ノート:越後交通栃尾線

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

3号機蒸気機関車について[編集]

先日、越後交通栃尾線#蒸気機関車の項を編集いたしましたが、経緯に不自然な点があったので、大日本軌道製3号機の件をコメントとしました。以下の部分

==== この他、大日本軌道鉄工部(雨宮製作所)製の車両も使用されていた模様[1]。 この車両については井笠鉄道機関車第2号形蒸気機関車に情報があり、こちらも3号機を名乗っていたとされる。いわゆる「へっつい」型であるが、リンク先に記述の通り欠陥機である。情報通りであれば1918年頃の生産とみられる。ただ、確証に至るまで記載は見合わせたい。 ====

これだけだと意味不明だと思うので、補足説明します。

資料によれば、開業に向けて軽便SLの輸入を模索していたが、第一次大戦の影響で輸入が困難となり、大日本軌道製を導入する動きがあった、という事です。

しかし、1917年に設計認可された大日本軌道製が栃尾鉄道に納入されたのであれば、1915年開業に間に合っていないのは明白で、開業~1917年までは、少なくとも元青梅鉄道の1号、3号が充当されたとみるのが自然で、そして大日本軌道製が3号機として1918年以降に納入されたのが正しければ、元々稼働した(元青梅鉄道)3号機は休車もしくは改番されたのではないでしょうか。 しかしながら後世まで残ったのは元青梅鉄道の方です。となれば、

  1. 結果的に大日本軌道製は導入されなかった
  2. 欠陥機とされる大日本軌道製は早々に休車となり、改番された若しくは休車した元青梅機が3号機として復帰した

という可能性が考えられます。 他の可能性としては、井笠鉄道のように型式名と車番が別々に存在し、栃尾鉄道3というのが3号形X号機という解釈もできます。が、元青梅鉄道の中古機2両がすでに別の形式であること、開業直後から1918年までの間に未知の機関車が増備されている事をふまえると、大日本軌道製が3号形を名乗るのはちょっと無理がありそうです。

いずれにしても、昭和初期の話で、資料は限られてくると思います。 もしかしたら井笠鉄道機関車第2号形蒸気機関車の参考文献に情報があるかもしれないので、機会あればこれらをあたってみようと思いますが、何かご存知の方はご協力頂ければ幸いです。 --Iso8.tv会話2018年9月2日 (日) 03:29 (UTC)[返信]

補足[編集]

当方は資料とした写真集『新潟の鉄道百年』は長岡市の図書館で閲覧し、必要事項をメモして自宅で編集を行いました。そちらの3号機写真のキャプションでは元青梅鉄道であると明記されておりまして(これは確実)、少なくとも写真は『へっつい型』ではなかったように記憶していたのですが、実はキャプションが間違っていて、かつ当方が写真の記憶を混同している可能性もゼロではありません。近々長岡に出向く予定なので、再確認して参ります。 --Iso8.tv会話2018年9月2日 (日) 03:38 (UTC)[返信]

参考文献情報[編集]

当方が引用した『越後交通社史』、写真集『新潟の鉄道百年』の2冊は、長岡市立図書館にて誰でも無料で閲覧が可能です。

蔵書検索 https://www.lib.city.nagaoka.niigata.jp/

中央館、栃尾分室であれば2冊共に所蔵しております。(2018年8月現在) --Iso8.tv会話2018年9月2日 (日) 03:46 (UTC)[返信]

トンネルの名称[編集]

上北谷 - 楡原間に存在した唯一のトンネルについて。どのサイトを見ても「牛ヶ隧道」と記述されており、以前路線図を編集した際にこの名称で記述しました。しかし後日考えてみると、周辺の地域名は牛ヶであり(読み方も「うしがみね」)、見附市に牛ヶという地名があるのか疑わしさを覚えました。

牛ヶ額が正しい場合
  • 牛ヶとは別に、現地に牛ヶという地名がある
  • 異体字、当て字として牛ヶを「うしがみね」と読んでいた
  • 歴史的、あるいは社内的に牛ヶ表記が正しかった(似た話で、琴電の車体色「ファンタゴンレッド」は「ファンタンゴレッド」の誤記と発覚したのが遅かったため正式としてしまったとのこと)
牛ヶ嶺が正しい場合
  • 誰ともなく「牛ヶ額」と表記してしまい、各サイトの作成者の間で定着してしまった
  • 一次文献に同様の誤記があった
    • キーボードによる入力での誤変換に加え、手書き文字を誤読した可能性があり、古い文献が間違っている可能性も否定できません

