ノート:走水神社 (横須賀市)

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房総半島に渡った日本武尊は、その後海路北上川河口まで北上したとする説もありますので、焼津から伊豆半島と三浦半島を横目に見て、相模灘から浦賀水道を房総半島に向かったとする説も採れないことはないのでしょうが、それはそれとして、三浦半島の房総半島に向かうに一番都合の良い当地から浦賀水道を渡ったとするのは常識的にみて無理はないのは確かです。しかし、社伝もなく史料に何の記載もないのでしたら創建を「伝110年」とするのはいかがなものでしょうか?

また、弟橘媛伝説については、橘神社の敷地が軍用地として接収され、それから20年以上経て合祀されたのですから、明治42年(1909年)以降のものと考えるべきではないでしょうか?

ちなみに、明治28年(1895年)創建の能褒野神社に配祀されたのも同じ明治42年(1909年)のようです。

なお、「明治18年(1885年)に旗山崎が軍用地になり走水神社境内へ移され、明治42年(1909年)に合祀された。」とあり、「明治42年(1909年)に合祀された」のは「弟橘媛」だということは判るのですが、「明治18年(1885年)に走水神社境内へ」何が移されたのでしょうか。そのまま読めば「旗山崎」が走水神社境内へ移された、ということになるのでしょうが、そんなはずは無いと思います。明治18年から明治42年まで、「橘神社」は境内社だったのでしょうか? --220.100.36.193 2013年12月28日 (土) 23:10 (UTC)[返信]