの名前を登録し、それ以外の名前は使わないことが法制化されました。ということは…戸籍が誕生した時期に保科頼母に改名した事実から、保科頼母が戸籍上の名前…いわゆる本名ではないかと推測できます。しかし…資料不足で確証はありません。どなたか、戸籍上の名前をご存じの方がいらしたら、ぜひ、加筆してください。--以上の署名のないコメントは、Okztosh会話投稿記録)さんが 2006年12月25日(月)19:36(UTC) に投稿したものです(呆庵入道による付記)。

これは、プライバシーの問題に関わってきていまして子孫や関係者以外は見ることが出来ないようになっています。箱館戦争時に保科を使用している史料もあれば西郷のままの史料もある。名前を変えてはいけないことが明確に定められたのは明治7年ではないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、富岡志郎会話投稿記録)さんが 2007年3月21日 (日) 03:04 (UTC) に投稿したものです(呆庵入道による付記)。[返信]

それいぜんにウィキペディアの項目名は諱表記が原則なので「西郷近悳」が項目名なのでは?--以上の署名のないコメントは、125.28.188.45会話/Whois)さんが 2007年4月21日 (土) 16:36 (UTC) に投稿したものです(呆庵入道による付記)。[返信]

実は先日に会津を訪れたのですが、飯盛山の「白虎隊記念館」の展示の中には白虎隊以外の幕末会津藩関係者の関連品の展示もされていたのですが、その中には西郷頼母の死の直後に遺族が新聞に掲載した訃報広告が展示されていたのですが、その記事においては死亡者の名義は「保科近悳」名義となっていました。戸籍上の名義の問題は解決できないのですが、幕末に西郷頼母と呼称された人物は少なくても死亡当時における家族の認識では「保科近悳」という名乗りであったと考えるのが適切ではないかと考えます。--水野白楓 2007年5月5日 (土) 12:52 (UTC)[返信]

そうですね。西郷から保科に改姓しているわけですし、近悳が諱(つまり本名)であるわけですから、名前としては「西郷頼母」の方が有名だと思われますが、Wikipediaの原則からすると項目名を「保科近悳」に修正するのが適切かと思います。(「西郷頼母」については、「保科近悳」に飛ばすようにして)。 --ok2 2008年8月25日 (月) 01:19 (UTC)[返信]

上記に関連して。本記事には名義を「保科頼母」とする記述がありますが、堀田節夫著『「帰る雁が祢」私注』収録書簡等の資料では「保科近悳」名義が用いられており、近代デジタルライブラリ所収の葵廼一葉でも「保科近悳」名義です。本文中の「保科頼母」名義は用例が見当たらず、より適切な「保科近悳」名義に改められるべきと考えます。--Insel 2010年4月9日 (金) 09:38 (UTC)[返信]

「母や妻子など一族21人は頼母が登城後に自刃している。」に異説あり。[編集]

会津坂下町勝堅の伝承によると、西郷頼母の一族は頼母の指示により着の身着のままで一足先に城から脱出して勝堅へ避難した。家老の子女が避難していると知った土地の無頼漢数名が、金品欲しさのために皆殺しにし、遺体を家屋ごと焼いてしまった。と言う説で、現在でも件の無頼漢たちの子孫による慰霊祭が行われている。ではなぜそれが公にされないかと言えば、西郷家、現地住民どちらにとってもあまりに不名誉な話だからである。--以上の署名のないコメントは、大王イカ会話投稿記録)さんが 2006年5月8日 (月)04:18 (UTC) に投稿したものです(呆庵入道による付記)。

削除理由が「著者の宣伝」とは?[編集]