いずれもあり得る話で、もし文献で両者の表記が確認できれば諸説ありとするのも一案ですが、地元の図書館には言及のありそうな資料がなく今すぐ調べることができません。ちなみに、検索してみると奈良県、静岡県に牛ヶ が、京都府、愛知県、山梨県に牛ヶが地名として実在します。ただ、新潟県の牛ヶ額という組み合わせは栃尾線の記事以外に見当たりませんでした。

このトンネルについて言及している文献がどれだけ見つかるか、何を信じれば良いのかは今後の課題となってしまいますが、路線図に書き込んでしまった手前、信頼できる資料を改めて調べる必要性を感じたため、いったん無名のトンネルに改めさせていただきます。--Iso8.tv会話2019年7月4日 (木) 12:51 (UTC)[返信]

  • 追記・本文の方にも牛ヶ額隧道と記述している箇所があったため、(そちらは自分が記述したものではない)勝手ながら要出典とさせていただきました。--Iso8.tv会話2019年7月4日 (木) 21:59 (UTC)[返信]
手持ちの史料で確認したところ以下の様になりました--Tamrono157会話2019年7月5日 (金) 00:12 (UTC)[返信]
  • 牛ヶ額
    • 鉄道ピクトリアル No. 232 (1969年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり10)(再録:『私鉄車両めぐり特輯』2、38頁)
  • 牛ヶ嶺
    • 鉄道ピクトリアル (1960年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり1)(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、35頁)
    • 『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』78-79頁
    • 『栃尾鉄道案内」栃尾鉄道株式会社、大正4年国立国会図書館デジタルコレクション
  • 牛ヶ峯
    • 『消えた轍-ローカル私鉄廃線跡探訪- 3 』56-57頁

詳細な調査ありがとうございます。ちょうど栃尾鉄道案内をこちらでも確認していたところです。やはり、牛ヶではなさそうな気がしてきました。--Iso8.tv会話2019年7月5日 (金) 02:10 (UTC)[返信]

今夏、現地取材ついでに図書館で社史を再度あたってみようと思います。(明駅の件もあり、やや危なげありますが)--Iso8.tv会話2019年7月5日 (金) 03:27 (UTC)[返信]

  • 報告 遅ればせながら、見附市史 下巻2 p.159 の栃尾鉄道路線図に、牛ケ隧道との記述がありました。地元自治体の刊行物なので信憑性ありとみます。--Iso8.tv会話2023年1月12日 (木) 23:57 (UTC)[返信]

忘れられた停留所?[編集]

ご教授頂いたこの「栃尾鉄道案内」のp.49「上北谷停車場」と、同p.53「牛ヶ峰の隧道」に登場する、神保停留所なる存在が気になりはじめました。そもそも、p.76-77にある、下長岡 - 栃尾間で停車場六ヶ所 停留所十ヶ所 という記述は勘定が合いません。開業翌年に開設された楡原と下新保を含めるとしても、1953年開業の名木野駅を含めて丁度16駅ですので、p.53にある位置関係の記述からして上太田停車場(→上北谷(II)駅)と牛ヶ峰隧道の間に神保停留所が存在していたと考えざるを得ません。独自研究と言われそうですが、なにしろ超一級の文献に名前が出てしまっている以上、無視はしづらいように思いました。社史の中で見かけた記憶がないので、かなり早い段階で廃止されたのかもしれません。 --Iso8.tv会話2019年7月5日 (金) 03:27 (UTC)[返信]

