ノート:観音寺城

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● 私は2011/01/31に中田定平の編集を見ました。その時は自信がなかったのでその後、父親が話してくれた事   を参考にし調査し投稿しました。しかし書面など書いた文書はありません。 ● 中田定平は京都にいた時、後白河天皇のお側付きでいました。しかし、その時源平の争いになり山口県壇の   浦まで行き敗退しました。 ● その時山口県の大内と言う武将に救われ、そこで武士として働いていました。 ● 江の国で織田信長が比叡山焼打ちをするため、近江の国の天台宗の寺院比叡山をことごとく焼打ちしました。 ● 此の直前近江の国佐々木城に要請されて来ました。 ● その時は押立郷は比叡山に荘園でありました。近江に来た時は中田定平と中居新之丞氏は一族一門一統郎等の   者など凡そ800名が来たと言う。 ● この時は定平は佐々木城の家臣として、中居新之丞氏は押立郷の地の城主とし住居を構えた。その直後、信長   及び浅井長政の家来による佐々木城が攻撃態勢になった。中居新之丞、始め武士一団を引きいて野良だ地先に   て浅井長政の軍団と争い全滅しました。   (旧稲枝現彦根市に、野良田の氏神様の所に蒲生の武士と看板があります)。 ● この時中田定平は観音寺裏の昇り道を少し上った所で殺されたと言う。    ● この時,鈴鹿山脈の麓にあった天台宗の修行僧が、数千人いたらしく焼打ちされました。 ● その後中田定平の息子、定平としてがこの地平松に住み現在に至っている。以後代々姓名は長男が継承される   ようになっていた、明治時代まで。 ● 私は中田忠彦と申します。東近江市平松町。