日虎隊氏による本項目記述内容の不可解な削除活動について、著者の宣伝とは具体的に一体どういったことであるのか。日虎隊氏が削除を行った文章の部分について当該著書からの出典であり、他の著作からの出典はないと断定できた理由はなにか。ちなみに参考文献にある著者で伊藤哲也氏なる人物については私は寡聞にして存じないが、削除部分には西郷頼母研究者として知名度のある堀田節夫氏の著書「栖雲記」において記述されているのと同様の内容が含まれています。日虎隊氏の言に従えば堀田氏自身が自著宣伝目的で当該記述を追加したと受け取れるが、それに相違ないでしょうか。また、そのように特定の著者が当該記述を宣伝に利用したという判断にいたった理由はそもそもなにか。それは第三者にも現時点で検証可能なものかを日虎隊氏には説明いただきたい。伊藤氏や堀田氏の名誉に関わる事柄であり、もしそのような事実がなければ大変な中傷とも取られかねません。ですので明確な証拠をお願いします。それに加えて、「著者の宣伝」を理由に当該記述を削除することの妥当性をどう考えておられるのかも。独自研究や宣伝行為の跋扈は戒められるべきですが、少なくとも複数著作者による出典が認められる記述について曖昧な理由での大幅な削除を行うことは妥当でしょうか。--122.133.87.83 2010年3月12日 (金) 12:13 (UTC)[返信]

参考情報をありがとうございます。なるほど、日虎隊氏を含めた複数の方々と富岡志郎氏なる方との間でトラブルがあったということでよろしいでしょうか。であるのなら言い方は悪いですが、一連の争いの余波で本項にまで不適切な編集がなされてしまったのだとも見受けられますね。出典への疑義については要出典タグの利用を考慮に入れるなどし、また典拠として不適切と思われる著作はその出典元としての表記を削るべくノートで合意を形成する必要があるかと。そのような段階を踏まずに、宣伝のおそれがあるなどを口実として第三者による検証が可能と思われる記事の記述を削除するという行為には、あまりにも野蛮な印象を受けます。--122.133.87.83 2010年3月12日 (金) 18:08 (UTC)[返信]
重ねての補足痛み入ります。つまり富岡志郎氏とは伊藤哲也氏であり、Wikipedia:自分自身の記事をつくらないの原則に反する行為をされている方だとおっしゃるわけですね。もしそうであれば、宣伝目的の自己言及として日虎隊氏が削除の判断をされたことにも、判断の是非は別として理解はできます。ここで判断の是非は別としてという但し書きが必要と思えるのは、記述の検証可能性や出典の正確性と宣伝の度合いを天秤にかけたとき、単に出典元として伊藤哲也氏の著作が羅列されていることをもって排除すべき宣伝と扱うべきかどうか私には判別がつかないからです。私見では堀田節夫氏は西郷頼母研究のまさに第一人者であり、文献資料のみならず保科家等由来の一次資料を明らかにしてきた先駆的な研究家として出典にふさわしい著者と考えます。一方、伊藤哲也氏は執筆履歴を拝見した限り、新人物往来社のムック本の共同執筆者やごく最近の会津史談への寄稿で活躍をされているようですが、堀田氏のような主著がない点や当該分野における研究家としての世評(知名度)という点で、Wikipedia:信頼できる情報源を充分に満たす出典と言い切れるか難しいと感じています。ともあれ私は伊藤哲也氏の著作を読んだことがないため、そのあたりは日虎隊氏に伊藤哲也氏の著作が出典としてふさわしからぬことを具体的に論証いただければと思います。--122.133.87.83 2010年3月13日 (土) 08:06 (UTC)[返信]
  • ご理解いただきありがとうございます。逆に私は堀田氏の著作を読んだことがございません。それと伊藤哲也氏関連は一方の当事者ということもあり、私からはフォロー的(伊藤氏の批難ではなく、議論するにあたっての理解を持っていただく)なことのみに留めたいと思っております。あとは日虎隊さんと議論を進めていただけたら幸いです。--Suttokodokkoi 2010年3月13日 (土) 08:43 (UTC)[返信]
承知しました。お蔭様をもって私としては本件の事情への理解も進み、論点の整理もできてきたと感じますので、まずは日虎隊氏の回答を待つこととします。Suttokodokkoiさんのご配慮に感謝します。--122.133.87.83 2010年3月13日 (土) 09:29 (UTC)[返信]

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