上記の件ですが、単に上太田停留所を指したものと考えられます。資料の読み込みが浅くお騒がせしたことをお詫びします。「ほぼ中間」という表現に惑わされたのでしょう。

  • 栃尾鉄道唱歌には神保が登場しない
  • 上太田停留所は現・見附市神保町に位置しているので、神保停留所と呼んでもなんら不自然ではない。(むしろ、なぜ上太田と名付けたのか…)
  • p.54には神保停留所の東南に羽黒神社があるという記述がある。
    • 神保停留所が実在したとして、その位置がp.53のように牛ヶ嶺隧道が神保停留所と楡原停留所の「ほぼ中間にある」と呼べるような位置関係ならば、羽黒神社は南西、より正確には南南西の方角と記述されるべきで、決して東南ではない。(神保町と牛ヶ嶺町の境界にあったとすればようやく真南)
    • 上太田停留所(→上北谷(II)駅)からみると南東(正確には南南東)の方角になるのは言うまでもない。
  • 仮に上太田停留所とは別に神保停留所が実在したとして、官報に神保停留所が記載されない合理的な理由が思い当たらない。
    • 官報(1915年6月10日付) 上北谷停車場-栃尾停車場 3.4哩 (開業時≒出版時)
    • 官報(1915年7月6日付) 上北谷-上太田 0.6哩、上太田-栃尾 2.8哩 合計3.4哩 (上太田開設)
    • 官報(1916年1月21日付) 上北谷 - 上太田 0.6哩、上太田 - 楡原 1.6哩、楡原 - 栃尾 1.2哩 合計3.4哩 (楡原開設)
    • 官報(1916年9月21日付)上北谷 - 上太田 0.5哩、上太田 - 楡原 1.7哩、楡原 - 栃尾 1.2哩 合計3.4哩 (距離修正)
    • ここまで一度も神保停留所なる記述がない。
  • 出版日(1915年6月)という段階では、正確には5停車場(下長岡、浦瀬、上見附、上北谷、栃尾)と1停留場(加津保)しかなかった。
    • 起点となる予定だった長岡駅であるが(この時点では上長岡と称した)官報1916年4月25日のように、出版翌年になってようやく長岡市内の土地収用が認可され、同年9月に開業している。
    • つまり、実際のところ、開業のめどがたっていなかった可能性があるが、そのような状況であっても長岡開業は確定事項のように言及しており、6停車場の中に長岡を含めていると考えるのが合理的。
    • 開業翌年、1916年9月の長岡開業と同時に下新保が開設しており、この時点で数えれば確かに6停車場・10停留所(下新保、小曽根、宮下、加津保、椿沢、耳取、明晶、本明、上太田、楡原)となる。

余談ながら、上記の神保→上太田のように、出版時の計画段階から駅名が変化した例として 新保→下新保、宮路→宮下 があったことを付け加えておきます。--Iso8.tv会話2019年7月5日 (金) 21:51 (UTC)[返信]

投稿してから気が付きましたが、神保と新保で紛らわしいので両者とも変更したのでしょうね。あくまで想像ですが。--Iso8.tv会話2019年7月5日 (金) 21:55 (UTC)[返信]

上見附駅の変遷について[編集]

たびたび失礼致します。上見附駅の項を査読していたのですが、開業当時スイッチバックでない直通構造だったとする文献について、どなたかご存知でしょうか。

と言いますのも、当初からスイッチバック構造で開業した ように思えてならないのです。2008年の差分を表示この時の編集でスイッチバックに改められたという記述が盛り込まれており、差分表示にて示される文献のいずれかが根拠と思われるのですが、誠に恥ずかしながらいずれも手元にありません。

もちろん根拠はあり、(以下、ノート:上見附駅に書いた内容と一部重複)

「栃尾鉄道案内」
空中写真(国土地理院)
  • 1948年撮影では刈谷田川橋梁の左岸たもと付近に、いかにも頭端式駅の跡のようにも見える空白地が確認できる一方、長岡側と栃尾側を直結する配線の痕跡が見当たりません。
  • 開業から30年経過しているので開墾された可能性もありますが、複数の配線がある広い構内、しかもバラストだらけの駅跡を当時の土木技術で完全に農地へ復元するには相当骨が折れるはずです。
  • 刈谷田川の旧河道を見るに、この位置に直通構造の初代駅を設置するよう路線を建設するのは恐らく不可能です。
  • 開業当初の編成長が短かったとはいえ、撮影時の駅構内と比較する限り河川改良工事で頭端部は削られてしまったようです。
現地の案内板 【参考】案内板の画像が掲載された個人ホームページ
  • 現地のサイクリングロードに設置されている案内板には、本線の合流地点付近に初代上見附駅があったとはっきり記されています。

自分が確認した資料の中で、直通していたと記述していたのが『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』です。この書籍は道路工事による上見附駅移転を指摘するなど(空中写真を比較すると確かに変化が見られる)信頼できると判断していたのですが、冒頭に挙げたWikipedia2008年版リリースより後に出版されているため、(参考文献に含まれていたかはともかく)少なくともこの部分に関しては出典とする条件を満たせません。さらに言うと、案内板の写真を提供していたのが著者の多川昌敏氏なのです(ご本人が案内板を作成したとは限らないとしても)。

「栃尾鉄道案内」の記述に関しては、計画の遅延や想定外の出費など出資者に対するエクスキューズと言うべき性質もあり、こちらを全面的に信用するのは危険かもしれませんが、少なくとも上見附駅は上長岡駅未開業時の最重要拠点であったはずで、1面1線の停留所ならともかく前述のように気易く移転できる施設ではありませんから空中写真に痕跡が見当たらないのは不自然に思います。

とはいえ他には社史くらいしか思い当たらず、もし当時の写真など確認できれば手がかりが得られるかと考えています。

最後に。お詫びと申しあげるべきか、「懐かしのトッテツ」について。元々、Wikipedia上の記事においてスイッチバック化について出典が明示されていないのが以前から引っかかっていて、図書館で調査した際たまたま手に取った同書の記述について、 『出資者の土地を利用して(直通構造の)上見附駅を設置したが、もっと市街地に近づけるよう要望が強く、移転に至った 』 というように、裏付けがあったことと鉄道用地の出自について注目した簡単なメモを残しておりました。つい数日前まで「直通構造の時期があった」と完全に刷り込みがあったため、漏れなく正確に要約したか正直、自信を失っています。(自分の知識との乖離があれば気づいたはずなので、ある程度の自信をもって上見附駅の編集に挑んだものの、否定する複数の出典を目にして動揺を隠せません)

もしも、『出資者の土地に駅を設置する予定だったが』という一句が当方のメモに欠落していたならば、多川氏に対し無礼を深くお詫びする他ございません。妙な事を書いているなと自覚しつつも、本題である現在の記述について、メモの信憑性による影響は限定的と考えており、本記事の一層の正確性を期すべくご協力を仰ぐ次第です。--Iso8.tv会話2019年7月6日 (土) 18:18 (UTC)[返信]

  • 懐かしのトッテツ」の再確認をいたしましたところ、p.55にて開通当初はスイッチバック構造ではなかったと明確に記述されておりました。メモの大事な部分が欠落していたようです。同書で得られた知見は上見附駅の記事編集に反映いたします。深くお詫び申し上げます。ちなみに、著書の多川氏は当鉄道の職員だったとのことです。--Iso8.tv会話2020年7月17日 (金) 11:10 (UTC)[返信]
  • 報告 国会図書館に収蔵されている「小林友太郎翁伝」のp.86-87 に、創業時から上見附駅がスイッチバック構造であったことを伺わせる記述を確認しました。ただし書籍は昭和12年刊行であり、どの程度、一次資料に忠実であるかは判りませんが、ざっくり引用すると、以下の通り。
    • 大正3年4月の臨時総会でに社名変更が議決、5月に栃尾鉄道株式会社として登記された。
    • 大正3年8月の臨時総会で新保-上長岡 延長計画が議決。この時の資料の概要が長く記述される。その一節より
    「而して線路は下長岡停車場より(中略)北谷村大字名木野に至り上見附駅に達す。同駅はさきに名木野本村の入口の方に設置する計画なりしも、見附町方面多数旅客の利便と会社営業上の利害とに省み、同方面に接近せる場所を選定せり。而して同駅は仮谷田川の流域に障害せされ普通の設計に依り難きをもって引込線(スヰッチバック)(原文ママ)とし且つ列車の保安上の設備を全からしめん為連動装置を施すことと為せり。(後略)」
    • 大正4年2月10日、浦瀬栃尾間10哩が竣工し、6月5日、浦瀬-下長岡間が開通するに至った。

ということで、続く一節は大正5年の長岡ターミナル延長、後年の悠久山延長などが書かれる一方で、大正8年の上見附駅移転にはまったく触れられないまま、大正15年に小林氏の辞職で締めくくられています。以上の記述を信じれば、「懐かしのトッテツ」を含め、創業当時はスイッチバックではなかったという通説を否定する内容と考えられます。--Iso8.tv会話2023年1月13日 (金) 22:44 (UTC)[返信]

  • 報告 繰り返しになりますが、本トピック冒頭にも提示している「栃尾鉄道案内」(大正4年刊、栃尾鉄道による出版)に挿入された詳細な路線図、見附町地図からみてもスイッチバック式であったことが濃厚と判断し、記述を書き直すことにいたします。--Iso8.tv会話2023年1月15日 (日) 18:10 (UTC)[返信]
  1. ^ 鉄道ピクトリアル No. 232、 1969.